終章
東の池のほとりにたたずんで貴子は小さな溜息をついた。
四宮本家に世話になって五日が過ぎた。
どうやらとりあえずの危険は去ったようだけれど、瑞穂は本家敷地内に部屋を用意するからここから通勤したほうがいい、と貴子に告げた。
「本家に住んでいれば結界の護持も効くし、メリーが送迎するって言ってるし‥。どうかしら?」
犬小屋の前でメリーの頭を撫でながら、瑞穂は穏やかに微笑んだ。
確かにあの部屋に戻って一人で暮らすのは到底考えられなかった。だからといって引っ越すほどの貯えはない。本家からでも通勤時間は今までと同じくらいだし、食費も家賃も要らないと言われれば貴子としては心は動く。しかし―――
「そんなにお世話になるわけには‥。あたしは‥。」
貴子は口ごもった。
この広大な屋敷裡に住む資格は自分にはない、としみじみ思う。父が本家と仰いでいた葛城家でさえ、四宮本家から見れば分家の末端にすぎない。まだ顔も知らない咲乃という人が貴子にとっては唯一残された近親ということになるのだろうが、そしてまた瑞穂にも従姉であるわけだが、貴子自身は四宮本家とは何の所縁もないのだ。
しかも父はどうやら四宮本家転覆などという怖ろしいことに荷担していたらしいし、叔父もとうの昔に破門されている。いくら命を狙われるかもしれないとはいえ、四宮本家に庇護を求める権利はまったくないと貴子は思う。
瑞穂は忙しい時間を割いて、荒唐無稽とも思われる叔父の死の真相を説明してくれた。
昨夏の四宮本屋敷消失事件は、新聞などで読んだ記憶がある。雷が集中的に落ちて、重要文化財指定の建物がそっくり焼失し、当主夫妻と当主の母が逃げ遅れて亡くなったという記事だ。遠縁だからといくばくか注視して読んだ。
父があんな死に方をしたのでなければ、また本家に来て不思議な体験を実際にしたあとでなければ到底信じられない話だったが、貴子はその話を全面的に信じた。瑞穂の言葉には嘘はなく、誠意にあふれていると素直に感じられるからだ。
だからこそ申しわけないとつくづく思う。
貴子は正直に心苦しい気持ちを伝えた。すると瑞穂はなぜか泣きそうな表情を一瞬だけ浮かべた。
「そんなこと言わないで‥。貴子さんて‥ほんと、咲乃に似てる。」
「え‥?」
瑞穂はちょっとはにかんだ顔でうつむいて、微笑んだ。
「顔も似てるけど、性格も。そうやって自分のことはいちばん最後にしちゃうところとか、優しいところとか。‥要くんが言ってたけど、貴子さんは精霊の声が聞こえるんですってね。それだけでも本家としてはぜひ招聘したい能力なの。資格がないなんて言わないで。それにメリーが‥すごくあなたを心配してる。家出されちゃうと困るし。」
「メリーが‥?」
見ると足下の犬が頭を貴子の手に預けながら、心配そうにじっと見つめていた。
「この子の言葉が聞き取れるのはまだあたしと要くんだけなの。たぶん貴子さんにもそのうちに聞こえるようになる。普通の暮らしをしてきた人にはここの生活は奇妙に思えるかもしれないけど、でもきっと理解しあえると思うの。無理にとは言わないけれど‥できればここにいてほしい。」
瑞穂の真摯な言葉を思い出すにつけて、貴子は溜息がこぼれる。
思うに瑞穂は、咲乃の代わりにせめて貴子を保護したいのだろう。咲乃は人でないモノの嫁になったので本家とは縁を切ったそうだ。本家当主としてたった一人の従姉に、庇護の手をさしのべることもできない自分が歯がゆい気持ちはよく解る。
―――顔も性格も似てるって言われても‥。
でも自分は咲乃ではない。瑞穂の心の支えにはなれるはずもなかった。
「葛城さん‥。」
いつのまに来たのか、要が立っていた。軽く息を弾ませている。
「メリーがここだって言うから‥。あの、これ、誠兄さんから葛城さんに渡してくれって頼まれて‥。」
要が差しだしたのは、風呂敷にくるまれた手帳だった。誠の字なのか、メモが添えられていて、警察に押収されていた父の遺品の一つだそうだった。
「これって‥いただいてもいいんですか? だって‥証拠品なのに‥。」
「よく解らないですけど、内容は電子データにして保存したから構わないって言ってましたよ。実物証拠一つくらい紛失しても平気だとか‥。誠兄さんのやることだから大丈夫なんですよ。」
要は大らかに頬笑んだ。
手帳にはところどころに予定の書き込みがあるだけだが、父の筆蹟だと思うだけで貴子は胸がいっぱいになる。中でも三月のページの貴子の卒業式の日には、特別に赤で丸が大きく描かれていた。同じページの欄外に『貴子のためにも精進する』と記されているのが悲しい。
―――お父さん‥。いったい何に精進していたの? その先にどんな夢を見ていたの?
ここに来てたった五日だが、父の憧れていた能力者の暮らしというのがどんなものかは貴子にもうっすらと解った気がする。だが瑞穂を見れば、霊能力があればあるほど背中に負うものが大きくて、些細な幸せからは遠ざかってしまう気もしている。
貴子は唇をぎゅっと噛みしめて、涙をこらえた。
「あの‥磯貝刑事さんにお礼を言いたいんですけど‥。」
「あ‥すみません。誠兄さんは‥四宮の仕事にはちょっと距離を置いていて‥。本家にはよほどのことがないと入ってこないんです。だから名前も磯貝のほうを使ってて‥ほんとうは四宮誠なんですけど。」
要の話では誠は大学生の頃から実家である北家を出て、四宮とは半縁切り状態でいたそうだ。この春に特殊能力捜査課に異動したのと祖父の依頼をしぶしぶ引き受けたのとで、再び四宮と縁ができてしまったけれども、今後も北家出身者ではなくあくまでも警視庁の刑事として距離を保ちたいと祖父にも告げたそうだった。
「頑固なんです、そういうとこ。せっかく持ってきてくれたんだから、ちょっと入って直接葛城さんに渡せばいいのに‥。門の前で帰っちゃいました。」
要はすまなそうに告げ、代わりにと誠の名刺を渡してくれた。携帯番号とメールアドレスが記されている。
「それから‥葛城さんがアパートに荷物を取りに行くなら、付き添うと伝えてくれって言ってました。まだ一部封鎖されているので、警官が一緒のほうが都合がいいとか‥。ほんとかな? 誠兄さん、一緒に行きたいだけだったりして。」
軽く微笑む要の言葉に、貴子は思わず赤くなった。
そんなはずはないと思いつつ、そうだったら嬉しい気もする。
不意に要の回りで鳥がさえずるような響きが、柔らかな風に乗って聞こえてきた。
「‥え? 何? ああ、もう、いっせいにお喋りしない‥!」
「‥‥精霊さんたちですか?」
「そう‥。ここにいるのは小羽と役者もどきと‥あ、大黒さままで‥! ‥散歩?」
要は呆れ顔であたりを見回している。
「みんな、葛城さんのファンみたいで‥。すみません、うるさくて。ほら、行くよ、もう用は済んだんだから‥。」
要は頭をぺこりと下げると、精霊たちを追い立てて去っていった。追い立てられて何かブツクサ言っている声がさざめいている。
背後でくすくす笑う声が聞こえた。
振り向くと煕が懐手をして池の傍に屈みこんでいる。貴子は慌てて頭を下げた。
「‥そなたはどうも、人ではないモノに好かれやすい性質らしい。騒がしい連中だが、あれらはあれらなりに弱まっているそなたの心を気にかけているのだよ。」
「あたしの心‥。弱まって‥いますか‥?」
微笑んだ顔で静かにうなずくと、煕は貴子を見上げた。
「人の世の霊気が乱れ続けている。そなたには当分、結界の護持が必要だとわたしも思う。畏まって考えずともいずれ自ずと行くべき道は定まる。それまでここでのんびりと心を休めるがいい。」
すべてを見透かすような冴え冴えとした視線に、貴子は思わず目を逸らした。
さきほど唇を噛んで我慢した涙が、不意にぽろりとこぼれる。
父を失い、夢も見失いそうな貴子の心の空虚な穴が、煕の月光のような瞳には見えているのだろうか。
いつのまに来たのか、メリーが伸びあがって貴子の腕に前足をかけ、顔をのぞきこんでくる。くうん、と慰めるように低く啼き、手の甲をぺろぺろと舐めた。
貴子はメリーのつやつやした白い首筋に抱きついて、涙を隠した。
―――ここにいても‥いいのかもしれない。
資格ならばメリーがこうして慰めてくれるだけで十分なのかもしれない。メリーや精霊たちが好いてくれるならば。
夕食のあとで瑞穂に、お世話になりますと言いに行こう。そう決めてもう一度メリーを抱きしめる。メリーの優しい目はまるで、どこまでもついていくよ、と返事をしてくれたように見えた。
波にたゆたう虹色の光。
微かなせせらぎの音に柔らかい琵琶の音が混じって、耳に心地よく響く。
―――ここは‥どこだ。
ゆらゆらと揺りかごのような波にただ揺られて漂う。
痛みも冷たさも何も感じない。体があるのかどうかさえ解らない。
だが揺られている、と思う。開ける眼の存在が感じられないのに、虹色の光がくっきりと見えている。
―――死んだのか。死とは‥消滅ではないのか。
微かになじみ深い伽羅の薫りが流れてきた。
何かが近づいてくる。琵琶の音が次第に大きくなってくる。
不意に音楽が止んだ。
「ああ‥ここじゃ。玄亀、船をお止め。」
かぐわしい香りがして、喩えようもなく柔らかな優しいモノが彼を掬いあげた。
「霊力珠が騒がしいと思うたら‥このような場所に‥。」
体の存在はなお感じられない。しかし彼は確かに目を開けた。
―――美しい。
清らかで温かく優しい手。目が眩むほど輝かしいまなざし。慈愛に満ちた微笑は彼のすべてを包みこむように波間に揺らいで見えた。
「ここは我の神域‥。案ずることはない、そなたの魂は我が預かろう。」
優しい手の主はそっと彼を水の中から引き揚げると、虹色の光に翳した。
次第に体の隅々に感触がよみがえってくる。
船底に下ろした足の感触、頬を撫でる微風。ぐんと手を伸ばし、掲げた掌の向こうに見える朧な月。ただ立ちつくす背中に、ふうわりとかけられた絹の感触。
「生きて‥いるのか‥。」
「鬼人の体はもはやない‥。なれどそなたには未だ、尽くせぬ寿命があるとみゆる。これも宿命‥。しばらくは我が掌上にてゆうるりと過ごすがよい。いずれそなたの為すべき業が自ずと定まるであろうゆえ‥。」
彼はただぼんやりと美しいお方を見つめた。
何を言われているのか、解るようで解らない。自分が何モノでどこから来たのか、まったく記憶がなかった。
「ほほ‥。今は解らずともよい。我は綿津見の韻律。そなたの強い自我がいずれ己を取り戻すまで、我の傍にいてたもれ。」
彼の困惑を見透かしたように、そのお方は柔らかな微笑を浮かべ、白いたおやかな手を差しだした。
その手を取った瞬間、世界はまるで光り輝いたように見えた。
「懐古堂奇譚」の1作目からここまで、長い話を全部読んで下さった皆さまに心から感謝いたします。
このお話は一応ここで一区切りになります・・・というか、ストックがここまでで、続きはまだ書きかけなので、当分アップできないレベルだからです。
できれば春ごろには市之助を主人公にした過去の物語をお披露目できれば嬉しいと思っています。もしも読んで下さるなら、まだ下書きレベル以下の第二部もいつかは・・・。何にしても、拙い物語をここまでたどってくださった全員の方に、御礼申し上げます!




