序章
霊山の白い宮殿には季節はない。
山を降りれば里にはちゃんと四季があり、花咲き乱れる春、緑豊かな夏、落葉舞い散る秋と雪の降り積もる冬。四つの季節が順々にめぐり来る。しかし霊山には白い壁しかない。
―――でも俺は知っている。
窓の外に広がる雲海の彼方を見はるかして、黒鋼はくっと口を引き結んだ。
山の奥の景色。走り回った山野、闘う術を教えてくれた老赤鬼。
切れ切れの記憶は、一週間ほど前に青鬼の千草が側付きに上がり、里の話を教えてくれるようになってから時折浮かぶようになった。
生まれてすぐに霊山に上げられて育ったはずの自分に、なぜこのような忌まわしい記憶があるのか。黒鋼には理解できない。
忌まわしいと感じるのは、多くの里人に追われて逃げ惑う少年の姿が浮かぶせいだ。
少年は黒鋼と同じ黒い姿をして、同じ黒の太刀を出して闘っていた。追っ手の命を切り裂くたびに胸を締めつけるやりきれなさ。俺に構うな、と叫ぶ少年の声。
―――どういうことなんだ‥?
千草は答えてはくれない。
里人の生活についての教師役として付いた寡黙な彼女は、水の色のような薄青い瞳を上げて、さあ、と首をかしげるだけだ。教えろと言われていない質問には答えられない、と無言の主張を静かな態度で示してくる。
更に加えて昨夜は人間の夢を見た。
白い髪の男が金色の瞳を和ませて、人間の女と睦み合う夢だ。
女は優しい信じ切ったまなざしで、その男を煌夜―――煌めく夜、と呼ぶ。なぜか黒鋼はその女が瞞されているのを知っており、無性に教えてやりたくなって叫んだ。おまえは瞞されている、と。
すると白い髪の男はこちらを振り向いて、おや、と驚いた顔をした。次に女をしっかり腕の中にかき抱いて、高笑いを始めた。女は惚けた顔でうっとりと男を見つめている。
―――女は俺のものだ。誇り高き黒鋼どのには関係ないよ。
そこで夢は途切れた。
今朝からずっと考えている。あの男の顔には見覚えがあった。男も黒鋼の名前を知っているようだった。いったいいつ、どこで会ったのだろう?
ところが女のほうの顔は、夢から醒めてみるとまるで思い出せなかった。
時間が経つにつれ、胸を強く押し上げてくる欠落感。大切なことを忘れているような、けれど考えようとするたびに頭の中に重たい石がのしかかってくるような感覚。これは何なのだ?
目の前に広がる雲海は白く美しく輝いていた。
冷たく、心まで凍りつきそうな白い色を見ていると、だんだん大した問題ではない、と考え始めている自分がいた。あの男が鬼人であったとしても、誰を瞞していても関係ない。人間界でのできごとなど、いちいち案じるほどの価値はないのだ。
次々と湧きおこる言葉はしかし―――心とは異なる場所から発せられている。
黒鋼はたまらないほどそう思った。
「おや‥。迦具耶どの。面白いものを持っておられる。あの美しい珠は何ですの?」
「美しい‥珠?」
月夜見神社の本殿、御簾の奥で、迦具耶は目の前の賓客に問われてその視線の先を見遣った。
賓客はこの地では百年ほど先輩にあたる綿津見神社の韻律だ。おっとりとのんびりした性格のこの従姉とは、天界にいた頃からよく気が合った。幸い近くに在るので、今も時折こうして酒宴などを催し、一緒に遊ぶ仲だ。
韻律の言うのはどうやら棚に置かれた直径十センチほどの珠のことらしい。特に気を留めたこともなかったが、なるほど行灯の鈍い明かりが瞬くたび虹色にきらきらと輝き、幻想的で風情のある趣を醸しだしている。
かなり酔いが回ってご機嫌な気分の迦具耶は、ついつい自慢をした。
「あれはの、韻律どの。鬼人の霊力を納めた珠。それも‥白鬼のじゃ。珍しいものでありましょう?」
「白鬼の霊力‥? それはほんに珍しい。如何様にして手にお入れなすったのです?」
眼を丸くし、袂を口に当て、心底驚いた顔で韻律は訊ねてきた。その様子にすっかり気をよくした迦具耶は滔々と、昨夏の出来事と手に入れたいきさつを語った。
韻律はまあ、と珠をじっと眺めながら聞いていたが、とても羨ましくなったようで、空いている迦具耶の杯に酒をたっぷりと注ぎながら微笑みかけた。
「迦具耶どの。我はあれがたいそう気に入りました。どうかお譲りいただけませぬか?」
「‥‥何と?」
「ただとは申しませぬ。今月末の花火、来月の例大祭。船を仕立てて極上のもてなしをお約束いたしますゆえ。むろん、珍しい美酒もたんと。」
「ううむ‥。しかしの、あれは‥。先ほども申したとおり人間との約束があるゆえ、外へは出せぬのじゃ、韻律どの。」
「ほほ‥。それは問題ありませぬ。我とても手元に置いて愛でたいだけ。誓って人界へは出しませぬ。‥ところでその人間とやらは未だ通うて来るのですか?」
「きちんきちんと律儀に参ります。酒の他に何かしら供え物を見繕って‥。ほんに可愛い奴ゆえ、いずれ側に召し上げたいと思うておるのじゃが‥なかなか良い口実が見つかりませぬ。」
迦具耶はくすりと微笑して、返しの酒を韻律の杯へ注いだ。
韻律は微かに眉をひそめ、苦笑した。
「ほんにいけない迦具耶どの。気に入ったからとて寿命のある人間を眷属に召し上げようなどとは‥。叔父上さまに知られたら叱られましょうぞ。」
「ふふ‥。韻律どのには言われとうない。二千年ほど前、人間を婿にしようとして逃げられたお方に。」
韻律はほほ、と軽やかに笑った。
「ほんにあれは失敗でした。人間は寿命が短いうえ執着が多すぎるゆえ、共に暮らすには向かぬと学びました。次はあの珠のように美しくて強い魂が欲しいもの。」
「それほどお気に召したならば‥。そうじゃ、これより歌留多をいたしましょう。韻律どのが勝ったならば、あの珠を差しあげても良い。」
「ほんとうでございますか、迦具耶どの? 二言はありますまいね‥?」
「天の月に誓って。‥‥玄兎。みなを呼べ。韻律どのと歌留多をするぞ。」
ご機嫌な迦具耶の顔を見て、玄兎は韻律の側近である玄亀と目配せを交わし、ひそかに溜息をついた。
暁の光がさしこむ中を韻律は玄亀の背に揺られて、自分の社へと帰路についた。
懐には首尾良く手に入れた、鬼人の霊力珠が入っている。韻律はかぐわしい伽羅の薫りをほろ酔いの胸に吸いこんで、にっこりと微笑んだ。
「韻律さま‥。そんなものがそれほど欲しかったのですか。それとも迦具耶さまにお勝ちになったのが、嬉しいのですか?」
間延びした声で玄亀がぼやいた。
「これが欲しかったのだよ、玄亀。そなた、気がつかないか‥? この薫りは、我の神域近くに久しくあったもの。昨夏に突然、夜鴉どもが薫りのする穴を塞いでおったと思ったら‥。今日初めて合点がいった。」
韻律は温和な面を微かにしかめて、吐息をついた。
「あの折、我の社の眼前にて凄まじい闘気が二つ、ぶつかり合うた日があったが‥。我は歯がゆくてならぬ、玄亀。何ゆえ人間は我ではなく迦具耶どのに願うたのであろうの? 玄亀‥。我はあまり人間に信心されておらぬのか?」
「滅相もございませぬ、韻律さま。思うに‥龍蛇ではなく鬼人でありましたので、人間も水に関わるモノでないからと要らぬ遠慮を致したのでござりましょう。」
「そうであろうか‥?」
韻律は玄亀の大きな甲羅を撫で、それからおもむろにくふふっと思い出し笑いをした。
「しかし‥迦具耶どのも懲りないお人よな。神は人の願いをかなえるだけ。対価を求めてはならぬと言うに、約束ばかり押しつけて‥。叔父上に知れれば、再び天の月に召し上げられてしまうやもしれぬ。以前にも人間に無理難題を押しつけたと知られて、月に引き揚げられ、ざっと千年も謹慎処分を喰らうたのに、お忘れと見ゆる。」
むろん、そのような迦具耶であるから―――気のおけない友なのだけれど。
「‥韻律さま。間もなく川に入りまする。」
「あいわかった。」
玄亀の声にうなずき、眠そうなあくびを一つすると、韻律は身を横たえた。