魔王様降臨?
週末のある日、充分に寝坊を楽しんだ匠がリビングに顔を出すと、そこにいたのは姉の有樹一人だった。
普段であれば両親がそろってくつろいでいる時間のはずなので軽く首をかしげてしまう。
「はよう?」
「おはよう。ご飯は炊飯器、おかずは冷蔵庫に入ってるよ。父さんと母さんは本家がお呼びだって急にでかけた」
「なるほど。サンキュ」
スマートフォンから視線を上げ、ちらりと笑みを浮かべた姉が知りたい事をすべて教えてくれたので、短く返事をするとさっそく冷蔵庫にむかう。
彼の食欲を考慮してか、大皿に盛りつけられたおかずを取り出すとレンジに入れる。
待っている間に水を飲み、くみ直したもう一杯とよそったご飯をリビングのテーブルに運ぶ。
冷たくなければいいという主義の匠が、一般的に温かいとは言えない程度に温めた皿も運んで床にあぐらをかく。
「いただきます」
「はい、どうぞ。……って、私何にもしてないけどね」
「気分気分。無言でいられるよりいいし」
のりつっこみに近い間合いの言葉に匠が軽く応じる。そうしてからふと、姉がこの時間にいるのも珍しい事に気づく。
昔なら休みは一日中家にいるのが当たり前だったが、遊木と知り合ってからの有樹は週末に一度も出かけないのはかなり珍しい——はずだったのだが、ここ三週間程は一度も出かけていない。
「てか姉貴、最近週末よく家にいんな?」
「いるねぇ」
「あの人とけんかでもしたのかよ?」
どうにも気にせずにいられず、軽い調子で話題をふる。
匠自身は遊木と直接話した事がほとんどないのだが、有樹の様子を見ていればいい関係が続いているのはわかる。
何よりもこのしち面倒臭い性格をしている姉とうまく付き合えるのだから同類か、人格者か——匠は間違いなく前者と思っているがそのどちらかだろう。
どちらにしても友人の少ない有樹に親しい相手が増えたのは喜ばしい限りだ。話を聞いている限り結婚となれば面倒事ばかりの相手だが、友人としての付き合いがずっと続いてくれる事は願っているのだ。
ただのけんかなら意地っ張りで滅多な事では自分から謝れない姉をけしかけるくらいはしてもいい。
「けんかはしてないよ。単にお遊びの期間が終わっただけ」
「……お遊び?」
先ほどと違い、顔を上げずに返事をよこした姉の言葉に眉をよせて問い返す。
人間関係に対して有樹が使うとは思えない、あまりにらしからぬ言葉を聞いたせいで意味がわからなかった。
「最初から三年って約束だったからね」
「あ〜。そういや、三年たったら返事くれ、って変な告白されてたんだっけか」
つまりその時点で良い返事はもらえない自覚があったんだろうな、と正論ではあるがかなり酷い事をさらっと考えつつ匠がうなずいた。
「てか、三年って友達付き合いも含めての期限だったのか?」
「私はそういうつもりでもなかったけど、今後一切そういう対象として見ないでくれるのなら、って条件つけたら無理って言うんだもの」
「……いや、それは普通無理だろ」
さらりと鬼畜な言葉を口にした姉に、つい盛大なため息を付いて眉間をもむ。好きな相手に、今後一切そういう目で見るなと言われて実行できるのならそもそも恋愛感情はないだろう。けれど、そこで正直に無理だと告げてしまう遊木の融通のきかなさもどうかと思う。
「そんで会うのもやめた訳?」
「だって、下手に会うのだけ続けた結果、遊木さんの関心が私からそれてくれなかったら困るしね」
「それってまずいか? 別に好かれてても実害なければいいんじゃね? 姉貴だってあの人の事かなり好きだろ?」
「そりゃ好きだよ。でも、だからこそ大切な人が苦労しかしないってわかってる相手に熱あげてたら心配になるでしょう?」
最近のブームらしいアプリをする手を休めないまま言われ、匠の手が止まる。
「……それ、姉貴が言ったらお終いじゃね?」
「でも事実でしょ。普通の家ならまだしも、ああいう家の人が私みたいなのを選んだら面倒な事しか起こらないもの。そうとわかってるのにとめないとか、友達失格だと思う」
「……いや、そこは友達ポジションで心配するのやめてやれよ……」
言っている事自体は確かに筋が通っているのだが、相手は間違いなく友人として心を砕かれるよりも、恋人としての相性を検討して欲しいに違いない。
結婚相手としては勧めたくない要素の多い男だが、ここまで綺麗さっぱり検討すらしてもらえてないのはさすがにあわれだ。
「姉貴は、あの人は恋人としてはありえない?」
「いや、あれ以上の優良物件はないと思うけど」
「は?! それ何で断わんだよ?!」
気負いもなくあっさりと言われ、つい声が大きくなったのはしかたがないだろう。
「……というか、匠は私と遊木さんが付き合うの反対だったよね?」
不思議そうに首を傾げた姉の問い返しに匠は頭をかきながらため息をつく。
確かに、反対していた相手と別れた——あるいは付き合わない事にしたのを責められたのでは納得がいかないのも当然だろう。
「まぁそうなんだけどさ……。俺が反対してたのは正直、あの人できすぎだし格の違う家の人っぽいから結婚なんてしたら姉貴が苦労んじゃねぇか、とか、いつの間にかすげぇ親し気なのが気に食わなかったつぅか?
姉貴があの人がいいなら俺は反対なんてしねぇし。親父達だって姉貴等が本気なら賛成してくれっだろ」
「でも賛成はしたくない?」
「そりゃ、自他ともに認めるシスコンとしては姉貴を取られるのが癪に決まってんだろ。でも、んなのは俺の勝手で姉貴が気にする事じゃねぇし」
ご飯を口に運びつつ矛盾の原因となる心境を口にすると、有樹が小さく笑う。
「本当、私の弟が匠でよかったなぁ」
「……シスコン宣言にそのリアクションはどうかと思うぞ?」
「そう? でも私も大概ブラコンだと思うよ?」
「んまぁ、よその話聞いてっと俺らは仲良すぎだしなぁ」
姉の言葉を特に否定する事もなくうなずいたのは、自分が姉に対して持つ微妙な負い目や執着と似たものをむけられている自覚があるからだ。
そしておそらく、姉の方でもそれと知っている。
異性として欲しいのかと言われたらそれは違う。けれど、他の誰かに取られるのは嫌で今のこの距離感を崩さずにいたい。
だからこそ姉がどんな相手を選ぶのか心配だし、選んだ相手が屈託なく送り出せるだけの男であって欲しい。余計な苦労などせず、生活の心配をする事もなく、様子がうかがい知れる場所で生活してくれたら、などと思ってしまうのだ。
「……って、あぁ、そういう事か」
大切な相手にだからこそ抱く想い。おそらくこの姉は大切な友人に対して同じ事を考えているのだろう。
だからこそ、自分の抱えるデメリットを相手に負わせたくないというのが先に立って、何よりも望まれている側にいたいという思いを否定してしまっている事に気づいていない。——あるいは、敢えて目をつぶっているのかも知れない。
同時に有樹自身の遊木との時間を心地よく思っている心を否定してしまっている。それが恋愛感情のくくりに含まれるものなのかは断言できないが、匠の見てきた限り、まったくその要素がないという訳でもないはずだ。
ならばいっそまとまってしまえばいいのに、とも思う。——口に出すのは癪なので言わないが、おそらく遊木と同等以上に有樹の事を考えて大切にしてくれるであろう男がいるとしたら、久本か弘貴しか思いつかない。
そして、その二人と恋愛するのはごめんだと断言されているのだから、遊木を逃したら姉が一生結婚しないのはほぼ確定だ。
本人は生涯独身宣言をしているが、それが恋愛や結婚に対して夢がないからではなく抱える障害からくるあきらめなのは匠も気づいている。
できるのならば幸せな恋愛結婚をして欲しい。
そう考えるとやはりここは背中を押すところなのだろう。
「……てかさぁ、あの人は姉貴といるのが好きで、姉貴もそうなんだろ? 悪い事ばっか考えてないでもう少し前向きになったらどうよ?」
「前向きって言われてもねぇ……」
「だってそうだろ? 姉貴の事だから自分のデメリットは相手に話しても、一緒にいるメリットは自覚してねぇだろうし。だからその辺も含めてもっとしっかり話し合えば?」
てか俺に助けられてるようじゃ駄目じゃん、と内心で遊木につっこみを入れる。
肝心なところでヘタレな気配がすんだよなぁ、などと内心かなり失礼な事も考えたが、これも口には出さない。
「……でも」
「でももだってもねぇよ。姉貴だって、母さんが独身宣言気にしてんの知ってんだろ? 一応でも一回くらい撤回する努力しろって」
姉の弱点である、母親の名前を出すと露骨に困った様子になる。
母親にごく普通の幸せを手にする事を期待されている自覚があるだけに、そこを突かれると弱いというのは把握済みなのだ。
「父さんだって俺だって姉貴には幸せになって欲しいし、今のところ唯一現実的な候補者なんだぜ? 少しくらいは姉貴の方から歩み寄ってやれよ」
食事を続けながら言うと、有樹がちらりと視線をスマートフォンにむけた。
「勢いでメールしとけ。——てか、こんなお節介一度しかしてやんねぇかんな」
自分で聞いても不機嫌にしか聞こえない声音だったが、それに背中を押されたのか有樹がスマートフォンに手を伸ばす。そのまま操作しようとした所で着信音が流れはじめ、驚いたように体が跳ねる。
しかし、画面に表示された名前を確認すると小さく首を傾げた。
「いいよ、出とけ」
おかけになった電話番号は……、という定番のアナウンスの最後が、あなたと話したくないのでかっかりませ〜ん、というふざけたものに変えられた着信音に笑いを噛み殺しながらもうながすと、うん、という小さな返事があった。
「休みんとこごめんなぁ。今ええ?」
「大丈夫。何かあった?」
普段の連絡ではメールが中心の久本が電話をかけてきた事に不思議と思いつつ尋ねると、電話のむこうからやけに大きなため息が聞こえてきた。
「実はな、ば和馬が無理して倒れおったんよ」
「……はぃ?!」
「まぁ、寝不足と過労やから点滴打ってもろたし、今日明日ゆっくりしといたら元通りなんやけど。佐久間っちからも——」
「今どこ?」
言葉をさえぎられた久本が、聞こえた声に含まれる冷気に体をこわばらせる。
普段通りの声音なのになぜか全身が警戒態勢になる。いや、普段通りだからこそなのか。
「和馬のマンションやけど……」
「本人もそこ?」
「せや。入院する程でもないんやけど、実家やとちび共おるしこっちのがゆっくりできる、ちゅう事で」
「わかった。逃さないでおいてね?」
「……お、おうっ」
「じゃあ後で」
声に含まれる冷気とは裏腹な上機嫌にさえ聞こえる挨拶に、電話のむこうで久本がかたまっている事に気がつかない様子で通話を終えた有樹だが、何か恐ろしいものでも見るかのような弟の視線に首を傾げる。
「魔王降臨させるとか……、つわもんだな久本さん」
「やらかしたの久本じゃなくて遊木さん」
着信音から相手を特定したらしい匠のつぶやきに訂正を入れるが、魔王発言はたしなめない。
過去に何度も言われているので、今更文句を言ってもしかたがない、とあきらめているのだ。
「ごめんね、支度して出かける」
「気にすんな~」
食事中の相手を置いて出て行くのは気が引けたか、立ち上がりながらも謝る姉に軽く応じる。
寝坊したのは自分だし、姉にはちゃんと家族以外との人間関係も大切にして欲しかった。
「もし夕飯外で食べる時は連絡入れるから」
「あいよ」
支度のために動き出した姉を見送った匠が口元になんとも人の悪い笑みを浮かべる。
「さて、魔王降臨の後は焼け野原か友好条約締結か、どっちに転ぶのやら、だ」
普段人間関係に深入りしない——というよりも、極浅い関係にしかしない有樹があそこまで怒りをあらわにするのはよくも悪くも関係が深いからだ。そして、この状況の次にどうなるのか匠は知っている。
派手に撃退されて姉からはもはや人とすら認識されていない親戚連中のような末路か、久本のように家族同然の扱いになるのかの二つに一つ。
もっとも、彼が知る限り前者にならなかったのは久本ただ一人である。
そしてそれは本気になった有樹の口撃に耐え切れたのが彼一人しかいなかった、という事実でもあるのだ。
「んまぁ、姉貴が欲しいとか言うなら最低限そのくらいの根性は見せてくれないとなぁ」
大多数の人間が耐えられないことを最低限と言いきるあたり、やはり彼は立派なシスコンなのかも知れない。
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