ある日の遊木兄弟。
「兄貴、頼まれてたやつ持って来た」
半開きにしておいたドアをノックしながら声をかけられ、パソコンにむかって作業していた春馬が顔を上げる。
「悪い。丁度時間が空いたから今日のうちにすませたくなってな、急かしてしまった」
「いいって。どうせほとんど完成してたし」
部屋の中へ体を滑りこませながら応じたのは弟の和馬――いわゆる遊木だ。言葉通り不快に思っている気配は微塵もない。
この弟はよほど理不尽な難題を押し付けでもしない限り、頼まれ事に嫌な顔をしないのだ。かと言って何を言われてもただ引き受けているわけでもない。無理な事、納得のいかない内容に関してはしっかりと再考や説明を求めてくる。
まだ甘い部分こそ残っているものの、仕事の片腕として考えるにはなかなか理想的だと言えた。
会社の経営だけでなく、一族の取りまとめ役も半ば父親から引き継いでいる春馬は忙しい。遊木も分担はしているのだが、最終的に春馬の決済が必要である。
今持って来てもらったのは遊木が担当した案件の報告書で、本来の期日はまだ数日先だったのだが、常に余裕を持って仕事を進める遊木であれば終わっているかもしれない、と期待半分で頼んだものだ。
最近は恋人候補――相手の同意がないあたりまだまだ前途多難だが――に関わる時間が増えているが、まったく仕事がおろそかにならないあたり、可愛げがない。
もっとも、恋愛沙汰で仕事に支障をきたすようであれば弟といえど将来グループの要職につけるのは考えなおさなければならないのだが。
「子供寝かしつけてからまた仕事とか、兄貴も大変だ」
そんな事を考えていると、机に近づいてきた遊木が書類をさし出しながら苦笑いでつぶやく。
妻と一緒に家族そろって寝室に入った後、春馬は子供達が寝付くと起きだして仕事の続きをする。
区切りがつくまで待たせていては子供達と接する時間がなくなってしまうので、夕飯後は家族団欒を優先する、というのが遊木家の不文律のようなものとなっていた。
「それでも、子供達と話す時間すらとれないよりずっと幸せな事だろ。慣れるまでは多少辛かったけど、慣れればいい気分転換にもなって一石二鳥だ」
さし出された書類を受け取りながらの返事は、口調も表情も柔らかい。
「それに、香澄の事をあれこれ言わせないためにも余計な隙は見せられないしな」
けれど、つい続けて弱音じみた言葉がもれたのは、自覚しているより疲れていた証拠なのかもしれない。
言った方も驚いたが、言われた方も驚いたらしく、遊木は目をまたたく。
兄がこんな風に弱音と取られかねない事を言うのは本当に珍しい。しかもそれが障害を抱えた末っ子の事となると尚更に、である。
「まだうるさく言う奴がいるんだ?」
「まだも何も一生続くだろうさ。俺達が何かする度、節目を迎える度、必ず言われ続けるんだよ」
よほど驚いたのか、いくらかきょとんとした雰囲気のまま尋ねられ、答える声は自分で聞いてもなんとも苦り切っていた。
いくら時間がたとうと、春馬が結果を出そうと些細な粗を躍起なって探し、どんな細かな事でも鬼の首をとったかのように得意げにあげつらってくる人間は跡を絶たない。
いい加減にして欲しい、というのが春馬の正直なところだ。そんな気分が隠しきれず表に出てしまったのだろう。
「たまには飲みながら話す?」
言葉から何を察したのか、誘う声は心配げな色をしていた。
どうせばれてしまっまたのなら意地を張る必要もないし、弟の心遣いがありがたかったのもある。たまには二人で飲むのも悪くないな、と仕事の予定を頭の中で確認する。
「区切りつけるから先に行っててくれ」
「わかった」
それ程時間はかからない、と踏んでそう答えると、弟はほっとした様子でうなずいた。
アルコールを好む客をもてなすのにも使う、子供達は立入禁止の部屋に春馬が現れたのは十分後だった。
その頃には数種類のつまみと氷や水などがそろっていて、遊木はソファでスマートフォンをいじっているところだった。
「佐久間さんか?」
熱心な様子についからかいの言葉がもれたのは、弟がずいぶん執心なのが心配だったからだろう。
「まぁね。ちょっと、有樹さんにキャラ貸して欲しくてお願いのメール送ってた」
「あぁ、あのアプリか」
弟とその友人がよくやっているパズルゲームは、子供達も興味を持ったので時折春馬もやっている。
子供達にねだられた時しかやらないでいたら、和馬君の方が上手だね、と無邪気なコメントをもらい、密かに傷ついて練習しているのは余談である。
それ以来すきま時間に、弟から攻略情報を教えてもらったりレクチャーを受けているのは、子供達に知られるわけにいかない重大な秘密の一つでもある。
「有樹さん、今回の有料ガチャの目玉キャラを一円も使わずに四体も出したらしくてさ。信じらんないよね」
「ほぅ? そりゃ強運だ」
大概においてガチャの目玉になるようなキャラクターは数万をつぎ込んでも出なかった、とぼやく人間がネット上にあふれ出るものだ。
それを無料配布されたアイテムだけで四体も引き当てるなど、かなりの運の無駄遣いである。
「本人は別のキャラが欲しくて回してたみたいでさ、いらないのが一杯出た、って半泣きの顔文字と一緒に写メ送ってきて、隆に、何量産自慢してんねんっ?! って全力つっこみくらってたよ」
その時の事を思い出しているのか、遊木は笑いをかみ殺している。
「……っと、返事来た。悪い、ゲリラだけ入らせて」
着信を知らせる振動に遊木が返事を待たず操作を始める。
春馬はその間に用意されていたつまみを口に運び、酒をつぐ。弟がスマートフォンを置くと、なんとなく乾杯の仕草をしてから口をつけた。
「しっかし、兄貴とさし向かいで飲むの、ずいぶん久しぶりな気がする」
「だな。……香澄が産まれた頃以来か?」
あの頃は色々大変な時期だったので、夜中に一人で飲む事が多かった。
けれど、そうして一人で酒をあおっているとたいていこの弟が現れたのだ。特に何を言うでもなく、ただ側で自分の事をしながら黙って飲んでいるだけなのだが、どこか不器用な弟の気遣いが心地よかった。
「今だから言うけど、あの頃の兄貴はノイローゼにでもなんるじゃないか、って心配になるようなひっどい顔色してたよ」
「まぁ、きつい時期だったからな」
苦笑混じりに言われ、これには苦笑いを返すしかない。
香澄が障害を抱えているのは妊娠中の検査でわかっていた。
その時点ではまだ堕胎も可能で、どうするのか妻と何度も話し合いを重ねた。
周囲から祝福されるばかりではないだろう、と覚悟を決めて今の道を選んだつもりだが、現実は想像していた以上に厳しかった。
春馬達の行いが悪いから障害児が産まれたのだろう、母親が妊娠中に余計な事をしたに違いない、苦労するとわかっているのになんで障害持ちの子供なんて産んだんだ、直系にこんなのが産まれたら傷になるだけだ、などなど、思い出したくもないのに忘れる事ができない暴言をこれでもかと叩きつけられた。
しかも自分達夫婦だけならまだしも、幼い上の子供達にもつらい思いをさせてしまった。子供の前ですら聞こえよがしに誹謗中傷を話題にされたし、親類の子供と香澄の件で何度も大げんかになった。
上の子達は障害のある妹をかわいがってくれているが、治療だリハビリだと通院が絶えず、親類が集まる席では大人からは露骨にうとましがられてしまうし、子供からは嫌がらせを受けているのが実情である。
こんな状況であの子は幸せと感じてくれているのか、産んだ自分達を恨んでないか、不安はつきない。
そしてその不安は、あの時堕胎を選ぶべきだったのでは、という思いを連れてくる。
「和馬は、本気で佐久間さんを選ぶのか?」
「どっちかっていうと、選んでもらえるかの問題かな」
自分の心はもう決まっている、といいたげな返事に春馬はため息をつく。
この弟が深く考えずに彼女を選んだとは到底思えない。あの騒動を見ていたのだから障害を抱えている事が人間関係においてどれだけ影響するのか知っているはずだ。
弟自身にも、彼女にも、遊木の名と障害を抱えるハンデは実際の不自由以上の不都合があり最悪の相性だと理解はしているはずなのだ。
けれどやはり、自分に降りかからないとわからない事はいくらでもある。
「俺は反対だ」
「なんでさ? 有樹さんなら願ってもない人材だと思うけど」
遊木家の次男の嫁、という立場に求められるものを備えている、と言いたい弟の言はわからないでもない。
確かにほとんど話した事のない春馬でさえ、彼女が思慮深く周りの様子をよく見ているのはわかる。それに、あの率直さは得難い資質だろう。
けれどそれだけに、自分達の世界に連れて来るのは負担が大きすぎるのではないか。
「彼女が不満なんじゃない。そんな事を言える程知ってるわけでもないしな。――けど、反対の理由ならある」
「なんでだよ? まさか有樹さんに障害があるから、とか言うつもりじゃないよな?」
「……その通りだよ。
必ず言われるぞ? 障害を負わせた罪滅ぼしの結婚だ、香澄一人が障害者でいるより二人の方がましに見えるからそんな相手を選んだに違いない、いや本家は何か呪われてるから障害者ばかり集まるんだ、ってな」
つらつらと言われそうな――言われたくなさそうな言葉を並べると、遊木の顔色が変わる。
「健康な子供がすぐに生まれれば圧力は減るだろう。
そうでなければ、障害者だから子供ができない、罪悪感で結婚したから抱きたくないんだろう、くらいは当たり前だな。そうなれば結婚してようが関係ない。色仕掛けもしてくるだろうし、彼女にだってあれこれ言うだろう。
万が一、お前達の子供に障害があったり、流産でもしようものなら俺達の時の比じゃないだろうな。俺や桐子がノイローゼ寸前になった状況より酷いんだぞ? お前は佐久間さんにそれに耐えろ、とでも言うつもりか?」
酒をなめながらの言葉に、すぐには反応がない。
「お前は自分で望んでその道を選ぶんだろうが、佐久間さんは本当にその大変さを理解して返事をするのか? この世界で生まれ育って、考えぬいて、望んでその道を選んだ俺達ですら、潰されかけたんだぞ? そんな過酷な環境にひっぱりこんでも許される程――一緒に耐えたい、って思ってもらえるくらいの気持ちが彼女にあると?」
「それ、は……」
言葉につまったのは、遊木自身有樹に好意を持ってもらえているのは知っていても、そんな熱量はないと感じているからだろうか。
春馬が直接の面識と弟や部下からの報告で知る限り、有樹の示す好意は単に友人と呼ぶにはいくらか親しげで、けれど恋愛に類する激しさはない。異性にむける熱を持たない純粋な好意は、確固たる意志を持って遊木を望むものではないだろう。
そんな彼女をこちら側に引きこむのは、酷な気がしてならない。
「話した感じ、佐久間さんには結婚をする意志がないように感じたよ。
結婚しないとまずい立場でもあるまいし、独身のまま付き合いを続ける道だってある。側にいたいからといって、結婚にこだわる必要はないだろ? むしろその方が彼女にとってはいいんじゃないか?」
結婚してしまえばあれこれうるさい連中との付き合いに顔を出すのは義務となる。しかし、事実上結婚しているのと同じでも籍を入れなければあくまでも友人と言いはれる。それを理由に付き合いには一切顔を出さないでいる事もできるのだ。
もちろんほめられた事ではないし、遊木が攻撃される理由には充分すぎる。それでも、有樹をあの連中からかばうとしたらそれしかないだろう。
「……有樹さんには無理だと思ってるわけだ?」
「その辺はお前の方がわかるんじゃないか? 俺なんかよりずっと彼女の事を知ってるんだから」
グラスをもてあそびながら尋ねてくる遊木に返せる言葉は少ない。
案外神経の太いところがあるようだから、その場になればうまくこなしてくれる気もするし、露悪的というより自虐に近い物言いをする彼女はむけられる悪意に耐えられないようにも思える。
そのどちらが有樹の本質に近いのかをはかるには判断材料が足りなすぎた。
「俺は有樹さんじゃないと嫌だ。――でも、本音を言えば兄貴の言っていることもわかる。
正直いえばあの子を巻き込みたくない。ああ見えてけっこう弱い所あるし、桐子さんどころか兄貴まで折れかけた程の重圧をかけたくないんだ」
苦いため息とともにはき出された言葉は遊木の本心だ。
欲しいけれど手を伸ばしたら傷つけてしまうのがわかりきっている。しかし、春馬の言うように曖昧なままにするやり方では有樹ではなく弘貴や彼女の弟が納得しないだろう。
彼女の両親は認めてはくれるだろうがいい気はしないに違いなく、むこうの家族に微妙な亀裂を入れるきっかけにすらなりかねない。
そんな状況をぽつぽつと聞かされ、弟の本気具合に苦笑する思いと、有樹が家族から充分に愛されている事に少し安心する気分が混じりあう。
ああまで自己評価が低いのは家族との間に何かあるのでは、といくらか心配していたのだ。
当人に知られたら、余計なお世話ですよ、とでも言われそうな話だが、弟の想い人だ。幸せであってくれた方が嬉しい。
「正直、八方塞がり、かな。――まぁ、有樹さんからも、もっとよく考えろ、って言われてるし、いい方法がないか悩んでみるよ」
もう一度ため息をついて酒をあおった遊木の言葉に春馬は目をまたたく。
まさか当の有樹がそんな事を言っていたとはさすがに予想外だった。確かに彼の前でも、結婚について否定的な言葉を口にしていたが、本心から結婚するつもりがないらしい。
確かに経済力に魅力を感じない有樹にとって、この弟に結婚を申し込まれるというのは、しごく面倒なことに違いない。
この前の口ぶりから可能性を考えていたが、もし弟と結婚した場合に周囲に与える影響を正確に理解していて、その結果、弟だけでなく香澄にまで与える悪影響を考えてわざと露悪的な物言いをしたのだったら……。
だとしたら彼女は一体どれだけの相手を思いやっているのだろうか。そんなに気を遣ってばかりいては疲れてしまうだろうし、その優しさは遊木と結婚してあの連中と折り合いをつけていくにはむかない要素だ。
これから伝える言葉にためらいを覚えるのも事実だが、きっと彼女は自分にこう言って欲しかったのだろう、と思い直すと敢えて苦みばしった声で弟に告げる。
「ま、俺は賛成できないし、言わないだけで親父達も同じだと思うぞ?」
「頭ごなしに反対されたら反発もできるけど、俺だけじゃなくて有樹さんの事も考えてくれた上で、賛成できない、って言われるとなぁ……」
言われてもしかたがないくらいには困難な状況だとわかっているのか、自分だけでなく有樹の事まで考えての意見なので反対しづらかったのか、遊木の返事は苦笑気味だ。
「……って、今日は兄貴の話じゃなかったっけか?」
「お前の事も頭を悩ませる問題の一つだったからな、これはこれで問題ないさ。
――っと、そういえば、来年からはこっちに移る予定に変更なしで大丈夫か?」
「まぁ、来年四月からそっちに移る予定通りで。――そういう所、有樹さんがらみでおろそかにしたら嫌われるに違いないし」
転職する、という事は春馬の片腕として名乗りを上げるという事だ。社交の面でも仕事の面でも忙しくなる。
今のように身軽には動けなくなるし、ゆっくりと会う時間も取れなくなる。
今の状況では嫌がるだろうと思って確認したのだが、返事は苦笑混じりではあるものの、迷いがない。
「なんていうか、有樹さんに信用して欲しかったら、一にも二にも行動なんだよね。だから、俺は恋愛に浮かれてる訳じゃなくて本当に彼女が好きなんだ、って信じてもらうためにまずやるべき事をやる」
「なるほど。それなら期待しておく。一緒に連れて来たい相手がいたら、早めに教えろよ? すぐにってわけにはいかないし、お前とは多少時期をずらした方がいいからな」
「あぁ、一人二人いる。詳しい資料は週内にもまとめて渡すから」
弟が戻って来る時、優秀な人間がいたら引き抜けるよう手配する、というのは当初からしていた約束だ。
予定通りの時期で転職するのなら、引き抜きたい相手への接触はそろそろ初めていい時期である。
心配していた有樹との関係も、思った以上に相手がしっかりしている上、仕事の面でも心配ないらしい。いくらか肩の荷が下りた気分になった春馬は、安堵の息をつく。
その後はぽつりぽつりと家族や仕事の話をしながら久々の時間を楽しめた。
お読みいただきありがとうございました♪




