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第二章

 白炎(びやくえん)は咲乃の部屋で、昨夜の幻影を思い起こしていた。

 ―――黒鬼のヤツ。咲乃の顔を見ても思い出せないのか。

 思わず嘲笑が浮かぶ。

 隣で眠る咲乃が寝返りを打った。もう時刻は昼になるが起きる様子はない。白炎の幻術がかかっているせいだ。

 頬にはらりとかかった前髪を、そっとかきあげてやる。咲乃は眠ったままで、幸せそうに煌夜、とつぶやいた。

 ―――可愛い女だ。

 このままずっと幻術の中で幸せな夢を見ていればいい。

 これで三晩、ともに過ごした。あと四晩一緒に過ごせば契りは完成する。

 そして一生甘い夢を見続けさせてやる、と白炎は頬に軽く口づけた。咲乃の一生など短いものだ。白炎の寿命を考えれば、ほんの束の間に過ぎない。

 しかし。何が黒鋼の夢をこの場所に繋いだのだろう?

 白炎の(まと)っている黒鬼の霊力は大した量ではない。しかも人間界に来て煌夜の名に従属している。鬼人界にあって黒鋼の名を得た黒鬼とは独立した存在であるはずだ。

 煌夜の名を呼ぶ咲乃を目にしてさえ、何も思い出せないほど存在の変容した黒鬼のどこに、煌夜と結ぶ接点があるのか。

 ちゃんと把握しておかなければ危険だ、と白炎は考えた。

 自分がやがて、完全に煌夜になりかわるために。何ごとも慎重に、念には念を入れて想定しておくべきだ。

 ―――誰かの悲しんだり苦しんだりする感情は‥気持ち悪くないのか? 喜んだり楽しんでいる感情のほうが、ずっと心地いいよ。

 健吾の言葉を不意に思い出して、白炎は微笑を浮かべた。

 咲乃に寄りそって、寝顔をのぞきこむ。思いがけないほど優しい感情が胸に湧いた。

「確かにな、健吾。だがそれ以上に‥惜しみなくたっぷりの愛情を注がれるほうが、遙かに心地いいものだよ。」

 白炎は独り言をつぶやいて、咲乃を腕の中にそうっと納めた。


 アンジュの事務所の一つしかない安楽椅子に体を沈めて、玲は溜息をついた。

 ブラインド越しの西日がいくら真夏といってもやけにきつく感じる。『懐古堂』のひんやりした空気が恋しくなってくるほどだ。

「どうしたらいいだろうな‥。」

「はい‥。」

 テーブルに腰掛けた健吾が、心配そうな顔でうなずく。

 さっきから二人で悩んでいるのは咲乃のことだ。

 黒鬼の分身が護ってくれると聞いて、玲は最初ほっとした。小橋と坂上を逮捕してしまえば、咲乃の身はとりあえず安心だと思っていた目算が外れて、人のやり方で護ってみせると若頭領に言い切った言葉をどう実現させようかと思案中だったからだ。

 なのに茉莉花は不安そうな顔をするし、桜や健吾までもが首をかしげた。

「咲乃さまのお側にある黒鬼さまの気配は‥何やら違うような気がします。」

 桜が可愛らしい顔をしかめて言えば、健吾ははっきりとあれは白炎だ、と断言した。

「白炎‥‥? 嘘だろ、だったら茉莉花に解らないはずはないんだけど。」

 健吾は珍しく譲らなかった。

「俺には‥解るんです。三日前の晩に引っこんでから、俺の中の白炎の気配が全然感じられなくなってて‥。だけど咲乃さんの近くにある違う気配の中に、白炎の存在を感じるんです。思うに‥あれは皮を被ってるんじゃないでしょうか?」

 思い当たるふしはある。

 白炎は三日前の晩、咲乃はまだ襲われるのかと訊ねた。

 まだ襲われる可能性はあるし、玲と茉莉花で保護できなかったら夜鴉(よがらす)一族の庇護下に入れられてしまうかもしれない、と―――今思えばなぜあんなバカ正直に答えたのだろう?

「黒鬼に腹を立ててたってさ‥。白炎が素直に咲乃さんを護るわけないんだよ。」

 自嘲気味に玲はつぶやいた。

 あの時ちらりと白炎を遣えないかと考えた自分の傲慢さが、こんな最悪の状況を生んだのだ。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 何が最悪かと言えば―――茉莉花に告げなければならないことだ。

 彼女の視線の前では隠しごとは難しい。今回の場合は玲のなけなしの良心が疼いて、軽率な言動も正直に一部始終告白してしまうだろう。だが咲乃に関する限り茉莉花は、いつもみたいに呆れた、とのひと言ではすませてくれないかもしれない。

 先送りしたい気分で、玲は立ち上がった。

「とにかくさ。白炎かどうか確かめよう。茉莉花に言うのはそれからだ。」


 咲乃の部屋は下から見上げると、新しくガラスが入ってカーテンがかかっていた。

 チャイムを鳴らすと、ちょっと間があってから咲乃が顔を出した。玲を見て、明るい顔で微笑む。何だかとても幸せそうだ。

「黒鬼が分身を送ってくれたんだって? ちょうど近くに来たから、挨拶しておきたいなと思って。‥茉莉花は今日、早穂さんが来ることになっちゃって出られないんだ。」

 咲乃はどうぞ、と何の屈託もない笑顔で部屋へ上げてくれた。

 お邪魔します、と声をかけて、ダイニングの椅子に腰掛けている黒鬼の姿を見た。振り向いた顔はまさしく黒鬼なのだが―――桜や健吾に確認するまでもなく、玲にもなぜだかくっきりと解ってしまった。彼は白炎だ。

「堂上さん、コーヒーでいいですか? 今淹れてきますね。」

 咲乃がキッチンへ入ってしまうと、黒鬼の顔をした白炎はにやっと微笑った。

「嫌なヤツだな‥ほんと。四宮も夜鴉も月神の目まで首尾よく冥ませたってのに、ただの人間のおまえには一発で見抜かれるなんてさ‥。いっそのこと、この場でおまえを殺しちゃおうか?」

 健吾がすっと前に出る。

 その肩を軽く叩いて、玲は微笑んだ。

「大丈夫だよ、健吾。本気じゃないさ。」

「おや。どうしてそんな暢気なことが言える?」

「本気なら部屋に入った瞬間に俺は死んでるよ。そうじゃないってことは‥話をする気があるんだ。そうだろ?」

 白炎はふん、と鼻を鳴らした。

「話なんかないと言いたいところだが‥。目を(つむ)れよ、主人(マスター)どの。咲乃は俺が護ってやる。薄汚い人間なんかに指も触れさせないと約束するよ。おまえにとっちゃ都合がいいと思うんだが、どうだ?」

「いいわけないよ。咲乃さんは黒鬼だと信じてあんなに幸せそうなのに、ほんとはあんたなんだからさ。体だけ無事でも、心はぼろぼろになっちゃうのを見逃すわけにはいかないんだ。」

 白炎は呆れ返ったと言わんばかりの声で応じた。

「心なんか、どうせ放っておいたって時間の問題だよ。黒鬼は帰ってこない。咲乃を捨てたんだ。嘘じゃない、ほんとうのことだよ。あいつは別の名前を得て、既にここにいた黒鬼とは別の存在になっちゃったのさ。」

 漆黒の前髪を手で弄んで、白炎は続けた。

「この姿は黒鬼の霊力を集めて作ったんだ。咲乃が俺を煌夜と呼んでずっと隣にいてくれれば、俺はそのうちに本物の煌夜になる。それで何がいけない?」

 玲は冷ややかな視線を向けた。

「あんたはその名前のモノになるかもしれないけど、それは咲乃さんの愛してる煌夜(ヤツ)とはまったく別の存在だ。本物にはなりえないよ。あんたは‥人間界で何をしたいんだ? なんで戻ってきた?」

「俺がほしいのは自由と咲乃だ。鬼人界には未練はない。‥なあ、よく考えてみろよ。真実は咲乃を幸せにするのか? 黒鬼は咲乃を忘れてしまったんだ。昨夜うっかり黒鬼の夢とこの部屋が繋がっちゃったんだが、あいつは煌夜って名前を耳にして咲乃の顔を見てさえ何も思い出せなかったんだぜ? 他人みたいな顔でこっちを見てたよ。真実なんて咲乃にとって残酷なだけだ。やっとのことで黒鬼を諦めたとして、それでつまるところ夜鴉の妾かい? 夜鴉は鈴の女に惚れてるってのに、いったいどこに幸せがあるんだよ?」

 冷ややかなまなざしを崩さず、玲は足を組み直した。

「あんたは白炎だ‥。煌夜にはなれないよ。咲乃さんはいずれ気づく。瞞し続けられるものじゃない。よく考えるべきはそっちだよ。あんたは‥咲乃さんが好きなんだろう? 利用するためじゃなくて、咲乃さんを護りたかったから戻ってきたんじゃないのか?」

「‥‥だったらどうなんだ? 見逃してくれるのか。」

「鬼人を捨てるというのが本心なら、迦具耶(かぐや)さまに頼んで身元を引き受けてもらってやる。白炎として咲乃さんを護ればいい。黒鬼がほんとうに二度と帰らないのなら、あんたにもチャンスはいずれできるよ。だけどこのまま瞞していたらバレた時、咲乃さんはあんたを今まで以上に憎むだろうな。それでいいのか?」

 ふふん、と冷笑を浮かべ、白炎は立ち上がった。

「もう話す余地はないようだな。見ているがいい‥一生瞞し通してみせるよ。咲乃に疑う間を与えないほど、完璧にね。」

 ふと気づくと背後に、恍惚とした笑みを浮かべた咲乃が立っていた。

 白炎は咲乃に向かって、来い、と手をさしのべた。咲乃はうなずいてそちらへ向かう。

「咲乃さん‥! 行っちゃだめだ‥!」

 慌てて立ち上がり、腕をつかんで引き留めようとした。

 だが咲乃は玲など目に入っていないようで、まっすぐ白炎の胸に飛びこんでいった。

 追い縋ろうとする目の前に、いきなり青白い炎の柱が燃え上がる。

 瞬時に桜の結界が働いて玲を包み込み、健吾が炎の柱を消した。だがその一瞬の隙に白炎と咲乃の姿は見えなくなった。

「くそっ! 次元移動できるほど力が回復してたなんて‥。俺ときたら読み違えばっかりだな、もう!」

 玲はがらんとした咲乃の部屋で、頭にきて自分を罵った。椅子にがっくりと腰を落とす。

 心配そうな顔で桜がのぞきこんできた。

「桜‥。咲乃さんを攫われたなんて‥。俺って最低だよね。説得できるはずなかったのに、できるかもなんて都合良く考えちゃったせいだ。ほんと、バカだな‥。」

「ご主人さまは‥最低でもバカでもありませぬ‥。元気をお出しくださいまし‥。」

 一生懸命慰めようとしてくれる小さな手と、潤んだ黒い瞳を見ていたら、だんだんと落ち着いてきた。

 腑抜けている時間はなかった。自分を責めるよりどうしたらいいかを考えるのが先だ。

 そこへ健吾が悄然として姿を顕した。どうやら二人の気配を探していたようだ。

「すみません、主人(マスター)‥。行方をつかめませんでした。」

「いや‥。俺のせいだ。健吾とやり合うのを避けてるようだったから、大して霊力がないんだと高を括ったせいだよ。とにかく桜と健吾のおかげで無傷ですんだ。ありがとう。」

 キッチンでお湯の沸いた音がする。

 火を消して、用意されたカップとコーヒーを見遣って、咲乃の幸せそうな笑顔を思い出した。行こう、と桜と健吾を促して部屋を出る。

「これから‥どうしますか? 東京じゅうをとりあえず、探してみましょうか。」

 健吾の言葉に首を振った。

「当分見つからないよ。白炎は次元の穴にもぐりこんだんだろう。‥でも咲乃さんは人間だから、しばらくすれば出てこなくちゃならなくなるはずだ。」

「出て‥来ますか?」

 歩きながら玲は、自分でもその質問を胸に何度も何度も問い返す。

「白炎には‥咲乃さんを傷つける意志はないと信じたい‥。だとすれば必ず出てくる。でもここのところの俺の判断はどうも狂ってるからね‥。自信はないよ。」

 車に乗りこんで、エンジンをかける。

「今は『懐古堂』に帰ろう。ものすごーく嫌だけど、俺の失敗を正直に姫さまに告白しなきゃね。許してくれればいいけど‥。」

「大丈夫ですよ、ご主人さま。姫さまはきっと一緒に考えてくださいます‥。」

 桜の言葉に健吾が大きくうなずいた。

「ありがと。二人がいてくれて、心強いよ。」

 玲は情けない気分で、アクセルを踏みこんだ。


 茉莉花は穏やかな表情で、お帰りなさい、と出迎えた。

 しかし玲の話を聞くにつれて、だんだんと顔が強張り、終いには怒っているとはっきり解るほど冷たい顔になった。

「‥‥もしかして。あわよくば白炎に護らせようと考えたの‥?」

「ごめん。ちょっと考えた。」

「なぜ! 人間同士の話じゃないのよ、ただ護ってもらうだけでも、縁ができてしまえば切るのは困難なの。一生縛られるのよ? ‥煌夜さんが帰ってきた時に場所がなくなってしまうわ。」

 玲はムカっとした。

 咲乃には大いに同情するけれども、黒鬼は自業自得だろう。なぜ黒鬼のために茉莉花に(なじ)られなきゃならない?

「何もかもその黒鬼のせいじゃないか? 咲乃さんが白炎に瞞されちゃったのだって、黒鬼が帰ってこないからだ。‥‥もう帰ってこないんだよ。白炎は論外としたって、咲乃さんがいずれ誰かと別の縁を結ぶのは、仕方のないなりゆきじゃないのかな?」

 茉莉花はいつにも増して冷ややかに感じる視線を向けてきた。

「‥帰ってくるわ。咲乃さんが望んでいる限り、黒鬼が戻る可能性は十分あるの。」

「ふうん。それは君の女の子らしい感傷? それとも四宮の女の直感てやつ?」

 頭にきていたせいで―――茉莉花にではなく黒鬼にだが―――つい、めいっぱい皮肉のこもった辛辣な口調になった。そして口に出した途端、後悔した。

 茉莉花はぐっと唇を噛みしめ、くるりと背中を向けた。全身が淡い金色に光っている。

「あなたには解らないかもしれないけれど‥‥」

「そりゃ解らないよ。男だし、霊力もないんだから。たぶん一生、俺には理解できないんだろう。」

 きっぱりと拒絶されたせいで、謝るために開いたはずの口から全然逆の言葉が飛びだしてしまった。

 微かに鈴の音が耳に届くほど、茉莉花の結界が激しく玲を拒否している。

 桜が今にも泣き出しそうに震えている。

 冷静になるよう胸に言い聞かせ、必死で場を修復するための言葉を探したが、すぐにそんなものはないと気づいた。

 茉莉花が拒絶したのではなくて―――茉莉花の存在を拒絶するような言葉を吐いたのは自分だ。しかも嘘は許されない、境界の場所で。

「ごめん‥。ちょっと外で頭を冷やしてくる。」

 玲は立ち上がった。茉莉花は黙ったまま、振り向かなかった。

 裏の玄関からまっすぐ外の路地へと出る。ついてこようとする桜と健吾に、茉莉花のそばにいるように命じた。

「大丈夫。ちょっと一人になりたいだけだから。‥姫さまを頼むよ。」

 ご主人さまぁ、と半泣きの桜の声が聞こえたが、振り向けなかった。自己嫌悪ばかりがこみあげて、まともな考えなど何一つ浮かばない。

 ふと見上げると東の空に夕闇が色濃く迫ってきていた。

 ―――まるで若さまの翼のようだな。

 そう思って、嫌な予感がした。咲乃を護ると言った言葉を遂行できなかった場合、どうなるのだろう?  

 すうっと目の前が暗くなった。

 夜よりも濃い闇がびっしりとあたりを埋めつくし始める。

「よう。今夜は守護精霊を連れていないんだな‥。そりゃ(はなは)だ不用心てェもんだぜ、『懐古堂』の旦那? ‥あんた、最近物の怪仲間じゃ有名人なんだからさ。」

 うつむいていた顔を上げると、目の前に黒ずくめの切羽が腕組みをして立ちはだかっていた。


 すっきりと目覚めた瑞穂は、枕元に控えていた紅蓮(ぐれん)の姿を見て驚いた。

 紅蓮は七、八才の童女に成長していた。髪も背中の中ほどまでに長くなり、高い位置で結い上げてある。着ている着物も七つのお祝い着みたいな振袖だ。

「姫さま。気分はいかがですか?」

 にっこりと微笑む顔に見覚えがあると思ったら、その年頃の瑞穂によく似ていた。

「紅蓮‥。大きくなったのね。」

「はい。瑞穂さまのお力が大きくなったので、紅蓮も大きくなれました。」

 なんて可愛い、と思ってしまって恥ずかしくなった。なにしろ自分の幼い頃の顔なのだ。

 でも自分はこんなに可愛くなかった、と瑞穂はしみじみ思う。気ばかり強くて生意気な少女だった。

 瑞穂の起きた気配を察知したらしく、花穂がそっと部屋に入ってきた。

「よかった、瑞穂‥。煕さまが大丈夫だと仰ってくださったけど、このまま起きなかったらどうしようかと心配してたの。」

 花穂はほっと安堵した顔で、へたへたと隣にすわりこんだ。

「大袈裟ねえ‥。夢も見ないでぐっすり眠ってたから、たぶん気はすごく安定してたはずよ。花穂に解らないはずないでしょ?」

 瑞穂はゆっくりと伸びをして、布団から抜け出した。

 体がものすごく軽い。全身に霊力が(みなぎ)って充実しているのが解る。大結界が完成したおかげで、当主である瑞穂には四宮の力が後押ししてくれているようだ。未だかってないほどの一体感を感じる。

「そう言うけど‥。瑞穂が寝ている間にまた事件があったんだから。」

「‥‥事件?」

「そうなの。咲乃が襲われてね。今度は憑依の術だって。‥今、早穂と椎名が茉莉花さんに事情を聞きに行ってるわ。もうすぐ戻ると思うけど。」

 花穂はそう言ってからすぐに気づいて、詳しい話はご飯のあとね、と付け加えた。

 うん、とうなずいて紅蓮と一緒に隣接している浴室に向かった。紅蓮は可愛らしい手で、けなげに着替えやらタオルやらを用意してついてくる。

 ―――ああ。なんて可愛い‥。

 感動的な気分でそう思い、瑞穂はひとり浴室で赤面した。


 瑞穂が目覚めた気配は本家内の能力者たちは全員、すぐに感知した。

 本屋敷の座敷の一つで、分家から借り集めた日誌、記録、文書などを整理する作業に加わっていた要も、はっと気づいて思わず手を止めた。

「瑞穂お嬢さまは‥またものすごく霊力を増されたようだな。」

 感嘆をこめて三橋がつぶやく。要もまったく同感の思いだ。

 作業には能力者かどうかは関係なく、二十人余りが加わっている。三橋の言葉で皆、一様に瑞穂が目を覚ましたのだと気づき、ほっと笑顔がこぼれた。

 兄の忍がすっと席を立った。譲兄がちらりとそちらを見て、苦笑をのみこむ。

 要は意味が解らなかったが、忍が出ていくのを見すまして譲が要に囁いた言葉で、兄は瑞穂に会いに行ったのだと知った。

「忍兄さんは‥お嬢さまを‥?」

「初めからそのつもりだろう。」

 譲は本家で三年間修養したあとは北家に戻って執事となり、本家との連絡役になる予定だそうで、どうやら瑞穂が分家から男衆を集めた理由はそこにあるらしい。本家の考え方をきちんと分家に浸透させるのが主目的であって、決して自分の婿選びではない。

 だがもちろん瑞穂さえ気に入れば、誰にも否やはない状況でもある。

 候補者として見れば確かに忍は、兄弟の欲目を抜きにしても他の誰より頭三つ分くらい抜きん出ていると言えた。容姿においても頭脳においてもだ。昔から優等生で女の子によくもてたからな、と要はちょっぴり羨ましく思った。要にはまったく欠けている部分だ。

 来春卒業するまで法科大学院の授業を掛け持ちしているが、四宮の仕事に関しても非常に飲み込みが早い。だが持って生まれた頭の違いだけではなく、同室にいる要は兄が他人の三倍は努力をする人間だとも知っている。それもたぶん―――自分には欠けている。

「でも実際に本家に来てみて、瑞穂お嬢さまの存在感に圧倒されてたみたいだよ。だからこの三ヶ月余り、必死になって努力してたな‥。いいことだよ、小さい頃から何でも簡単にこなせたもので世の中なめてるとこあったから‥。上には上がいるって知ったおかげで、よけいに何とかして瑞穂お嬢さまに認めていただきたいんだろう。」

「それは解りますけど‥。忍兄さんは‥瑞穂さまが好きなんですか、譲兄さん?」

 要が囁き返すと、譲は再度苦笑した。

「好きなんて気軽に言えないよ。憧れてるって言うのもおこがましい。そうだろう?」

「はあ‥。」

 確かにそうだろうが、要は乙女の瑞穂を知っている。誰もいないところでひっそりと泣いていた少女を。

 忍が瑞穂を一人の乙女として慕っているのならいいのだけど、と要は思った。それなら心から応援できる。でも一種のステイタスみたいに捉えているのなら―――反対だ。

 ―――ん? 反対って‥お嬢さまの身内でもないのに。

 よく考えれば、瑞穂ならば間違えることなく選ぶに決まっているのだ。もしも瑞穂が忍を選んだのなら、要が意見をつける理由はない。瑞穂の選んだ人に文句をつけるなど、それこそおこがましいというものだ。

 だがそれでも、瑞穂の前途多難を思って要はひそかに吐息をついた。


 浴室から出た瑞穂は、紅蓮の用意してくれた着替えが浴衣だったので戸惑った。

 とりあえず下着代わりのタンクトップと短パンの上に浴衣をはおって、キッチンへ向かう。冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、ごくごくと飲んだ。そのままソファに腰を下ろし、携帯を久しぶりにチェックする。

 ふと廊下に人の気配を感じ、ノックを待つまでもなくどうぞ、と返事をした。磯貝だろうと思ったからだ。

 ところが失礼します、と入ってきたのは忍だった。

 入ってきて目を上げた忍は、いきなり赤くなって後ろを向いた。すみません、と口ごもって出ていこうとする。

 そこで初めて瑞穂は浴衣をはおっただけで、前をはだけたままだったことに気づいた。

 慌てて前をかき合わせ、出ていかなくていいと声をかけた。

「あ‥ごめんね。磯貝だと思ったから‥。忍くん、磯貝と気配がよく似てるわね。」

「え? あの‥お嬢さま。祖父の前だとそのような‥?」

「いつもじゃないわよ、失礼ね。それにたまたま浴衣はおってるだけで、ちゃんとアウター着てるのよ? ほらね‥?」

 瑞穂が浴衣を脱いでみせると、忍はますます赤くなった。

「いえ、解りましたから‥。着てください。」

 勢いではしたない真似をしたと瑞穂も思ったので、大人しく浴衣を着てきちんと前を合わせ、紅蓮の持ってきた帯を手にした。結びながら訊ねる。

「ところで‥。誰に用があったの? 花穂なら今、厨房だけど。」

 本家の若い男衆が居住棟に用がある場合、たいていは花穂目当てなのだ。

 だが忍はあっさりと否定した。

「いえ‥。その、皆さんが瑞穂お嬢さまがお目覚めになったようだと噂していたので‥。ほんとうだろうかと思いまして‥。」

「確かめに来てくれたの? それはどうもありがとう。みんなに心配かけたわねって伝えておいて。」

 帯を結び終えて振り向いた瑞穂は、忍のこちらをじっと凝視する視線に戸惑った。

「何‥? あ、帯がヘン? 仕方ないのよ、自分でやったことないんだから。」

「そうではなくてですね‥。ほんとうに‥お元気そうだなあと感心していたんです。正直なところ、ぼくは病院にお連れしなくていいのかと疑問に思っていたものですから‥。」 

 瑞穂は頬を綻ばせてにっこりと微笑んだ。

「そうよね。普通はいきなり眠り始めたら、病院で診てもらうわね。でも誰も慌てなかったでしょう? 気配が安定していれば、わたしたちみたいな人間は平気なの。霊力が体を護ってくれるから。」

「はあ‥。今のお嬢さまの様子を見れば、確かにそうなのでしょうけど‥。ただ平気だからと説明されただけでは‥そのう‥。正直、ずっと不安でした。」

 納得のいかない様子の忍に腰を下ろすよう告げ、瑞穂は自分も腰を下ろした。

「別にみんな、霊力のない人を侮っているわけじゃないの。どう伝えたらいいのか、うまく言葉にできないだけなのよ。でもね、霊力があると逆に見えないことも多くて、教えられてはっとすることもたびたびあるわ。だからお互いに理解し合って協力することが大事なんだと思うの。‥まだ始めたばかりだからうまくコミュニケーションがとれないほうが多いと思うけど、どうかよろしくね。忍くんには特に期待してるわ。」

「ほんとですか‥?」

 ええ、と瑞穂は軽くうなずいた。

 能力者ではない本家衆の中で、忍は明らかに群を抜いて優秀だった。しかも磯貝の孫らしい孫だ、と瑞穂は思った。これから経験を積んでいけば冷静で慌てず、適切な対処を下すあの老家令の良い後任に育ってくれるだろう。

 それにひきかえ、祖父に似ていないほうの孫は―――いつまでたっても瑞穂の理解を超えている。だが精霊たちには妙な信頼を得ているようで、瑞穂の想定していた形ではないにしろ一応精霊遣いとしてさまになってきたから不思議だ。

 そこへ食事係の女性二人を連れて花穂が帰ってきた。

 忍はすっと立ち上がって、それでは失礼します、と頭を下げた。

「ともかく‥お嬢さまがご無事に目覚められてよかった。どうかあまり無理なさらないでください。‥では。」

 もう一度会釈して、静かに出ていく。

 瑞穂はありがとう、と後ろ姿に声をかけた。

 花穂はそちらをじっと見ていて、ふうん、と腕を組んだ。

「なるほど‥。瑞穂を怖がらない度胸のある男性がやっと現れたわけね?」

「何言ってんの。お腹ぺこぺこなんだから、へんなこと言ってないで用意してよ。」

 花穂はくすっと微笑い、はいはい、と答えた。

「なのに乙女は、花より団子か。‥かわいそうな忍くん。」

 バカ、と答えて瑞穂はそれでも少しだけ赤くなった。


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