People with no name
私は須藤凛花。華の高校3年生!
何を隠そう受験生。この夏休みだって汗水垂らして勉強をしておるのです。クーラーガンガンに効かせてますけどね!
しかしそこには巧妙な罠があって、見事お腹を壊した私は痛い痛いと言いながら、コンビニにアイスを買いに来ているのでした!
……来ているはず、だったのです。
それは、すっかり真っ暗になった夜闇の中、頼りない街灯の明かりで単語帳と睨めっこしていた時でした。ちょうど私の影がぬーっと延びて、もう単語の暗記なんてやめようぜって、ページを覆ったのです。
ぱっと顔を上げたところに、そやつはいました。
——コスプレ?
家の明かりもわずかで、人っ子一人だっていない住宅街にあって、それは異質の一言につきました。
全身をふわふわした夜空色の毛皮で包んだ彼だか彼女だかは、踵がなく、カモシカのような二本足で立っていました。両手は狼の顔のようで、何とも言えぬ凛々しさと、それ故のうすら寒さ。その口から垂れた涎は街灯に照らされ、不気味に光ります。顔の部分にあるのも同じ狼頭で、金色の目が怖いです。
「ウマソウダ……」
「ひぃっ! まだアイス買ってませんよ!」
コスプレさんのガラガラにしゃがれた声に思わず答えます。
「……」
「……」
……空気が痛いです。
ふざけているようで、事態は切迫しています。変態の眼光は強く、被り物とは思えないのです。私の一挙手一投足すら、見逃してはくれないのでしょう。
じりじりと下がってみれば、同じだけ距離を詰めてきて。ノースリーブから晒した腕が、粟立って。私の手はそろりそろりとハーフパンツのポケットへ忍び寄って。
私の手がポケットの中のスマートフォンに触れた時、私の片手の自由がなくなった時、頭に浮かんだのは『しまった』という言葉だけでした。
爆音。
それを聞いた時、濃紺が目の前にありました。
◇◆◇
逃げ出していく肺の空気。タックルをされたと気付いた時には、背中に別の衝撃があった。
空を見上げても紺だから、自分が押し倒されたのだと気付くのが遅れる。
咳き込みながら身体を起こすと、一歩、また一歩、近付いてくる奴と目が合う。
目は口ほどに物を言う。こんなところで実感したくはない言葉。
あれは私を殺すのだと。あれは私を食らうのだと。
背筋をビリビリとした感触が駆け降りて、そのせいか痛みのせいか、私の身体は私のものでなくなった。
私だけが止まった世界で、それでも奴は止まらない。
ぬらりと光る牙だらけの口、生臭い息を、死の気配を間近に感じ、ぎゅっと目を閉じた。暗闇の中、だらりと唾液が落ちてくる。粘っこい液体が頬を伝う。
死にたくない。
それ以外、頭に残ってはいなかった。
「おっ、狼じゃん。飼いたいって言ってなかったっけ?」
「忘れたのか? 飼いたいのは犬じゃ」
――誰?
突然、耳に入ったのは若い男声と幼い女声。不釣り合いに能天気な声ではあっても、私は希望を持ってしまう。
恐る恐る薄眼を開けると、狼頭はぐりんと首を後ろに回していた。
逃げなきゃ。
あいもかわらずシンプルな思考に、しかし身体は付いてこない。
動いて、動いて、動いて!
「メメさんメメさん、今回は何秒でしょうかね」
「そうじゃな、十秒……と言ったところか」
声の主を垣間見ることは、狼頭の影になって叶わない。段々と心にさした光が陰る。
私は、死ぬ順番が後ろに回っただけではないか。
「グギャアッ!」
この世のものとは思えぬ咆哮。目の前にあったものが見る間に小さくなる。抉り飛ばされたコンクリートの破片が痛い。
「メモリア」
そのシルエットを飛び越えた、青白い閃光に目が眩む。
目が開いた時、狼頭の人影は新たな人影の後ろだった。二人分の声があったはずなのに、そこにいたのは銀色に煌めく剣を持った一人。そのぼさぼさの頭髪が夜風に揺れる。
彼は背中を見せたまま、語る。
「さぁ、目に焼き付けな!」
彼はズボンのポケットから何かを取り出す。これまた銀色の、街灯に光る杭だ。
「ふんっ」
それを彼は、左胸に、心臓に突き立てた。こちらからは見えないが、動きとしてそうだった。
驚きに、ようやく私の自由が戻ってくる。
「な、なにして——」
やっと出た声は、また掻き消えた。
彼の前方から、銀の奔流があった。とぐろを巻き、彼を包み込もうとしていた。その輝きにまた目を瞑って、そして目を開ける。
そこにいたのは、まるで特撮番組に出てくるような銀色のヒーローだった。卵の殻が割れるような音とともに、装甲に赤い光のラインが走る。シャープな刺々しいフォルムが、闇夜に浮かび上がる。
能天気がうつったのか、私はそれをかっこいいだなんて、つい思ってしまった。
「来いって」
彼は銀剣を持っていない左手で、敵を挑発する。私には見えないけど、爆音で狼頭がまた加速したことがわかった。
地をする刃。もちろん、彼の振るう銀剣の刃。耳障りな剣は火花を散らし、気付けばその火は蒼炎となり剣を包んでいた。
「せいっ!」
天に昇らんとする蒼い柱。銀剣を振り抜いたのだ。
どさりという音がして、彼の隣に真っ二つに割れた何かが落ちる。それが私を殺そうとしていた狼頭のなれの果てだと気づくのには、少しの時間を要した。
声にならない悲鳴が思わず漏れる。むせる血の匂いに吐き気がする。
でも、それ以上に、洪水する感情があった。
私、助かったんだ……!
それを意識した途端、身体から力が抜けた。ぐらりと視界が傾いて、世界が遠のいていく。
「あの子、どうするか」
「放っておけばよい。どうせ、忘れる」
「……そうだな」
そんなあっけない会話を子守歌に、私という意識は消えていってしまう。消える間際のそいつはロマンチックだと遺言を残して。
あぁ、なぜだか股ぐらが、暖かいなぁ……。