第五章
茉莉花は店の掃除をしながら、ぼんやりと電話を待っていた。
箱根に向かった鳥島から、坂上の隠れ家が見つかったら連絡がくる約束になっていたからだ。こうしている間にも咲乃はどうしているのだろうと思えば胸が痛くなってくる。
一方で胸の痛みに拍車をかけているのは、玲から何の連絡もないことだ。昨夜は桜まで帰ってこなかった。
しみじみと溜息がこぼれる。
昨日は兄に玲のことを訊ねられても曖昧な返答しかできなかった。兄はまた怒って帰っていったけれど、嘘はつけないから仕方がない。
―――真面目なつき合いならちゃんと家族に紹介しろ。
薫は簡単に言うけれど、そんなに簡単な話ではない。まして喧嘩して先の読めない状態では、そんなことまで考えられるはずもなかった。
「茉莉花さん‥? どうかしたんですか、ぼんやりして‥?」
健吾の声がして、はっと顔を上げた。
心配そうにのぞきこむ健吾の面立ちは、いつにもまして玲に似て見えた。胸がずんと痛くなる。
「何でもないの‥。考えごとをしていただけ。健吾さんはどこかへ行っていたの?」
「はい。花穂さんから急に呼ばれて‥。茉莉花さんが鳥島さんと話していたので、黙って行っちゃいました。すみません。」
「ううん。別にいちいち断らなくてもいいんだから‥。少し早いけど、お夕飯にしましょうか。」
健吾はにこっと微笑んで、はい、と答えた。
花穂の用事とは咲乃の行方を知っているかという話だったそうだ。
それから一緒にランチして、なぜか買い物にもつき合うはめになり、送って帰ってきたと言う。
デートだったのね、と茉莉花は微笑んだ。
「それで‥咲乃さんについては、話したの?」
「はい‥。いけなかったですか?」
「いいえ。鳥島さんからも椎名さんにたまたま会ったので、伝えたとメールが入っていたし。よかったと思う。‥白炎は坂上さんを連れて箱根のほうへ行ったらしいの。」
茉莉花は警察からの情報を健吾に伝えた。
「それで、あの‥。主人はまだ帰らないんですか?」
「ええ。でも桜が一緒みたいだから、心配は要らないと思う。危険な場合は健吾さんを呼ぶだろうけれど‥。まだ神域なのかしら?」
気配がつかめないままなのは神域に入りっぱなしなのだろうかとふと考えた。
迦具耶さまに頼めばたやすく白炎を拘束できるのだろう。だがそのためにまた無茶な対価を要求されるのでは困る。桜は玲より咲乃が大切なのかと迫ったけれど、どちらも大切で比べるなんてできない。しかし桜の言葉はそのまま、茉莉花自身が自分に問いたい言葉でもある。どちらかを選ばなければいけない情況になったらどうするのだ?
茉莉花はまた溜息をついた。
わずかばかりの大切な人さえ護れないならば、茉莉花の力は何のためにあるのだろう。
「あの。茉莉花さん、俺、明日鳥島さんを手伝いに行ってきましょうか? 役立てることがあると思うし‥。」
「でもお仕事は大丈夫なの?」
「次の仕事は八月に入ってからですから‥。そうだ、打ち合わせがあるんで、遅くとも二十五日までには主人は帰ってくると思いますよ。だから元気出してください。」
健吾は心から心配そうな顔で、茉莉花を慰めた。
大丈夫、と答えたものの、茉莉花は健吾の顔を正視できなかった。
咲乃はぼんやりと今日は何日だったかと考えた。
いつからこうしてただ暮らしているのだろう。大学は卒業したのだったろうか。就職はどうしたのだろう?
見果てぬ夢を見ているような気がした。
煌夜は咲乃が望んだとおり、片時も離れず隣にいてくれる。ずっとこういう暮らしを望んでいたのではないのか。煌夜さえいれば何も要らない、すべて捨てて構わない。人であることさえも望まない、と。
やっと願いが叶ったのにどうしてこれほど空しいのだろう。雲の中を漂っているようで、はっきりとした手応えを感じられない。
咲乃は隣に寄りそっている煌夜の顔をじっと見つめた。
「咲乃‥どうした。何を見ている?」
「煌夜‥‥。あたしは‥あなたの重荷なの‥? 無理をさせているの‥?」
思い至っただけで涙がどっと溢れてきた。
煌夜は咲乃を胸に抱きよせて、髪に頬を寄せた。
「そんなことはない。おまえがいれば‥何も要らないんだ。」
咲乃は激しく首を振った。
「違う‥。違うって知ってる‥。ごめんね、ほんと。迷惑ばっかりかけて‥。」
そうだ。これは夢。全部咲乃の心の弱さが生んだ夢なのだ。
涙でぐっしょり濡れた頬を拭おうともせずに、咲乃はにっこりと頬笑んだ。
「ありがとう。でも‥もういいよ。幸せな夢をありがとう。あたしは‥あなたが幸せならあたしも幸せだから‥。だから帰っていいんだよ、あなたのいるべき世界へ。」
咲乃は腕からすり抜けて立ち上がった。
全身を銀色の光が包みこんで、まるで彗星のように激しく瞬き始める。
「咲乃‥‥? おまえ、何をするつもりだ?」
「あたしが弱いからいけないの‥。だからみんなに迷惑ばっかりかけるんだよ‥。いっそのこと霊力も命も捨てて魂だけになってしまえば、好きなだけ煌夜を想っていられる‥。」
「よせ‥! やめろ、やめるんだ‥‥!」
目の前の男は急に大きな声で叫んだ。ひどく狼狽して―――煌夜の顔がぐらぐらと揺れ動く。
―――ほら‥。やっぱり夢だったんだ‥。煌夜は黒鋼になったんだから‥帰ってくるはずはなかったの‥。バカだなあ、あたしは‥。
目の前に見えたのは、あれほど憎んだはずの白い髪の鬼人だ。父を殺し、亜沙美を死なせ、煌夜を傷つけたこの世でいちばん怖くて憎かったはずの男。
なのに咲乃は心の底から感謝の念を抱いて、もう一度頬笑んだ。
「ありがとう‥。夢を見せてくれて‥。おかげで解ったみたい、あたしの道が。」
「違う、そんな道は選ぶな。他にいくらでも道はある。」
金色の、必死な瞳が咲乃を捉える。濃厚な伽羅の薫りが漂ってきて、咲乃の魂を体にがんじがらめに縛りつけていく。
「お願い‥。邪魔しないで‥。あたしは‥もう‥夢を見たくないの‥‥。」
電気を消したみたいに、咲乃の意識はそこで途切れた。
坂上は自宅マンションのリビングでコーヒーを飲んでいた。
玄関ドアには立入禁止のテープが厳重に貼られている。まさかここに潜んでいるとは警察も思わないだろう。
結界を張ったから誰も立ち入れないと白田は言った。むろん立ち入れないのは人間だけではない。あのわけの解らない化け物もだ。
白田は夢遊病みたいな若い女と寝室にこもったきりだ。
女を見て、白田が敵は一緒かとつぶやいた意味が解った。虚空が電話で居場所を訊ねてきたのもあの女、四宮咲乃だからだ。
どうってことない小娘に見えるが、史も欲しがっていた。青山もだ。坂上には理解できないが、四宮の名がつくところに意味があるのか。現に今も虚空が欲しがり、あの白田がなぜか執着して護っている。
あの女のことは鳥島も気にかけていた。鳥島は今頃、リズの時みたいに必死に走り回って探しているのだろう。いい気味だ。
警察は絨毯を剥がし、ベッドやソファを切り裂いて、そこそこの現金や預金通帳などを発見したので満足したようだ。通気口の中の手提げ金庫も押収されていた。
最後の頼みの綱はキッチンのスイッチプレートの裏に貼りつけた小さな鍵だけだったが、うまい具合に見逃されたらしく残っていた。この鍵は船上で逮捕されたあと海にこっそり捨てた鍵のスペアで、港の倉庫に預けてあるスーツケースのキーだ。取りに行くまで最長二ヶ月は保管してくれるはずだから、明日の朝いちばんで受け取りに行き、そのまま海外へ高飛びする。中には『メルサ』を売った八千万の現金と偽名のパスポートが入っていた。
起訴されても無罪になる自信はあったものの、その前に殺されては何もならない。海外までは物の怪も追ってこないだろう。
いきなり寝室のドアが開いて、白田が険しい顔で出てきた。
「ちょっと‥出かけてくる。すぐ戻るから、念のため寝室に行ってろ。」
そう言うと問い直す間もなく、白田はすっと消えた。
寝室に行ってろったって女が寝ているんだろうに、と坂上は苦笑した。他人の情事の痕が残る部屋なんかに興味はない。
しかし外で遠く犬の吠え声が聞こえると急に不安になった。コーヒーだけ持って、寝室へと移動する。
そこで坂上が見たのは、異様に光っている女の姿だった。
―――この女も‥‥化け物なのか?
そろそろと椅子に腰掛け、部屋に鍵をかけた。
女は頬に涙の痕を滴らせ、複雑な微笑を浮かべて眠っていた。全身が金とも銀ともつかない皓々と輝く光に覆われている。
何だか泣き疲れて眠っている子どもみたいな、あどけない寝顔だ。
賭けてもいいがこの女は、自分がなぜ襲われるのかなんてさっぱり理解していないだろう。白田に瞞されているのも解らない、愚かで単純で無邪気な女。ちょうどまるで亜沙美のように。
―――亜沙美‥か‥。
坂上は知らぬ間に吐息をついていた。
―――亜沙美。亜沙美は‥‥俺が殺したんだ。死ぬと知っていて教団へ行かせた。
彼女の部屋を出た最後の朝。今度はいつ帰るの、と訊いてきたから解らないと答えた。
「メールで連絡する。」
「‥‥ほんとに? このままあたしを捨てる気なんでしょ。」
亜沙美は冗談めかしてくすくす笑った。
「どうせ他に行くとこなんかないんだから‥。何年経ってもあんたが帰ってこなくても‥あたしはずっとここで待ってる。気が向いたら帰ってきて。」
嘘だと思った。
―――俺が消えればすぐ、鳥島に逢いにいくつもりなんだろう。
そう思ったら心が決まった。亜沙美が鳥島と一緒になって幸せになるのを想像しただけでどうにも許せなかった。それくらいならいっそ死んでくれと思ったのだ。
―――どんな死に方をしたか知っているのか‥? どんな目に遭うか知ってて、教団に売ったのか。
鳥島の言葉が胸にせりあがってくる。
ふん、と坂上は自嘲気味に笑みを浮かべた。
「バカじゃないのか‥? どんな目に遭うかなんて具体的に知ってたら何もできっこない。史や白田が何をしてたかなんて知っててたまるかよ? 俺は関係ない‥。手を下したわけじゃないんだ‥。」
坂上はベッドの上の光っている女を見た。
とにかく今は―――この女のそばにいれば安全だ。白田は必ず護ってくれる。亜沙美によく似たこの女を見守っていればきっと助かる。坂上は胸に言い聞かせた。
健吾は桜も玲もいない部屋で、ノワールと布団を敷きながら軽い吐息をついた。
―――さっきの茉莉花さん‥。泣いてたみたいだったな‥。
健吾も実は今日、ずっと玲を探していた。花穂と会ったのも嘘ではないが、ほんの二時間足らずのことで、午後はずっと桜と玲の気配を探って飛び歩いていたのだった。でも二人ともぷっつりと気配を断っていて、全然つかめなかった。
完全に消えているということは恐らく、昨日からずっと神域に入ったまま出てきていないのだと思う。誰かに襲われたとか危難にあったのなら、玲の血の匂いや魂の残滓が残っているはずだが、今のところ東京じゅうどこにもそんな形跡はまったくない。
物の怪街道へも行ってみたが、玲の来た痕跡はなかった。
アンジュの事務所にはしっかり気配が残っていた。少なくとも一昨日の晩はここに泊まったんだな、と健吾はほっとした。かなり酒を飲んだようで、昨日の朝はシャワーを浴びて服を着替え、神域へ向かったらしい。浴室にも洗面所にも気配が濃厚に残っていたし、『懐古堂』を出た時に着ていた服がクロゼットにかかっていた。
そのことは茉莉花に伝えてみたけれど、茉莉花の沈んだ顔は明るくならなかった。
「ノワール‥。桜さんと主人はどこにいるんだろうな‥。早く帰ってきてくれればいいのにね。」
はい、とノワールも髭をしんなりと下げた。
その時突然、健吾の頭の中に白炎の声が響いた。
―――健吾‥。主人どのはどこだ?
健吾はあたりを見回す。しかし白炎が『懐古堂』の結界内に入れるはずはない。白崎健吾との契約の糸をたどって、直接心に話しかけているのだと気づいた。
―――今はたぶん神域だ。誰も入れないよ。
―――チッ! いないのか‥。じゃあ、鈴の女はいるか?
―――そんなことを訊いてどうするつもりなんだ? 咲乃さんはどうした?
ふん、と白炎は鼻を鳴らした。
―――鈴の女に伝えろよ。咲乃をいったん返すから、店の前に出てこいって。
―――信用できるんだろうな?
―――おまえが付き添えばいいだろ。ついでに坂上もくれてやる。
繋いできた時と同様、いきなりぷつんと糸が切れた。
健吾は慌てて階下へと下り、茉莉花の部屋をノックした。
健吾から話を聞いて、茉莉花が急いで『懐古堂』の軒行灯の前に出てみると、そこには真っ暗な穴が開いていた。伽羅の薫りが立ちこめている。白炎の次元の穴に違いなかった。
「‥‥いませんね。こちらから入っていってみましょうか?」
「危険かもしれないけど‥。行ってみましょう。」
茉莉花は鈴の音を微かに震わせながら、真っ暗な穴を進んでいった。健吾もあとに続く。
ほんの四、五メートルのところで、うずくまっている人影を見つけた。
健吾が幻術でランタンを出して近づけると、うずくまった人影は震えながら顔を上げた。坂上久志だった。息を激しくあえがせ、頭と肩から血を流している。
「坂上さん? どうしたんですか、白炎は‥?」
「白田は‥‥あっちで‥闘っている。女を護りながらだから‥苦戦しているんだ‥。」
茉莉花が頼むまでもなく、健吾がすっと消えた。援護に向かったのだろう。
「大丈夫ですか‥。ひどい怪我、いったい誰がこんなことを‥?」
茉莉花はとりあえず自分のシャツブラウスを裂いて、坂上の肩を縛りあげた。
虚空だよ、と坂上は怯えた顔で答えた。
「虚空‥‥? 人ですか、それとも獣?」
「十五くらいの‥生意気そうなガキだ‥。十数匹の犬を従えて‥いきなり入ってきた‥。白田が留守に‥するのを待っていた‥ようだった。」
肩を貸して『懐古堂』へと穴の中を戻りながら聞き出した話によれば、白炎の結界が最初はかなり防いでいたようだった。
ちょうど戻ってきた白炎が犬たちを退け、咲乃を連れて穴に飛びこんだので坂上も続いた。頭と肩に噛みつかれたが、何とか振り切ってここまで出てきたのだと言う。
「虚空とは何者なんです? あなたを狙っているの、それとも咲乃さんを?」
「俺のことは‥たぶん殺そうとしてる‥。そう言ってたから‥。四宮咲乃のことは‥何だか‥喰らうんだと言ってた‥。」
坂上は嫌悪感たっぷりに吐き捨てた。
茉莉花も思わずしかめ面になる。
「‥‥人じゃありませんね。」
軒行灯が見えた。黒達磨が心配そうに立っている。
坂上は今にも意識を失いそうだったが、必死でこらえていた。彼を黒達磨に預けると、茉莉花は穴の中に取って返し、全速力で走った。
「健吾さん‥! 咲乃さん‥!」
ざわざわと前方に血なまぐさい気配がうごめいているのが解る。背中の産毛まで逆立ちそうな、嫌な気配だ。
ぽっかりと開いた出口付近に広がる光景は、百匹近い犬妖で埋めつくされたおぞましいものだった。
健吾は結界に包まれた咲乃をかばうように胸に抱きかかえ、こちらへと向かっているものの、赤い目をした凶暴な犬たちに阻まれてなかなか進めないでいる。肩や背は犬妖の牙や爪で傷だらけだ。
その背後には仁王立ちになって犬妖の攻撃を防いでいる、ぼろぼろの白炎がいた。
そして犬妖の海の向こうで腕を組んでせせら笑っている、赤い髪の少年。
結界の光に包まれた咲乃の、頬に貼りついた大量の涙を目に留めて、茉莉花はお腹の底から凄まじい怒りが湧きあがるのを感じた。
自分の全身からありったけの霊力が噴きだしてくる。
そのすべてをこめて茉莉花は鈴を大音量でリーンと激しく鳴らした。
空間を金色の光の波紋が幾重にも幾重にも広がり続け、高波のようにうねり、犬妖どもの黒い姿を弾きとばして消し去っていく。そして波は加速して少年の胸元へと向かった。
「なんだ‥これは‥?」
少年は必死で避けながら、戸惑い顔でつぶやいた。
「ここから去りなさい! 今すぐ!」
顔を上げて目が合った少年は、茉莉花の怒りの視線にたじろいだようだった。
「『懐古堂』の姫‥。じゃ、これは浄化の‥」
言い終える時間もなく、少年はすっと姿を消した。金色の波が壁に当たって揺れ動く。茉莉花は鈴の音を少しずつ調えて、ゆっくりと場を仕切り直した。
鈴の音が止んだ時、健吾がほっと安堵した顔で茉莉花を振り向いた。
「茉莉花さん‥。助かりました。咲乃さんは無事です。」
どさっと音がして、白炎が膝から崩れ落ちた。体を覆っていた白い炎がすうっと消え、肩で息をしている。体はそこらじゅう血まみれだ。
茉莉花は近づいて、いちばん出血している脇腹に霊力を当てた。
「‥‥何のつもりだ。俺を手当てするなんて‥。」
「あなたが倒れたら、帰り道がなくなってしまうでしょ、それは困るの。それにちゃんと説明してほしいわ。咲乃さんに何をしたの? 心を閉じてしまっている。」
「ふん‥。自分で考えろよ。俺にだってわけが解らないんだから‥。自分の霊力を燃やして体と相殺しようとし始めたから、とりあえず止めてる。それだけだ。」
茉莉花はふてくされた表情の白炎をつくづくと見直した。
白炎にとって欲しいのは咲乃の霊力だけではないのか? 咲乃の行為に乗じて体だけを消し、咲乃を魂と霊力のみの存在にしてしまえば、記憶だって残るかどうかは不確かなのだから白炎にとっては非常に都合がいいはずだ。なのに自分のわずかしかない霊力の大半を注いで、咲乃の魂を体に繋ぎとめているなんて。
「‥あなたは咲乃さんの霊力だけが欲しいんだと思ってた。」
「犬野郎と一緒にするなよ。俺は人としての咲乃が欲しいんだ。そして新しい別な存在になる。」
「‥‥煌夜さんになりたいの? いつか本物の煌夜さんになると言ったのでしょ?」
「はぁ? ばかばかしい。あんな言葉、方便だよ。バカ黒鬼のガキになんかなりたいわけねェだろ。俺は‥俺という唯一の存在になるのさ。鬼人だとか物の怪だとか人間だとか、そんな枠に填らない存在にね。」
茉莉花は血の止まった脇腹から顔を上げ、今度は胸の傷に手を翳す。
「そのために‥咲乃さんが必要なの‥?」
「‥‥そうだ。と、思う‥。」
白炎の声は今までになく真摯で、いつものように挑発や揶揄や嘲笑を含んではいなかった。
茉莉花はすっと立ち上がった。
「咲乃さんと坂上さんは『懐古堂』で預かります。あなたはどうするの‥? 一緒に来ますか?」
白炎はのろのろと腰を上げると、顔の血を腕で拭った。
「バカにすんな。力はそこの健吾ほどもなくたって、おまえに保護されるほど落ちぶれちゃいねェよ。‥‥だがおまえが力を上げたのには驚いた。何があった? とうとう鴉の親分の嫁になったのかい?」
「なってません。今後もなりません。」
茉莉花は思わず赤くなり、切り口上で答えた。白炎はそうかい、と軽く笑った。
「おまえの浄化の光で消えなかったってことは‥俺はまだ鬼人のようだ。ならば‥やることがある。さっきのガキにもきっちり借りを返さなきゃならないしね。‥‥じゃあな、咲乃を頼む。」
白炎は誰にともなくそう言うと、すっと消えた。
―――咲乃を頼む、だなんて‥。ヘンな感じ。
茉莉花は溜息をついて、健吾とともに真っ暗な穴を家に戻った。
坂上の怪我は軽傷とは言い難かったけれど、命に別条はなかった。黒達磨の手当を受け、静かに眠っている。
茉莉花は咲乃を自分の部屋に寝かせると、結界の中に強引に入り、頬の涙を拭ってやった。しかしそれが精一杯で、呼びかける声も鈴の音もまったく届かないようだ。
感じる気配は茉莉花が懸念したような、悲しみや絶望といった類のものではなかった。むしろ温かい愛情に満ちていた。黒鬼に対する恋情を中心にたくさんの人への感謝や愛情。大切で愛おしいと思う気持ち。
じっと指先に触れて感じているうちに、茉莉花は何だか泣きたくなってきた。
どうして咲乃のような人が普通に幸せになれないのだろう。何かが理不尽だ。咲乃の霊力はなぜ、彼女の幸せのためにちゃんと作用しないのだろう? 流れをねじ曲げているのはいったい―――誰?
若頭領なら答を知っているのだろうか。
闇を差配する若頭領は、人の世にうごめく霊力の流れを誰よりも正確に把握しているはずだ。訊いてみようか、と思い立って、玲の言葉を思い出した。
―――俺より先に若さまや鳥島さんに相談するのは禁止。
「だって‥。相談しようにもいないじゃない‥。」
繋いだ手を離したら、これほど心細いとは知らなかった。待っているだけがこれほど辛いとも。咲乃の安らかな顔を眺めて、茉莉花は深い吐息をついた。
鳥島祐一は東京へ帰る車の中で茉莉花からのメールを受け取った。
咲乃が無事だという点だけをとりあえずかみしめて、ほっと息をつく。そして運転している桂崎真実に咲乃と坂上が『懐古堂』に保護されたと話した。
「それは助かるわ。‥白田はどうなったの?」
真実は後部座席で眠っている磯貝誠を起こさないように、声を低めて訊ねた。
磯貝誠は怪我をした右腕が途中でかなり痛んできたらしく、帰路の車に乗りこむ前に鎮痛剤を飲んだ。そのせいか今はぐっすり寝ている。
誠がゆっくり眠れるようにと鳥島は助手席に乗りこんでいる。運転を代わろうかと申し出たが、真実に即却下された。車の運転は趣味の範囲だからかえって疲れが取れるのだそうだ。それは冗談としても、真実が一般女性の数倍はタフであるのは間違いない。
「今夜、虚空とかいうヤツの襲撃を受けたようだよ。それで白炎自身が『懐古堂』さんに助けを求めた。坂上もかなりの怪我を負ったらしいが、死ぬほどではなさそうだ。詳しい話は明日『懐古堂』さんに出向いて聞くつもりだが‥桂崎さんはどうする?」
「一緒に行っていいなら行きたいけど‥。『懐古堂』って、用のない人には見えない場所なんですって?」
「そうらしいが‥。俺はまだ見えなかったことはないから解らない。」
「信用されてるのね、あのお嬢さんに。‥ところで彼女はいくつ? すごく若く見えるんで、この間ちょっと驚いたんだけど。」
「ええと‥去年初めて会った時に十八だと言っていたから、今は十九かな?」
真実はまあ、と肩を竦めた。
「やんなっちゃうわね‥。四宮の瑞穂お嬢さんといい、『懐古堂』の彼女といい‥十代の子どもたちにわたしたちはどっぷり依存してるわけね。大人の立場はどこ?」
鳥島はくすりと微笑った。
「四宮の女性に関してはもう、年齢は考えないことにしたよ。大人だ子どもだなんて言えば、問題を起こしてるのはみんないい年をした大人ばかりだからね。立場なんかはなからないよ。」
からりと笑って、真実はうなずいた。
「現状はそのとおりだけどね‥。ちっぽけな個人にだって、社会的責任てのはついてまわるもんよ。夢を見るなとは言わないけど大人なら分相応にしろっての。」
「分相応か‥。それは人間にとっていちばん難しい感覚だろうな。」
「男にとって、じゃないの? 女はわりと身の丈の夢を描くものだから。」
「それには異論があるな。性差より個人差だろう。」
そうかも、と真実はあっさりと主張を引っこめた。
「ところで話は変わるけど‥。『懐古堂』さんは虚空を見たのかしら?」
「ああ。坂上の証言どおりのようだ。襲わせたのは赤毛の少年だとあった。」
鳥島はついつい険しい顔になった。
咲乃はいつまで狙われなければいけないのだろう? 黒鬼は―――何をしている?
「あのね‥ちょっと訊ねてもいい? 四宮咲乃さんは‥四宮本家から見てどういう関わりなの? 彼女の実質上の従妹だからと葛城貴子さんを保護するのに、なぜ咲乃さん本人を四宮本家は保護しようとしないわけ?」
「ああ‥。それは‥ちょっと複雑な話なんだ。」
鳥島は自分の知る限りの咲乃の境遇と、物の怪や闇の能力者に狙われる理由を真実に説明した。そのうえで彼女の霊力は桁違いだから、世の中の安定のためにはどこかにおさまらなければならないという理屈らしいと付け加えた。
「黒鬼が戻ってくるって言ったから‥咲乃さんは信じて待っているんだよ。本家の庇護下に戻るのも夜鴉の嫁になるのも彼女にとっては辛い話だ。だからといってみすみす闇の能力者や物の怪に喰われるわけにはいかないしね。‥『懐古堂』では、咲乃さんが何とか彼女の望むように生きられる道を探している。あそこの二人は彼女の友人だから。」
真実は微かに眉をしかめて、男ってしょうがないわね、とつぶやいた。
「まったくね。同感だよ。」
鳥島は苦笑気味に答えた。今度は反論する気にならなかった。




