第七章
十五年前の事件について椎名と要と三人で調べていた早穂は、ある分家の日誌に気になる記述を発見した。
「ね。これって‥茉莉花さんが言ってた事件と同じじゃない? 被害者が十一人、犯人は十七才の少年。木刀での撲殺殴打事件。」
椎名がのぞきこんだ。
「そうですね、これですが‥。何でしょうか? 妖狐‥あるいは妖犬の所業の可能性、とありますね。」
隣から一緒にのぞきこんだ要が、妖犬とつぶやいた。
「妖犬って犬の物の怪化したものですか‥? 使役獣とは違うんですよね?」
「同じだよ。だが使役獣には主人がいるが妖犬にはいない。初め妖犬であとで使役獣になったモノもいれば、使役獣だったのに主人を何らかの事情で失って妖犬になってしまったモノもいる。」
なるほど、と要は微かに眉根をくもらせた。
「これを書いた人は‥誰なのかな? 本家に呼んで話を訊いたらどう?」
早穂はページをめくり、サインを探した。
「えっと‥。これが署名よね‥葛城雅彦だって。」
椎名の眉間に深い皺が寄った。
「確か‥葛城雅彦って葛城家の執事よね? 警察で事情聴取中なんだっけ。じゃ、要くん、お兄さんに連絡してみてよ。十五年前の事件の話も併せて調べてもらえばいいんじゃないかな。‥椎名はどう思う?」
「そうですね。事件の詳細は警察のほうが手に入れられやすいでしょうし‥。わたしが直接出向いて説明してきます。早穂さまは『懐古堂』さんに一応ご連絡を。」
うん、と早穂はうなずいて腰を上げ、伸びをした。
「あのさ‥。咲乃が昨夜遅く虚空に襲撃されたって知ってた、椎名? で、今は『懐古堂』さんに保護されてるんだけど‥目を覚まさないんだって。」
「咲乃さまがですか? 知りませんでした。ひどいお怪我でもなすったのでしょうか。」
早穂はちょっとためらったものの、首を振って話を続けた。
「そうじゃないの‥。自分の霊力で自分の体を消滅させようとしたのを、白炎が無理矢理止めたらしいの。それで結界を張って閉じこもっちゃって、茉莉花さんの声にさえ反応しないんだって‥。」
「霊力で‥体を消滅させようとした‥?」
椎名と要は同時に声を出し、早穂を振り返った。
早穂はうなだれて、そう、と答えた。つい涙がこみあげてくる。
「迷惑ばっかりかけるからって‥。ただの幽霊になって黒鬼を待ちたかったみたい。」
「そんな‥‥」
「あたし、ついでにちょっとお見舞いに行ってくる。要くんはどうする?」
要は咲乃に同情してか、今にも泣きそうな表情をしていた。
「あ‥。俺は‥午後一で煕さまに呼ばれているので‥。」
「そう‥。じゃ、瑞穂が落ちこんでいるから、時間があったら慰めてあげてね。」
「え? 俺がですか‥?」
「うん。瑞穂、いつも気を張って強がってばかりいるけど、要くんや紅蓮といる時は肩の力が抜けてるみたいだから。よろしくね。」
「あの‥。それって俺が‥精霊たちと同レベルって意味ですか、早穂お嬢さま‥?」
「まあ‥そうとも言えるかも。でもいい意味だよ。」
椎名は珍しく微笑み、黙って要の肩を励ますように叩いた。
「とにかく‥。葛城雅彦にできれば直接話を聞いてきます。十五年前にいったい何があったのか。それが解れば虚空が何者で、何の目的で動いているのかつかめるという感じがするんです。」
うん、と早穂は強くうなずいた。
早穂が『懐古堂』の前まで来た時、入れ違いで鳥島と桂崎刑事となぜか吉見達也が出てくるところだった。
「あれ‥吉見さん? どうしたの、会社は?」
「今日は日曜日だよ、早穂ちゃん。‥鳥島さんから咲乃さんがたいへんな目に遭ったって聞いたから、お見舞いに来たんだ。」
「咲乃の‥お見舞い?」
なんで達也がわざわざ来るんだろう、とちょっと不愉快な気分になったが、そのあとで心配そうに続けた達也の言葉に驚いた。
「ぼくが入っちゃってた鼠さんは咲乃さんのお母さんに仕えてたとかで、ずっと咲乃さんを助けるために行動してたから‥。何となく他人の感じがしなくて。」
「そうなんだ‥? 知らなかった。」
鳥島は心なしかやけに暗い顔をしていた。
咲乃の親代わりとしては当然彼女の身が心配なのだろうが、それ以上に咲乃が黒鬼への想いを貫くために魂だけになろうとした事実が辛いようだった。早穂は知らなかったが、咲乃の行動は鳥島には幽霊になってさまよっていた亜沙美を彷彿させるものだったからだ。
「ところで早穂さんは、『懐古堂』さんに‥?」
「ええ。咲乃のお見舞いとちょっとした報告に。」
桂崎刑事が鳥島の背後から、顔を出して先日はどうも、と人懐こく微笑んだ。
「でも『懐古堂』さんは急いで出かけるみたいだったわよ? ねえ?」
「ああ‥。振袖を着ていたところを見ると人間じゃないヒトに逢うんだろう。個人的な用事だと言っていたけど‥。もう出かけたんじゃないかな?」
鳥島の言葉に早穂は驚いた。
「どこへ行ったのかな? 正装で行くなら相手はかなりの妖力を持っている物の怪だろうけど、茉莉花さんが個人的な用事で動くなんてまずないのに。咲乃は‥?」
「白崎さんが留守番みたいよ。」
「‥‥咲乃のことで若さまにでも相談に行ったのかな? 黒鬼を連れ戻す策はないか、とかって‥。」
早穂は眉間に皺を寄せた。鳥島が不安げに顔を上げる。
「まさか、それはないだろう。堂上の留守に個人的に若さまを訪ねるなんて‥いくら咲乃さんのためでも、それなら達磨さんが止めるよ。白崎さんも縞猫も‥。」
「ちょっとごめんなさい。若さまって‥誰?」
真実が鳥島に訊ねた。
鳥島はざくっと夜鴉一族と若頭領について説明し、若さまは茉莉花に求婚中なのだと付け加えた。
「ああ‥! 青山が言ってたっていう夜鴉一族って‥そういうモノなのね。‥ほんとうに人間界の裏社会にまで顔が利くの?」
「ほんとうだよ。信じるかどうかは桂崎さん次第だけど、人の姿を取って入りこんでいる夜鴉は想像以上に多い。おかげで若さまのところには裏社会の巨万の富が集まってくる仕組みだ。青山が狙っていたのはその利権だろうが‥。人間なんかに取って代われる立場じゃない。俺は実際に目の前で若さまと鬼人の闘いを見たからね、次元が違うよ。ま、人間で若さまの不興を買って生きのびているのは堂上くらいだろうね。」
「‥‥『懐古堂』さんをめぐって? 美女はたいへんね。」
真実はくすくす笑った。
「大丈夫。堂上さんには月夜見の神さまがついているんだから。若さまだって手が出せないわ。」
早穂が付け加えると、真実の瞳は更にきらきらと輝き始めた。
「神さま? 神さまもいるの。すごく興味深いわ。‥‥ね、これからあたし八王子署に行くんだけど、よかったら早穂さん、一緒に八王子へ行かない? 警察署の中って見たことないでしょ? 見せてあげる。だからもっと詳しく教えてくれない?」
「八王子署? あ、それで思いだした。椎名が葛城雅彦の事情聴取に立ち会いたいと言ってるんです。」
「じゃちょうどいいわ。葛城は八王子署に引っぱってもらってあるの。椎名さんに連絡して合流すればいいじゃない?」
「ほんとに入ってもいいんですか?」
早穂は真実の誘いに、持ち前の好奇心がうずうずしてきた。
茉莉花に伝える内容はまだ大したことはないからメールですむし、咲乃は眠っているままだというし。ならば椎名と合流するのもいいかもしれない。
「桂崎さん。未成年の子を殺人事件なんかにまきこむのはどうかと‥。」
鳥島の抗議を真実は一蹴した。
「何言ってんの。四宮の姫に年齢は関係ないって言ったのは誰? ‥葛城雅彦を落とすには早穂さんの協力があったほうがスムーズだと思うのよね。瑞穂さんに直々に動いてもらうのは気がひけるし‥。ここで会ったのも何かの縁じゃない?」
「はい。行ってもいいならあたし、行きます。」
真実はにこにこっと微笑んだ。
「心配なら鳥島さんも来れば? 磯貝くんは利き腕を怪我してるし、万が一普通じゃない事態が起きた場合、対応できる人が多いほうが何かと助かるんだけどな。」
早穂は達也の腕をつかんで、吉見さんも行こう、と誘った。
「早穂ちゃん‥。社会科見学じゃないんだから‥。ぼくまで行けるわけないだろう。遠慮するよ。」
「あら、構わないわよ。どうせ今日は日曜だから、人は少ないもの。早穂さんの保護者ってことでどう? ‥時間があったらあなたの体験もぜひ聞かせてほしいと思ってたの。」
「た‥体験ですか‥?」
「そう。貴重な体験、してるでしょ?」
鳥島が大きな吐息をついた。
「仕方ない‥。俺も行く。所轄の刑事に嫌な顔されても知らないよ?」
「みんなで渡れば怖くないわよ。」
真実は再び人懐こい笑みを浮かべた。
彼女の運転する車に乗りこみ、助手席で早穂は十五年前の事件について説明した。
「十五年前の事件ねえ‥。すごいニュースになったから知ってるけど、当時はわたしもまだあなたくらいの年齢だったしね。鳥島さんは? もう刑事だったの?」
鳥島はやや憮然としてまだだと答えた。
「俺だってまだ高校生だったよ。犯人が同年代だったから、ニュースはよく憶えているけどね。」
「あら? 鳥島さんてまだ三十前半だったの? ごめん、もう四十くらいかと‥。」
明らかにからかっている調子の真実の言葉に、達也が思わず忍び笑いをこぼした。慌てて鳥島にすみません、なんて謝っている。早穂は遠慮なく声を立てて笑う。
「どうせ俺は老け顔だよ。」
鳥島はちょっとふてくされたふうだったが、つられて微笑した。さっきまでの暗い表情はやや薄まったようだ。
バックミラーでその微笑を確認して、真実は微かに目元を緩ませた。
―――桂崎さんて‥案外と細やかな人なんだな。
早穂は運転席の横顔をあらためて見上げ、自分も微笑んだ。
昼餉のあとで磯貝要は四宮煕の居所に当てられた東庭の離れに向かった。
その途中で、犬小屋の前にたたずんでいる葛城貴子を見つけた。
貴子は見るからに憔悴した様子で、寂しそうな顔でメリーのつややかな白い毛を撫でていた。
帰宅して父親の遺骸―――というより残骸、といった状態だったそうだが、そんな怖ろしいものを見つけてしまったなんて、要には貴子の心情は想像さえできない。
彼女自身も狙われていて、警察に保護されるより本家のほうが安全だからと連れてこられたと聞いた。だが使用されているのが憑依の術だけに、貴子は親しい知人や友人にさえ連絡できずにいる。万一利用され、まきこまれてはいけないからだ。
寂しくて心細くてたまらないだろうな、と同情した。
リッキーが要に気づいて、遊んで、と言いながら走り寄ってきた。むろん貴子にはキャンキャン吠えている声にしか聞こえていないだろうが、貴子は要に気づいてメリーを撫でるのを止め、会釈して立ち去ろうとした。
「あ‥。葛城さん。あの‥。」
貴子はびくんと振り向いた。メリーはその手をぺろりと舐める。どうやら彼は貴子が気に入ったらしい。
「あの‥。よかったら、犬たちと一緒に庭を散歩しませんか? 俺はこれから東の庭に行くんですけど、そっちには池もあるし‥。気分転換にどうでしょう?」
貴子は迷っているようだったが、メリーが服をくわえて一生懸命に引っぱるので、やがておずおずとうなずいた。
並んで歩きながら、まだ名前を名のっていないことに気づいて、慌てて名のった。すると貴子は微かに口もとを綻ばせて、知っていますと答えた。
「昨日、瑞穂さんが教えてくれたんです‥。犬小屋を見せてくれた時に、ちょうどあちらを通りかかったので‥。磯貝刑事さんの弟さんなんですってね。」
「あ‥。はい。」
「お兄さんには‥とてもお世話になりました。」
貴子は丁寧な口調で礼を口にした。年齢のわりに、大人びた人だなあと感心する。
何とか気を紛らわせてあげたくて、なるべく事件に触れない話題を探して話しかけた。
努力の甲斐あって、東の離れに着くまでには、高校の担任教師の紹介で建築事務所に勤めているとか、夢は一級建築士になって自分の家を建てることで、そうしたらメリーのような白い犬を飼いたいと思っている、とかいろいろと話を聞いた。
打ち解けてくると貴子は、誠について訊ねてきた。
とても優しい人ですね、と言われても要にはぴんとこない。四つ離れているし、そもそも兄たちとはあまり親しく過ごした記憶はなかった。
「すみません‥。俺には四人兄がいるんですけど‥どうも全員に頭が上がらなくて。優しかったですか、誠兄さんが?」
「はい‥。その前に事情を聞かれた時の警察の方たちがすごく怖い感じがしたもので‥。磯貝刑事さんはすごく普通の方だったので、ほっとしました。ご自分も怪我をなさっているのに、こちらへ来る間もすごく気遣ってくださって‥。」
「それはよかったです。」
自分でもひどく間抜けに聞こえる言葉しか返せない。
ちょうど東庭にある宵闇の池の前に出た。池は鏡のようにきらきらと輝いていた。
「わ‥。きれいですねえ‥。すごい、鏡みたい‥。」
「きれいでしょう? この池は精霊がいるので特別なんです。」
「‥精霊ですか?」
貴子は訝しげな視線を返した。
その手を、メリーがそうですよ、と言いながら、またぺろりと舐めた。
煕は離れの縁側で、両脇に宵闇と暁闇の姉妹を侍らせていた。
要が挨拶をすると、要の後ろから貴子が律儀で丁寧な挨拶をした。何となく偉い人なのだと感じたらしい。むろん彼女には両脇にべったり貼りついている美女たちは見えていない。
「おや‥。要も隅に置けないね。こんな可愛い娘をさっそく口説いているのか? 当主どのに叱られても知らぬぞ。」
「煕さま‥。違いますよ。庭を案内していただけです。」
煕さまじゃあるまいし、と喉まで出かかったが、不敬なので思い留まった。
「白菊に煕さまが呼んでおいでだと聞いたのでまいりましたが。何か不都合でもございますか?」
煕はまあお座り、と広縁を指した。貴子にもにこっと美しい微笑を向ける。
貴子は少し気後れした感じで、やや離れた場所に腰を下ろした。メリーが貴子の足下に寝そべって、まるで守護者みたいにきっちりとついている。
日はちょうど真南にあった。真夏の日ざしが容赦なく降りそそいでいるのに、本家敷地内は涼風が吹き渡っている。おかげでこうして縁側でたたずんでいても、それほど汗ばむことはなかった。新参者の要は知らなかったが、結界の恩恵なのだそうだ。
煕は月光を思わせる美しい微笑をたたえて、要を振り返った。
「そなたを呼んだは他でもない。四宮の外でここ三日ほど、二つの大きな四宮の力がひどく揺れ動いている。あれは‥どうしたことだろう?」
「二つの四宮の力、ですか‥。」
大きなというからには思い当たるのは、茉莉花と咲乃の力だけだ。
要は今朝聞いたばかりの咲乃の現状を説明した。
「霊力で‥体を消滅させようとした?」
煕の眉間に深い皺が刻まれた。
「はい。そう聞きました。俺にはどういうことか、さっぱり解らないのですけど‥。」
「そんな技は‥いや、それほどの想いは‥常態では考えられぬ。不可能な技だ。」
煕は悲しそうに溜息をついた。
「正統な四宮の力の継承者であるのに‥。受容の幅が大きすぎるから、魂が四宮の在り方となじまぬのであろうな。哀れな‥。」
「四宮の在り方となじまないって‥。どういう意味でしょうか?」
「四宮は物の怪の世界が人の世に深く入りまじるのを是としない。それが基本だ。人が人として生きるために、闇の世の影響をできうる限り排除する。そのためにのみ遣う力なのだ。五百年前に燁子がそう定めたゆえ、四宮の霊力はその運命に則って働き、血脈に継承を繰り返してきた。であるはずなのだが‥。」
煕は力なく首を振った。
「わたしが目覚めたのは‥単に結界を手助けするためではなさそうだ。四宮の力が世の変遷を感じて変化を望んでおるのやもしれぬ。」
要にはあいにくと半分も理解できない話だ。
「咲乃さまは‥本家に戻されるのを拒否なさったのだそうです。どうしても黒い鬼人を待ちたいのだと。だから‥狙われるような弱い身体を消してしまおうとしたのだそうで‥。」
「本家に戻すという話があったのか‥?」
「瑞穂さまから聞いていないので解りませんが、一部ではそんな話が出ていたようです。咲乃さまの霊力を闇の能力者に利用されたなら、たいへんな脅威になると‥。」
二人の話を貴子は身を乗りだして真剣に聞いていた。
何か問いたげな視線にぶつかって、要はどうしたの、と訊ねた。
「あ‥いえ‥。お話の邪魔をするつもりじゃなくて‥。そのう‥三橋さんが、咲乃さまって方があたしの‥従姉にあたるとかって言っていたので‥。」
「あ、そうらしいです。何でも咲乃さまはお父さんが誰かずっと秘密だったらしいんですけど、昨年になって葛城真生という方だと判明したとか。葛城さんの叔父さんにあたる方ですよね?」
「はあ‥。じゃあ、叔父も自分に娘さんがいるとは知らなかったんでしょうか‥? 叔父とはそれほど頻繁に会っていたわけではないんですけど‥たまに会うととても優しくしてくれたので‥。自分には家族はないからと母やわたしにいつもお土産をくれました。」
貴子はうつむいた。
「叔父も‥もう亡くなったんですよね‥。知っていたらきっと会いたかったと思うんですけど‥。それもその、咲乃さまの力のせいで許されなかったんですか?」
「‥すみません。俺には詳しい事情はちょっと‥。たぶんお嬢さま方くらいしか、知らないと思うんです。」
そうですか、と貴子は寂しげな顔で微かに頬笑んだ。要があからさまに困った顔をしているので、気遣ってくれたらしい。
貴子はお邪魔してすみませんでした、と煕のほうへも頭を下げた。
煕は鷹揚な笑みを返す。
「それで‥。もう一つの力は何ゆえ激しく揺れ動いておるのか知っているか?」
「揺れ動いているんですか‥? 物静かな人なんですけど‥。」
首をひねった要に、煕はくく、と笑った。
「要。修業が足りぬなあ‥。今朝方から特にひどく揺れ動いているよ。咲乃とやらが陽ならばこちらは陰の気だ。ちょうど対をなすようによく似ている。これほどの大きな気が二つ、定まらずに揺れているのだよ? 常人でも今朝から不穏な空気を感じ取っていてしかるべきであるのに、仕方のない男だの。」
くふふふ、と暁闇が吹きだした横で、宵闇は真面目な顔で要の弁護をした。
「煕さま。ご主人さまは感じ取っておいでなのですが、乱されないお心をお持ちなのです。泰然自若と申しましょうか。器の大きなお方です。」
「泰然自若、ねえ‥。そうとも言えるかな?」
要は赤面した。暢気者だと精霊にまで言われているようだ。いやたぶんとっくに言われているのだろうが。
しかし宵闇は大まじめで言う。
「はい。それくらい器が大きくなければ、一の姫さまのお婿にはなれませぬ。」
「そうか。なるほど、それは道理だ。宵闇の申すとおりかもしれぬな。」
要はますます赤面した。
「宵闇‥。それは先代の精霊遣いの人だろう? 俺は全然違うの。」
貴子は不思議そうにあたりを見回しながら、軽く微笑んでいる。
「磯貝さんは‥瑞穂さまの婚約者なんですか‥?」
「ち‥違うんです、全然違うから‥‥て、葛城さん、聞こえるんですか?」
「何だか音楽みたいな優しい声が‥。お部屋の中からですか?」
煕が微笑んだ。
「わたしの両脇に二人、いるんだよ。この屋敷裡でも要にしか見えぬ精霊がね。ちなみにわたしも人とは言えぬのだが‥。怖いか?」
貴子は心底びっくりした顔で煕をまじまじと見つめ、嘘ですよね、と訊ねた。
「ほんとうだ。」
煕は雨上がりに雲間から覗いた月のように、艶やかな微笑を浮かべた。
貴子は何と答えていいか解らない様子で、はあ、と吐息をついた。
貴子を宿坊へ送っていってから、犬たちを犬小屋へと戻した。
―――お腹が空いた。
「リッキー‥。昼は食べただろう? まだだめだよ。」
水入れの温い水を空けて冷たい水をなみなみと注いでやると、リッキーはごくごくと音を立てて飲んでいる。
傍らに腹ばいになっていたメリーの耳がぴくん、と動いた。
―――お嬢さまが‥呼んでるわ。ワタシ行ってくる。
メリーはすっと姿を消した。立派な使役犬になったな、とつい眼を細め、感心した。
足下にまつわりつくリッキーのそばに屈みこんで、片手だけで毛を梳いてやる。これだけは片手でもだいぶ手慣れた。犬たちがさりげなく協力してくれるからだろう。
ブラシの毛を始末しているところへ、メリーと瑞穂が本屋敷から出てきた。要は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「いいから、続けて。」
そう言って瑞穂はリッキーの傍らに腰を下ろし、きりりとした面差しを少し緩めて犬を撫でた。何だか悄然として元気がないように見えた。
―――時間があったら慰めてあげて。
今朝の早穂の言葉を思い出す。
瑞穂は咲乃を案じているのに本家当主の立場上、表立って動けないので落ちこんでいるのだ。だが何と言えば慰めになるのか要には解らない。
「要くん。煕さまに呼ばれたってメリーに聞いたけど‥。咲乃のことだった?」
「あ‥はい。」
「そう。煕さまは‥咲乃のことを何と仰ってたかな‥?」
要は煕の言葉を全部、ひと言ももらさないよう気をつけて瑞穂に話した。
瑞穂は黙って聞いていたが、聞き終えると深い吐息をついた。
「‥‥煕さまは『技』を『想い』と言い換えたのね。そういうことか‥。」
要の頭上にはてなマークが飛びかう。
「あの‥お嬢さま‥? それってどういう意味か、お訊ねしても‥?」
瑞穂は苦笑して、説明してくれた。
「ふふ。普通はね、自分の霊力を自分を滅するためには使えないの。特に四宮の女の霊力はね、自分のものであって自分だけのものではないから。だから不可能だと言う意味。そこまではいい?」
「まあ、何となく。」
煕の言葉を重ね合わせれば、四宮の力は四宮本家の運命からの授かり物だという感覚だろうか。必然があって授かった力だから、自分の感情のままだけには遣えない。
「なのに咲乃は‥自分の体を消滅させるのに使おうとした。霊力の流れに真っ向から逆らう行為だから、技では理論上不可能なの。それを強烈な『想い』一つで可能にした。そういうこと。」
「そんなに‥好きなんですかね? その‥鬼人のことが。」
「それだけじゃないみたい。茉莉花さんの話じゃ、眠っている咲乃は全身で‥周囲の人すべてに感謝を捧げているようなんですって‥。誰も傷ついて欲しくないって想いがにじみ出ているって。」
瑞穂の頬にこみあげた涙がぽろり、とこぼれ落ちた。そのままただうなだれる。
「あたし‥咲乃に関してだけは、お祖母さまとお父さまを許せない。本家の外へ出なければならない種類の力だったとしても、どうして何一つ教えずに出したのか‥。黒鬼はどうして咲乃を置き去りにして帰ってこないのか、それも理解できないし許せない。なのに咲乃は誰のことも恨んでなくて、自分を消そうとしたの。あたしたち本家のため、これ以上茉莉花さんに迷惑をかけないため‥自分を護って傷ついた人のため。そんなのっておかしいよね、要くん? どうして咲乃だけが犠牲にならなきゃならないの?」
「お嬢さま‥‥。」
「去年の夏‥。あたしが途方に暮れていた時、咲乃は親身になってすごく心配してくれて‥。紅蓮を遣えるようになったのも、咲乃が茉莉花さんとの間に入ってくれて、黒鬼にも頼んでくれたおかげなのよ。なのにあたしは‥。居場所さえも確保してあげられない。」
うなだれた白い頸筋が痛々しかった。
―――お嬢さまは誰よりも何よりも、頑張っておられるのにな‥。
要は隣からのぞきこんで、一生懸命に言った。
「悪いほうにばかり考えちゃだめです、お嬢さま。咲乃さまは‥そういうお方だから周囲の人みんなに護られるんでしょう? 咲乃さまが周囲を想うのと同じくらい、まわりの方々も咲乃さまを助けたいと想うんです。結果的に消滅は阻止されて、今は何とか眠った状態でご無事だということは、四宮の霊力はちゃんと正しく作用しているんじゃないでしょうか‥。お嬢さまの想いもその中でちゃんと作用しているんですよ。‥‥たぶん。」
瑞穂は涙でぐっしょり濡れた顔を上げた。
「そうなのかしら‥?」
「そうですよ。何もできないなんて思っちゃだめです。過去のことで誰かを責めるのもらしくないです。それよりこれからどうするかを考えるほうが、お嬢さまらしいですよ。」
要は片手だけのぎこちないしぐさで、何とか作務衣の懐から犬の毛にまみれていない手拭いを引っぱり出すと、瑞穂の頬を不器用に拭った。
瑞穂は泣き笑いの顔で手拭いを受け取り、自分で拭いた。そしてきれいにたたみ直し、要の右手に押しこんだ。
「ありがと‥。いつもいつも、泣き顔見せてごめんね。今回もさっさと忘れてね。」
はにかんだ笑みを浮かべ、瑞穂は要の右手をきゅっと一瞬強く握った。
思わず胸がどきんとする。さっきの宵闇の勘違いのせいだ、と思い至ると気恥ずかしくなって目を逸らした。
「はい。さっさと忘れます。」
瑞穂はすっと立ち上がると、メリーとリッキーの頭をひと撫でして軽やかに本屋敷に戻っていった。
後ろ姿を見送って、握っていたままの手拭いを懐にしまう。思わず頬に微笑が上った。