岩松の志と大紋屋の衝撃
大紋屋俊樹は温和な表情がまぶしい好青年である。そしてとても慈悲深く、優しい性格だ。彼の悲惨な境遇を感じさせない、いや辛い経験をしたからこその優しさかもしれない。身長は178㎝程度でまぶたは二重である。そして頭脳明晰で判断力もそれなりにある。そして農民出身であるが、武芸にも秀でている。そのような青年?を無視できる女性がどれ程いるだろうか?
大紋屋俊樹は両親の記憶はない。産まれて直ぐに母は産褥で亡くなり、父は飢饉のため、自分の栄養を俊樹に与え尽くしたかのように餓死したという。俊樹の育ての親の生糸商人、大紋屋勇蔵にそう教えられた。俊樹は物心つく前から、貧困、飢えに苛まれた厳しい境遇である。
しかし、そのままであれば彼は飢え死にをするか、世の中に絶望し、青葉党の様な極悪な盗賊に成り果てていたであろう。そうならなかったのは、大紋屋与左衛門に拾われ、教育を受けさせてもらったからだ。天涯孤独で露地の上でそのまま飢え死にするところを彼に拾われて救われたのだ。与左衛門は直ぐに俊樹の才能に気付き、俊樹に農学、算学、政治学などあらゆる学問を学ばせ、俊樹も全て知識を吸収した。
順調に行けば、彼はそのまま大紋屋の家業を受け継ぐか、村の役人になっていたかもしれない。しかしそうはならなかった。彼は知識を吸収するごとに、この国の混乱、民衆の困窮の深刻さに気付いていった。そしてそれは漠然とした世直しへの願望へと変わっていった。しかし、幕府転覆など考えてはおらず、貧しい者から喪のを奪う盗賊退治を志した。そしてそれは、育ての親、与左衛門が盗賊に襲われ、無惨にも殺されたことで実行に移された。自分と同じような境遇を人々に味わって欲しくなかったのだ。そして、相模源平などの同志に支えられながら、ひたすら俊樹は突き進んでいった。
俊樹は悪夢にうなされていた。自分の目の前で父、母が死んでく。育ての親、与左衛門も死んでいく。そして、自分と苦楽を共にした世直し一揆の同志も死んでいく。自分は何も出来ていない。自分もそっちに行きたい。しかし、志を果たさないと彼らに顔向けができない。悔しい…。僕はここで終わるのか…。亡霊が自分を責めるその声がただひたすらに俊樹を攻め立てていた。
悪夢の中で、大紋屋俊樹は目を覚ました。立派な書斎にいつの間にかいる自分に驚いたが、直ぐにまわりが慌ただしくなっているのが分かった。岩松の家来達が驚き、とても喜んでいた。直ぐに若い立派な男がやって来た。まだ虚ろな意識のなかでも、俊樹はその男が誰かのか、言葉には言い表せない波動のような物から直ぐに分かった。
「おお、目を覚ましましたか!よくぞ生きていて下さった。私が岩松俊光であります。」
俊樹はただ一筋涙を流した。
「申し訳ありません。ありがとうございました。」
それから半月が経ち、俊樹は回復した。そしてある晩に岩松俊光であります。屋敷の庭園を眺めながら、俊樹と岩松俊光で話し合った。
「そうでしたか。あなたの生い立ちはかなり辛いものでしたね。」
「いえ、私は恵まれています。父、大紋屋与左衛門に救われ、衣食住を与えられました。そして、お金を惜しまずに私に勉学を授けてくれました。私は常々学んだことを世間にお返ししようと思っています。」
俊光は微笑みながら深く頷いた。
「とても立派だと思います。時代が安寧であれば、武力に頼らず、政治や商業の発展に尽力できたのでしょう。しかし、時代はそれを許してはくれません…。」
「ええ、とても無念です。すみません。あなたに多大な援助を受けたのに、このようなことに。」
「いえ、私も大音諫山の実力を見誤りました。もう少し連携をとろうとしていれば…。」
「いえいえ、そのようなことはありません。」
二人は暫く沈黙した。月夜に庭園は照らされ、池には三日月が写っていた。その池に蛙が飛び込んで水面に波が立った。
「そういえば、大紋屋様、あなたはたしか齢30を過ぎているとお聞きしましたが、見たところもう少し、いや、かなり若いような気がするのですが?」
俊樹はハッとした。そして赤面してうつ向いた。そしておもむろに話した。
「いやはや。病み上がりですっかり身だしなみを整えるのを忘れてしまった。ようやく顔を洗い、髭も反りましたが、顔の細工を忘れてしまっていた。」
ふたたび俊樹は沈黙して語りだした。
「実は私は若輩者であります。年は17になったばかりです。一揆を組織して大勢をまとめるには、もう少し連携を貫禄がないといけないと思いまして…。」
俊光はフッと笑った。
「油断して老け化粧を忘れてしまったか。いや、それで安心しました。私は年上よりも年下と話す方が好きだ。そのまっすぐな瞳は年をいった男に出せるものではない。」
「いえ、そんなことは。」
暫くの沈黙の後、俊光は尋ねた。
「して、君はこれからどうしたい?志を果たしたいのはもちろんだと思うが、その先だ。」
「その先?」
「そうだ。大音を討って、それから上野の藩を全て滅ぼすその先さ。」
俊樹は考えもしないことを尋ねられた。しかし、彼はきっぱりと
「いえ、私の志は民の安寧です。しかし、私は長く生きようとは思っていません。むしろ、いつこの身が滅んでいいように敵に挑む覚悟です。そうでなければ散っていった恩人達に顔向けができません!」
俊樹はくもりの無い純粋な目で伝えた。俊光はまたしても微笑んだ。
「志を抱き、若くして挑み、散っていく。そして英雄となる。それもまた美しい。しかし、君はそれで満足なのかな?」
「!?」
「生き延びてさらに挑戦すれば、もっと多くの民衆を、故郷を救える。もっと合理的に物事を考えるのは、戦をする上で大切なことだ。」
俊樹はハッとした。
「私はこう思っている。上州を救いたい。皆が平和に暮らし、生活が安定し、自由な考えで人生を送れるようにしたい。そのためには、藩を倒し、上州を安定させたい。そのためには日本が磐石でなくてはいけない。日本を磐石にするには、日本を安定させ、海外と対等な国にしなくてはいけない。それが最終的に上州を平和にさせ、発展させるのだ私はそこまで頑張りたい。」
俊樹は俊光の夢想的だが合理的な考えに圧倒された。
「大紋屋俊樹殿、私の志のために、力を貸して下さらぬか?あなたの才能と先見の明が岩松家に必要なのだ。共に戦い、新しい夜明けを見たいんだ。どうか頼む!」
俊樹は一瞬たじろいだ。自分にその役が勤まるのか?しかし、彼は俊光が自分の志を叶えてくれると実感した。答えは決まっている。
「分かり申した。一読組織を滅ぼした不埒な私ですが、志のため、上州の平和のため、あなたのために尽くしたいと存じます。」
それを聞いた俊光は、目に涙を浮かべた。庭園の池は風邪に吹かれて揺れていた。そして静かに
「かたじけない…。」と河辺を垂れた。
それから数日が経ち、岩松俊光は大紋屋俊樹を呼び出した。
「大紋屋君、実は私の志を叶えてくれる人物が君より少し前に私に従ってくれたんだ。その彼を君に紹介したい。」
そう言うと、俊樹の元に、ある男が現れた。俊樹は衝撃を受けた。彼の心の動揺は、とても言い表せない無いものだった。
「よう、大紋屋。久しぶりにだな!」
そこに現れたのは、前橋、高崎を荒らしに荒らし、上州も幾度となく戦った青葉党の頭、槍蛇丸であった。彼は何が起こっているのか、しばらく理解が出来なかった。