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第八章

 黒鋼(くろがね)は早朝の霊山の端に立って、暁が彩る雲の合間から里を見下ろした。

 何かが胸の奥で燻っている。目を覚ましたいと激しく揺れている。だがどうしてもその正体がつかめない。

 眠りにつけば夢はとりとめなく、記憶にない人々を映し出す。しかし夜が明けて目覚めれば、うたかたのごとくたちまちに消えた。

 ―――自分は里で暮らした時期があるのか。

 そう白巌(びやくがん)に訊ねてみようと喉まで言葉が出かかったものの、結局は口に出せなかった。昨日のことだ。

 知るのが怖いわけではない。靄のかかったような曖昧さには我慢できない性分だから、自分が何ものなのかはっきりさせたい。

 青鬼の千草が黒鬼は稀少種だとちらりともらした言葉は、すぐに師匠である白巌(びやくがん)に確認した。白巌(びやくがん)は揺るぎのない表情で、黒鋼が鬼人界において特別な存在である証しだと説明した。

「おまえの代わりは誰もいない。唯一無二の存在なのだ。その意義を噛みしめよ。」

 白巌(びやくがん)は『意味』ではなく『意義』と言った。その言葉に微かな反発を覚えるのはなぜなのか。鬼人界を統べるべき存在として生まれた自分であるならば、当然ながら常に存在の『意義』を考え確認するべきであろう。それが正しい在り方だ。

 しかしなぜ黒鬼として生まれたのかと胸に問うたびに、何かがこみあげる。

 ―――里に下りてみようか‥。

 なぜか千草はいい顔をしないのだが、別に自由に下りていいはずだ。黒鋼には制約はない。何をしてもいい身分だ。

 夜明けの曙光がまばゆく輝き始める。

 黒鋼は宮殿に入り、自分の居室へ戻った。

「よう。黒鋼どの。ずいぶんと早起きだな。」

 寝台に腰掛けていたのはいつか夢で見た白い髪の男だった。

「おまえは‥。どこから入った?」

「ふん。この宮殿の隅から隅まで、俺の知らない場所なんかないよ。‥‥そんな無駄話してる暇はないんだ、おまえに預けっぱなしのものを貰い受けに来た。さっさと渡してもらおうか。」

「預かったもの‥? そんなものはない。」

「あるんだよ。黒鋼には不要のものだ。『煌夜(こうや)』という名とその記憶、それさえ受け取れば二度とここには用はねェよ。」

 白髪の男は見ればそこらじゅう、怪我をしていた。手負いの獣のような血走った眼でじっとこちらを見据え、ゆっくりと近づいてくる。

 黒鋼はまっすぐに立ち、体を包んだ霊圧をぐんと高めた。

 男が一歩近づくたびに、黒鋼の放つ霊気がその体のあちこちを容赦なく切り裂く。それでも彼は歩みを止めない。髪が逆立ち、右手で血の噴きだした脇腹を押さえながら、左手をこちらへ差しだしている。

「‥邪魔だと感じているはずだ。鬼人界で生きるおまえには不要な想いと記憶。俺によこせよ‥。簡単なことだ、煌夜を捨てると決心するだけでいい‥。」

「煌夜‥それは何だ? 俺が持っているとして、なぜおまえは欲しがる?」

 この男が欲しがっているのは、もやもやと黒鋼の胸で燻っている正体のつかめない『何か』に違いない。不要と言えば不要だが―――わけも解らずに捨てるのには抵抗がある。

「あと‥ふた晩だ。それで契りは完成する。俺は新しい存在になって‥あいつを護ってやれる。犬妖怪なんかに遅れを取る情けない状況から抜け出せるんだ‥。早く俺に煌夜をよこせ‥。なぜ残しているんだ? おまえは‥黒鋼として生きる選択をしたんだろう?」

 契り―――? それは何だ、何の契約なのだ? なぜ『煌夜』を欲しがるのだろうか。

 男の顔がすぐ目の前に迫った。黒鋼の霊圧で今にも吹き消えそうになりながら、手を差しだしている。既に全身に細かい擦傷が刻まれ、血まみれだ。

「‥‥白炎さま?」

 黒鋼の背後で千草の声がした。

 思わず振り向いた黒鋼の胸に、千草の遣う青い水龍が激しくぶつかってきた。不意を突かれてよろけた隙に千草は男を水龍でゆるりと巻き上げた。

「千草‥‥?」

 薄青い瞳が氷のように冷たく光った。ちらりと浮かぶのは―――憎悪か。

「‥あなたにこの方を、傷つけさせはしません‥。鬼人界にとって大切な方ですから。」

 そう言い捨てると、千草は白髪の男を水龍で抱えこみ、すうっと消えた。

 ―――白‥炎‥? それがあいつの名か。聞いたことがある‥。

 黒鋼はゆっくりと起き上がった。

 千草の無機質な瞳に今しがた浮かんだのは確かに憎悪だった。意外には思わなかった。彼女が黒鋼に好意を見せたことは一度もない。

 しかしあの男―――白炎が鬼人界にとって大切とはどういう意味なのだろう?

 胸の奥がずんずんと大きく音を立てて振動し始める。

 ―――俺は‥煌夜の名を捨てて黒鋼になったのか。

 白炎の言葉はそう示唆している。

 ならば時折混入する記憶は煌夜であった時のものだろうか。なぜ残している、と白炎は言った。そして自分によこせと。白炎は何を望んでいる?

 なぜ捨てたのか。なぜ残しているのか。真に不要であるならば白炎にやってもいい。だがなぜ強くためらう自分がいるのか。

 ―――とにかくもう少し白炎の話を聞くべきだ。

 そう結論を出すと、黒鋼は千草を追って部屋の外へと出た。


 千草が白炎を連れていったのは奥庭にある池のほとりの四阿だった。

 白炎は、水龍から体を振りほどいて自分の足で立った。

「千草、どけ‥‥。俺はあいつに用があるんだ。」

 千草はいいえ、と首を振り、白炎の前に跪いた。  

「まずは霊力を十分回復なさらなければ、黒鬼とは闘えません‥。白炎さまがお戻りくだすったとなれば、わたしたちは‥青鬼一族は全員、白炎さまを支持いたします‥。いったん里へまいりましょう。」

「戻る、だと? バカを言うな。こんな場所に戻ってくるはずないだろう?」

「白炎さま‥‥。まだそのようなことを‥。」

 千草はヴェールのような柔らかな水流を繰りだして、白炎の傷を癒した。

「どうかお願いいたします‥。白炎さまがいなければ鬼人界は立ちゆきません。忌むべき黒鬼に鬼人界を委ねるわけにはいかないのです‥。いくら白流さまの決定であっても、里の者たちは誰一人納得していません。」

 白炎は千草の懇願をせせら笑って退けた。

「千草。霊山の決定に異議を唱えるつもりなら、青鬼は青鬼で自分たちの在り方を決めればいい。白鬼の支配なんか糞喰らえだとはねつけてやればいいんだ。俺に頼るのは筋違いだよ。‥‥どけ。俺は黒鋼どのに用があるんだ。」

「‥‥なぜです?」

 千草は悲痛な顔で叫んだ。

「お仕えしていた五十余年の間‥。わたしは白炎さまに何の不満も不平も抱いたことはありませんでした。鬼人界は平和で、心穏やかな安定した霊気が満ちておりました。」

「‥‥だから何だ?」

「お戻りください。白炎さまが突然姿をお消しになってからの、たった三年足らずで‥鬼人界がどれほど荒廃してしまったか‥。山野の半分が荒野になりはてました。霊山に正しい(あるじ)がいないからだと、みな不安を抱いております。」

 千草は柔らかな芝生の上に平伏した。

「お願いです‥。どうか霊山にお戻りになって、黒鬼を斃してください。そもそもあの者が生まれてきたことが災いの(しるし)なのですから‥。」

 白炎は無視して、千草に背を向ける。

「お待ちください、白炎さま‥!」

 急いで立ち上がり、腕に縋りついた千草を白炎は思い切り振り払った。

「‥‥どけ。」

「‥‥どうあってもですか?」

「くどい。」

 千草の全身から青い霊気が立ち上り始める。

「ならば‥白炎さま‥。今ここで消滅してください。」

「何‥?」

 白炎は驚いて振り向いた。

「白炎さまにはいったん消えて、生まれ直していただかねば‥鬼人界は滅んでしまいます。凶兆の具現である黒鬼が霊山を支配するなんて‥誰も許しはしません。」

「愚かな‥。何度生まれ直しても同じだ、邪魔をするな‥!」

 千草は凄まじい勢いで水龍を繰りだした。

 白炎はかろうじて受けとめたものの、激しく四阿に叩きつけられた。

「今のあなたはわたし一人でも簡単に消滅させられます。お願いです、どうか戻ってください‥。」

 倒れたままごほっ、と血の塊を吐き出しながら、白炎は嫌だ、と答えた。

「では‥仕方ありません。」

 千草の水龍が巨大化して、白炎を目がけ、轟音を上げて跳ね上がった。


 黒鋼は少し前から二人のやりとりを聞いていたが、水龍が白炎に襲いかかった瞬間ほとんど無意識に体が動いた。

 (はがね)の太刀を出し、二人の間に割って入ると、水龍を一刀のもとに消滅させる。

 技を返された衝撃で千草の体は吹っ飛び、芝生の上に激しく打ちつけられた。彼女はぐう、とひと声漏らして気を失ってしまった。

「おまえ‥。なぜ俺をかばった‥?」

 白炎を振り返り、再び太刀を構える。

「‥‥教えろ。俺は‥確かに凶兆だと言われて‥逃げ回っていた。それが‥なぜ、霊山にいる?」

「おまえが選んだからだ‥。なぜ、だと‥? 笑わせるなよ‥惚れた女を捨てて‥ここに来たのはおまえ自身だろ‥。早く‥早く‥寄こせよ‥。帰るつもりもないくせに‥永遠に待つ約束だけ‥押しつけやがって‥。」

 白炎はやっとのことで意識を保っているようだった。

 肩を大きく震わせて、呼吸するのも苦しそうだ。しかし金色の瞳だけはぎらぎらと異様に光っている。

「煌夜という名を‥俺によこせ‥。それで咲乃を‥約束から解放する‥。さもなければ‥あいつは‥死んじまうんだよ‥。」

「‥‥咲乃?」

 突然、脳裏にはにかんだ控えめな声が響いた。体を包みこむ、優しい温かい気配。流れこんでくる熱い感情。

「ふん‥。おまえの幻影が‥咲乃に言った。咲乃が永遠に待ち続けると信じられるから、生きていける、と‥。咲乃の待ってる男はとっくにいないのに‥あいつは特大級のバカだから‥自分に残された待つという約束だけを後生大事に護ってる。」

 ―――咲乃‥。咲乃が‥俺を待っている‥? いや‥煌夜を待っているのか。

 霊山に来て煌夜の名を捨て、黒鋼の名を得た。何のために―――鬼人界のためか。鬼人界の安寧のため、角を二本持って生まれてきた意義を噛みしめ、唯一無二の存在である責任を果たすためだ。

 ならばこの先―――煌夜の名も約束も黒鋼として生きる自分には不要なものだ。

 捨てると言えばいい。言葉にして記憶ごと、目の前の傷ついた男へやってしまえば片がつく。鬼人として生きるならそうすべきだ。

 次から次へと湧いてくるこの考えは、だが、誰のものなのだ?

 ―――俺の望んだことなのか? ほんとうに‥俺の意志で‥?

「真実俺が‥選んだ道であるならなぜ、咲乃に約束を残したのだろう‥?」

 白炎の口もとに浮かんだ冷笑が、嘲りをこめて歪んだ。

「怖かったんだろ‥? 一度は己を排斥した場所へ‥一人で戻るのが不安だったからさ。‥でももういいはずだ、早く‥捨てろ。捨てると言葉に出せ。」

 己を排斥した場所。そうだ、千草の言葉どおり、凶兆の具現だと誹られ、排斥された。

 黒鋼はだんだんと思い出し始めた。

 記憶の断片に残る逃げ惑っていた少年は自分だ。育ての親である老赤鬼の遺言に従い、人間界へ堕ちてはぐれ者として孤独に過ごした日々。そして咲乃に出会った。

 名前のない自分に煌夜という名をつけたのは咲乃だ。

 星を散りばめた煌めく夜のようだとはにかんだ顔で頬笑んだ。抱きよせればいつも、熱い想いと甘い濃密な霊力があふれるほどに流れこんできた。愛しくてたまらなくて、咲乃だけいればいいと―――

 すべて過ぎ去った過去だ、と再び冷たい声が頭の中に響く。まぎれもない自分の声だ。

「‥‥裏切れと言うのか。」

 自分の中の声に思わずつぶやいた。白炎の嘲笑が(かぶ)さってくる。

「もうとっくに裏切ったんだよ、だからあいつは死にかけている‥。」

 死にかけている―――咲乃が。

 たかが人間の女だ。どうせ短い寿命の花に過ぎない。二度と会うことはないし、関わることもない―――ではなぜこんなに胸が苦しいのだろう?

 いつのまにか太刀は消えていた。白炎の顔が目の前にある。

「そうだ‥苦しいだろう? 煌夜の名を捨てれば苦しくなくなる。咲乃も助かる。‥もう待つなと言ってやれ。二度と戻ることはないと‥。」

 白炎は呼吸を整えて、黒鋼に手を差しだした。


「ほんとうにそれでいいのか‥? 黒鬼、それがあんたの意志なのか。」

 突然聞こえた声に振り向くと、どこかで見た男が立っていた。

 鬼人ではない。だが全身に鬼人の霊気を纏っている。

 白炎が眼を見開いた。

「おまえ‥どうやって‥?」

「あんたの霊力をちょっとね、借りたんだよ。あんたこそなんでこんなところにいる? 咲乃さんが死んじゃうって、どういうことなんだ?」

「へえ‥知らないのか‥? 咲乃は鈴の女に‥預けてある。霊力と自分の体を相殺して魂だけになろうとしたのを、なんとか止めているのさ‥。煌夜の名前が押しつけた約束のせいだ‥。」

 男が近づいてくるにつれて、白炎の呼吸は少しずつ楽になっていくようだ。

 苦々しげな表情を浮かべて、男は白炎の横で立ち止まった。

「違うよ。あんたのせいだろ? ‥だから言ったじゃないか、咲乃さんはあんたの姑息な幻術なんかにいつまでも惑わされてやしないって‥。」

「ふん‥。じゃあ咲乃が四六時中ずっと襲われ続けてる現状をどうする気だ? おまえや健吾で護りきれるのかよ?」

 男はそれには答えずに、静かに前に出て白炎と黒鋼の間にすっくと立った。黒鋼は後ろへ下がって間を取り、対峙した。

「‥なぜ黒鬼に生まれたのか、その理由を探しに鬼人界へ行くとあんたは言った。理由を見つけたら必ず戻ると咲乃さんに約束したんだ。で‥黒く生まれてきた理由とやらは見つけられたのか?」

 明るい琥珀色の瞳が冷ややかに強く瞬き、黒鋼を静かに見据える。

「見たとこ‥あんたは鬼人界の意志に取りこまれて生きることにしたらしいね。情けない、それがあんたがいつも言ってた誇り高き鬼人ってヤツなのか? 理不尽に自分を追い出した世界の隅っこで、お情けで居場所を与えられて満足なのかよ? ‥見損なったよ。」

 吐き捨てるような口調にかあっとなった。

「うるさい‥! おまえに何が解る‥人間の分際で‥!」

「解りたくもないよ。生まれた理由なんか、自分で見つけるもんだろう? 捨ててきた過去の世界になんか、初めからあるわけないんだ‥。あんたが黒く生まれたのは人間界へ来て、咲乃さんと出会うためだったんじゃないのか?」

 黒鋼は体じゅうが震えるほどの怒りを感じた。彼の言葉はいちいち腹の底に不協和音のように響いてくる。

 思わず霊力を全開した。黒曜石のような二本の角がぎらぎらと光り、全身が闘気で包まれ、鋼の太刀が掌にすっと生じる。

 まぶしそうに男は腕を翳してわずかにひるんだものの、怯える様子もなくまっすぐこちらを見返してくる。

 黒鋼は太刀の切っ先を男の鼻先へ突きつけた。

 男は端正な貌に皮肉をこめた冷笑を浮かべ、ふん、と嘲った。

「去年、ここにいる白炎と闘って死にかけた時‥あんたは咲乃さんを護れないなら一緒に死ぬほうがましだって言ったんだ。なのに一緒に生きる約束をした大切な人を忘れて、こんな石と雲しかない、何もない場所で、あんたはこの先どう生きていくつもりなんだよ? その太刀は何のためにあるんだった? 何もかも全部忘れたのか‥このバカ! バカ黒鬼! 悔しかったら思い出してみろよ!」

 太刀から放った霊気が男の体を直撃した。

 衝撃でよろめいたものの、男の体を包んでいる白い炎のような霊力が黒鋼の霊気をはね返した。後ろにいる白炎がふっと微笑う。

 そして彼は再びこちらに強烈な視線を向けてくる。

 黒鋼は無性にいたたまれなくなって、感情のままに太刀を振り下ろした。

 切っ先が届く寸前、不意に金色の光るものが割りこんできた。

 鈴の音が激しく鳴り響く。

「茉莉花‥‥!」

 太刀はひと束の黒髪と紅い袖を切り裂いて、芝生にのめり込んだ。

 目の前で、紅い着物姿の人間の女が男を押し倒してすわりこみ、激しく息を弾ませていた。全速力で走ってきて、体当たりで黒鋼の太刀筋から男の体を逃したらしい。

 女の全身から金色の光が更にあふれ出し、まぶしいほど輝き始める。

「驚いた。いったい‥どこから‥?」

 男は戸惑った顔で、女を見つめていた。

「‥驚いたのはこっちよ。桜から‥あなたが鬼人界へ行ったって聞いて‥。心臓が止まるかと思った。」

 そう言うと金色の光を激しく振りまきながら、男の胸に顔を打ち伏せた。無惨に切られたざんばらの髪が、大きく上下している背中に不揃いに広がる。

 男は女を両腕でぐっと抱きしめ、そろそろと上体を起こした。

「ごめん‥。あのままじゃ君に合わす顔がなくてさ‥。何とかあいつを咲乃さんのもとに連れ戻すつもりで来たんだけど‥。だめだった。顔見たら頭にきて、罵っちゃった。」

 バカ、と女は今にも泣き出しそうな震える声で小さくつぶやいた。

「どうして‥無茶なことばかりするの‥? 命が惜しくないの?」

「惜しいに決まってるだろ。でも咲乃さんを白炎に持っていかれたままじゃ、君のところへ戻れないじゃないか? だから‥‥」

 女は男の腕から離れてすっくと立った。

「どうして一人で動くの。わたしには一人で行動するなと言ったでしょう? この三日間どんな想いで待っていたと思うの。たいへんなことがたくさんあったのに、あなたがちっとも帰ってこないから‥‥だから探しに出ちゃったじゃないの!」

 女の全身から再び金色の光が激しく燃え立った。

「えっと‥。もしかして俺を?」

 男はおずおずと訊ねる。

「そうよ! 境界の場所の力は無闇に動いてはいけないの、なのに‥。」

「ごめん‥。」

 謝りながらも男はやけに嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


 黒鋼は呆気に取られて、茫然と立ち竦んでいた。

 女の放つ金色の光と鈴の音に憶えがある。確かあの女は交渉屋―――『懐古堂』と言った。あの金色の霊力は咲乃と同じ四宮の力だ。

 『懐古堂』の女は凛とした静かなまなざしを黒鋼に向けて、微かに眉をひそめた。

「‥煌夜さん? 何かが違っているみたいだけれど‥。」

「黒鋼って名前になっちゃったらしいよ。完全に忘れたわけじゃないみたいだけど、人間界にいた時の記憶がほとんどないみたいなんだ。」

 男の言葉に、彼女はぐるりと周囲を見回した。

「こんな場所にいたら、おかしくなるのも当然かも。ここは何だか‥歪んでいる。」

 女は鈴を細やかにかき鳴らし始めた。

 金色の光が波紋を描いて、ゆったりとした柔らかい空気で黒鋼の体を押し包んでくる。

 ずっと胸で燻っていた微かな振動が金色の波紋に共鳴して、更に大きく激しく揺さぶりをかけてきた。突き上げる熱い衝動に思わず眼を閉じる。

 不意に耳にくっきりと、自分を呼ぶ咲乃の声がよみがえった。

「咲乃‥‥。俺を呼んでるのか‥。」

 はにかんだ笑み。怖がりで寂しがりやで、泣き虫で―――護ってやりたかった。しかし咲乃は自分を護るために黒鬼が傷つくのをいちばん怖れていたのだ。

「咲乃が不安に思うのは‥俺が弱いからだと思った。鬼人界へ来たのは誰よりも強くなりたかったからだ。白鬼だろうと何だろうと負けないくらい、強く‥。」

 黒鬼は自分への怒りがどうしようもなくこみあげてきた。

「認められて名をもらって‥正直、嬉しかった。でもたったそれだけで俺は‥咲乃のつけてくれた煌夜という名を忘れたのか‥。何て愚か者だ、俺は‥。」

 白炎が閉じていた目蓋をうっすらと開けた。

 背後から、白巌(びやくがん)の声がした。

「黒鋼。惑わされるな。おまえは鬼人、それが答だ。」

 振り向くといつの間にやって来たのか、三人の老白鬼が立っていた。

「鬼人‥。空っぽの宮殿で‥誰にも認められないのにか‥?」

 黒鬼は怒りのままに叫んだ。

「そこに転がっている千草は、黒鬼は凶兆の具現だと言った。里では俺が霊山にいるのを誰も望まない、と‥。」

「愚かな青鬼は迷信に囚われているだけだ。そのうちにちゃんと解るだろう。霊山には(あるじ)が必要なのだ‥。我々の寿命はもう残り少ない。そのあとを継承する者はおまえの他にはいない。角を二本持って生まれた者の責務なのだよ、黒鋼。」

 白流(びやくりゆう)が静かな声で諭した。

「その名で呼ぶな! つまり‥霊山の重しにするために、俺を幻術で誑かしたわけか?」

「誑かすなど‥。おまえの心が鬼人として在りたいと強く望んだから、霊山が手を貸しただけだろう。霊山の(あるじ)となるべき者に、幻術を遣うような真似はせぬ。」

 当然だと言わんばかりに白樹(びやくじゆ)も口を添える。

「俺の心が‥鬼人でありたいと望んだ‥?」

 その時こっそりと近づいていた白炎が、黒鬼の長い髪を一房切り取った。

 振り向く間もなく、にやりとほくそ笑んだ白炎は、『懐古堂』の女が出てきた金色の光の漂う穴へと飛びこんだ。

「しまった‥!」

 咲乃が危ない、と追いかけようとした黒鬼を、白巌(びやくがん)が全身で押しとどめた。

「離せ‥! 俺は‥。」

 あとふた晩で契りは成立する。白炎はそう言った。

 契りが成立すれば咲乃は―――あの濃密で熱い愛情は永遠に白炎のものになる。そんなのは嫌だ、認められない。

 『懐古堂』の女が金色の光を震わせながら、白炎のあとを追って穴に飛びこんだ。穴はするすると閉じていく。

「白炎は既に鬼人とは言えぬ。追うほどもない。人間の女に未練があるのなら、ここへ召し出してやろう。聞けばそこそこ霊力があるようだ、簡単に消えはしまい。」

 白樹(びやくじゆ)が尊大な口調で片づけた。

 ふざけるなよ、と鋭い声がした。

「召し出すだの、簡単に消えないだろうだのって‥。どこまで上から目線なんだよ? 人間を安く見てもらっちゃ困る。」

 一人残っていた琥珀色の瞳の男はぐっと顎を引いて、白鬼たちに冷たい視線を向けた。

「行きたいって言ってるのを引き留める権利なんか、あんたにないだろ? 離してやれよ。黒鬼はちゃんと自分で決められるはずだ。どっちの名前を選ぶのか。」

「おまえは何者だ。人間の分際で誰の許しを得てここにいるのだ?」

 白巌(びやくがん)が前へ出た。

 霊圧が凄まじく高まっているが、男は涼しげな顔で見返す。

「誰の許しもないけど‥。ちょっと友人に会いに来ただけ。‥もう友人じゃないのかもしれないけどね。」

 不意に黒鬼は男の名前を思い出した。そして向けられた皮肉な視線に苦笑する。

「‥いつからおまえと友人になった? せいぜい‥知人だ。」

 堂上玲は剛胆にもからからと笑った。

「じゃ、咲乃さんの友人だ。それでいいや。‥とにかくもう用はすんだ。」

 次の瞬間、ふわっと青白い光が上空から流れ出し、霊山全体に満ちた。

 薄絹で顔を覆った光り輝く姿が緩やかに出現して、空気が一変する。

「やれやれ‥。なぜもっと早う我を呼ばぬのじゃ? 先ほどは危なかったではないか。あの者が太刀を出した時に、我を呼ぶと思うたに‥。」

迦具耶(かぐや)さま。お気遣い痛み入ります。ですが‥‥ずっと見ておられたのでしょう? どうして白炎をつかまえてくださらなかったのですか?」

「ふふ。ここが人間界であれば、約定どおり彼の者を召し上げられたのじゃが‥。何ぶん、ここは鬼人界。彼の者がいたからと言うて、我には何の権利もないのじゃ。韻律(おと)どのも悔しがっておったが‥。」

 迦具耶(かぐや)はゆったりと、畏まっている白鬼たちを眺めわたした。

「この者は我が預かるゆえ。さよう心得よ。‥では邪魔をしたの。」

 月神の分身は、月光でできた薄衣をひらりと投げかけて玲を包みこむと、ほの白い柔らかな光をそこらじゅうに輝かせ、音もなく消えた。

 月光に撫でられた箇所はすべて清々しく輝き、清浄な空気が微風となってどこからともなく流れ始めた。

 霊山の白い宮殿から、厳めしい冷たさが少し薄れたような気がした。同時に胸にのしかかっていた圧迫感も消えて、ただ素直な感情だけがこみあげてくる。

 ―――咲乃‥。咲乃に逢いたい。

 気づくと白巌(びやくがん)が千草を介抱してやっていた。

「霊山に‥長く仕えた者たちの意見も聞くべきであったかもしれぬ。そのうえで‥納得させてやるべきであったか‥。」

白流(びやくりゆう)は溜息をついて、消えた穴のほうを見遣った。

「白炎は‥誰よりも聡明であったのに‥。正しく導けなかったはわたしの責任だ‥。」

 そして立ちつくしたままの黒鬼に穏やかな視線を向けた。

「そなたに鬼人界へ骨を埋めろと申すは‥少々虫のよい話であったのやもしれぬ。あの人間の申すのを聞いていたが‥確かに鬼人界は、そなたにとって排斥の記憶しか持たぬ世界なのであろう。しかも今も、里の者はそなたを拒絶しておる。うまくはいくまい。そなたはそなたの友人がいる場所へ帰るべきだ。」

白流(びやくりゆう)さま‥! しかしそれでは‥。」

「違う道を探ろう、白巌(びやくがん)どの、白樹(びやくじゆ)どの。白鬼が里に生まれぬのも、荒野が広がっているのも‥何か理由があるはず。我々は霊山を下り、里をわが眼で見てその理由を探すべきであったのではないのか? まずは今後百年のための計を講じよう。」

 目を覚ました千草は白流(びやくりゆう)の言葉にさめざめと泣いていた。

 うつむいていた白巌(びやくがん)は、ぐっと唇を噛みしめて黒鬼を見た。

「そなたに‥黒鋼の名をつけたは、決して欺くためではない。赤子のうちに正しく霊山に召し上げておれば、必ずこの名がついたはずだと思うたゆえだ。‥だが先ほどの人間と同様、わたしもどちらの名を選ぶのかおまえ自身に託すことにする。」

 黒鬼はすっくとまっすぐに立ち、辞儀を正した。

 三人の老鬼人にひと言、世話になりました、と告げ、深々と頭を下げる。

 そして身を翻すと次元の穴へと移動した。四年前にたった一人、あてもなくたどった人間界への道。その道をもう一度行くために。


迦具耶(かぐや)さま。このたびはたいへんお世話になりました。ありがとうございます。」

 玲は韻律(おと)の弾く琵琶の調べが流れる船の上で、迦具耶(かぐや)に礼を言って酒を注いだ。

 迦具耶(かぐや)は非常な上機嫌で、うん、とうなずく。

「ところで‥。立ち去る時に‥もしや、何かなさいましたか?」

「ほう‥。なぜそう思う?」

「いえ‥。何となく、です。」

 くく、と迦具耶(かぐや)は含み笑いをした。

「‥‥あの場所は霊気の流れがせき止められて淀んでおったゆえ、流れるように風通しを良くしてやっただけじゃ。」

 韻律(おと)が苦笑する。

「また‥迦具耶(かぐや)どのは‥。願いをかなえる範疇から、やや逸脱しておりまするよ。」

「そうでしょうかの? この者の真の願いは、黒い鬼人を人間界へ戻したいというもの。そうであろ?」

「はあ、まあ‥。そうですけど‥。鬼人界に留まる選択は、黒鬼が自分でしたのだろうから難しいと仰ったのは迦具耶(かぐや)さまですよ。」

「そうであったな。なれど‥鬼人界の霊山は霊気が淀んで、黒鬼だけでなくあの場の鬼人すべての判断を歪めておったのじゃ。それでは公平とは言えなかろう?」

 歪んでいる―――茉莉花もそう言っていた、と玲は思い当たった。

「では、黒鬼の記憶を薄れさせて留めていたのは‥あの宮殿ですか? 白鬼ではなく?」

「宮殿のあるあの白い山じゃ。もともとは鬼人界じゅうの霊気を強く集めて、浄化して下界へ戻す役割を担っておったようじゃが‥。恐らくは長年の白鬼たちの愛着が、霊山を閉鎖した場所へ変えてしまったのだろうの‥。霊山は意志を持ち、時代の変化を拒み、霊山だけが清浄であり続けることを望むようになったのじゃ。」

 空になった杯に、玲は再び並々と注いだ。ご機嫌な声で迦具耶(かぐや)は話を続ける。

「下界へ環流すべき霊気の流れを留めてしまったゆえ、下界では霊気が薄れ、結果として霊山を支える白鬼が生まれなくなった。更に白鬼が減ったせいでますます霊山は強い力が必要になり、求め、霊気を溜めこむ。悪循環はここ二百年ほど続いていたようじゃ。白鬼たちが霊山の外へ出るのさえ阻害する意志が強く感じられたゆえ‥。あれがあとほんの十年も続けば、霊山は鬼人界とは別の世界になってしまったであろうの。」

 そういうことか、と玲は納得した。

 黒鬼は霊山で育ったわけではないそうだし、鬼人としてはほんの子どもだったから、まっすぐ影響を受けてしまったのだろう。

 白炎は初めから黒鬼が鬼人界へ行けば自分を失うと知っていたんだ、と唇を噛む。

「白炎とやら‥。あれは面白い鬼人じゃの。」

 玲はひそかに溜息をついた。

 神さまのレベルなら面白いですむかもしれないが、一介の人間から見ればやっかい極まりない。嘘をつかず幻術も使わず、人を惑わせる術を知っている。

「ほんに興味深い‥。あれほど濃密な霊山の霊気に惑わされぬうえ、反発を覚えるとは。鬼人にしては霊力より自我に従う心が強いようですの‥。まるで人間のよう。」

韻律(おと)どのはたいそうな気に入られようじゃの‥。ところで‥あれはまた人間界へ舞い戻ったのであろうか?」

「あ‥はい。そうなんです。ですから、ぼくも早く戻らないと‥。」

「慌てる必要はない。人の世は大きく乱れる気配じゃ。おさまるのは当分先になろう。そなたが慌てたところで大して変わりはせぬ。‥‥どうじゃ? 落ち着くまで我のもとにおる気はないか?」

 薄絹から透かしてくる視線は、きらきらと月光のように輝いて妖艶な力がこもっている。

 黙って畏まっていると、くく、と忍び笑いが聞こえた。からかってみただけらしい。

「困惑する顔も美しいの。‥‥先ほどの娘。あれが『懐古堂』の二代目か。先代によう似た面差しの凛々しい娘であったが‥。あの娘に惚れておるのか?」

「‥‥できる限り長く、ともに生きたいと‥。そういう約束をしました。」

 迦具耶(かぐや)は高らかに笑った。

「賢しい答よの‥。では邪魔をするのはやめよう。今日はそなたのおかげで存分に楽しんだゆえ。のう、韻律(おと)どの?」

「ほんに‥。久しぶりに胸の躍る想いを味わいました‥。」

 韻律(おと)はおっとりと微笑みながら、玲が返した白炎の霊力珠を手に持って撫でている。

 あの珠を持っていたおかげで玲は無事だったわけだが、逆に白炎を回復させてしまった。

 更に気になるのは、たくさんたいへんなことがあったと言う茉莉花の言葉だ。神域にいた二泊三日の間に、下界ではいったい何が展開しているのだろう?

 耳に韻律(おと)のつま弾く柔らかな琵琶の音が流れこんできた。

 川の水が雲海とも霞ともつかない流れに変わっていき、前方にぼんやりと迦具耶(かぐや)の神殿が現れた。船旅はやっと終わるらしい。

 迎えの小舟が静かにやってくる。玄兎の黒い耳が後ろになびいてやけに長く見える。

「あれ‥。玄兎は‥かなり怒っているようじゃの‥。」

 迦具耶(かぐや)の苦り切った声に、韻律(おと)のほがらかな笑い声が重なった。

「存分に楽しんだのでございましょう? 玄兎にも十分叱られておやりなさいまし。」

韻律(おと)どの‥。あれの叱言はくどいのじゃ‥。玲、そなたも一緒に怒られていけ。」

 ぎょっとして振り返りかけた時、迦具耶(かぐや)はだめじゃな、とつぶやいた。

「玄兎の横で泣いているのは‥そなたの守護精霊のようじゃ。あの様子ではいつから泣いているものやら‥。心がすっかり痩せてしまっておる。不憫で、これ以上そなたを引き留める気にはなれぬな。」

 霞の向こうから微かに、ご主人さまぁ、と桜の泣き声が聞こえてくる。

 ―――桜はほんと、いつも確実に俺を護ってくれるな。

 安堵の吐息をこっそりついて、待ちきれずに飛んできた桜を玲はしっかりと抱きしめた。

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