第一章
七月十七日の深夜。東京郊外のとある屋敷、屋敷森の奥深く、大きな欅の木にもたれてひとりの少年がたたずんでいた。
年の頃は十四、五才で、豊かな赤茶色の長い髪を後ろで束ねている。細い体にひょろりと長い手足、幼さを残す整った顔立ち。一見したところ女の子のような優しげな風貌だ。
そこへ鬱蒼と繁った暗がりから、小枝を踏みつける音がして誰かがやってきた。
少年はそちらへ褐色の瞳を向け、嬉しそうに顔を輝かせた。
「養父さん。どうだった?」
「今夜は失敗だ。意外とガードが堅い。」
養父さんと呼ばれた四十前後の男は、軽く眉間に皺を寄せた。
背はさほど高くない。筋肉質で引き締まった体と貌をしている。浅黒い肌はたるみもなくきめが細かくつややかで、派手さはないけれどよく見るとなかなか整った顔立ちだった。常に穏やかな微笑をたたえ、静かな声で話すが、その瞳は冷たく感情が動くことはない。
「ガード? 四宮咲乃は術も何も知らないって聞いてたけどな。誰かついてた?」
「ああ‥。守護者は物の怪のようだ。白い髪の男。」
ふうん、と少年は腕を組んで首をかしげた。
「白い髪ね‥。聞いたことがあるな。青山が言ってた、白田ってヤツじゃない? 坂上と以前組んでいたとか言う物の怪。‥『御霊の会』教団に関わってた繋がりで、教祖に頼まれたのかな?」
「どうだろうな‥。葛城 真生は自分に娘がいるとは知らなかったようだし‥。青山の話では白田は教祖と一緒に夜鴉に消されたはずだ。生きていたとして‥義理なんか重んじるタイプじゃなさそうだったよ。‥まさか坂上が何か企んでいるのか?」
「そうは思えなかったけど‥。また『懐古堂』のあいつが絡んでいるんじゃないの? 騎士気取りで姫を全員護る気なんだよ。」
微かにうなずいて男は考えこんだ。
「順番をよく考える必要があるな‥。とりあえず、今夜の実験は成功だ。応用すれば不特定多数に何人でも操れる。葛城式隷属符を遣うまでもない。わたしたちだけで十分、四宮を壊滅に追いこめるだろう。」
少年は少し不服げに口をとがらせた。
「四宮なんかどうでもいいのに‥。必要なの?」
男は微笑した。
「必要だよ。人の世に大きな穴を開けるためにはね、今乗っかっているものを一度壊す必要があるんだよ‥。」
「それなら青山に協力してやればよかったんじゃないの?」
「そうだね‥。計算違いだった。青山だけでも四宮くらい斃せると思ってたんだよ。そうすればおまえの存在をぎりぎりまで夜鴉に隠しておけるじゃないか? どうもわたしは青山のことも南家をも、過大評価していたようだ。」
男は乾いた笑い声を立てた。
「次の実験をしてみようか‥。今度は犬憑きの人間がどこまでやれるか試してみよう。被験体の知識と技能はそのままで、妖犬の妖力を加えてやる。命令と指示はこちらから与えてやろう。おまえの手伝いが少しばかり必要かもしれないな。」
「いいよ。何をすればいいの?」
「取り憑かせた妖犬の制御だよ‥。途中で逃げ帰ってこないようにね。」
「何だ。簡単だよ、そんなの。俺に人間を操れって言うのかと思った。」
「それは今はまだ要らない。おまえには人間の弱い穢れた魂に触れてほしくないんだよ‥。まだ思春期だからね、悪影響が心配だ。いずれ強い、きれいな魂をやる。」
「養父さん‥。」
少年は男の肩に頭をすりつけて、甘えた表情を浮かべた。
こんもりとした枝の隙間から洩れる星明かりを宿して、少年の褐色の瞳がきらきらと輝く。男は優しいしぐさで少年の頭をかき抱くと、頬を撫で、微笑んだ。
それから三日経った七月二十日の朝、堂上玲は『懐古堂』の弐ノ蔵前に四宮 茉莉花と並んで腰を下ろし、先代の日誌を調べていた。
憑依の術を使用して四宮咲乃への襲撃があったという事実と、茉莉花の懸念―――咲乃の出生時に遡って諸々の因縁が噴きだしてきているのではないかという、四宮の女の直感を受けて、一昨日、昨日と二十一年分の日誌を二人でひっくり返しているところだ。
憑依の術がどういうものかは茉莉花に説明してもらった。
霊能力者が他人の意識を乗っ取り、霊力を注ぎこんで思うがままに操るというもので、結果的には傀儡の術と変わらない。違うのは操られているほうは完全に乗っ取られているので、その間の記憶がないということだ。
白炎の言葉どおり、本来はよほどの能力者か高等な妖しでなければ使えず、また人間の能力者にとっては命がけの術だったという。生み出された目的は治療のためで、自分の霊力を注いで相手の体の自然治癒能力や免疫力を異常に高め、病気や怪我を治したそうだ。
だが江戸時代後期に陣や札を組み合わせて、使役している物の怪の妖力や相手自身の霊力を使う技術が考案されてより、権力争いや諜報活動のために濫用されることとなった。そのため四宮本家は明治に入って禁術に指定した。
茉莉花の指摘した十五年前の記事というのは『懐古堂』で扱った事件ではなく、人づてに―――あるいはモノづてに聞いただけの、ごく簡単な記録だった。
事件自体は十五年前、都内のとある有名な庭園で起きた大量の無差別殺人だ。
玲も茉莉花も幼かったため記憶にはないが、その後の公判はメディアでも大きく取り上げられたから耳にしたことはある。
犯人は当時十七才の少年で、凶器となった血の滴る木刀を下げ、放心状態で現場に立ち竦んでいたところを現行犯逮捕された。被害者は死者三人を含む十一人。彼は結局精神鑑定で心神耗弱と認定され、無罪となった。
『懐古堂』日誌には事件の翌日の爛に、あるモノからの風聞として憑依の術が試用されたようだと記されていた。術者は不明、人だかモノだかそれも解らず。最終的な目的はやはり不明であるが、今回が実験であるとすれば術の改良のための実験である可能性が高いであろう、とあった。
「それでこの事件と咲乃さんを襲撃した連中とは関係があるのかな?」
「‥‥どうなのかしら‥? 十五年も経っているわけだし‥。ただ、憑依術なんてとても難しい技のはずなの‥。」
茉莉花は首をかしげた。
「誰でもできるものじゃないと?」
「ええ‥。気になるのは、四宮史さんが教祖を名のって墨染鼠さんに憑依していた時期があったこと。あれは陣や札を使った方法ではなくて、紫さんの霊力珠で力任せに行った単純なものだったと思うけど、本来能力者ではないのだからどこかでやり方を知ったはず。白炎から教わったのかもしれないし、椎名さんがまとめたというレポートに憑依術についても記述があったのかもしれない。後者だったら傀儡の術の時のように、憑依を遣える人がたくさんいても不思議じゃないわ。確認できればいいんだけど‥。早穂さんに頼めば教えてくれるかしら?」
なるほど、と玲はうなずいて、腕を組んだ。
「もしそうならこの事件が直接関係がある可能性は薄くなるな。どっちにしても坂上が口にした、青山の知人てのの正体が解れば話は早いんだけどね‥。坂上は完全黙秘を続けてるそうだけど、何とか喋らせる方法はないかな‥。面会に行って、保釈金を出してやるからそいつの名前だけ教えてくれって交渉してみようか?」
茉莉花は呆れ顔でこちらを見た。
「だって逮捕されたのも何もかもあなたのせいだと思ってるはずよ。保釈金くらいで恩に着るかしら? それに‥勝手に保釈の手伝いなんかしたら捜査妨害になるのでは‥?」
「まあ‥。警察はいい顔しないだろうね。」
玲はしぶしぶ認めた。
「青山芳明は完全に幼児に戻っちゃってるそうだし‥。小橋一也は四宮本家を潰す企み以外の方面は何も知らないようだしね。‥小橋は今、嘘をつけない状態なんだろう?」
「魂の邪気は祓ったけれど、自分を守る小さな嘘くらいはつけるんじゃない? でもあの人は‥本来はとても小心な人だから、青山さんがあんなふうになってしまった以上、隠しごとをする理由はないと思う。知っているとしたら坂上さんでしょうね。彼の魂はものすごく強いの。少なくとも自分のしていることはすべて承知しているはず。幻術や邪気、傀儡の糸も彼には効かない。」
「確かに‥船で坂上は桂崎さんがリズに見えたはずなのに、それ以上は健吾の幻術に填まらなかったよね。どうして効かないのかな?」
茉莉花は微かに頬笑んだ。
「霊力を持たない者の強み、と言えばいいかしら? 見えないモノを完全に拒絶しているの。世界が交わらないのよ。」
「世界が交わらない?」
「そう。物の怪の世界の影響を受けないということ。霊力を持たない人が人ではないモノの存在を強く拒絶できれば、拒絶された世界はその人に影響を及ぼせない。でもたいていの人はそれほど意志が強くないので、幽霊や物の怪を完全に拒絶できないの。もしかしたら、と思った瞬間、物の怪の世界はするりと心に入りこんでしまうもの。」
「へえ‥。じゃ、逆に君みたいに霊力を持って生まれると、人ではないモノを拒絶できないのか?」
「できない。と言うより‥そもそも完全に人の世界だけの生きものではないんだと思う。生まれつき霊力を持っている人間は、生まれつきどちらにも所属しているの。」
黄昏みたいなお人。玲は再びお艶の言葉を思い起こした。
「玲が夜鴉の幻術にかかりにくいのも、桜がいるばかりではないと思うわ。たぶん夜鴉の闇から遠い魂を持っているから‥。」
玲は苦笑した。
「坂上と似てるって言われたみたいだな。別の機会に言ってほしかったよ。」
茉莉花は珍しくはっきりと微笑んだ。
「魂が強い、と言葉で表せば確かに同じになってしまうわね。色や形で見ているほうからすればまったく似ていないのに‥。現実をありのままに説明するって難しい。」
そんなふうに微笑うと、切れ長の瞳が思いがけないほど優しげな印象になる。
話している内容は結構深刻でしかも早急な対処が必要な問題だというのに、この時間が何となく楽しくさえ思えてくるから不思議だ。
その時玲の携帯が鳴った。
見れば鳥島からだ。いい雰囲気だったのにやっぱり邪魔するのは鳥島なのか、とちょっぴり恨めしい気分で出た。
ところが電話口の向こうの鳥島が発した言葉を聞いて、玲は思わず緊張した。
解ったとうなずいて切り、茉莉花を振り向く。
「青山と坂上が銃で撃たれたそうだ。それも‥警官に。」
茉莉花の静かな顔がすうっと青ざめた。
青山芳明が病院で狙撃され、死亡したという知らせは四宮本家にもすぐ届けられた。
あいにくと当主の瑞穂はまだ眠りから覚めていない。代理を務める花穂は驚きを隠せなかった。
「犯人は警官って‥‥?」
「近くの交番の巡査で、病院の巡回を担当していた男だそうです。青山とは面識はなく、いつものように巡回に来て、なぜか病棟へまっすぐに上がり、いきなり銃撃したとか。」
椎名の返答に花穂はますます解らなくなる。
「‥‥どういうこと?」
「推測ですが、憑依でしょう。三日前の晩、咲乃さまが憑依の術で襲われたと『懐古堂』さんより連絡がありました。白崎さんの話では、春に爆発したファミレスで感じた気配と同様だったと‥。傀儡師の他にまだ、別の禁術遣いグループが残っている可能性が高いと思われます。青山は口封じに殺されたと考えるべきでしょう。」
頭が痛くなってきた花穂は早穂も呼んで、憑依の術とは何かを椎名に詳しく解説してもらった。
「それで‥。憑依の術を施すためには直接接触する必要があるわけね?」
はい、と椎名はうなずいた。憑依の術は瞳の虹彩に仕掛ける必要があるのだそうだ。
「じゃ、その警官から事情聴取をすれば解るんじゃないの?」
「ところが‥‥犯人の警官はすぐに自殺したそうです。」
花穂は思い切り顔をしかめて、溜息をついた。
「‥‥咲乃を襲った連中はどうなってるのかしら?」
「現在取り調べ中です。年齢は十六から十八、いずれも同じ高校のゲームクラブ所属の生徒で、それぞれの自宅でめいめいパソコンやゲーム機を使って、同じオンラインゲームをしていたところから記憶が飛んで、気づいたら警察に逮捕されていたと証言しています。ちなみにそのゲームサイトは既に閉鎖されています。」
「めいっぱい怪しいわね、そのゲーム。」
「そう思います。」
椎名は真面目くさってうなずいた。花穂の指示を待っているようだが、何を指示したらいいものやら花穂には想像もつかない。
仕方なく、隣で話を聞きながら携帯を何やら操作している早穂を振り向いた。
早穂は花穂の視線に気づくと、携帯を翳して画面を見せた。
「茉莉花さんからメール。あちらも憑依の術について調査中らしいよ。それで‥できれば椎名の話を聞きたいって。」
椎名は花穂を見る。花穂は軽い感じでいいんじゃないの、と許可した。
「椎名だって健吾くんに話を聞いたりしてるんだし。全然構わないんじゃない? 瑞穂と茉莉花さんが霊力使って共闘するとなると考えものだろうけどね。ついでに早穂も行ってきてよ。瑞穂が目覚めるまではあたしは本家代表だから、気安く動けないし。」
「解った。それからね、坂上って男が青山と同じ頃、やっぱり警官に銃で撃たれたらしいよ。そちらは命は取り留めたみたいだけど。」
「‥坂上? 誰?」
花穂の疑問に椎名が答えた。
「『御霊の会』教団を裏で仕切っていた男のようですよ。小橋審議官とともに先日逮捕されたと聞いていますが‥。やはり口封じですかね。」
花穂は再び溜息をついた。
「そう‥。青山はあたしたちがつかんでいた以上に何かを目論んでいたのね。だけど‥。憑依の術って、やたら素人が会得できちゃうものでもないんでしょ? 四宮を離反した能力者たちをリストアップして現況を急いで調査するよう、みんなに伝えて。‥あ、でも危なそうならすぐ手を引くようにともね。憑依されちゃったらたいへん。」
はい、と椎名は苦笑気味にうなずいた。
茉莉花と玲が鳥島と合流して向かった場所は、警視庁特殊能力捜査課内の取調室だった。
出迎えた磯貝誠の話では、坂上を撃ったのは玄関前警備の巡査の一人で、坂上は取り調べのために警視庁へ着いたところだったという。
「車から下りたところを至近距離から撃たれたんですけどね、付き添っていた刑事がとっさに犯人を突きとばしたんです。近づいてきた時の顔がなんか、イッちゃってるふうだったそうで‥。ま、とにかくおかげで坂上は大腿部と脇腹に被弾したものの、命は助かりました。今は警察病院で厳重な警備体制を敷いて保護しています。‥実はね、『懐古堂』さんに急いで何とかしてほしいのは犯人のほうなんですよ。」
取調室には手足をきっちり縛られて、猿ぐつわをかまされた制服の男がいた。
建物に入る前から茉莉花が感知していたただならぬ妖気は、まさしくその男から発せられている。他の人を制して一人で部屋に入るなり、茉莉花は鈴を高く、強く鳴らした。
男は目を上げて、憎々しげに茉莉花を見遣った。
凄まじい妖気が一気に男の全身から発せられる。まるで獣の呻り声みたいな声を発し、目が真っ赤に光った。
無言のまま、茉莉花は金色の波紋で男をきりきり縛りあげていく。
呻き声はすさまじく、男は苦悶の表情を浮かべて床を転げ回った。
しばらくして男はひと言『虚空』、とつぶやいてがっくりと首を垂れた。妖気は消えて、普通の人間の気配に戻っている。
茉莉花はリーン、と鈴を鳴らし、場の空気を仕切り直した。そしてドアを開ける。
「もう縄を解いても大丈夫です。憑依していたモノは出ていきました。」
そう言って、茉莉花はうつむいた。
誠がすっと入ってきて、待機していた警官二人を呼び、気を失っている男の縄を解いて介抱するよう命じた。
「憑いていたのは物の怪でした‥。犬みたいな獣性の物の怪だと思います。」
玲が―――今日は銀縁眼鏡をかけて気弱な表情を浮かべたアンジュのマネージャーだが、心配そうに茉莉花の顔を覗きこむ。
「たいへんだったの? 顔色が悪いけど。」
「いえ‥。ただ憑依していた犬妖は術者に使役されていた可能性があるから‥。」
「だから?」
「‥‥今頃は術者のもとへ帰っていると思う。契約の内容によっては術が破れたから‥術者の命はないかもしれないの。」
鳥島がちらりとこちらを見た。それから視線を玲に移し、自分はすっと離れて誠のほうへ行った。玲はさりげなく人目につかない形で茉莉花の肩を抱いてくれる。
「気に病む必要なんかないよ。青山を撃った警官は自殺したんだってさ。放っておけばあの男も同じ運命だった。君は彼の命を助けただけだ。何の罪もない人をね。」
うん、と茉莉花はうなずいた。
頭ではちゃんと解っていて、だからこそ迷いなく行動したわけだが、玲に言葉にしてもらえると不思議と気分が落ち着く。
しかし最後に犬妖がつぶやいた言葉。『虚空』と書いて『そら』と読むイメージが、茉莉花の脳裏にくっきりと流れこんできた。あれは何だろう?
考えているところへ早穂からの返信メールが届いた。椎名とともに禁術の書を持って訪ねたいとある。
とりあえずここでの仕事は終わったようなので、帰ることにして茉莉花は玲と連れだって警察署を出た。
駐車場へと向かう途中で、玲は帰る前に坂上の入院している警察病院に寄っていこうと言い出した。
「一応念のため、外からでも君に確認しておいてもらえって鳥島さんの提案だ。俺もそのほうがいいと思うから。いい?」
そうね、と茉莉花は素直に了承した。
その時茉莉花の携帯が短く鳴った。今度は咲乃からのメールだ。
「咲乃さんから‥。煌夜さんが分身を送ってきてくれたから心配しないでって‥。」
「へえ? 分身てことは今までの役立たずの幻影じゃなくて、多少なりとは力が遣える存在ってことだよね?」
「そうだと思う‥。」
「よかったじゃない。黒鬼は咲乃さんを護る約束を憶えてたんだよ。‥‥どうかした?」
「いえ‥。何でもないの。何となく気になるだけ。よかったわ、ほんとうに。」
どことなく感じる違和感をのみこんで、微笑んだ。心配する理由はないはずだ。
玲は怪訝そうな視線をちらっと向けたが、何も言わなかった。
警察病院の周囲には、今のところ不穏な気配はないようだった。
「もう一度狙うかな?」
「術者が生きていれば‥。」
玲はちょっとだけ顔をしかめて、車を発進させた。
「だけどさ‥。術者はなんで直接、その物の怪に襲わせないんだろう? わざわざ人間に憑依させて銃で撃つ必要がどこにあるんだ? ‥‥十五年前の事件を彷彿とさせるよね。また実験かな?」
「実験‥。嫌な感じね。」
茉莉花は微かに眉をひそめた。
「さきほどの犬妖を見つけて話を聞ければいいのだけど‥。使役獣だったのか‥それとも単なる妖犬だったのかしら‥?」
「単なる妖犬って‥。妖犬が同時期に二匹も警官に取り憑いて、たまたま青山と坂上を狙ったってのはすっごく無理があるんじゃない?」
「そうね‥。でも人間の術者がやっているなら‥さっきも言ったけど命がけなのよ。」
茉莉花はつい小さな吐息をこぼす。
「どうして‥そうまでしていったい、何が欲しいのかしら?」
「君にはたぶん、一生理解できないよ。‥できなくていいし。」
玲は今まで見せたことがない種類の優しい視線を眼鏡ごしに向けると、やけに嬉しげににっこりと笑った。
仕事が入っている玲は茉莉花を『懐古堂』まで送ると、桜と健吾を連れてそのまま出かけていった。
見送って店に入ってまもなく、早穂の声がした。元気そうな早穂の姿にほっとする。
精神的な傷というのはかなり経っても残ると聞いたので、顔を見るたびに元気かどうか気配を確認する癖がついてしまったけれど、早穂は何とか気力で抑えこんでいるようだ。魂の気配を探る限り―――傷はまだ生々しく残っている。
椎名悟とは初対面だったが、玲や健吾の説明どおりの実直な人柄だと感じた。彼の気配はしっかり根をはった樫の木を連想させる。
初めて目にした椎名のレポートは、ざっと目を通すだけでも時間のかかりそうなものだった。分量は言うまでもなく、その内容の密度の濃さと質の高さは、ほんとうにたった二年でまとめたのかと問い返したくなるほどだ。
「素晴らしい研究ですね‥。いろいろありましたけど、消失しなくてよかったと思います。こんなふうに術を原理の観点から体系的にまとめた書は他にはありませんから。」
茉莉花が率直に感想を言うと、椎名はいや、と複雑な表情を浮かべた。
「研究している時は夢中でしたが‥。今から思えば、こんなものがなければ青山は道を間違えなかったのではないかと後悔しているんです。青山芳明は‥わたしより二つ下ですが、同じ頃に本家に入って、兄弟同様に育った仲間でした。」
茉莉花は静かに答えた。
「それは違うと‥わたしなどが言うまでもなく、椎名さんはよく解ってらっしゃるんでしょうけど‥。術にしても霊力にしても他のどんな技術にしても、使う目的を違えればどうにでも変わるわけで‥それ自体に意図があるわけではありませんから。‥ですがわたしはこのレポートには四宮本家の新しい在り方を示唆するような‥何と言うか、可能性の材料がいっぱい詰まっている気がします。本家だけではなく霊能力者全体の可能性、と言い換えましょうか。」
「‥可能性、ですか。」
茉莉花の言葉は椎名にとっては思いがけなかったらしく、やや驚いた様子で目を上げた。
「はい。うまく言えませんけど‥。わたしもぜひとも写しをいただいて勉強させてほしいと思っています。瑞穂さんが目覚めたら、早穂さん、お願いしてもらえませんか?」
にまっと笑みを浮かべて、早穂はキャラクターの絵がついた赤い紙袋を持ち上げた。
「とりあえず、ここに続きが入ってます。椎名の書いたレポートはあと二冊あるんですけど、それも一緒に。‥『懐古堂』さんには傀儡師事件以来いろいろとお世話になったままだし、少なくとも禁術関連では共闘姿勢が続いていると認識しているので、情報はできるだけそちらへも提供するつもりです。」
「それは助かります。ありがとうございます。」
茉莉花は畏まって丁寧に頭を下げた。
それから椎名に、さきほどの警視庁での話をした。レポートには予想どおり憑依の術の項もあったので、意見を聞いてみたかったからだ。
「確かに堂上さんの言うとおり、偶然起きるはずはないでしょうが‥。犬妖を操って取り憑かせ、指示を与えるというのは‥人間の業ではないような気がします。仮に使役獣だったとしてもすぐ傍にいなければ制御は不可能でしょうし‥。かなりの霊力を要します。術者の気配は近くにはなかったのですよね?」
茉莉花はうなずく。
「どう考えるべきか‥。その警官に事情を聞けばあるいは何か解るかもしれません。」
椎名は心なしか険しい表情になった。
「むしろ‥わたしは、その虚空という名前が気になります。五、六年前になりますが、史さまから聞いたことがあるんです。」
「お父さまが‥物の怪の名前を?」
早穂はびっくりした顔で、椎名を見遣った。
椎名は苦笑気味に微笑んだ。
「早穂お嬢さま。史さまは四宮の当主だったのですから、事件が起きれば報告を受けます。指示もなさりますよ。見えるかどうかは次元の違う問題です。泉さまはその点、史さまを非常に信頼なさっておいででした。」
そうよね、と曖昧に答え、早穂はうつむいた。
「それで‥その事件とは?」
茉莉花が促すと、椎名は微かに首をかしげた。
「それが、事件だったのかどうか‥。ただ何かの折りにふと、『虚空』と書いて『そら』と読むとは珍しい、とつぶやかれたのです。わたしも珍しい名だと思っただけで、確かめもしませんでした。」
「何だったのかしらね? その頃の記録はすべて消失しちゃってるし‥。」
じれったそうに言う早穂に、椎名は穏やかな微笑を向けた。
「本家に戻って全員に聞いてみましょう。事件だったとすれば誰か、担当していたはずですから。」
考えこんでいた茉莉花は、顔を上げてもう一度話を憑依の術に戻した。
「ところで、咲乃さんを襲った人たちの件なんですけど‥。調査結果はそちらへも連絡がいきましたでしょうか? 磯貝刑事がすると仰っていましたけど。」
「はい‥。憑依された者たちは同じゲームサイトを通してオンラインゲームをしていたという話でしたね。」
「どう思われますか‥? 七人も操っていた点を思うと、わたしには人の所業とは思えなかったのですけど‥。それぞれ自宅にいたはずだったのでしたね。」
椎名は静かにうなずいた。
「わたしはそのゲームサイトに術が仕込まれていたんだと思います。」
「ゲームサイトに‥術を? そんなことが可能ですか。」
「はい。‥憑依の術は催眠術と術の発動方法が似ていますから、画面にサブリミナル効果として仕込めば可能でしょう。」
「サブリミナル効果‥。」
コマとコマの間にはさまれた映像など、瞬間的に無意識のうちに何度も同じ画面を見せて暗示をかける手法だ。
「憑依の術は、対象となる人物の瞳の虹彩に霊力で霊体移動陣を描きこんでおいて、発動と同時に自分の霊体を移動させ、遠隔操作で相手の意識を支配するのが本来の形です。ですが慶応年間に四宮本家では霊体移動陣に手を加えた新術が開発されました。呼び出す霊体‥つまり術者ですね、それとは別個に利用する霊力あるいは妖力の源を陣に記入できるようになったのです。ですから必ずしも自分の霊力が相手より上位である必要はないし、陣を描いた時点では霊力は微力しか必要ではなくなりました。」
「‥画期的な技術ですね。」
「はあ‥。時代が能力者を否応なく戦争に駆り出した結果、と言えばいいでしょうか。新政府ができてすぐ、本家はこれを禁術としてお蔵入りさせました。はからずも復活させてしまったのは‥史さまとわたしです。」
椎名は暗い表情でうつむいた。
「二冊目の『陣の原理と発動に関する考察』というレポートを読んでいただければ解りますが、わたしは更に‥陣に時限発動命令を加えて仕込む方法を考案しました。憑依の術だけに限らず陣を使う術ではすべて、自分以外の霊力を時間が来れば強制的に呼びこんで発動する方法を確立したのです。すなわち精確な陣を描けさえすれば、霊力は不要だという意味です。」
茉莉花は頭の中で、先月の事件の組み合わせ陣を浚ってみた。内心で納得する。
「なるほど‥。ではゲームのように画面を集中して長時間見るような場合は、知らぬ間に瞳に焼きつくほどの回数、霊体移動陣の映像を見てしまっているわけですね? それが時限発動によって憑依が発動した、と‥。」
はい、と椎名はますます険しい顔になる。
「でも椎名の考案した方法は一般論で言えばすごく有用だと思うわ。先に悪用されたからといって、この先活用するのを禁じるのはばからしい話よ。逆に知識がみんなに広く浸透すれば、悪用する輩に対抗する方法も普通に身につけられるようになるでしょ? そんなに暗い顔しないで、誇りに思うべきよ。四宮の歴史に残るような功績なんだから。」
「そうでしょうか‥。」
早穂の冷静な主張に、椎名は少しだけ明るい色を浮かべた。
「それに‥。憑依の術に限れば、十五年前に術の改良を試みた術者がいたようです。」
茉莉花は祖父の日誌に書かれた記述を、椎名と早穂に説明した。
「今回の事件と関係あるかどうかは解りませんが‥。」
椎名はメモを取って、これも本家で聞いてみます、と慎重に答えた。
早穂が呆れ顔で言う。
「何にしても問題は‥ゲームサイトに術なんか仕込んだヤツは誰かということね。人間ならともかく、こんな卑怯な手を考え出す物の怪って‥‥すごく嫌な感じ。」
茉莉花も思わず大きな吐息をつく。
「人間に近い発想をする、知性のある物の怪‥。そんなモノが敵として存在するのであれば、非常にやっかいですね。」
まったくです、と椎名も溜息を漏らした。