ある日の佐久間姉弟。
目の前で楽しそうに電話で話している姉を見て、佐久間匠はため息をついた。
よく言えば人見知り、端的に表現すれば人間不信と言ってもいい姉に親しい友人ができたのはいい事である。ただ問題なのは、匠にとってその相手はどうにも気に食わない男である、という一点だ。
男というだけでも眉をひそめるのに、姉はその男のせいで大怪我をし、一生治らない後遺症を抱える事になった。
そんな相手と付き合いを続けるなんて……、と眉をひそめてもおかしくないのに、更に頼まれたという幼児向けの布おもちゃを作っているのだから人が良いにもほどがある。
つい、そんな釈然としない気分のまま姉を見ていると、通話を終えた相手が不思議そうに視線をむけてきた。
「どうしたの?」
「どうって、姉貴のお人好し具合に呆れていたというか、腹を立てたというか?」
隠す事でもないし、一度何を考えているのか聞いてみたかったこともあって率直な言葉を選ぶ。
すると姉が小さくふき出した。
「うん、それ、父さんにも言われた」
「……はぁ。自覚しろよ。姉貴はそうでなくともお人好しだけど、今回のはさすがにどうかと思うぞ?」
「ん~……。でもさ、本人の知らないところで他人が暴走しただけだもの」
「だとしても、あの人がちゃんと犯人をふっとけばこんな事にはならなかった。過失ゼロって事はないんじゃね?」
どうしても納得がいかなかった部分を指摘すると、有樹が肩をすくめた。
「別に私も過失ゼロとは思ってないよ。でも、賠償しろ、って言うほどの事じゃないと思ったただけだし。――たぶん、あの人は言われない方がしんどいんじゃないかな」
付け加えられた一言を口にした時だけ、有樹の瞳に表現しがたい陰りが宿る。
「姉貴の場合、その位黒い事も考えててくれないとかえって心配だな」
しかし、匠はそれを当たり前の事だと感じたので軽く受け流す。
表に出して文句を言うだけが相手を責める事ではない。この姉の性格であれば、こういうからめ手の方がらしい気がするのだ。
「てか、姉貴は黒いのが売りなはずなのに、どこで漂白されたんだよ?」
心配からくるいらだちのせいでついきつい言い方をすると、言われた姉が首を傾げる。
「私、洗濯物?」
「いや、姉貴漂白するなら髪の毛溶かすくらいきっつい塩素がいるだろ」
「それ、色抜く前に禿げるし」
「禿げる前に皮膚がただれるわっ!」
とぼけた返事についつっこみを入れてから話がそれた事に気づき、わざとなのか違うのか、相変わらず煙にまくのがうまいなぁ、と内心ため息をつく。
「そうじゃなくて、最近の姉貴はあの人に親切すぎね?」
「前に病室で会った時は嫌いじゃなかったみたいなのに、評価下がったねぇ」
「そりゃ、あん時はあの人と関わったせいで突き落とされた、って知らなかったからな」
「ま、その分しっかり対応してくれてるよ」
「当たり前だっつの」
確かに行き届いた対応をしてくれているのは匠も知っている。日常生活から仕事に関してまで、有樹の生活におけるすべてに渡って、様々な手配を驚くような早さで済ませてくれた事に感謝しているのは確かなのだ。
なにせ、姉が退院するまでの間にエレベータの増設工事を終わらせようとしたくらいだ。――もちろんその計画は姉の、そんなのいりません、の一言で中止になったのだが――その本気度は単なる罪悪感だけでは生まれない事くらい、匠にもわかる。
その代わり、有樹と家族達の希望を受けて自宅内に手すりを増設したり、一部をバリアフリー化するためのリフォームを行った。そもそも有樹の持病を考慮して階段や風呂場、玄関には手すりが設置されていたし、風呂場なども極力段差を減らしていたので規模こそ小さかったものの、有樹の自室にある、天井まである本棚に詰め込まれた本の出し入れのために軽くて丈夫な上、安定感抜群のはしごを調達してきたり、細かな所まで行き届いた手配をしてもらったのだ。
だから、その点に関しては感謝しているし、その熱意を認めるにはやぶさかではないのだが……。
「姉貴を好きだとか、気にくわねぇ」
「まぁ、とち狂ってはいそうだよねぇ」
「……いや、そういう問題じゃねぇし」
細かい作業を続けながらさらりと論点のずれた返事をよこされ、匠が脱力した声を返す。
「姉貴にはああいう派手なタイプは似合わねぇよ。俺としては久本さんのがおすすめ」
「あいつと結婚とかないわぁ」
匠には信じられない細かさでフェルトをまつりつけながらの返事は、どこか面白がるような色がある。
「なんでだよ? 厄介な親戚もいなそうだし、姉貴とあののりで会話できんなら相当親しいんだろ? いい相手じゃん」
匠は何度か、飲んでいる間に遅くなったから、と有樹を送って来た久本と顔をあわせた事があるのだ。
エセ関西弁はつっこみどころだろうが、それを除けば人嫌いな姉がずいぶん気安くしていたのだし、今後それだけ親しくなれる男性とめぐり会う可能性を考えたら、もうあの人でいいんじゃねぇの、と思ってしまう。
「というか、私の心配なんてしてないで、匠は自分の将来を考えたらどうなの? 彼女ができないわけじゃないのにちっとも続かないじゃない」
「あぁ、そりゃしかたねぇって。俺、将来姉貴の介護料払う気満々だし。そのために貯金すんのに腹立てるような恋人ならいらね」
「……それ、怒らない子がいたら会ってみたいわぁ」
彼にとっては至極当たり前の条件を口にしただけだというのに、姉に盛大なため息をつかれてしまった。
「三十路過ぎならまだしも、匠の年でそんな事言われて納得できるはずないと思うんだけど?」
「でも俺はそのつもりでバイト代貯めてんだぜ? 別に彼女におごったりプレゼントしたりしてねぇわけじゃねぇし」
「いやだから、親ならまだしもなぜ私……」
「ん? だってうちの親、どう考えたって自分達の老後の資金はがっつり貯めこんでそうじゃん。二人が生きてる間は姉貴も仕事してっし心配ないけど、二人が死んだら家事の問題もあるし、ヘルパーとか必要だろ? したら金いるじゃんか」
「いや、老後の資金くらい自分でなんとかするし」
「てか、甘えろよ。出してやるってんだから」
「匠の結婚とか、家庭持つ機会奪ってまで老後の安心は欲しくないんだけど」
「人の趣味をとやかく言われてもなぁ」
「趣味っ?!」
よほど驚いたのか、有樹がひっくり返った声を上げる。
そんなに意外かよ、と思うが、誰かを頼る発想がないのもらしいところかもしれない。
けれど、匠にとって姉のために貯金をするのはもはや趣味なのも事実だ。
まだ自分が世界の中心だった幼い頃、無神経に自分の都合をふりかざして姉を傷つけてしまった。
それなのに何も言わず、普段と変わらぬ笑みで自分をなだめてくれたあの頃、一体どんな心境だったのかは怖くていまだに聞けない。
その罪滅ぼし、というだけではないが、匠にとって有樹のために何かをするのは当然の事なのだ。
「というかさぁ、匠はもっと自分の人生をよく考えた方がいいよ?」
「しっかり考えてるぜ? 柔道整復師とか、今後食いっぱぐれの心配がないいい職じゃねぇ? 病院、接骨院、介護施設、スポーツ関連、開業、と選択肢も広いしな」
のんびりと告げると、姉がひとつため息をついた。
「というか、匠、あんた昔は医者目指すって言ってなかった?」
「そのつもりだったんだけどさ、なんか調べてみたら医者になるよりこっちの方が姉貴のためになりそうだったから」
有樹の抱える障害は成長に伴って症状が顕在化していく傾向にある。それ故に生後すぐに手術を受ければ改善の可能性はあった。要するに、症状が出る前にその原因となる部分を取りのぞいてしまう、という発想だ。
そして、成長が終わってしまった後にその手術を受けたところで症状が改善するとは限らない。その上、既に安定してしまっている状態をいじって悪影響が出る可能性すらあるという。
そうなると医者の手を借りるよりも、むしろ障害をかばおうとして通常以上の負荷をかけている他の部分の筋肉や腱の治療をしてやる方がいいような気がしてくる。
そう考えて匠は医者ではなく柔道整復師に進路を変えたのだ。
「だからなんで、私の役に立ちそうな職を選ぶかなぁ」
しれっとした匠の言いように有樹が深々とため息をつく。
彼女にしてみれば弟は自分のためにやりたい事をあきらめているようにしか思えないのだ。
幼い頃はもっとちゃんと自分の事を考えていた気がするのだが、いつの頃からか自分の事ではなく彼女のためにばかり生きている気がしてならない。
両親に多かれ少なかれその傾向にあるのは、障害を抱えていて余計な心配までかけている自覚があるので気にしてもしかたがない、と割りきったのだが、なぜ弟まで……、と不思議でならない。
「そりゃ俺がシスコンで姉貴フェチだからしかたねぇな」
「言うに事欠いてそれっ?!」
相手のために何かしようとして嫌がられるとかなぁ、といくらか面白がりながら返した言葉には、またしても叫びじみた声が応じた。
「つか、姉貴は俺にかまわれんの迷惑?」
「……んや、そういう事じゃなくてね?」
「ならいいじゃんか。俺だって、姉貴より大事にしたい相手ができたらそっち優先するぜ? 今んとこ姉貴が一番だから姉貴のために、ってのが軸になるだけだしさ。俺、自分のため、ってより、身近な誰かのため、の方が気力続くんだよな」
掛け値なしの本心を告げると、目の前で有樹が眉間にしわをよせた。
「本当に無理してないの? いくら昔父さんと母さんが色々言ったとしても、ちょっと私の事大事にしすぎ」
本当に自分の事を心配してくれているとわかる、渋面での言葉に自然と匠の口元がゆるむ。
姉は、自分に甘すぎる、というが、そういう彼女の方こそ自分に甘い。
なんだかんだ言いつつ、毎年誕生日には何かしらプレゼントをくれるし、小さい頃は本当に姉の後を追いかけてばかりいる子供だった記憶がある。五才離れた自分が一緒ではできない遊びも多くつまらなかった時もあるだろうに、邪険にされた記憶はあまりない。
一時、身勝手な理由で一方的に姉を嫌って避けていたが、そんな時期ですら有樹は態度を変えなかったのだ。
そんな姉の鷹揚さが本来の性質なのか、自分達に対する負い目からそうしているのか、どちらなのかはっきりしないのが気になるところだが。
「つか、それ言ったら姉貴もだろ。ほとんどけんかした記憶がない、つったらまわりに気持ち悪がられるんだからな?」
「えぇぇ……」
匠の言葉に有樹がなんとも微妙な表情になる。その表情が本当に胡散臭そうでつい笑ってしまった。
確かにこの年になればけんかなどしないが、子供の頃となると話は別だ。兄弟のいる友人達に聞くと、年が近かろうが離れていようが、同性だろうが異性だろうが、頻度に差はあれけんかはしているものだ。
ある程度の年になり、まったくと言っていいほどけんかをしていない自分達が特殊例に含まれると知ってからというものの、匠は姉が色々な所で折れてけんかにならないようにしてくれていたとしか思えなくて落ち着かないのだ。
「えぇぇ、じゃなくて。俺らがけんかしてないのは姉貴がならないようにしてっからだろ?」
「え? 何その言いがかり」
けれど、話題が向いた時に、とかなり気合を入れて尋ねた言葉には、首を傾げてまばたきをする、という本当に意表を突かれた時の態度が返された。
「……言いがかり、って……」
拍子抜けのあまりついため息混じりになると、マイペースな姉が小さく笑う。
「だって、小さい頃けんかにならなかったのは一緒に遊んでるように見えて別の事してたからだと思うし」
「は?!」
予想外の言葉に食い気味の反応をすると、有樹がいっそうおかしそうに笑った。
「たとえば……、んと、そこのアルバム取ってくれる?」
リビングの片隅に積み上げられている本にまぎれている、二人が小さかった頃のアルバムを指されて匠が腰を上げる。指定された数冊を抜き出すと、一緒に見る都合もあって姉の隣に座り直した。
「えぇと……。あ、ほら、これ」
そうすると有樹は一番上の一冊をぱらぱらとめくり、とある一枚を指した。
のぞきこむと、それは四才の匠と九才の有樹が並んで絵を描いている写真だ。年齢が正確にわかるのは、匠四才・有樹九才 仲良くお絵かき、と母親のコメントがついているからである。
「あぁ、俺が遊んでもらってることだろ?」
「よくみて。匠はクレヨンで絵を描いてるけど、私何してる?」
言われて写真の中の姉の手元をよく見ると……。
「よくわかんねぇけど、やったらこまかいな? これ、姉貴の画力で描くの無理じゃね?」
多少ぼけてはいるものの、風景画が何やらずいぶん細かく描きこまれている。一見ぬりえのようにも見えるが、最近ならまだしも昔にここまで細かなものが市販されていたとは思いがたい。
「うん。だってこれ、写真をコピーで引き伸ばして、トレーシングペーパーで輪郭写した後、色塗ってるんだもん」
「はっ?!」
またしても予想外の事を言われ、写真と姉を見比べる。
「使ってるのだって、私は色鉛筆だけど匠はクレヨンでしょ? 一緒の事なんてしてないんだよ。私は私で好きな事をしてて、隣に匠がいるから話しかけられたら返事してただけだもの」
「……まじか」
とんでもない返事に唖然とするが、次々示される写真の中、確かに似たような事をしている雰囲気だが露骨に姉の方が高度な事をしている。
しかし、それは屋内での遊びに限った事で、外での遊びでは逆に匠の方が上手なのがわかる。普通であれば年の差を考えるとありえないが、この写真の頃の姉は既にインドア特化になりつつあった。
大抵の運動は運動神経の塊である匠の方が達者だったのは当人達の記憶にもある通りだ。
「うちの親はさ、一緒にいてね、って言ってもちゃんとどっちも退屈しないように遊び道具用意しててくれたからね。遊んであげてた、って言うより、隣にいるからやらかしてないか時々確かめてた、ってだけだもん。けんかするも何もないよね」
「……そういや、家族旅行行ってもスキーとかスケートとか、俺が父さんと満喫してる間、姉貴と母さんは買い物だの製作体験だのしてたな……」
「でしょ? 家でもわりとそんな感じだったから。それに匠は覚えてないみたいだけど、匠がまだ一才くらいの頃かな? 父さんと母さんに言われたんだよね。私と匠は好きな事も得意な事も違うから、一緒にいても同じ事をしなくていい。お互いに楽しい事をしてけんかしないでくれればそれでいい、って」
「……はぁ。さすがうちの親?」
やけに達観した言葉にため息をつくと、だよねぇ、といくらか呆れた声が同意した。
「でもまぁ、そのおかげで私は運動で匠に敵わなくなっても、得意分野の違い、って、割りきれたけどね」
今度ばかりは苦笑いで肩をすくめた姉の返事に匠は目をまたたく。
幼い頃から日常的に一緒にいても、別の事をしていれば成長した匠がスポーツに興味を持っても違和感なく別行動ができる。加えて室内遊びでは有樹の方が上、運動では匠、とどちらかが一方的に卑下するような事態を避けられる。
どちらにも相手に対する引け目を感じさせず、かつ、好きな事を自由にさせてやれる、という両親なりの気遣いだったのだ。
「やべ、俺、全然気づいてなかった……」
「ま、私も気づいたのは結構大きくなってからだから、むこうも狙いに気づいて欲しいとは思ってないだろうしいいんじゃない?」
のんびりとした言葉に、そうだな、とつぶやく。
確かに両親は気遣いを理解して欲しいような性格ではなく、ただ自分達がのびのびと育ってくれれば満足な人達なのだ。
匠の将来にしたって、医者を目指す、と言い出した時も、やっぱり柔道整復師を目指す、と目指す先を変えた時も聞かれた事は二つだけ。
「……そういや進路に関しても、家族に気を遣ってやりたくもないのに選んだんじゃないか、と、本当に一生の職としてやっていけるのか、しか聞かれなかったしなぁ……」
息子の進路について言いたい事は色々とあっただろうに、それだけを確認した後は全面的に協力してくれている。
我が親ながらとんでもない人達だ、などと、多少恩知らずな事を考えてもしかたがなくもあるだろう。
「だから、私が遠慮してたからけんかにならなかった、っていうのは言いがかりだからね?」
「ん、了解。それは納得したわ」
それが理由のすべてではなさそうだが、おおよそは親の配慮によるものだ、と納得がいったのでおとなしく引き下がる。
そうしてしばしたってから、匠はふと思い立ち付け加えるように呟いた。
「大丈夫。俺、重度のシスコンな自覚はあるけど姉貴に欲情はしねぇから」
「ぶっふうっ?!」
すると有樹が盛大にふき出す。
「あ、やっぱ疑ってた?」
「……匠?」
茶目っ気たっぷりの言葉に、人間ここまであきれが顔に出せるのか、と言いたくなる程の遠い目で言われ、匠は喉の奥で笑いをかみ殺す。
希望進路を告げた後、父親と二人きりの時に同じ内容を確認されたのだ。なんだかんだで発想の似ている父親が心配したのだから姉も気にしているだろうと思ったが、それは見事に正解だったらしい。
「いや、父さんが心配しててさ」
「親子でなんて会話してるのさ……」
「ん? でもあれだぜ? 俺が言われたの、もし本気で姉貴の事欲しいならちゃんと姉貴の気持ちと体の事をよく考えてから行動しろ、ってそんだけだよ?」
「……それはそれでなんか納得が……」
近親相姦を疑われてそれでいいのか……、と眉間をもむ姉の姿を見ながら匠は小さく笑う。
実際にはもう少し込み入った話もしたのだが、それは別に姉に話すような内容でもない。聞かせる必要もない話だ。
「んまぁ、ほら、俺らの親だし」
「うん。まったく理由になってないけど……、なんか納得した」
無茶苦茶な言葉でしめくくると、苦笑いでのうなずきが返ってくる。
本当にまったく理由になってないのだがなんとなく納得できてしまうあたり、この両親にしてこの子あり、といわれる所以なのかもしれない。
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