本にまつわるあれこれ。
思わぬ言葉で派手に咳き込んだ遊木だったが、落ち着く頃は既に有樹は手芸に戻っていた。
手元をみれば相変わらずの細やかな作業で、糸の太さほどの間隔で細かくかがっている。
それもフェルトの端一ミリ弱のところに針を通して、だ。遊木が目標としているその縫い目はひどく繊細な作業で、一朝一夕で出来るような簡単な代物ではない。もはや機械の領域か、あるいは機械ですら真似できない領域なのか、どちらなのだろう。
そう思ってひどく感心するのだが、少し悩んで結局別の事を口にする。
この話題をつつくのは話が向いた時でないと難しいのだ。
「ねぇ、有樹さん?」
「はい?」
「有樹さん、男同士とかそういうの興味ある?」
「たしなむ程度、ですね。好きなジャンルって訳でもないですけど、好きな作者が書いていれば読みます」
「たしなむ、かぁ」
こういう場面でたしなむ、という単語が出てくるのは珍しい。そうでなくとも昨今、あまり使われなくなっている単語だろう。
「というか、かなり腐の臭いがするものに、たしなむ、って単語を使うのに驚いた」
「そうですか?」
「俺の感覚だとね。たしなむ、っていうと茶道とか華道とか、そういういかにもなものを格好つけて言う時に使う、って感じがする」
「ですから、あえてです」
真面目くさった返事をされて、これには笑うしかない。
「有樹さんのそういう感覚って面白いよね」
「そうですか?」
「うん。なんか、言葉の使い方がちょっと新鮮」
「……それ、暗に変だと言ってません?」
眉間にしわを寄せて言われ、首を傾げる。
「変っていうのとは違うかな。なんていうか……。あんまり日常で使わないような表現がさらっと出てくる時あるからさ。知ってて当たり前の単語なんだけど、日常ほとんど使わないような言葉なのに、背伸びして使ってる感じがまったくないっていうか」
うまい説明の言葉が出てこず、悩みながら言葉を紡いだのだが、それで伝わったらしい。
「そういう意味の事なら時々言われますね。たぶん、読書量の違いだと思いますけど」
「そういうものなんだ?」
「たぶん、ですけど。小説を読んでると普段の話し言葉ではあまり使わないような単語や言い回しが普通に出てきたりするでしょう? 本を読んでそういうのに頻繁に触れていると自分の中に定着しますから、話し言葉に使っててもおかしくないかな、と」
自分では意識した事ありませんけど、と締めくくる有樹は、確かにそういった事を意識している様子がない。
けれど、人間の思考は言葉に依存する部分が大きく、そしてその言葉の選択肢の中に大量に読んだ本から得た知識があるとしたら、読書量の差は言葉選びの幅を大きく変えるだろう。
「あれ? でも本を読んでてそんなに普段使わない言葉って出てくる?」
「ジャンルとか作家の癖にも左右されますけど結構出てきますよ。例えば現代物と時代物だとだいぶ違いますし、夏目漱石とか芥川龍之介と、最近のラノベ作家じゃまったく違いますから」
「あ~。それは確かにそうか。……って、有樹さん、そんなのも読むんだ?」
「芥川は大学時代友達がはまってたので結構読みましたね。漱石は童話中心に短編を読み散らした程度です。他によく読む有名どころを上げるなら、池波正太郎、瀬戸内寂聴――っと、この人は源氏物語しか読んでないですけど。有川浩、田中芳樹、小野不由美、上橋菜穂子、荻原規子、夢枕獏あたりですかね。海外の作者ならジェフリー・ディーヴァー、ラノべなら津守時生とか秋川滝美、新堂奈槻、和泉統子なんか結構好きですけど」
「ジャンル広っ?!」
つらつらと挙げられた名前は知らない者も多かった。けれど、説明するに及ばずの二人に加え、池波正太郎といえば鬼平犯科帳や剣客商売といったテレビドラマにもなっている時代物を書いた作家だ。他の作家も図書館戦争、アルスラーン戦記・銀河英雄伝説、十二国記、精霊の守り人・獣の奏者、と上げればきりがない。しかし、そうして数えてみるとジャンルのばらつきはかなりなものだ。時代小説から恋愛、ホラー、戦記物、スペースオペラ、ファンタジー、児童文学、推理物と無節操といえる範囲の広さだ。
加えて有樹が好むテレビ番組は紀行番組や歴史、ネイチャー技術系の番組が多く、そこから仕入れた知識も加わるので彼女が蓄えた言葉の幅はかなりなものだろう。
浅く広くの知識でしかなかったとしても、遊木に群がっていた、芸能とファッション関係の話題がほとんどだった女性達と比べたら語彙の違いは大きいだろう。
もっとも、逆に有樹はその方面にはうといので一概にどちらが上だと決められるものでもないのだが。
「うぅん……。さすが有樹さん。結構読書の趣味は雑食なんだ?」
「ん~。自分ではあんまりわかりませんけど。おんなじようなのばっかり読んでたら飽きるじゃないですか。だから時々手を広げたくなるんですねぇ」
「だからってなんで池上正太郎……?」
最大の突っ込みどころ、時代物の作者に言及したのは当然だろう。
他はとりあえず置くとしても、最初の方で名前を挙げる以上、それなりに読み込んでいるはずだ。そう考えると、何故そこまで彼女が興味を惹かれたのかひたすら謎だ。
「母方の祖父が好きだったんですよ、池波正太郎。年取って文庫本読むの辛くなってきてもしんどいしんどい言いながら読んでたんですね。それで、親達が還暦祝いにハードカバーの全集を古本屋探しまわって買いそろえてプレゼントしてたんですよ」
「それで、そんなに読んでるなら面白いのかな、って興味が出た?」
「ですね。で、読んでみたら面白くてつい。家族旅行の時とか、温泉旅館でだらだらしながら読むのに最適ですし」
「旅行中に?」
「はい。うち、家族旅行は夜のまったりタイム用に全員本持参ですから」
「……なんか、家族旅行の概念が変わりそうだ……」
有樹の言葉に、旅行先で家族がそろって読書に夢中、という光景を想像した遊木が眉間をもむ。
確かに旅行中だからといって常に家族で何かをしている訳ではないだろうが、わざわざ本を持参してまで――しかも全員が、だ――読書にいそしむ、というのは不思議な気がしてならない。
「うち、親が温泉好きなので基本温泉旅館なんですよ。
で、私が体力ないので早めに宿に入るでしょう? 夜が長いから必然みんな本を読み始めるんですよね」
最近はスマホでアプリのマルチプレイなんかもありますけど、と結ばれ、この家族は仲がいいのか悪いのか、と首を傾げてしまう。
せっかく家族全員がそろっているのに本に没頭しているか、さもなければスマートフォンのゲームをしているという。
しかし、マルチプレイという事は、家族がそろって同じアプリをしていて、かつ、アカウントも教えあっているという事だ。本当に仲がよくないのであればそんな風にはできないだろう。いや、それ以前に家族旅行が成立しない。
仲がいいのは間違いなさそうなんだけどなぁ、と遊木は苦笑いになる。
「なんか新鮮だねぇ」
「変っていうのをオブラートに包むとそうなるんです?」
切り返された言葉はきついが、遊木の言葉に悪意がないのを感じ取ったのか有樹はおかしそうに笑っている。
「あ、ばれた?」
まったく気にした風のない有樹に冗談めかして返すと、小さくふき出されてしまった。
「まぁ、うちの家族は普段から夕飯後は家族そろってるのが基本ですから。旅行中でも夕飯後の時間はそれぞれ好きな事をして過ごす、というのは変わらないんですよね」
「あ~、そういう事か。うちは両親が仕事置いてくるの珍しかったから、ここぞとばかり遊んでもらってたけど、そういう感覚じゃないんだね」
言われてみれば不思議でも何でもない種明かしだ。常日頃から家族そろってゆっくり過ごす時間を取れていれば、珍しく一部屋に全員そろっている、という事もない。その時間はあくまでも日常の一部なのだから、過ごし方も普段通りになるのだろう。
旅行中の過ごし方としては異色かもしれないが、それだけ家族仲がいい証拠だろう。
「なんかそういう距離感、ちょっと憧れるかも」
別段親に放って置かれた訳ではないが、学生時代はともかく社会に出てからは家族旅行などした覚えがない。
「うちの場合、父親が旅行好きなだけという気もしますけど。
それに、こういうのはそれぞれの家庭でのちょうどいい距離感ってあると思いますよ。うちはたまたまこうでしたけど、遊木さんの家では遊木さん達なりの楽しみ方があったんでしょうし」
どちらがいいというものでもない、と含められ、小さくうなずく。
確かに、家にいても仕事をしている事の多かった両親が仕事を二の次にして相手をしてくれる旅行は、ただ普段行けない所に連れて行ってもらえる、という以上の価値があった。
普段から一緒に過ごすのが当たり前の有樹にはわからない高揚感を味わっていたのかもしれない。それに、普段忙しかった両親がそろって仕事を離れるのは大変だったろうに、家族旅行が仕事で中止になったり切り上げられた記憶はない。
普段側にいる時間が少ないからこそ、たまの旅行が特別だったのは子供にとってだけでなかったのだろう。
「確かに、たまにだから、って母親がやたら甘かったり、父親が小難しい顔のまま一緒に遊んでくれたりで楽しかったなぁ」
「そういうのも楽しそうですね。うちの場合、あくまでもいつものおでかけの延長だったので誰かの様子が変わるって事はなかったですし」
「なるほど。確かに位置づけの違いなんだね。うちの家族にとっては年に一度か二度の大イベントだった」
そういうものなのだろう、と納得できる反面、それでも有樹がうらやましいのばかりはしかたがない。
おそらく、今まで聞いた事のある中で一番の仲良し家族に違いない。
「でも、みんな本を持ってくって事は、家族そろって本好きなんだ?」
いくらか意識して話題を戻すと、あっさりとした肯定が返る。
「ですねぇ。――なので、居間と台所はカオスです」
「台所っ?!」
そんな色んな意味で危険な場所にまで本が侵食しているのか、と驚きの声を上げると、有樹が慌てた様子で手をふった。
「いえ、うち、ダイニングの事も台所って言うんですよ」
「あ、なるほど。それなら納得だ」
流石に火の気のある所に本を収納するのはねぇ、とつぶやくと、まったくです、と真面目くさった返事が来る。
「まぁそんなこんなな訳でして。各自の部屋に天井までの幅百二十くらいある本棚があって、前後二列にぴっしり積み上げてもあふれた本が共有スペースを侵食してるわけですよ」
「……って、なんなの、そのあり得ない本の量っ?! 床抜けるよっ?!」
「いえ、ちゃんと構造的に強い部分を本棚にしてもらいましたし。厚さ二センチくらいある板で壁に埋め込む形ですからたぶん荷重的には問題ないかと」
「……なるほど」
そもそも家自体が本があふれる前提での設計らしいと知って、遊木はいくらか乾いた笑いをもらす。有樹の話では今住んでいる家は高校生頃に新築して引っ越したという。つまり、その時点で持っていた本と増える分もある程度計算して本棚を用意しただろうに、それでも各人の部屋からあふれ出ているというのだから、そろいもそろって本好きな一家だ。
遊木も有樹が入院している間に二度ばかり有樹の自宅を訪ねた事があるが、確かに通された部屋にも本棚らしき家具が置いてあった。らしき、とつくのは、前面に布がたらしてあって何がしまってあったのかわからなかったからだ。
「でもそれだけ本があって混じって困ったりしないの?」
「基本的に共有スペースにある本は破損させない限り好きに読んでいい、というルールなんですよ。それが嫌なものは各自自分の部屋で管理しろ、って事ですね」
「それはまた……。読書の幅が広がりそうなルールだね?」
「ですねぇ。自分では買わないような本でも、家にあれば暇な時に読んだりしますし」
予想通りの返事に、有樹の読書傾向が雑食極まりない理由の一端は確実にこれだと確信する。自分が好きな本だけでなく家族の選んだ本まで手を伸ばしていれば読む傾向がはばらつくのも当然だ。
「遊木さんの家では本は全員個人管理ですか?」
「個人の所有物として持っておきたい本は自分で買うね。共有でかまわない分は図書室に購入申請かな」
「図書室があるとか……」
目をまたたきながら返事をする有樹の表情の裏には、あきれとも羨望ともつかない色が見え隠れしている。
一般家庭に育った彼女にとって、本のためだけに部屋もさける住宅事情は何ともうらやましすぎる話だ。
「ま、うちは部屋数だけはあるしね。付き合い的な意味でもはやりの本はざっと目を通しておく必要もあるから。めぼしい本は担当が適当に買いそろえてくれるし、申請すればある程度までは買ってもらえるかな。――流石に漫画とかラノベは自分で買え、って却下される事が多いけど」
「うらやましすぎる環境ですねぇ」
本当にうらやましそうなため息が混じった返事に遊木は小さく笑う。
「有樹さんがうちにくるのが嫌じゃなかったら、今度図書室案内しようか?
読みたい本があったら貸し出すよ?」
何気なく思いついた提案を口に乗せると、有樹が驚いたように目を見ひらく。
その後、首を傾げて視線を上に逃がす仕草はかなり真剣に悩んでいる時に見せる癖だ。しばらくの間その姿勢でかたまっていた後、ため息の後で返事があった。
「……なし崩し的に入りびたる事になりそうで怖いのでやめておきます」
もの凄く残念ですけど、という副音声が聞こえてきそうな態度に今度はこらえきれずついふき出した。
「なんだったら今度、うちの図書室の目録もらってこようか? でなければ、有樹さんが読んでみたかったけど買ってない本のリストもらえたらうちにあるか確認してくるけど」
「――だからそういう風に誘惑するのはやめてください、とっ!」
「えぇ? だって、有樹さんには手芸関係でお世話になりっぱなしだしさ。図書室の担当だって利用者が増えれば喜ぶだろうし、俺も有樹さんが楽しんでくれれば嬉しい。君だってただで本が読めて嬉しい。見事にみんな得しかしてないのになぁ」
「それとこれとは別問題です!」
きっぱりと断言され、あまりひっぱると機嫌を損ねそうだと判断した遊木は口をつぐむ。
有樹の好きな本を貸し出すくらい、誰も何も言わない。そもそも知り合いに本を貸す程度は他の家族もやっているし問題にされるいわれもない。だからその意味では何も問題はないのだが、遊木達家族に深入りしたがらない有樹にとっては関係を深くしそうな事を避けるという判断が最善なのもわかる。その辺の判断は見事だな、と思うのだが、それがいくらか悔しいのも確かだ。
彼女以外であればここぞとばかりに食いついてきそうな展開で逃げられるのには慣れてきたつもりだが、もっと頼って欲しいと思ってしまう。
「もっと俺の事利用してくれていいのに」
「嫌ですよ。
利用するための相手は便利な道具であって友達じゃないですから。遊木さんもわざわざ自分の価値を下げるような事しない方がいいと思いますよ?」
眉間にしわを寄せいくらか不機嫌そうに言われ、これには遊木が目をまたたく。
潔癖に過ぎるきらいのある有樹の言葉に驚いたのもあるが、彼女の指摘に、同等以上の家に生まれた相手以外は自分を利用するために近付いてくるものだ、という思い込みを捨て切れていなかったのに気づかされたためでもある。
心のどこかで、まったくそういった気配を見せない有樹の態度が納得しきれず、彼女にとっての利用価値を作り出そうとしていた。
裏を返せば、有樹にとって利用価値がなくなれば関係を切られる、と考えていたという事に他ならない。
しかし、加害者との間に入って損害賠償の仲立ちをする、という役目は遊木自身ではなく遊木家の弁護士の仕事だし、彼女にこれといって利益をもたらしていない事を自覚して、何か別の付加価値をつけたい、という心理が必要以上に有樹に有利な提案をさせていた。
しかし、有樹がこれまで、自分に群がってきた人間のように損得だけで遊木との関係を計っているとしたらとうの昔に関係を切られていて当然なのだ。
なにせ、有樹の好意から関係が始まっていて、その見返りに物を渡そうとした遊木はことごとく断られている。
そもそも彼女が二人の関係において、利害を全く無視しているのはわかりきっているのだから。
それでも彼女になにがしかの利益をもたらしたいというのは、単純な好意というよりも、相手に利益がなければ付き合いが続かない、という遊木の思い込みから来る一種の強迫観念があるに違いなかった。
「……うっわ、やばい。俺、かなり本気で馬鹿かも……」
自分の中にあるどうしようもない心理を自覚した遊木がうめく。
有樹が他の人間と違って遊木に利益を求めないのが嬉しいのに、それを求められないのがとても不安だというとんでもない矛盾を自覚したから。
「まぁ、自分の馬鹿さ加減を自覚できるのは思っている程酷くない証拠かと」
なぐさめているのか塩をぬりたいのか、どちらともつかない言葉に遊木は苦笑を返すしかない。
突然の言葉は意味がわからなかっただろうに、何も追求せずにこんな言葉だけを返してくる彼女の距離感は、遊木にとってとても居心地が良かった。
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