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アイロンとスカート。

「また駄目だよ……」

 アイロンを片手に盛大なため息をつく、という成人男性にしては珍しい事をした遊木は、アイロンを置いてさらにため息をついた。

「どうしたんですか?」

 そんな遊木に声をかけたのは定位置になっている椅子に落ち着きこんでいる有樹だ。

 手には遊木の――正確には遊木の姪の――依頼で作っているひらがなサイコロがある。

「いや、アイロン接着のパーツがさ、何度やってもうまくくっつかなくて」

 頭をかきつつぼやく遊木の言葉に、有樹が小さくふき出す。

 遊木は案外負けず嫌いな面があり、うまくいかないとその原因を突き詰めて解決しないと気がすまないところがあるのだ。

 さてどこでつまづいたのかな、と立ち上がった有樹は男の隣にしゃがみこみ、その手元を確認すると必要なものがないことに気づいた。

「あれ? 濡れタオルなしですか?」

「濡れタオル?」

 有樹の口から出た言葉に、遊木がそのまま聞き返す。

「なるほど、そこですか」

 相手の反応に何が悪かったのかを悟った有樹が一人納得している横で、遊木はいくらか困ったように視線を泳がせる。

 ずっとスカートは天敵、とばかりズボンばかりの有樹だっだが、佐々井に借りたロングスカートがいたく気に入ったのか、あれ以来時折スカートをはくようになり、今日もたまたまその気分だったのだろう、くるぶしまであるフレアスカートを着用している。

 本人にそんな気はないのだろうし、きちんと見えてしまわないよう対策しているのだが、遊木にとってはなんとなく目のやり場に困ってしまう。

 しかも最近の有樹は遊木に紹介されたメーカーの化粧品に変えてから肌の状態がいいし、化粧の仕方もアドバイスを受けて少し変えた。

 加えてどんな心境の変化か、軽くパーマをかけるというおまけ付きである。

 肩をこす髪はこれまでと同じで耳の側にヘアピンをさして押さえただけなのだが、パーマのおかげでずいぶんとイメージが違う。

 総じて外見から受ける印象が柔らかくなり、女性らしい魅力が増しているのだ。

「ええとですね。アイロン接着する場合、まず接着面を濡れタオルでしめらせてあげる事と、スチームアイロンを使う事。この二つさえ守ればまず間違いありません」

 しかし、遊木の内心など知らない有樹は、目の前の問題を解消するのに忙しい。

「ゆるく絞ったタオルの上に接着面を下にしてパーツを置いて、軽く押えてから接着したい位置に置くんです。

 そして、スチームアイロンで押さえる。後は冷めるまでできるだけ動かさないでおけばうまくいきますよ」

 のんびりと説明しながら有樹がアイロン台の上の布を取り上げる。

 軽く反らせると、接着しきれなかったパーツがあっさりとはがれてしまった。

「以上の注意点を守らないと、こんな感じになりますねぇ」

「……とりあえず、タオルしぼってくる」

 まったく自覚のない有樹に余計な指摘をする事もできず、遊木はなかば逃げるようにして立ち上がる。

 露骨に気を引こうとしてやっている事ならいくらでも無視できる遊木が、客観的に判断すればたいした事はないはずの有樹を無視できない、というのは相当末期と言えるだろう。

 ひとまず逃げ込んだ洗面所で大きく深呼吸をして気分を切り替える。

 妙に潔癖なところのある有樹は女として見られるのを嫌っているふしがあり、外見を飾る事に興味がないのもその延長にあるような気がする。

 タオルの準備はほとんど逃げる口実だったが、手ぶらで戻るのは不自然極まりなく、棚から取り出したタオルをしぼって、ついでに軽く額にあてたのは頭を冷やしたかったからだ。

「……っとに、無自覚だから怖いよなぁ」

 一つひとつは小さな変化なのだが、集まったそれらは有樹の印象をずいぶんと変えている。

 そしてその自覚がないからこそ、有樹の態度は今までと変わらない。

 普段は友人同士として違和感のない距離を保っているのだが、手芸の話題となると驚く程側に来る時があるのだ。それは先程のように、下手をすれば有樹の髪が遊木に触れるのではと思う程近づき、それと比例するかのように遊木の鼓動は高鳴る。

 確かに手芸の説明は実物を触りながらの方がわかりやすいし、そのために遊木が持っているパーツへと手を伸ばしたり、有樹が作っているものを遊木に見せようとしたり、と密着しがちになるのもわからないでもないのだが、いかんせん心臓に悪い。

 そんな無防備さがかわいくもあるし、他の誰かにもこうだとたまらない、と不安にもなってしまう。

弘貴(ひろたか)さん、よくあの子を放って置けるよなぁ」

 つい口からもれた言葉は、直接会う事ははほとんどないながらも、有樹をずっと思い続けているという相手の度量に素直に感心したものだ。

 聞いた限り、弘貴はかなり幼い頃の有樹を見初めたらしく、最初にその話を聞いた時は幼児趣味でもあったのか、と疑ったが、それならば有樹が成長した今も好意を示しているのは不自然だ。

 そんな疑いより、彼女が何か弘貴の心を揺さぶる事を言った、と考えた方が何か納得がいく。

 今回の事件についても、お互いに有樹へ相手の不利な情報は流さない、互いへの接触へ否定的な反応を見せない、という条件付きでの限定的なものだ。

 UKグループへのつなぎや制裁への参加は求めないのか、と問うと、有樹を仕事に利用するつもりはないし、協力した方が効率がよければ手を組めばいい、とあっさりした返事がきた。

 有樹が俺の責任を問わない以上、あいつの身柄を取引に使う権利はないでしょうから、と言った時ばかりは弘貴も苦笑いだった。

 確かに責任の追求をされる、というのはある意味で、事件に関わる権利をもらうのと同義だ。

 しかし有樹は弘貴に情報提供以外の何も求めなかった。暗に、これは遊木が対処する問題だ、と線引きをしたのだ。

 彼女自身が意識してやっているかどうかはわからないが、言われた方としてはその意図を感じ取っていながら無視する事はできない。ほれた弱みと言われればそうだし、それなりの立場にある人間としての矜持といえばそうなのかも知れない。

 どちらにしても有樹は何とも効果的な言葉を使うのでなかなか逆らえないのだけは確かだ。

 有樹の価値観は傍から見ているとただただ鮮やかにうつるが、さて本人にとってそれが心地いいものなのかと問われると首を傾げてしまう。

 そうであって欲しいが、意地っ張りな彼女は弱みを見せたくなくてそんな自分を作っているのではないか、と勘ぐってしまうのだ。

「……って、いけね。ぼんやりしすぎた」

 すっかり考えに沈んで、いつの間にかもてあそんでいたタオルをしぼり直すと慌てて戻る。リビングでは有樹はしゃがみこんだ姿勢から横座りに変えていた。

「ごめん、お待たせ」

「いえ、大丈夫です。……て、遊木さん?」

「うん?」

 普段と変わらぬ笑顔での返事に続けて首を傾げられ、つい自分も首を傾げる。すると、有樹は遊木の手元を指した。

「タオル、もう少しゆるめにしぼらないと、接着面が充分に湿らせられないかと」

「うぁっ?!」

 指摘に、考えに沈んでいる間に頭から抜けていた情報を思い出して思わず声を上げてしまった。

「あ、ついでにタオルの水分がしみないようにお皿かビニール袋を下敷きに持ってきた方がいいですよ。あと、アイロンに入れるための水を」

「了解……って、それならタオルは置いてって水と下敷きを持ってきた方が楽か」

「そうですね。お願いします」

 座った有樹に笑顔で見上げられ、遊木の動きがとまる。今の有樹にやられるとかなりの破壊力だ。

「……あの?」

「……って、いやごめんっ。その、つい魂取られたというかっ?!」

「……はぃ?」

 不安げな声につい口を滑らせてしまった遊木に、さすがに有樹が眉をひそめる。

「いやだって、有樹さんここのところでかわいくなりすぎだから……」

「……はいぃ?!」

 これはごまかすのも苦しいか、とあきらめ半分白状すると、一体どこから出したのかつっこみたくなるような素っ頓狂な声が上がった。

「やだそれっ、なんなんですかっ?!」

「やだって……。そういうリアクションになるなら、なんで化粧変えたりパーマかけたりロングスカートはいたり、かわいくなるような事するのさ?」

 さすがにいくらか憮然として尋ねると、今度は有樹が言葉につまった。

 そして、何か言いたげに口を開閉させた後、結局言葉が出ないままに唇を引き結んで黙りこむ。

 その頬にいくらか朱が上がるのを見て、遊木が視線をそらせたのは当然だろう。

 いやだからっ。なんでそんなかわいいリアクションするかなっ?! 理性飛んでもおかしくないからっ!!

 ああもう、と頭をかきむしったのも当然といえば当然かも知れない。

「化粧品変えたのは遊木さんに紹介してもらったところで買うようになったからですよ。その時に、少しメイクの仕方も教えてもらったんです」

「そうなんだ?」

「はい。パーマは匠の友達に美容師目指している人がいて、練習台を探してたので協力したんです。

 切るのは怖いから嫌だけどパーマくらいなら、って」

 明かされてみれば何でもない理由ばかりを聞かされ、遊木はため息をつく。

 冷静になって考えてみれば、誰かを意識しておしゃれをする、などという発想は、有樹にとってはあり得ないことだろう。

 仕事で化粧の必要に迫られるのだからそれは仕事の一環だろうし、練習台になるのが目的ならばパーマをかけた事自体には何の意味も意図もない。

「……ん? そしたらスカートはなんで?」

 そういえばそれだけは説明がなかったな、と思いつつ何気なく問うと、有樹が視線をそらす。

「どうしたの?」

「……いえ、その……。着てみたら案外悪くなかった、というか……。買い物に行った時つい、あんなに喜ばれるなら一着くらいあってもいいかなぁ、とか、魔がさしたといいますか……?」

 視線をそらせたままもごもごと説明され、遊木の脳裏が漂白されたのもまたしかたのない事かも知れない。

「……何、そのかわいい理屈」

「かわいくないですからっ!」

 思わず遊木の口からもれた言葉に有樹がかみつくが、真っ赤になっているので照れ隠しなのは見え見えだ。

「いや、だって、俺が喜んだからスカートはいてくれてるとか、かわいいって言わないでなんて言うの?」

「そういうのは思ってても言わないでくださいっ!」

「だって言わないと有樹さん、俺が有樹さんの事好きだって信じてくれないし?」

「そういう問題ですかっ?!」

「そういう問題だし、真っ赤になってかみついてくるところもすごくかわいいからっ!」

「ですからっ?!」

 本気でかみついてくるのがかわいくて確信犯でからかってしまう。やり過ぎると嫌われそうだな、とは思うのだが、やらずにいられないのだ。

「というかっ! 今はアイロン接着ですよねっ?!」

 かたわらのアイロン台を示され、遊木はさすがにそろそろやめないと本気で機嫌を損ねそうだとうなずく。

「そうだった。せっかくかわいくお願いしてもらったんだから取ってこないとね」

 それでもつい最後にからかいを残して遊木は台所に向かう。

 指定されたものをそろえて戻るのにわざと時間をかけたのは、有樹が落ち着くための間を置くためだ。

 その後、お互い先程の話題をむし返すこともなく、有樹の指示でアイロン接着をやり直す。

「おっ、うまくくっついた」

 そして、冷ましたパーツを確認すると、これならはがれる心配はないだろう、と思えるくらいしっかりと貼り付いていた。

「ね? うまくいったでしょう?」

「うん、ありがとう。有樹さんがアイロン用意するなら手芸屋で売ってるキルト用のじゃなく、スチーム機能付きの普通のがいいって言ってくれたの、こういう事だったんだね」

「はい。キルト用のは小さいパーツの縫い代を倒したり、パーツのしわを伸ばしたり、バイアステープを作ったり、そういう作業に使う前提のものですから。

 アイロン接着は圧着ですし、それなりの大きさと重さがある方がやりやすいと思うんですよ。あと、スチーム機能も重要ですから」

「本当、道具買う時は有樹さんに相談してからじゃないと駄目だね」

「ま、経験がある分、何が便利かもなんとなくわかりますしね」

 この話題に関する賛辞はさほど気にならないのか、照れる事もなく受け流される。それでも表情が柔らかいのは頼られて悪い気はしないからだろう。

「これでやっと次の作業に入れるよ。――って、そういえば、有樹さん、来週から仕事復帰だっけ?」

 リハビリを兼ねた教習所通いも終わり、ある程度体の動かし方にも慣れてきたので、今度はあまり長期に休みすぎても復帰しにくかろう、と職場復帰の日程を相談したのは少し前だ。

「はい。お給料の締め日にあわせたので水曜から復帰です」

「そうだったね。でも、最初の週は短い方が体に負担は少ないし、いいんじゃない?」

「たぶん、会社側でもそれを考えて締め日合わせで、って言ってくれたんだと思います。ありがたいですけど、少し申し訳ない気もして」

「何言ってるの。復帰直後に無理して体調崩す人って結構多いから、最初は用心して動き出すくらいで丁度いいんだよ。

 勤務時間は先生と相談しながら調整してね? 週末の約束も疲れてたら遠慮なく断ってくれた方が俺も安心だから」

 無理をしがちなところがある有樹に、つい細かな注意をすると、小さく笑いながらの同意が返ってきた。何か変な事言ったかな、と思っていると答えはすぐに彼女が口にした。

「遊木さん、時々私の保護者みたいですね」

「そりゃ、職場に復帰して安定して働けるようになるまでは俺が責任持ってフォローします、って親御さんにたんか切っちゃったからね。

 過保護にもなるよ」

 言われた内容に思い当たる部分があるので否定せず流すと、そうでした、とわずかに嬉しそうな色を含んだ声が応じた。

「実は、遊木さんがしっかり手配してくれてるので安心して流れにのってられるんです。――正直、佐々井さん達がいなかったらまだ外出するの怖いですし」

「それはしかたがないと思うよ。でも、あんな事は二度とさせないようにしっかり警備つけるし、万が一何かあっても、すぐにフォローが入るからそれだけは安心してて」

 これまではっきりと口に出された事のない不安を吐露した相手を少しでも安心させたくて、きっぱりと断言する。

 実際、有樹につけた警備陣は皆優秀だし、佐々井以外にも数人が加わりチーム体制での警備となっている。

 これをかいくぐって有樹に危害を加えるのは難しいし、万一出し抜かれてもすぐさまフォローできる。

 有樹の希望もあって社内での警備はないが、それは身分を隠して働いている遊木も同じだ。

 何か不自然な気配があった場合、警備に申告して確認を取る体制は作ってあるので後手後手になる心配もないと言っていい。

 今までにも何度か説明した内容をもう一度丁寧に説明すると、はい、と短くうなずいた有樹の肩から力が抜ける。

「大丈夫なのはわかってるんですけど……。遊木さんがそうやって、大丈夫だから安心して、って言ってくれるとなんだか平気そうな気がしてくるんでつい……。何度も同じ事説明させてごめんない」

 照れているような、自嘲するような、いくぶん複雑な笑みとともに告げられた言葉に、自然と遊木の表情がゆるむ。

 それはつまり、遊木が大丈夫だというなら問題ない、と信じてくれているという事だ。どこまで自覚しているのかはともかく、有樹からかなりの信頼を得ているという証拠に他ならない。

「そのくらいで有樹さんが安心できるならいくらでも頼ってくれていいんだよ? その方が俺も嬉しいし」

 浮き立った気分のまま笑顔で告げると、有樹からははにかんだような笑みと、ありがとうございます、という言葉が返された。

お読みいただきありがとうございます♪

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