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第六章

 夜鴉の闇がたちこめる館の自室で、若頭領は鷺娘の(こう)に酌をさせて酒を飲んでいた。

 紅は梅雨が明けた頃に婚姻期に入り、瞳が石榴(ざくろ)石のように紅く変わった。それで姉の(すい)の嫁ぎ先である荒川上流のコロニーから、一人で東京へ出てきて、若頭領のもとへと身を寄せている。

 初めての婚姻期は若さまと過ごすのだと思い詰めて出てきた、と聞いて若頭領は可愛い奴だと正式な側妾に召し上げた。婚姻期は三日ほど続いたが、もとより若頭領の妖力は甚大なので鷺娘に囚われるどころか影響さえ微塵も受けない。紅は無事に婚姻期を終え、今はもとの黒々とした瞳に戻っていた。

「何を‥お考えですの? 少しばかり険しいお顔です。」

 若頭領は微笑んで、(さかづき)を出した。

 紅は袂を絡めた手で提子(ひさげ)を抱え、楚々として酌をする。

「おまえみたいな童女(こども)にはまだ解らねェ話だよ。」

童女(こども)だなどと‥。わたしはもう大人になりました。」

 口をとがらせる紅の頬をかぎ爪のついた指でそわりと撫で、若頭領は妖艶な笑みを浮かべた。紅はうっとりと見つめている。

「おまえはそのままでいいのさ‥。よけいな智恵は要らねェ。考えごとは男連中に任せておきなよ。」

 はい、と紅は素直にうなずく。

 可愛い女だと若頭領は相好(そうごう)を崩した。

 ―――『懐古堂』も(ねや)の中ではこんなふうに可愛くなるだろうに‥。

 生真面目なだけに、いったん男を知ればよそ見もせず一途につくすのだろう。

 それがあの男かと思うと全く面白くない。他の誰でも、あいつにだけは渡したくなかったが―――どうやら流れは定まってきたようだ。若頭領は苦笑いして、杯を飲みほした。

「まあ‥。今度は優しいお顔‥。どなたかのことを想っていらっしゃる‥。ひどい若さま、わたしがこれほど想っておりますのに‥。」

「紅。悋気(りんき)は許さねェよ。俺はおまえ一人だけの身じゃない、解ってるはずだぜ?」

「解っております‥。でも今だけは他の女性(によしよう)を想っては嫌です‥。」

 紅は濃い睫毛をふるんと(まばた)きさせて、肩にしなだれかかった。

 紅の可愛い頭の中には恋しい男の他は何もないのだろう。

 物の怪の女は多かれ少なかれそんなものだ。欲しいと思ったらどうやって手に入れるか、何とかして想いを遂げることしか頭になくなる。

 胸に抱きよせて杯を出せば、嬉しげに微笑んで酒を注ぐ。他愛もない。だがいったん裏切られたと感じれば―――物の怪の本性をむき出して豹変する。

 若頭領は十五年前の嵐の夜を思い起こした。

 女は腹に子を抱いて、死にかけていた。妖力は尽き、言葉も失うほどに傷ついて、子を護る本能のみで動いていた。

 ―――裏切られたのか。

 女は涙をいっぱいにたたえた瞳でじっとこちらを見た。灰色の瞳には裏切られた悲しみと絶望による狂気が浮かんでいた。

 哀れで見ていられなかった。

「闇に戻りなよ‥。おまえを瞞したヤツはもういない。」

 最後にその目に浮かんだのは恐怖と―――安堵。女は一瞬で闇に融けた。

 ―――後味は良くないが‥これですべて片づいた。

 翼を広げた時、背中に突きささる視線を感じた。静かな、だが激しい憎悪の念。

 振り向くと、闇の中に赤く光る二つの瞳が見えた。

 妖力差を十分知っているのだろう、じっと微動だにせず、ただ視線だけを送ってくる。女の仲間らしい。

 稲妻がきらりと光り、シルエットがくっきりと浮かんだ。赤茶色の髪、褐色の瞳。若い男のように見えた。

 ―――ふん。惚れていたならちゃんと護りやがれ。俺を恨むのはお門違いだぜ。

 若頭領は視線を無視して、翼をはためかせた。

 巨大な闇が嵐を裂いてぱっくりと口を開ける。冷ややかな一瞥だけ残して、若頭領はその場を立ち去った。嵐の中に男を置き去りにして。

姿形(なり)はあの時の若造に似ているが‥‥。どうも違う。てことは‥戻ってきたのかね?」

 独り言をつぶやくと、紅が不思議そうに顔を上げる。

 若頭領はふっと微笑んで、小さな赤い唇をついばんだ。

「紅や。当分外は出歩くんじゃねェよ‥。おまえは弱い女だからな。」

 はい、と紅は腕の中に体をすっぽりと(うず)めた。


 玲はその頃、神域での船遊びにつき合わされていた。

 人間界の隅田川の花火大会と重なる盛大な花火を観賞したあとは、深夜まで船上の管弦の(うたげ)だそうだ。

 主催は綿津見神社の韻律(おと)さまで、風流な屋形船での酒宴は山ほどのご馳走、まろやかな美酒三昧。大小様々な亀たちが忙しく立ち働いている中で、琵琶を奏でるのはまるで絵本に出てくる天女さながらの女性たちだ。

 玄兎を始めとして月夜見神社の兎たちは、水に濡れると月光の雫に戻ってしまうとかで、迦具耶(かぐや)のお供は玲だけだった。

 ご機嫌な二柱(ふたはしら)の神さまを前にして、玲は早く終わらないかと焦れったい思いでいた。

 しかし宴はなかなか終わらない。神域だけに時間の感覚が不明で、それがよけいに気の()く要因なのだが、神さま方はいつもながら人間の都合などおかまいなしだ。

 それでも玲には、つつがなく和やかに酒宴が終わってもらわねばならない理由があった。


 玲が昨日いつものように神社を訪れたちょうどその時、韻律(おと)からの船遊びの招待状を前に、供などなくてよいと言う迦具耶(かぐや)にどうしても従いていくと言い張る玄兎が押し問答の真っ最中だった。

 玄兎は玲の顔を見て、ちょうどよいところへ、とほっと頬を緩めた。

「これより迦具耶(かぐや)さまが二晩の船旅へ参られる。お供をせよ。」

「は‥‥?」

「我々は水に触れられないのだ。だがいくら韻律(おと)さまの供勢がお世話をしてくださるといっても、お一人で出すなどと外聞が悪い。決死の覚悟でわしがついていこうとしていたところなのだが‥。人間ならば水は別に怖くなかろう?」

 玲は即答で断った。

「謹んでご辞退申し上げます。人間の分際でそんな恐れ多いお役目、務まるはずもありません。粗相があっては償えませんから‥。」

 玄兎は苦り切った顔で、囁いた。

「そう申すな‥。迦具耶(かぐや)さまは韻律(おと)さまにそなたを自慢する良い機会じゃと、既にたいへんお喜びになっておる。確かに約定(やくじよう)とは違うが‥。そうじゃ、来月は格別にそなたの務めを休みにしてくださるよう、頼んでやってもよい。」

 その時ふと玲の頭にひらめいた。

 茉莉花の怒りを鎮める起死回生プランだ。うーんと悩むふりをして、思いついた考えを超特急で(さら)ってみる。よくよく考えてみて、物はためしと提案してみることにした。

「玄兎さま。でしたらぜひ、お貸しいただきたいモノがあるのですけど。」

「何だ?」

「白鬼の霊力珠をお貸しいただきたいんです。ほんの一日でいいですから、お願いできませんか?」

 なに、と玄兎は複雑な表情を浮かべた。

「何ゆえ‥。鬼人の霊力珠など借り受けたいのだ?」

「ちょっと鬼人界に用がありまして‥。人間の身では一瞬で消えちゃうと聞いたので、あれがあれば少しくらいは保つかなあ、と‥。」

「確かに‥。あれを持っておれば鬼人界の霊気から身を護るくらいはできようの‥。だがあれは‥ここにはもうないぞ。」

 玄兎は迦具耶(かぐや)が歌留多に負けて韻律(おと)に霊力珠を譲った話をした。

 玲は内心、ムカッとした。神さまたちにとっては綺麗な珠くらいのモノだろうが、人間界にとっては重大なモノだ。うっかり闇の能力者や物の怪の手に渡ったら、とんでもないことになるというのに。

「こう言っては何ですけど‥ずいぶんと情けないお話ですね。ぼくはこの一年ずっと約束を守って、誠心誠意感謝の念を捧げてきたつもりです。なのに、神域の外へあんな物騒なモノを簡単に出してしまわれるなんて‥あんまりじゃありませんか?」

 御簾の向こうで迦具耶(かぐや)が聞いているのは承知のうえでそう言った。

「ではお願いは綿津見神社のほうへしなくてはいけないわけですね? 今後は綿津見神社へ行けと、そういうお話なのでしょうか。ぼくは迦具耶(かぐや)さまに見捨てられたわけですか。」

「これ、口が過ぎようぞ‥。」

 玄兎が声を低くして、御簾の向こうを窺う。

 すると迦具耶(かぐや)の苦々しげな声が聞こえてきた。

「そう怒るな。別に神域の外へ出したわけではない。韻律(おと)どのにはよく事情をのみこんでもろうてある。決して外に出ることはないゆえ、案ずるな。」

 玲は黙ったまま(かしこ)まった。納得できないとの意思表示だ。

 迦具耶(かぐや)はやや不機嫌な様子だったが、好奇心が勝ったらしく、なぜ鬼人界へ行きたいのか理由を訊ねてきた。

「人間が鬼人界へ行きたいなどとは尋常ではない。そなたにはいついかなる時も手を貸してやると約定したゆえ、事情によっては(われ)が付き添うてやってもよいぞ? 事情を話してみるがよい。」

 玄兎がびっくりした顔で迦具耶(かぐや)さま、と叫んだ。

「ほんとうですか‥?」

「むろん、我は嘘など申さぬ。神は嘘をつく必要はないからの。ほれ、早う申せ。」

 おろおろしている玄兎を後目(しりめ)に、玲は正直に白炎が戻ってきていて黒鬼が帰ってこないことを話し、そのせいで霊力のバランスが不安定な現況を説明した。

「ふうん‥。確かにその娘は不憫じゃの。何ならば我が眷属に召し上げてやってもよいが。さすれば問題はなかろう?」

 大ありだと玲は内心どきどきした。咲乃を月夜見神社の兎にするなんて、もしもそんな羽目になったら茉莉花は今生(こんじよう)での玲との縁を切ると言い出すかもしれない。

「いえ。黒鬼さえ戻ってくれば問題はなくなるんです。」

「ふふ‥。まあそう慌てずともよい。我とても女子(おなご)を召し上げるのは好まぬ。」

 迦具耶(かぐや)は笑って、しかし、と続けた。

「黒鬼は誑かされておるらしいとそなたは言うが‥。まったく意志のない者を繋ぎとめるなどいくら白鬼たちでも無理であろうよ。意識的にか無意識にかは解らぬが、黒鬼は鬼人界に留まる選択を自らしたのだと我は思うぞ? それでもそなたは行くつもりか?」

「はい、行けるものならば‥。意識的でも無意識にでも咲乃さんを捨てる選択をしたのがほんとうなら、せめて罵りの言葉くらいぶつけてやりたいと‥。」

「‥‥面白そうじゃの。よし、船遊びにつき合うたならば韻律(おと)どのより霊力珠を借り受けてやろう。だがそれだけでは霊気から身を守れても、鬼人と喧嘩をするに十分な守護とは言えぬ。ゆえに我がこっそり付き添うていてやるゆえ、危難の折りには我を呼べ。」

「それは‥たいへん身に余るご配慮ですが‥。」

 迦具耶(かぐや)はわくわくした口調で遠慮は無用、と言い切った。

「日頃のそなたの信心に報いてやろうというのじゃ。‥ゆえに二度と綿津見神社へ鞍替えなどと考えるでないぞ。我は我を信ずる人間を見捨てたりはせぬのじゃ、よいな?」

 ありがとうございます、と頭を下げた。展開上、他に道はなかったし、追加の対価を求められたりしないだけましと言うものだ。

 玄兎が深い吐息をついたところをみると、迦具耶(かぐや)は玲に恩を着せて鬼人界へ出かけられるのが楽しみなのだろう。人間の願いを叶えるという名目でないと、神域の外へ出られないのかと思えばその境遇にちょっぴり同情もするけれど。

 ―――しかし。船遊びは明日の朝まで続くのか。咲乃さんは無事でいてくれるかな?

 そこが気になるところだ。手遅れになってしまえば元も子もない。

「我が動くと決めたからには、為るように為るのじゃ。案ずるな。」

 迦具耶(かぐや)はそう言うけれども、神さまの感覚と人間の希望とは微妙にずれていたりするからよけいに心配だ。

 玲は酔わない程度に酒を口にして、溜息をのみこんだ。


 月夜見神社の本殿では桜が気を揉みながら、玲の帰りをじっと待っていた。

 兎たちは迦具耶(かぐや)の留守をいいことにすっかりくつろいで羽を伸ばしている。

 ―――とりあえずご無事でよかったけれど‥。

 神域での船遊びでは、さすがに桜でも玲の居場所を察知できない。それでずっと昨夜から待ち続けている。

 菊花(きくか)が何度目かのお茶を出してくれた。

「ほんに一足違いで残念なことでした‥。そう畏まらずに、ごゆるりとおくつろぎくださいませ。まだ明日の明け方には間がございまする。」

「ありがとうございます。何にしても‥ご主人さまがご無事でよかった。」

 一昨日の夕方に玲の気配が切羽とともに消えた時には、てっきり夜鴉に連れ去られたと思い、不安でならなかった。茉莉花がなぜ動かないのか不思議でならなかったので、つい分を超えて昨日は(なじ)るような言葉をぶつけてしまったけれど。

 ―――姫さまの仰るとおりだった。

 桜は昨日ここへ来る前に切羽を見つけ、ご主人さまをどうしたかと詰問したのだ。

 切羽は桜の気迫にややたじろいだものの、夜通し一緒に酒を飲んだだけだと答えた。

「ご(しゆ)を‥切羽どのとご主人さまが、一緒に‥?」

 眼を丸くした桜の頭をぽんぽんと撫でて、切羽は面白くなさそうにつぶやいた。

「俺だってそんなつもりじゃなかったけど、行きがかり上つきあってやったんだよ。‥ところで守護精霊さんよ。そんなに大事な主人ならそばを離れないほうがいいぜ。おまえの主人はただいまのところ、物の怪どもの間で懸賞首になってるんだ。神の祟りを畏れない愚かなヤツらが眈々と狙ってるよ。俺は結果的に、昨夜ひと晩護ってやったんだぞ。」

 つまり気配が途絶えたのは、切羽の領域の中にいたためかと桜は納得した。

「それは‥‥たいへんお世話をおかけいたしました。申しわけございません‥。」

 しゅんとして深々と頭を下げた桜に、切羽は気まずそうにいや、と手を振った。

「あのう。ご迷惑をおかけついでと申してはなんですけれど、どうかお教えくださいまし。ご主人さまに懸賞を賭けていると言うのは‥どこの何者なのでございましょう?」

「最近、そこらじゅうで喧嘩を売ってるヤツだよ。虚空(そら)、という駆け出しの小童だ。」

虚空(そら)‥‥。なんと、まあ‥。」

 桜は面食らった。何と面妖な名前だろう、と思ったのだ。

「何ゆえ、その者がご主人さまを‥?」

「何かと邪魔だからだろう。」

 物の怪ではない桜には理解できない。桜にとって玲は大事な主人であるだけでなく、誰よりも何よりも上品(じようぼん)な存在なのだ。

虚空(そら)などと‥虚ろな名をつけられたので、ひねくれてしまったのでしょうか‥。」

「は‥? おまえ、面白い発想をするな。」

「ですが切羽どの。物の怪にしろ何にしろ、虚空(そら)とは面妖な名です。本質を持たない名など、つけられなかったのと同じではありませぬか‥。物事を正しく捉えられないのは道理かと思いまする。ご主人さまのように麗しくて素晴らしいお方をそのままに見られぬゆえ、邪魔などと思うのでございましょう?」

 切羽は桜を漆黒の瞳でじっと見つめた。

「なるほど‥。おまえの主人贔屓は抜きにしても、案外と正鵠(せいこく)を射た見方かもしれないな。物の怪も精霊も、名はその者の本質を表すものだから。‥勉強になった。じゃあな。」

 そう言葉を残して切羽はすっと闇の中へ消えた。既に気配はどこにもつかめなかった。

 もしかしたら桜が探しているのを察知して、出てきてくれたのかもしれぬと少しだけ桜は夜鴉を見直した。

 それからすぐに月夜見神社へやってきて、ずっとここにいる。

 ―――姫さまも案じておいでだろう。ご無事だと知らせたいけれど。

 だが迦具耶(かぐや)の留守に乗じて門衛まで休みを取ってしまったから、いったん神域を出たならば再び入れる保証はない。ここで明日の朝まで動かず待つしか桜には方策がなかった。

 菊花の煎れてくれたお茶をすすっていると、そこへ菓子盆を持って朧月(おぼろづき)も現れた。

 朧月は丁寧に手をついて、桜に挨拶をした。精霊として先輩なので敬意を表してくれているらしい。桜も鷹揚に会釈を返す。

 三人で楽しく雑談を交わしているうちに時が経って、そろそろ暁時(あかつきどき)という頃になった。

「だいぶ夜が白々としてまいりました。迦具耶(かぐや)さまも玲さまもまもなくお帰りになりましょう。」

 菊花が微笑んで言うのに、桜も同意してうなずく。やっとお帰りだ、と思えば嬉しくてわくわくする。考えてみれば三晩(みばん)も離れていたなど、この一年一度もなかった。

「それにしても堂上どのは、人の身ながら剛胆なものですね。鬼人界へまいられるとは‥。お側衆の方々はずっとその噂で持ちきりでしたよ。」

「き‥鬼人界‥‥?」

 朧月の言葉にあまり驚いたので、お茶を取り落としそうになった。

「ご存じなかったのですか‥。それは‥迂闊なことを申しました。お許しください。」

 朧月は困惑した表情を浮かべて、身を縮こまらせて恐縮した。

「それより‥何ゆえ、そのような次第になったのでございましょう?」

 さあ、と首をかしげた朧月の向こうにちょうど玄兎を見つけた桜は、すっとんでいって事情を訊ねた。

 玄兎は桜の剣幕にややたじたじとしながらも、玲と迦具耶(かぐや)とのやり取りを詳しく話してくれた。

 桜は真っ青になった。

「どういたしましょう‥。たった一年で‥今生でもお別れになってしまったら‥。また百四十年も待たねばならないのでしょうか‥。」

「おいおい‥。泣くな。迦具耶(かぐや)さまが付き添うと仰られておるのだ、無事に戻ってくるに決まっておるだろうが。」

 桜は涙をぽろぽろこぼしながら、いいえ、と首を振った。

「前世でもご主人さまは‥。死を覚悟なさっておられたゆえ、上野のお山に桜をお連れくださいませんでした‥。一昨日の夕方、桜についてくるなと仰ったのは‥もしや命を落とす場合も覚悟なさって‥‥。ああ‥どうすればよいのでしょう、玄兎さま‥。桜は鬼人界へご一緒できましょうか‥?」

「ううむ‥。そなたを連れていくのは無理であろうが‥。ちょっと行きたいだけだと申しておったぞ、それほどの覚悟とは見えなんだがの‥。」

「‥人の身で鬼人界など、ちょっと行く場所ではござりませぬ‥!」

「確かにまあ‥そうだが。‥とにかく、迦具耶(かぐや)さまがついておいでなのだ。問題はない、泣かずともよい。」

 玄兎はすっかり困り切って、泣いている桜を菊花に預けるとそそくさとどこかへ立ち去ってしまった。

「桜さま‥。まもなくお戻りになられますゆえ、伺うてみれば確かでございましょう。泣かないでくださいまし‥。」

 はい、と涙を拭きながら、桜は菊花の言うとおりだと思い直した。

 そこへ先触れの亀がやってきた。

「船遊びはつつがなく終えたのであろうの?」

 玄兎が問うと、亀はどれがその、と口ごもり、懐から筒に入った書状を出した。

迦具耶(かぐや)さまより玄兎さまへお渡しするよう言いつかってまいりました‥。」

「‥‥何?」

 玄兎は渋い顔で筒を受け取り、中に入っている書状を出して読んだ。

「なんと‥ではもう、直接向かわれたのか‥! 先触れもなく異界へ参られるなど、なんと‥不作法な‥! ご身分をお忘れか‥?」

「いえ、先触れは当方より送りました。そのう‥。わが(あるじ)韻律(おと)さまが迦具耶(かぐや)さまよりお話を伺い、面白そうなので我も行く、と言い出されまして‥。急遽玄亀さまをお供にご一緒なさることとなった次第です。玄亀さまがおいでならば玄兎さまも行くと仰せられるに違いないからこのまま行ってしまおうと、迦具耶(かぐや)さまが‥‥」

「何ということだ‥‥!」

 傍らで聞いていた桜は驚いて、玄兎の長い耳に飛びつき、問い質した。

「玄兎さま‥。今のお話はもしや‥ご主人さまのことではございますまいな‥?」

「残念だが‥そなたの主人、人の子の用事に月神と海神が務めを放りだして付き添うていったという前代未聞の事件だ。分身だけ送って、何ぞあればゆくという話であったに‥書状によればそのまま船を仕立てて参られるとか‥。お父上さま方のお耳に入れば何としたことであろうか‥。」

「大丈夫でござります、玄兎さま。そこまでではありませぬ。船で近くまで参りまするが、珠を持たせて人間だけ送り出し、待機しているとのお話でございました。」

 亀が同情に堪えぬという顔でとりなす。

「あの‥それでは‥。ご主人さまは‥‥」

「既に鬼人界へ着いた頃じゃ。」

 桜は卒倒しかねないほど血の気が引いて、口を一文字にぎゅっと引き結んだ。

「では‥暫時(ざんじ)お暇つかまつりまする‥!」

「まて、どこへゆくのだ? ここで待て、そなたの主人は必ず戻るはずだ。」

「ご主人さまの大事でございますゆえ‥‥姫さまに至急お伝えせねばなりませぬ。ごめんなされてくださいまし。」

 桜はぺこりと頭を下げると、玄兎の制止も待たず急いで神域を抜け出した。

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