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第四章

 葛城貴子(たかこ)は自宅アパートの前まで来て、部屋に灯りがついているのを見た。急いで階段を駆け上がる。きっと父の明生(あきお)が帰っているに違いないと思った。

 貴子は十九になったばかりだ。この春に高校を卒業し、担任教師の紹介で小さな建築事務所に入社した。働きながら通信教育で建築士の勉強をしている。いつか自分の家を建てるのが夢だった。

 父親は優しいだけが取り柄の男で、貴子の知る限り定職に就いていたことがなかった。五年前に過労で亡くなった母がずっと一家の生活を支えていたのだ。父の言いわけはいつも、こんなふうになったのは叔父の真生のせいだと言っていた。

「あいつが本家の顔に泥を塗るような真似をしなきゃ、俺は今も葛城本家にいられたんだ。そうすればこんな苦労をおまえたちにかけることもなかった。」

 母は根が明るい人だったので、はいはい、と聞き流していたが、実際にはその叔父からずうっと仕送りをしてもらっていたとは知らなかったようだった。貴子が知ったのは母が死んでからだ。毎月二十万から三十万というかなりまとまった額を送金してもらっていた。

 では母が身を粉にして働いていたのは何のためだ、と貴子はその時初めて父に淡い不信感を抱いた。それでもたった一人の身内であるし、愚痴を言わない時の父は優しくて物知りで貴子にとっては大好きな人だ。

 ところが叔父からの送金は、二年余り前にふっつりと途絶えた。

 叔父は東京で新興宗教の教祖をしていたとかで、父の不満は叔父の懐に入る金はもっと桁が違うはずなのに自分には大してよこさないという点から来ていた。本来なら一銭も権利のないお金だと貴子は思うけれど、父は叔父が自分に半分はよこして当然だとなぜか主張する。そして何の通告もなく送金を打ち切り、音信不通になったことをひどく怒って、恩知らずなヤツだ、と罵った。

 貴子は高校の授業料を残り少なくなった母の保険金で支払い、バイトを掛け持ちして生活を支えた。大学へ進学したいなどとはひと言も言えなかった。それでも周囲の人々の善意で、こうして今夢に向かって進んでいる自分の境遇を幸せだと思っている。

 父が葛城本家と呼ぶ家から使いが来て、どうも叔父は死んだらしいと連絡を受けたのは昨年の秋だ。送金が途絶えて一年以上過ぎていた。それから父は葛城本家にたびたび呼ばれるようになり、終いに家には滅多に戻らなくなった。卒業式だけは出席してくれたけれど、何をしているのかと貴子が訊いても決して教えてはくれない。

「おまえは知らなくていいんだよ。」

 優しい口調でそう言うだけだ。何か人に言えない仕事をしているのではないのかと不安でたまらないが、父の弱さを責める言葉も気持ちもなぜか湧いてこなかった。ただ心配なだけだ。

 三月に会った以来の父が来ていると思うと、貴子は嬉しかった。

 父娘二人で暮らすくらいは何とかなるから、戻ってきてくれないかと言うつもりだった。父は好きな本を読んで、のんびり暮らすのが似合っている人なのだ。

 開けようとして、ドアが半開きなのに気づいた。思わず苦笑する。暢気なんだからもう、とつぶやいて中へ入り、お父さん、と部屋の中へ声をかける。

 ところが返事がなかった。電灯は皓々とついている。確かに見覚えのある靴が三和土に脱いである。

「お父さん‥‥?」

 貴子は無性に胸騒ぎがして部屋に駆け上がり、襖を開けた。そしてその場にぺたんとすわりこんで、口を押さえた。

 目の前の惨状は何と言えばいいのだろう―――血の海?

 数秒後に貴子は自分が叫んでいるのに気づいた。何をだかは解らない。ただ腰が抜けて立てず、目を背けることもできず叫び続けた。頭が真っ白になって、自分の意識があるのかないのかそれも解らなかった。

 しばらくして背後に人がうごめく気配がして、遠くでサイレンが聞こえた。サイレンはだんだんと大きくなり、白衣の人が入ってきた。誰かが貴子を立たせ、口に酸素吸入器を当てて抱え出された。担架に寝かせられて―――そこで記憶が切れた。


 磯貝誠は腕の怪我を上着で隠し、八王子の病院へ向かった。

 管轄外ではあるが、八王子市内で昨晩起きた殺人事件に関連して、特殊能力捜査課に捜査依頼があったためだ。

 被害者の名前は葛城明生。『御霊の会』教団の教祖葛城真生の実兄だ。

 自宅で殺害されていたのを帰宅した明生の娘が発見したと言う。彼女は激しいショック症状で現在面会謝絶状態だそうだった。

 『御霊の会』教団の事件に絡んで殺害された可能性があるということで、誠が呼ばれたわけだが、被害者の素性を聞いて誠はこっそりと四宮本家の祖父に連絡を取った。分家の遠縁とはいえ、葛城真生の実兄ならば事件は四宮絡みの可能性もあるからだ。そこで誠は祖父の口から、葛城真生は四宮咲乃の実父だと初めて聞かされた。

 祖父は電話口でしばらく考えこんでいたが、やがて口を開くと、被害者の娘の身の安全を図るために四宮本家から人を派遣すると言った。

「だから誠。警察の職権を行使して、葛城家からの人間をその娘に近づけないようにしてもらいたい。」

「お祖父ちゃん‥。何か知ってるんだね‥?」

「葛城家の動向には疑念がある‥。だが殺人事件に関しては皆目解らん。その娘は一応、咲乃さまの従妹に当たるので念のために本家で保護する。咲乃さまはもしかしたら本家に戻されるかもしれないのでな。」

「‥‥そんな話が?」

「いや。可能性の話だ。すべて想定しておかねばならん。」

 解ったと電話を切って、すぐに所轄の刑事に連絡を取り、葛城を名のる人間の面会を謝絶して娘を保護するよう依頼した。

 待ち合わせの場所に現れたのは兄の譲と能力者が三名だ。誠は兄にはついてこないよう勧めた。

「危険だと思うよ。被害者は‥まるで獣に食い荒らされたような状態だったと聞いた。死亡推定時間は昨日の正午の前後一時間程度。ちょうど坂上久志が憑依の術で二度目の襲撃を受けた時刻だ。」

「‥‥関連性があると?」

 三橋明人と名のったリーダーらしい男は冷静な態度で誠に訊ねた。

 誠は左手でぎこちなく眼鏡をずり上げて、苦々しい思いでうなずいた。

「昨夏の事件で主犯だった白田という男を知っていますか?」

「白田‥なぜその名が? ヤツは自分の世界で牢に入っていると聞きましたが‥。」

「では脱獄したんでしょうね。昨日ヤツは坂上の前に現れ、坂上を襲った男に憑いたモノを剥がしました。その上で坂上を連れ去ったんですけど‥。とにかく憑依していたモノは大型の犬みたいな物の怪でした。その前日に『懐古堂』さんが、憑依したモノを剥がせば術者に返ると言っていたんです。術者の命がないかもしれないと‥。だから‥。」

「なるほど‥。術者は葛城明生だったのではないかと言うわけですね‥。可能性は十分あります。」

 三橋はぐっと唇を噛みしめ、緊張した顔つきになった。

「譲くんは帰って、今の話をお嬢さまに至急報告してくれ。それから椎名にあとから来てくれるよう伝えてくれないか? 憑依の術が絡んでいるなら、椎名の知識が必要だ。」

 それから三橋はもう一人別の若い能力者をも経験不足だからと帰らせた。

「急ぎましょう。その娘さんが危ないかもしれない。」

 はい、と誠はパトカーに二人を乗せると、運転の制服警官に命じてサイレンを鳴らしながら高速へと向かった。


 貴子は病院のベッドでぼんやりとしていた。

 目を閉じると目蓋の裏に焼きついた、血まみれの肉塊が浮かんでくる。まるで果てしない悪夢に囚われているようだ。あれが父だなんて信じたくなかった。

 気がつくと頬が濡れている。誰の嗚咽だろうと思えば自分の唇から洩れている。寒いわけではないのに体がぶるぶると震えて止まらない。

「かわいそうに‥。泣いていいんだよ。我慢しなくていい。」

 声が聞こえて顔を上げると、四十くらいのどこかで見た顔の男が立っていた。

「わたしはお父さんの友人だ。何かの時には君のことを頼むと言われていたんだよ。」

 何かの時―――? 父は予想していたと言うのだろうか。そんなはずはない。父は小心な人だった。危険を承知で何ごとかを企てるなんてありえないのだ。

 もう一度この男は誰だったろうと考えてみる。男は察したのか、名前を名のった。

「わたしは葛城雅彦。遠縁だが親戚だよ。」

 葛城雅彦。聞いたことがある。確か葛城本家の人だ。

 急に貴子はその男への憎しみで胸がいっぱいになった。

「葛城本家の人ですよね‥。父にいったい、何をさせたんですか‥。」

「‥どういう意味かな?」

 男はさっぱり解らないという顔で、訊ね返した

「しらばっくれないで、あなたが父を利用してたことくらい知ってます。本家の雅彦さんて、父はよく言ってました。」

「それは何かの誤解だ、貴子ちゃん。わたしは友人だったんだよ。」

 貴子は激しく首を振った。

「いいえ、いいえ、何かしてたはず‥。父は‥お金が入るって、葛城本家で仕事することになったからって言ってたんですから‥。仕事って何ですか? いったい何をさせていたの? あなたが父を殺したんじゃないの‥?」

 葛城雅彦は少しも笑っていない冷たい瞳で、微笑を浮かべた。

「君のお父さんは‥弟の(かたき)を取ろうとしていたんだよ。わたしは協力していただけだ。」

「‥‥仇?」

「そう。葛城真生は四宮本家に殺されたんだ。」

「どういう‥意味ですか?」

 貴子はぐっと雅彦を睨みつけた。

「疑っているんだね‥。でもほんとうなんだよ。それで禁術に手を出していた。わたしは危険だからやめたほうがいいと何度も忠告したんだがね‥。」

 雅彦は微笑の貼りついた能面みたいな顔で、貴子をじっと見た。

「‥‥葛城の物の怪遣いの血、というのを聞いたことがあるかい?」

「物の怪遣いの血‥?」

「そう。わたしにも、君やお父さんにも流れている。血で物の怪を操ることができるんだ。‥お父さんが君は小さい時から妙に犬や猫に懐かれると言っていたけど、それも葛城の血なんだよ。だがね、その血はずっと昔に四宮本家によって禁術指定されてしまってね‥。今では正しい使い方の知識が伝わっていないんだ。」

 貴子は戸惑っていた。確かに貴子は動物に懐かれる性質で、とりわけ犬には特に好かれる。しかしそれは貴子が大の犬好きだからだと思っていた。

 雅彦は静かな声で続けた。

「わたしの従弟にも幼い頃からよく犬に懐かれた男がいたが、彼はその性質が災いして妖犬に噛み殺されたんだ。修練していなければ、犬と妖犬の見分けなどつかないからね。だからお父さんは君をわたしに頼むと言っていたんだよ。」

 犬に―――噛み殺される?

 貴子の目蓋に再び血まみれの肉塊がよみがえってくる。では父は妖犬に喰い殺されたのだろうか。禁術とやらに手を出したために?

 また涙がどっとあふれてきた。唇の震えが止まらない。

「解ってくれたなら、すぐにわたしと一緒に来てくれないか。四宮本家が君を狙っているんだ。葛城真生の姪だという理由で。」

 貴子は泣きながら首を激しく振った。

 能力者でもない父に禁術を教えたのは誰なのか―――目の前の男に決まっている。

 父は小心者だった。危険だと忠告されたなら手を出すはずがないのだ。瞞されて利用され、そして殺された。

「あなたが父を殺したんです‥。父は‥叔父に嫉妬していました。叔父の代わりになれるとか言って、あなたが(そそのか)したんでしょう‥?」

「やれやれ‥困った子だね‥。」

 その時廊下を慌ただしく歩いてくる複数の足音が響いた。

 葛城雅彦は微笑を引っこめて、無表情な顔になった。

「本家が来たようだ。貴子ちゃん、信じてもらえなくて残念だよ。」

 ノックが響き、返事を待たずに制服警官と三人の男が入ってきた。

 警官は雅彦の顔を見て、ぎょっとし、どこから入った、と叫んだ。

「わたしはこの子の親戚なんだ。見舞いに来ただけだよ。‥ちょうど帰るところでね。」

 雅彦は愛想のよい微笑を浮かべ、さりげなく部屋を出ようとしたが、三人のうちいちばん背の高い四十前後の男が腕をぐっとつかんだ。

「葛城家の執事さん。おかしいですね、ここは面会謝絶のはずなんですけどね。」

「本家の三橋さんでしたね‥。むしろわたしのほうが驚きです。なぜ本家が?」

「葛城貴子さんは、四宮本家で大切に保護するようにとの瑞穂さまのご命令です。葛城家は決して手を出さぬよう。帰ったらご当主どのにお伝え願います。」

 ―――四宮‥本家‥? 叔父を殺した人たち‥?

 葛城雅彦は皮肉めいた冷笑を残し、部屋を出ていった。三橋と呼ばれた男がドアをきっちりと閉めて、何やら札を貼りつけている。

 貴子は急に不安を覚えた。この人たちも父の死に関わりがあるのだろうか、と体をぎゅっと固くする。

 すると眼鏡をかけた若い男がぎこちないしぐさで胸ポケットから警察手帳を出し、本庁の磯貝です、と挨拶をした。

「怖がらせてしまったようで‥すみません。あの男は何か、あなたに乱暴しようとしたんですか?」

 声が出ずにただうなずいた。刑事なら信用してもいいのだろう。

「ショックを受けているところ、たいへん申しわけないのですが‥。できれば当分の間、あなたの身柄を四宮本家に移したいのです。こちらでは護りきれない可能性がありますので。いかがでしょう?」

 貴子は顔を上げた。やはり自分も狙われているのだろうか。

 おずおずと小さな声でそう訊ねると、磯貝刑事は同情をこめたまなざしでうなずいた。

「信じられないかもしれませんが、あなたのお父さんは‥人ではないモノに殺害された可能性が高いのです。あなたも同様のモノに狙われるかもしれないので、事実が解明するまで専門家の手でガードしていただくのがいいと思います。‥ちなみにあなたの身柄は責任持って、四宮本家が護ると仰ってくださっています。」

「四宮って‥妖し封じの四宮ですか‥?」

「ご存じですか?」

 三橋が穏やかに訊ねた。

「はい‥。叔父が昔そちらにいたと父が申しておりました。でも叔父は何やら失敗をして、破門されたと‥。」

 葛城雅彦は叔父を殺したのは四宮本家だと言っていた。彼の言葉はまったく信用できないけれど、かといって四宮を信じる根拠も理由もない。

 三橋は貴子の警戒心を感じ取ったのか、苦笑いを浮かべた。

「確かにそうですが‥。いろいろ事情がありまして、決してあなたに危害を加えるとか軟禁するとかのつもりではないんです。詳しくは当主の瑞穂さまがご説明なさると思いますが、あなたは‥当主の従姉にあたる咲乃さまの父方の従妹にあたり、現在起きている咲乃さまをめぐるトラブルにまきこまれる可能性があるのです。」

 咲乃という名は一度も聞いたことがなかった。

 話を聞けば聞くほど不安が募る。だが先ほどの葛城雅彦がまた来るかもしれないと思えば、この病院に居続けるのも怖い。

 ちらりと磯貝刑事のほうを見遣ると、彼はすぐに気づいて貴子を安心させるように微かに頬笑んでうなずいた。何となく彼は信じてもいい人だと貴子は強く感じた。

「‥‥刑事さんも一緒に行ってくれますか‥?」

 一瞬ためらったようだったが、彼は解りました、と再び微笑を返した。

「それなら‥行きます。よろしくお願いします。」

 貴子は三橋と名のった男に丁寧に頭を下げた。


 桂崎真実は磯貝誠からの連絡を受け、箱根行きを急遽変更して八王子に出向いた。

 同行していた鳥島を車に乗せたまま半ば強引に連れていき、着いたところで椎名悟と合流し、現場検証を行った。

「凄まじいわね‥。この血の痕‥。」

 真実は合掌し、軽く頭を下げた。

 それから椎名を振り向く。さすがに元刑事の鳥島は眉をひそめた程度だが、椎名はハンカチを鼻と口に当て、今にも倒れそうなくらい真っ青だった。

「大丈夫‥? もしかして‥幽霊がいたりするの?」

 椎名は首を振った。吐き気をこらえて、何かを確認しているようだった。根性あるなあ、と真実は感心した。死体は既にないが血と肉の腐敗した匂いが充満している。こんな凄惨な現場は一般人は普通、吐きどおしだ。

 椎名は確認を終えると、失礼、と断って外へ走り出た。外ではエチケット袋を用意した所轄の刑事がいるはずだ。

 真実はちょっと同情の目で見送り、それから鳥島のほうを見た。彼は窓のあたりをじっと見ていた。

「何か見えるの?」

「いや‥。ただ‥ちょっとした違和感なんだけど。」

「違和感? まあ、この惨状じゃあねえ‥。違和感だらけだけど、何かしら?」

「電灯だよ。さっき所轄の刑事が桂崎さんに説明しているのが聞こえたんだけども、発見当時2DKの部屋じゅう、トイレや浴室まで電灯が皓々と点いていたとか‥? 血痕の乾き具合から、死亡推定時刻は暫定的に昨日の正午の前後一時間。‥昨日は快晴で最高気温は三十三度。雨戸も立てていないし、電灯は必要ないんだ。むしろ、エアコンがついていなかったほうが気になるよ。」

「ふうん‥。」

 鳥島の後ろに続いて外へ出ながら、真実は鳥島の指摘について考えてみた。

 誠の仮説どおり、坂上の病室から戻った物の怪が呪い返しで術者を襲った、という話ならばエアコンがつけっぱなしで、電灯はついていないというほうがしっくりくる。

 しかし発見者の娘が切れ切れに語った証言では、被害者はもう三ヶ月余り家に帰っていなかったそうだ。昨日の昼に娘の留守に帰宅した時、はたして被害者は一人だったのだろうか? 電灯を点けたのが葛城明生ではないとしたら、いったい誰なのか。

「でも椎名さんに訊けば、すんなり解決するのかもしれないな‥。」

「え?」

「たとえば術を使ってる最中だったら、この部屋全体が異空間になるのかもしれない。真っ暗でひんやりとした空間に‥。そうすれば電灯が必要だったかも。一般常識とは違う常識が必要な事件なんだろう。」

「異空間で電灯が使用可能なのかしら? ‥それもまずは椎名さんの見解を訊いてからだわね。」

 真実は鳥島の肩をぽん、と叩いた。

「さすがに刑事の勘は(すた)れてないわねえ? どう、このまま一緒に事件の捜査を‥。」

「遠慮しますよ。それより俺は予定どおり箱根に行くんで。白田が咲乃さんを連れて潜伏してる可能性があるっていう坂上の隠れ家を、至急突きとめないと‥。」

「でもそれってボランティアよ? こっちなら四宮本家から依頼料取ってあげるのに。」

 鳥島はちらりとこちらを見て、個人的事情だと説明した。

「咲乃さんを早く助けなきゃ‥。彼女のことは、彼女の両親が死ぬ時に頼まれてるんだ。」

「待ってください‥。今の‥咲乃さまが白田と一緒にいるってほんとうですか?」

 玄関先に椎名が立っていた。

 鳥島は簡単にそのようです、とだけ答えた。

「では‥あなたが咲乃さまの両親に頼まれた、と言うのは‥いつの話なんです?」

「昨夏の‥四宮本家内での話です。厳密にはとっくに亡くなっていたんですけどね。魂が成仏する時に、咲乃さんを保護してほしいと‥。信じますか?」

 最後の言葉は真実に向かって言ったようだった。

 真実は大きくうなずく。彼が嘘をつく理由はないし、最近は何でもありそうな気がしている。椎名は何か考えているようだった。

「白田は‥いえ、白炎は咲乃さまをどうするつもりなんでしょう‥?」

「『懐古堂』さんの話では、昨夏とは状況がだいぶ違うようです。白炎には昨夏のような桁外れの霊力はなく、咲乃さんに対しても危害を加えるつもりはなくて‥むしろ、大切に扱っているようだと‥。幻術でたぶらかして黒鬼になりすましているそうですから。」

 鳥島は淡々と答えて、椎名の顔を見据えた。

「『懐古堂』さんは‥咲乃さんが闇の能力者や物の怪に狙われている現況からすれば、四宮本家や夜鴉一族にとって、白炎が曲がりなりにも保護している状況は安定と見る可能性が強いと言っていました。つまり、静観するんだろうと。でも俺や『懐古堂』さんからすれば、幻術で惑わされている状況は放っておけないんです。手遅れにならないうちに何とかして助けたいと思っています。瑞穂さんにそう伝えてもらえますか?」

 真実にはちんぷんかんぷんな話だが、椎名には明確に伝わったようだった。

 椎名は鳥島の視線をまっすぐに見返した。

「瑞穂お嬢さまは‥咲乃さまが瞞されて(かどわ)かされているような状況を是とはしません。そんなお方ではないです。霊力の安定ならば別に方法を考えようとなさるでしょう。ご心配なく、どうか咲乃さまをよろしくお願いします。」

 鳥島はほっとした顔でうなずき、では、と急ぎ足で去っていった。

 真実は少しの間鳥島の後ろ姿を眺めていたが、小さい溜息を一つつくと、椎名に向き直って行きましょうか、と頬笑んだ。


 四宮本家の客間で、真実は誠と合流した。

 本家家人への言葉遣いや態度から推測するに、誠は四宮出身者ではなくあくまでも一警察官としての立場でこの場所にいるらしい。以前にも四宮の敷地内へ立ち入るのを渋っていたことを考え合わせれば、特に真実の前だからというわけでもなさそうだ。

 ―――四宮では男はクズ扱いなんですよ。

 ふと彼が鳥島に言った言葉を思いだした。四宮姓をあえて名のらないことといい、誠には誠の四宮に対する個人的な意地が在るのだろう。それでも葛城貴子に請われて迷わず同行したと言うから、同じ警察官としてはよしよしと褒めてやるところだ。

 初めて会った四宮瑞穂は一見してごく普通の十代の少女に見えた。

 だが椎名が前に進み出て話し始めたとたん、当主の顔になった。

 威厳と言うか、能力者ふうに表現すれば霊圧だろうか。瑞穂の纏う空気が急にずんと重くなり、場に静寂が立ちこめる。

 椎名の報告によれば、被害者の部屋には、葛城明生の遺体のあった場所を中心にして凄まじい妖力が残っていたそうだ。

「恐らくは獣性の物の怪。わずかですが、赤茶色の動物の毛が落ちていました。現場にいた鑑識課員の話では、血にまみれた赤茶色と黒の二色の獣毛を大量に採取したそうです。」

 瑞穂は椎名悟によほどの信頼を置いているようで、ただ静かに聞いていた。

 瑞穂のすぐ脇に控えている大学生風の若い男は、記録係なのか一生懸命ノートを取っている。うつむいた横顔が少し誠に似ていた。

「物の怪の召喚陣の痕跡はなかったのか?」

 三橋が訊ねた。椎名はなかった、とはっきり答える。

 誰も確かなのかと念を押す者はいないようだ。椎名悟は四宮本家でも最上位ランクに位置する能力者なのだろうと真実は勝手に推測した。

 三橋は瑞穂を振り返って、言葉を続けた。

「物の怪の召喚は恐らく葛城家の敷地内で行われたのだと思います。葛城貴子さんの話では、彼女の父親は昨年秋頃から葛城本家‥彼女の呼び方ではそうなるんですが、四宮分家の葛城家に頻繁に出入りしていたそうです。もともと能力者になりたくて、若い頃には葛城に住みこんでいたそうですよ。ただ霊力はほとんどなく、弟の真生氏のほうがレベル四の認定を受けて四宮本家に推挙されたので、それを利用していずれは本家に入る希望を持っていたそうです。ですが‥二十三年前、紫さまの件で真生氏は破門されてしまったので、とばっちりを怖れた葛城家に明生氏は結局追い出されたわけです。」

 紫というのが咲乃の母親だと、さっき椎名から聞いたばかりだ。

 紫の母親は大事な一人娘を傷物にした葛城真生を、ちょっとやそっとじゃないほどの激烈な方法で放逐したそうだ。葛城家がとばっちりを怖れたというのもそのせいだろう。

「それがなぜ、葛城家は二十数年も経った昨秋に呼び戻したの?」

 瑞穂が静かに問う。

「貴子さんの言うには分家の執事、葛城雅彦が連絡してきたようです。『御霊の会』教団教祖の真生氏が、実は既に死んでいるとの情報を得たので兄である明生氏に伝えるため、と貴子さんは聞いたそうですが‥。真生氏が実は死亡していると警察は発表していません。本家でもつい先日までは、お嬢さま方と磯貝家令だけしか知りませんでした。では葛城雅彦はどこからその情報を得たのかと考えますと、青山芳明との接触が疑われるわけです。」

 三橋はよどみなく説明した。

「葛城雅彦は‥。旧南家の四宮孝彦の実弟で、真宮寺森彦の叔父だったわね? だけど調査では繋がりは出てこなかったのよね。」

 瑞穂は切れ長の瞳を冷ややかに上げて、確認した。

「はい‥。先日の旧南家の事情聴取の時にも葛城の名は出ませんでした。」

「ふうん‥。ではむしろ青山が旧南家とは別に、葛城に目をつけたと考えるほうがしっくりくるかもね。葛城の物の怪遣いの血統を利用したかったのでしょう。」

 物の怪遣いの血統とはまたなんてゴシック的展開だろう。ぞくぞくしてくる。

 誠が眼鏡をずり上げて、発言を求めた。

「椎名さん。葛城明生被害者は、自身の召喚した獣性の物の怪に殺害された可能性があると思いますか?」

 椎名は首を振った。

「葛城の物の怪遣いの血がどうあれ、憑依の術を遣えるほどの高等な妖しを使役できる人間が存在するとは思えません。‥わたしが推測するに、葛城明生氏は何らかの理由で身の危険を感じ、自宅に強力な防御結界を張ったのだと思います。彼の能力からして自力で張るのは無理でしょうから、誰かに相談してたぶん護符か何かの助けを借りた。ところがその護符が効かなかったのか、または結界自体が罠だったのか‥。結果的に彼は獣妖に喰い殺された。事実はそういうことだと思います。」

 真実はふと思いついて、鳥島の疑問について訊ねてみた。

 すると椎名は結界が張ってある場所では暑くはないだろうと答えた。真夏でもエアコンは不要なわけだ。では電灯はどう思うか、と重ねて訊ねると椎名は首をかしげた。

「あれはわたしも疑問に思っていました。被害者が点けた可能性も残っていますが、結界にこもって隠れている人間が家じゅうのすべての灯りを点けるでしょうか? しかし一方で獣妖は通常夜目がきくので、昼夜に関係なく灯りは必要ありません。ただ‥獣毛が二種類落ちていたことから、あの場にはもう一体獣妖がいたのかもしれないと思います。更に知性の高い、人間みたいな感覚‥たとえば一つずつ電灯を点けていって、結界に隠れている人間を心理的にあぶり出して恐怖感を煽る、といった残酷な感覚を備えたモノが。」

「人間みたいな‥残酷な感覚?」

 はい、と椎名は誠に向き直り、咲乃を襲った連中へのゲームサイトを利用した術の植えつけ方法に関する仮説を述べた。

「結果として‥高い知能とかなりの妖力を有し、人間のような感覚を持った獣妖が背後にいる可能性が高いかと‥。」

「『虚空(そら)』、ですか‥。」

 真実は思わずつぶやいた。椎名はこちらを振り向き、うなずいた。

「その可能性はあります。何モノなのか、未だ不明ですが‥。」

「人間仕様の見た目年齢は十四、五才。赤い髪に褐色の瞳で、中性的なきれいな顔立ちをしている。その種族では御曹司だそうで、主従関係に近いグループを従えて夜鴉一族に取って代わることを企んでいる、とか‥。坂上が青山から漏れ聞いた情報です。坂上はこのせいで命を狙われているみたい。」

 真実の言葉に、座の空気がいっせいに緊張した。

「‥‥夜鴉一族に取って代わる、ですって‥?」

 瑞穂が息をのんだ。顔がすうっと青ざめる。どうやら―――怒りのせいらしい。

「じゃ青山は‥真宮寺に四宮本家を乗っ取らせ、虚空(そら)とやらに夜鴉を打倒させてこの世をすべて支配する夢を抱いていたわけ? なんて傲慢、畏れ知らずにもほどがある!」

 また真実にはちんぷんかんぷんだが、まあこの世を支配したいなんて男は死んでも仕方のないところだろう。しかも言っては何だが、あの程度の器でよくも大それた大望を抱いたものだ。巻き添えを食らった警官が実に気の毒だとしみじみ思う。

「坂上は虚空(そら)とは面識がないしそれ以上は何も知らないと言っています。‥それから先ほどのお話では葛城雅彦という名が出ましたけど、彼を葛城明生殺害容疑で任意同行してもいいですかね?」

 真実は瑞穂を向いて、にこっと微笑んだ。

「待てと言うなら待ちますよ。四宮さんのご協力なしでは片づかない事件ですしね。申し遅れましたが‥小橋が逮捕された現在、一応わたしが四宮関連の担当官になります。今後ともご当主とは良好な関係を築きたいと願っていますので、よろしくお願い致します。」

「‥良好な関係とはどんな関係と思えばいいですか?」

 瑞穂は冷静な無駄のない口調で、まっすぐに訊ねてきた。

 真実はこういう直球勝負的なやり取りは好きだ。だから正直に答える。

「有り体に言えば、今回のように人の手に負えない事件の際に、情報及び人的協力を無償でしていただけると有難いですね。見返りにはそちらに不都合ではない事件処理をする。わたしの望みはそんなところです。」

 瑞穂は即決した。

「それならば全面的な協力を、桂崎さんと磯貝刑事のおふた方に限ってお約束します。それでいいですか?」

 結構です、と真実は答えた。瑞穂姫とは十分良好な関係を築けそうだ。

「葛城雅彦を警察で取り調べていただくのは何の問題もありません。ただし葛城家への立入調査はこちらに任せてください。その上でお互いに情報を交換し合うというのはいかがでしょう?」

「では。葛城貴子さんの保護と葛城家への立入調査はお任せします。これより葛城雅彦を任意同行しに赴きますので、失礼。」

 そう言いおくと真実は、戸惑い顔の誠を急きたててさっさと席を立った。

 駐車しておいたマイカーに誠を押しこみ、エンジンをかける。

「‥‥八王子へ戻るんですか?」

「それは電話で所轄に頼むわ。わたしたちは鳥島さんのあとを追って、坂上を見つけるの。坂上はまだ自分でも意識してない情報を持ってるはずだから。いい、未練ありそうだけどあの場に残っててもわたしがいる限り、虚空(そら)に関する新しい情報は聞けないわよ?」

 誠はしみじみと真実を見て、諦めたようにうなずいた。

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