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忘却のシルバースティング  作者: 浜能来
2/6

一話 W

 私は須藤凛花。終わりかけの青春を謳歌する高校三年生!

 受験生らしく、図書館でお勉強です! 冷房が効いてていいんですよねぇ。同じ理由でやってきたガキンチョのせいで、少し汗臭いんですけどね! もともとエアコンが埃臭いけど!

 そんなわけで鼻をつまんでこらえる私の前には、一緒に勉強する親友が! うーん、青春。


「だからぁ、本当にあったんだって!」


 私は机の上に身を乗り出して言います。後ろで一つに束ねただけの茶髪が、勢い余って前へと流れました。ガタリと音を立てる椅子。木製の机、古くともピカピカに掃除されたシーリングファン、ガラス張りの向こうの簡易な植物園が作り出すステキな静けさの中で、自然と私は注目を集めます。

 そんな私の勢いを受け止めてくれるのは、冴木さえきれいちゃん。件の親友とは彼女のことです。面と向かって親友と言うと決まって腐れ縁だという怜ちゃんですが、本心は違うって知ってます。あれです、ツンデレってやつですよ。私、賢い。

 そんな彼女は、四角いメガネの奥で周囲を気にします。そして、いつも鋭い視線の切れ味をさらに研ぎ澄ませ、私に言うのです。


「静かにしなさいよ」

「つれないなぁ……」

「だって、もう何度目よ」


 ため息一つ、彼女の意識は手元のノートへと落ちていきます。ついでに艶やかな黒髪の一房も、肩口からノートへ零れ落ちます。

 さすがの私もちょっとばかし反省してしまいます。実際、夏休みとあって、この机と椅子ばかりの読書スペースには私と同じ目的の受験生がそこかしこ。そのうちの幾人かが、眉間にしわを寄せてこちらを見ていました。疲れそうだなぁなんて言ったら、きっと怜ちゃんの雷が落ちるでしょう。恐ロシア。


「で、地理について聞きたいんでしょ」

「そうそう……って、今はロシアの話はいいのー」

「ヤバいんでしょ?」

「……そうだけど」


 言葉の勢いが、無意識におとなしくなっていきました。

 その話をしたくないから、私は昨日の話をしていたのに……。目を背けてもしょうがないけれど、目をそむけたくなるくらいには大きい問題でした。

 再び顔を上げた怜ちゃんの眉間には、さっき見たようなしわがあります。でも、私はそれが本当に心配してくれている証だと知っています。

 実力差のある私の勉強に付き合っても、きっと怜ちゃんには旨みはありません。わざわざ付き合ってくれているのに、私が逃げてどうする。

 渋々とシャーペンをとる私の様子を見て、怜ちゃんは二度目のため息。


「わかったわよ」

「……へ?」


 彼女はペンを置き、ノートを畳みます。そしてノートのなくなった空白に頬杖をつきました。


「聞いてあげるって言ってんの、凛花のお話」

「さっすが! 怜ちゃんは私の親友だね!」

「ただし、静かにね」

「……はい」


 舞い上がった私のテンションは、ドスの効いた一声で地に堕ちるのでした。ツンデレと言うより、オニデレ。絶対髪の毛の中にちっちゃい角があるよ。まぁ、それでもデレはあるわけで、私は昨日の出来事について語るのです。もちろん、股ぐらが温かかったとか、それが何でとかはきっちり、きっちり省いて。


「それで、気付いたら誰もいなくて、一人家に帰ったと……」

「そうなの、不思議でしょー」

「だから、くすぐったい」


 大声はダメだと言われたから耳元で囁くのに、怜ちゃんはひたすら邪険にしてきます。身を乗り出すの、結構つらいのになー。

 彼女は私の両肩を抑えて席へと押し戻しながら、言葉を続けます。


「取り敢えず、一言いい?」

「いいよー?」


 何でしょう。感想でしょうか。ロマンチックだねー、だとか、ファンタスティックだねー、とか、ロマンチックだねー、とかでしょうか。私の親友たる彼女ならばきっとそんな感じの——


「馬鹿じゃないの」

「バカじゃないよ⁈」

「馬鹿でしょ、また大声出して」

「うぐぅ……」


 何てことでしょう。唯一の理解者だと思っていたのに……。

 怜ちゃんの視線はいよいよ温度を失って、彼女は頬杖により深く頬をうずめます。


「最近、無差別破壊事件が起きてるの、知ってるでしょ?」

「なにそれ」


 耳慣れない言葉が、不機嫌な声に乗ってやってきました。冗談でも何でもなく、本当に聞き覚えがありません。何しろ、最近はテレビより単語帳を見なければいけませんから。


「はぁ、時事問題が出ない子は気楽でいいわね」

「どうかこの愚かなるわたくしめにお教えください、怜先生」

「バカにされてるみたいで話したくなくなるわね……」


 仰々しく頭を下げる私に若干身を引きつつ、結局は話してくれるのが怜ちゃんです。


「その名の通りよ。突然現れて、所かまわず周りをめちゃくちゃにして、いつのまにか消えるのよ」

「なにが?」

「人型の何かよ。普通の人、羽の生えた人」


 彼女はそこで一拍ためを作ります。


「獣の頭を持つ人」


 私の頭の中で狼頭が吠えました。思わずぶるりと身震いしてしまいます。怜ちゃんはそんな私を見透かさんばかりに観察して、頷きます。


「感情だけで生きてる凛花のその反応、本当だったのね」

「ん、私バカにされた?」

「素直な子ってことよ」

「なるほど!」


 私、素直だったのか。さすが私。ここは鷹揚に頷いておきましょう。


「とにかく、きっと凛花を襲ったのはそれよ。凜花の言う銀色の人とか、何よりバケモノが消えるところを見た人とかはいないし、もしかしたら違うのかも知れないけれど」

「ほへー、そうだったんだぁ」


 怜ちゃんは「あんたねぇ」と続けかけて、首を振ってその先を飲み込みます。どうせ私を馬鹿にしようとしたんでしょう。わかりますよ、怜ちゃん検定一級ですから。

 でもですよ、でもですよ?


「甘いですよ怜ちゃん! そんなんじゃ要点を答えなさいって問題でミス連発ですよ! 大事なのは、そこじゃないんです!」

「へー、そうなんだー。じゃあそんな私が教えられることってないなー」

「あっ、待って、帰らないで」


 椅子をがらりと引いて立ち上がろうとする怜ちゃんのノートを瞬時に捕獲! ぶつかる視線と分かり合えないキモチ! 怜ちゃんがノートへと伸ばす手を避ける! 避ける!

 数瞬の高度な駆け引きの末、怜ちゃんを再びテーブルに着かせることに成功します。「やっぱりさぁ」とノートを返しながら、怜ちゃんからお返しのため息を貰いました。


「なんか王子様みたいだよねぇ」

「……相変わらず夢見がちね」

「でもでも、私達若者が理想を語れなきゃ、終わりだよ!」

「はいはい」


 今や怜ちゃんは取り返したノートを愛おしそうに開き始めていて、問題と睨めっこです。なんてこったパンナコッタ。怜ちゃんがノートに浮気しちゃった。

 ぶうと口を尖らせると、ちらり怜ちゃんの視線。


「一つ言っておくけどね」

「なになに?」

「あんたのそのズボラさじゃあ、王子様だって手を差し伸べちゃくれないわよ」

「あははー、なんのことかなぁ」

「素は可愛いんだから、黙っておべべ着てれば、十分可能性もあるでしょうにねぇ……」


 怜ちゃんがつまらなさそうにペンで指し示す私は、学校の制服を着ています。別に学校帰りだとかじゃあ、ありません。学校に行く用事がないとは言いませんが、夏休みに学校に行くわけないじゃないですか。

 そう、服を選ぶのが、メンドくさいのです。

 昨日の夜だって、私は上下ともに部屋着兼用のジャージでした。かれこれ三年の付き合いになるクタクタの相棒です。


「さ、聞くことは聞いたから、勉強しましょ」

「はーい……」

「はやく問題集出しなさい」


 『早く』、古文的には『疾く』、英語的には『fast』……あれ、『early』だっけ。

 怜ちゃんのアドバイス通り日常の中に勉強を織り交ぜながら、カバンの中の教材をがさがさとやる私。どさどさ、どさり。さすが私、本がいっぱい。頑張ってる。

 どうです怜ちゃん。褒めていいんですよ? と、送った視線の先にいたのは渋い顔の怜ちゃんその人。


「……まさか、それで全部?」

「うん、問題集と、参考書と、ノート」


 机の上に積み上げた三冊を、ぽんぽんと叩いて示します。

 あれ、何か足りないっけ。

 何か足りないんだな。だってほら、怜ちゃんのシャーペンがプルプルと震えてる。彼女の怒りはモノすらビビるとは私の言。


「地図帳持ってきてって言ったわよね」

「……はっ!」


 そうだそうだ! 私みたいなのはイメージと一緒に頭に入れた方が早いって……。ありがたい怜ちゃんのお言葉が…………。

 おそるおそる怜ちゃんを伺うと、本日何度目になるかわからないため息をついています。


「きっと地図くらいどこかにあるから、探してきたら」

「ごめん、ごめんね」


 頭を抱える彼女を拝み倒して、私は席を立つのでした。

 恨みがましい視線の雨の中、机と椅子と、それから人間で作られた林を縫っていきます。頭を軽く下げながら進んでいると、ちらほらと私ではなくその後ろ、つまりは怜ちゃんに向かう視線があることに気づきました。やっぱり怜ちゃんキレイだもんなぁなんて、少し得意になっちゃいます。友達が美人で秀才の私、きっとすごい。

 私から見てもおかしな喜びにひたひたと浸りつつ、本棚の森を歩きます。これも違う、あれも違う。何か分類とかがあった気がするけど、よくわからないから手当たり次第です。


 そして、科学系の棚に近づいた時、それは聞こえました。


「なんじゃ、これは」

「どれどれ? ……量子力学⁈ そんなもの、メメさんには早いぞ」

「忘れたのか? 妾は神じゃ」

「物理の神じゃないじゃんか……」


 聞き違えもしない、若い男声と幼い女声。

 心臓がびっくりして、一度大きく跳ね上がりました。

 私はいてもたってもいられなくて、上機嫌な歩きは駆け足に、駆け足は走りに、その姿を見てやろうと急ぎます。

 次の棚に、彼はいる。


「うわぁっ!」

「きゃっ!」


 棚を抜け視界が開けた時、目に入ったのはよれよれのTシャツ。そのまま小さな何かにぶつかって、尻餅をついてしまいます。


「……あー、大丈夫?」


 少しの戸惑いの後、私を気遣ってくれたのは一人の青年でした。目にしたTシャツは彼のものだったようです。

 かがみこんだ青年の顔に見覚えがないのは当たり前。身長は百八十くらいみたいだけど、あの彼がそのくらいだったかも覚えてない。ぼさぼさの黒い短髪くらいしか、共通点なんてない。

 けれど、その声はやはり、再会の喜びと、感謝を掘り起こすのです。


「もしかして……」


 彼は私に気づく素振りはありません。もしかしたら、人違いかもしれない。それでも、それでも私は確認しておきたかったのです。

 私らしくもなく小さな声で、先の言葉を紡ぎます。


「昨日、助けてくれた人ですか……?」

「――っ!」


 途端、私よりは大人びた彼の顔がひきつります。予想外に大きいリアクションに、私は言葉を続けることができません。彼から喋ることもないものだから、気まずさだけがその場を流れていました。立ち上がろうとも思えず、私たちは見つめあいます。


「これ、黙っていればなんじゃ。はよう妾の心配をせぬか」

「……あぁ、そうだったそうだった」


 均衡を破ったのは、あの幼い声でした。咎めるようで、口調はいたって平坦です。声に応える彼の動きに合わせ視線をついとずらしてみれば、小学生くらいの女の子が尻餅をついていて。ぶつかった小さい何かは、彼女なのでしょう。

 彼女の髪は、その水色と同じにさらさらと流れ、腰を下ろした今では床につくほど長いものでした。無表情の中で、拗ねたというか、つまらなそうな瞳で彼を捉え、細っこい腕を引っ張り上げろとばかりに延ばしています。腕も、簡素な白のワンピースからのぞく足も、年相応にみずみずしく、柔らかそうでした。

 彼は女の子に手を差し伸べ、引き起こします。


「メメさんメメさん、どういうことだよ」

「どうもこうも、こういうことじゃ」


 彼は女の子の耳元に口を寄せているのですが、目に見えて焦っている青年の声は隠しきれていないし、女の子に至っては隠す気がありません。

 その後も何やらと言い合う二人。その先はよく聞こえなかったけれど。そのまま立ち尽くしていると、半ば強引に女の子が会話を切り上げ、こちらを見ます。


「おぬし、名は?」


 片手で腰まで届く薄青い長髪を整えながら、彼女は問うてきます。もう片方の手を腰に当てて聞いてくる彼女は、幼い顔つきと相まってとてもかわいらしかったです。とてもかわいらしかったです。

 ここは、お姉さんとしてしっかりとしなければ。


「えへへー、さっきはごめんね? 私、須藤凜花って言うんだよー」

「……おぬし、妾をなめておるな?」

「そんなことないよー?」

「なぁ、なめておろう」


 やはりその声に苛立ちはありません。声に表情があるのなら、きっと無表情。でも、一応口調は改めましょう。

 「まあ、仕方あるまい」と前置いて、女の子が再度喋り始めます。


「凜花、おぬしにはもごぉ⁈」「ちょおっと黙ろうかぁ!」


 でも、その声は遮られてしまいました。

 何かを言おうとした女の子の口を手で覆って、青年はじりじりと下がります。にこやかな顔はどこかつっぱっていました。

 女の子はもがもがともがくけど、大人の男性の体格にはかないません。目の前で起こる誘拐事件に、私は呆気にとられるばかりです。でもきっと事案じゃない。彼は笑顔、私もとりあえず笑顔。笑顔は平和。


「んじゃ、俺らはこれで」

「はい! お元気で」


 謎の彼に手を振られたので、咄嗟に私も振り返します。

 ……あれ、なんか忘れてるような。


「って、私の質問に答えてない!」

「ばれた……?」


 ピクリと止まった彼がぼさぼさの短髪をかきかき、振り返ります。自由を取り戻した女の子が、たっぷりと一息つきます。

 まったく、あんなので私をごまかせるとでも思っていたのでしょうか。この怒り、もはや隠してはおけません。

 もち、ろん、です。区切りに区切って言い切った私の声は、彼に届かず、私の耳にも届きませんでした。


 何故って、この場に不似合いな悲鳴が聞こえてきたから。

 その声が、あまりにも私の親友の声だったから。

 私の意識はただその一点に集約される。


◇◆◇


「今の……!」

「来たの」

「……うん、ちょうどいい」


 焦るのは私ばかり。いえ、数刻を置いて鳴り響く新たな悲鳴。焦らないのが、彼らだけなのだ。服装に髪型に、とかくだらしなく見えた彼が、急に凛として見える。


「凜花ちゃん、だっけ」

「は、はい!」


 だからか、声をかけられた私はピンと背筋を伸ばしてしまった。その声も、やはりさっきまでとは違っている。


「知りたかったら、離れてついてきなよ」

「いいんですか?」

「安全は保障しないけども」


 予想はついている。彼が出向くんだ。悲鳴が上がるんだ。こんな事態は、昨日みたいなもの以外にない。昨日の恐怖以外に、ない。

 今でも生々しく思い出せる。生臭い息、ねばっこい唾液、そして、確実な死の実感。年甲斐もなく漏らしてしまったのは、それだけに恐怖していたからだ。

 想起するだけで全身が、心の内側へと引き込まれる。ほほを伝う汗が冷たい線を引く。縮み上がるという言葉の意味するところを、改めて理解した。

 だとしても、そうであっても、親友がそこにいる。きっとそこにいる。

 ぎゅっと噛み締めていた唇を開く。血の味がわずかにして、そして。

 憑き物が落ちるよう。私の身体は軽くなる。


「行きます」

「……わかった」


 それだけ言って彼は走って行ってしまった。その横に軽々と並ぶ女の子を見て、私も続かなきゃと足を動かす。女の子はたいして早く足を動かしていないのに、不思議と私は追いつけない。

 前を行く二人はなにやら言葉を交わしてはいるが、それすらも狂乱の喧騒に吸い込まれて聞き取れなかった。

 また新たな本棚を抜ける。狂騒の渦はもうすぐそこ。足のすくむ暇なんてない。

 彼が曲がる。その先はさっきの読書スペース。あぁ、やっぱり聞き間違いじゃなかったのかと、心は一層重たくなる。

 続いて私も曲がり、そこで目にしたのは。


「ううっ、ぐぅ……」


 首を締めあげられる、親友の姿だった。


「玲ちゃん!」


 声を張り上げてから、私はハッとした。

 散乱する椅子や机の中で、彼女を吊るしあげていた老人。西洋風の金ぴか鎧に身を包む老人の、その白髪と白髭しろひげに縁どられた首がゆっくり回って、うつろな瞳が私を捉える。親友から意識をそらせただなんて喜べない。ただ、その不気味さに身が竦む。

 永遠にも感ぜられる半瞬。発せられたのは、喜色に上ずる老成した声だ。


「おぉ、コーディリア、か……?」

「えらくお国違いだな!」


 えいも言われぬ悪寒が私を駆けあがるより早く、青年が老人を蹴り飛ばしていた。老人から金属の触れ合う音が連続する。視界の端で、それが見えた。


「玲ちゃん!」


 その場に置き去りにされた親友に駆け寄る。激しくせき込む彼女を抱き起すと、薄目を開けて私を見た。


「凜花? どうして、あなたが……」

「そんなのどうでもいいよ! 大丈夫なの?」

「……この()は?」


 怜ちゃんは口調こそ弱いが、意識はしっかりしている。

 少しでも安心させたい。気づけば私は隣に立つ彼らを紹介していた。


「この人たちが、昨日私を助けてくれた人たちだよ!」

「たち……?」

「ほら、男の人と、女の子!」

「おんなのこ……?」


 しかしそれは、私の中に不安を生んだ。

 おかしい。違和感がある。そういえばなぜ、彼女は『人たち』でなく、『人』と――


「お二人さん、そろそろ下がってもらえるかな」


 思考の渦に陥りかけた私を青年は許さなかった。その理由は冷静にあたりを見ればすぐに分かった。

 あの老人が起き上がっていたのだ。

 虚ろな瞳に今度は隣の二人を映し、静かな怒りを言う。


「わしの邪魔をする……。まさか、ゴネリル、リーガンか……」

「えぇ、さすがに耄碌しすぎだろ。メメさん、どう思う?」

「どうも思わん。妾には関係のない話じゃからな」

「えー、うそだー」


 対して、この気楽さ。玲ちゃんに肩を貸しながら乱雑に散ったあれそれを超えつつも、やっぱり彼らは昨日の人物と同じだと確信した。


「まぁまぁ、あまり彼を責めるものではない」


 そこに口を挟んだのは、少し離れた場所で椅子に座り、黒い長髪を束ねて前に垂らした燕尾服の男。組んだ膝の上には手帳を乗せているようで、そこに何やら書き込んでいる。男の目線は手元に固定されていた。


「彼は私の脚本通り、忠実に動いている。むしろ年の割にしゃっきりとした御仁さ」

「ってことは、あんたが黒幕か」


 頭を巡らせてその男を見た彼が言う。対する男は、やはり顔をあげない。


「ふむ、黒幕か。歌舞伎を舞台裏から操る人物だね。あれはいい。すばらしい演劇だ」

「おい小僧、講釈が長いの。客が飽きるぞ」

「ふむ、それは困る」


 男は勢いよく手帳を閉じると、すまし顔ですっくと立つ。


「私はシェイクスピア、以後お見知りおきを」

「……え?」


 芝居がかった一礼。そんなことより気になるのは、彼の名乗ったその名前だ。


「やはりか。ではその老いぼれはリア王じゃな?」

「その通りです。恥ずかしながら、執筆途中なのですが」

「ふうん、シェイクスピアもつまらないものを書くんだな」

「いやはや、手厳しい」


 戸惑う私を放っておいて、彼らは勝手に話を進めてしまう。

 シェイクスピアはとってつけたような笑みを浮かべ、リア王だという老人の横に歩み寄った。


「それでも、最後まで観ていってはくださいませんか。もはや偽りを映すばかりの虚実の瞳、その代償に蘇生したリア王が、この世におらぬコーディリアを探しさまよう。そんなありきたりな悲劇を!」

「ほんと、いちいち芝居臭いな!」


 身構える青年。シェイクスピアが勢いよく何かを手帳に書き記す。ひときわ大きな音とともにペンを振り切ると、隣のリア王の顔がぐいんと上がった。


「リーガァン!」


 リア王はその顔を憤怒にゆがめて襲い掛かってくる。標的はどうやらあの青年。けたたましい音を立てて、金ぴかの剣が鞘走った。


「ほお、すると妾がゴネリルだったわけか。鋭いの」

「いや、節穴でしょ」


 対する彼はわずかに構えをとるばかり。

 リア王の突進は一歩ごとに力強くなって、今にも青年が切られるんじゃないか。そう思ってしまう。

 斬!

 リア王の剣が盛大に風を切る。

 青年は台風の如く、裏拳でリア王の顔を捉える。

 よろけるリア王。剣はがらんと地面に落ちた。


「しっ!」


 彼は一分の隙すら与えない。軽快なステップとともに、足刀を腹に押し込む。

 リア王はもう一歩後退させられる。漏れる声は苦悶に満ちていた。

 私は、呆気にとられるしかない。まともに見たことなんてないが、格闘技の試合とはこういうものなのだろうか。そして、素人目にも、青年の優位は圧倒的で――

 

「テコ入れ、と言ったかな」


 だから、私はシェイクスピアの存在を忘れてしまっていた。

 また彼の筆が荒ぶるとリア王の様子が変わる。

 後退が止まった。鎧の上からでも足にぐっと力が入ったのが分かる。

 腕が伸びた。ぎらつきを増す眼光。リア王は引かれようとしていた彼の足を捉える。


「むぅん!」


 裂帛の気合とともにリア王は彼を背後の床に打ち付ける。彼の体がわずかに撥ねた。

 青年は何度となく床に打ち付けられる。空いている足で拘束を解こうとするが成功しない。

 リア王は、見違えるほどにたくましくなっていたのだ。さも、若返ったかのように。

 ほほにぬめりが飛沫する。指ですくえば、それは青年の血だった。脳が、急速に冷めていく。


「なんで、変身しないの……?」


 私の疑問は口を突いて出ていた。昨日の彼は、変身した彼はもっと強かったはずだ。


「しないのではない、できないのじゃ」


 その答えは、いつの間にか私の隣に立っていた女の子から帰ってきた。


「できない……?」

「正確には、今使うわけにはいかんのじゃよ」


 重ねて疑問をぶつけようとした時、ひときわ大きな音がした。

 青年が机に打ち付けられた衝撃で机が割れたのだ。彼の頭から血が流れているのが遠目にもわかる。

 その頭は重力に従って意思なく垂れていた。

 私の中で、不安感がむくりと頭をもたげた。


「だめっ……!」

「しまいじゃあ!」


 リア王は足を捉えたまま、もう片方の手で自分の剣を取り上げる。

 渾身の一撃が、彼に迫って――


「残念!」

「ぬぅっ!?」


 待ってましたとばかりに跳ね上がる彼の頭。振り下ろされる剣を蹴り飛ばし、折れた机の脚をリア王の顔へ投げつける。

 思わず顔をかばおうとしたリア王から彼は足をねじって脱出、素早く立ち上がる。


「おのれぇ、おのれぇぇぇ!」


 武器を失い、リア王は殴りかかる。

 しかし一発一発が綺麗に捌かれる。顔を狙った拳は下からすくわれ、腹部を狙った拳は横にそらされ、草をかき分けるような容易さで攻撃は払われるのだ。

 加えて、一発ずつ刻み込むようにむき出しの頭部へカウンターが決まっていく。

 純白のひげは鼻血で真っ赤に染まっていて見る影もない。

 視界の端で狼狽したシェイクスピアにさっきまでの落ち着きなどはない。


「何故だ! 何故私の脚本通りにいかない!」

「忘れたのか?」


 手帳の上でいたずらにペンを走らすシェイクスピアに女の子は冷たい言葉をかける。


「この世という舞台は、御しがたい阿呆どもの舞台じゃろ?」

「ふっ!」


 女の子の言葉尻に蹴撃の音が追随する。リア王が無様に地面を転げてくる。

 彼がちらりと、こちらを見た。


「メモリア!」

「まったく、今日は出番なしかと思ったんじゃがの」


 昨日、閃光を伴った言葉。身構えていた私は、今度は光の正体を見た。

 それは、女の子。全身を髪と同じ色に輝かせ、だんだんとそのシルエットは細く細く、鋭く鋭く。

 やがて、私の隣には一本の銀剣が浮かんでいた。ブロードソードと言っただろうか。

 弾かれるように、その剣は飛んでいく。


「ふんっ」


 その先では彼が心臓にあの杭を突き立てていて。

 刹那、幾筋もの赤い条光が杭の表面を走り、まもなくその形を失う。

 固体とも液体ともつかぬ銀が、奔流し、とぐろを巻き、彼を包んだ。

 周囲の机の残骸が吹き飛ぶ。直視した目が焼かれる。


 その果てに現れたのは、昨日の銀色の王子様。血液が全身を流れるように赤いラインが走る。鋭角的な装甲が輪郭を得る。頭部にはV字の角が鋭く伸び、その下に深紅の双眸がのぞく。


 飛来する銀剣を軽々掴み、それをリア王に突き付けて言い放った。


「さぁ、目に焼き付けな!」

「焼き付けられる目など、すでにないわぁ!」


 激昂するリア王。猛進する彼をしり目に、青年は横一文字に構えた銀剣をなぞる。

 浮き出るのは、幾何学的で直線的な、煌めく紅の筋。


「ぬぉぉぉ!」

「聖剣技……」


 紅く煌めく銀剣が上段に振り上げられる。

 ロボットアニメのような赤い目が、金色のV字型となった角の下からのぞく双眸が、ひときわ光ったように見えた。


「リコレクション・ヴァニッシャー!」


 赤光の残像が縦一文字に三日月を描いた。空ぶった。私だけでなく、誰もがそう思ったはずだ。

 けれどもそれは、まったくの思い違い。

 三日月は瞬間の静止の後、豪速で射出される。


「ぬ、うぅっ!?」


 それは音もなくリア王を斬りぬけて。


「復讐も再会もない、一瞬の死。これぞ、悲劇……!」


 後ろに控えていたシェイクスピアすら両断した。

 動くものは、もういない。


 これで、終わり?


 呆気にとられた私は、口をあんぐりと開けてしまいます。あっさりと、あまりにあっさりと。

 切られた二人の体がずれます。スプラッタな光景を予見した私は、その予測を裏切られました。二人の体は光の粒子となって消えていくのです。振りすぎた炭酸の中からせりあがる二酸化炭素のように、光の泡となってふわふわと。見る見るうちに消えていきます。


「お、時間か」


 青年の声に、私は彼に視線を戻します。

 彼の体を包む装甲が、同じく光となって消えていっていました。残されたのは、すでに赤を失った一振りの銀剣。


「メメさん、いつもどうも」


 手放した銀剣はスカイブルーに輝いて、次第に元の女の子の姿に戻ります。


「ふむ、これはしばらく充電が必要じゃな」

「充電……充電ね」


 彼女の言葉は無感動で、淡々と事実だけを述べているようでした。その非日常を感じさせない言動に、私の意識は急に引き戻されて。隣の玲ちゃんが気絶しているのに、初めて気づきます。

 でも、生きてる。なら今は、他に気になることがありました。


「あのっ!」

「……あ、忘れてた」

「ふん、だろうと思ったわ」


 彼はこちらを認めて、きまり悪そうにします。本気で忘れていたようでした。女の子は厳しい瞳で彼を一瞥します。


「言ったことは守ってもらいますよ!」

「……何言ったっけ?」

「忘れたのか?」


 女の子は仕方ないとばかりに、つま先立ちで耳打ちしました。聞き終えた彼は、思案顔。


「あれ、知りたかったら着いて来いとは言ったけど、教えるとまで言ったっけ?」

「そう取られても仕方なかったぞよ。だから、本当にいいのかと確認したではないか」

「メメさん言葉少なだから……」


 ぼさぼさの頭を彼はかきます。さっきもやっていたし、癖なのでしょうか。


「じゃあ、自己紹介だけでもしようか」

「妥当じゃな」


 二人の間で勝手に決めて、彼はこちらに向き直ります。


「このちいちゃい子は忘却の女神、メメ」


 ぽん、とさらさらとしていそうな髪の上に手を置いて、彼は紹介します。

 そして次は、親指で自分を指して、続けたのです。


「そして俺が契約者、横寺拓海だ」


 言い放つ彼は、さっきの銀ずくめに勝るとも劣らず、輝いて見えました。

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