アクシデントの続き。
長らくおまたせしてしまい申し訳ありませんでした。
軽く肩を叩かれる感触に、有樹は意識が浮かび上がってくるのを自覚した。
「んぅ?」
さっきまで酷く心地いい場所にいたはずなのに、柔らかな眠気をもたらしていた何かがなくなっていた。せっかく気持ちよく眠っていたのに、とうなる。
「ごめんね、起きられる?」
申し訳なさそうな声を拾った事で唐突に状況を思い出す。
生理痛で倒れたのに鎮痛剤なしで眠り込む、など仮病を疑われて当然の事をやらかしてはいまいか。
焦った気分のままに飛び起きると、うわっ、とすぐ側で慌てた声が上がる。まわりを確認すると、いくらか体の引けた遊木と視線が絡む。
どうやらぶつかりかけたらしい、と悟って謝るために口を開くが、遊木の方が早かった。
「そんな急に起きて大丈夫?」
「え? あぁ、はい。……えっと、私どのくらい寝てました?」
床に座っている遊木は相変わらず心配そうで、ソファの上で不安定に体を起こしている有樹を支える様に腕を伸ばしてきた。
「たいして眠れてないよ。十分かそこら。よく眠ってたから起こさない方がいいかな、とも思ったんだけど、佐々井が時間経てば経つほどまずい事になる、っていうからさ」
簡単だが状況を把握するのに充分な説明に、頭の中で状況を整理する。そのまま視線を動かすと、数歩下がった位置に佐々井が立っていて、無言で手にした袋を示してくれた。
必要なものはすべてそろった、という事なのだろう。
「確かに起こしてもらった方がありがたいです。ちょっと、洗面所お借りしますね」
「うん、使って。――って、あぁ、でも、椅子とか置いてないから佐々井に付き合ってもらって」
確かにここで洗面所を借りるような事態は想定していなかった。ダイニングの椅子を持ち込む、とならないのはまた汚すと嫌がるに違いない、と判断されたものか。
返事をよこしながら立ち上がった遊木がさし出した手をとると、絶妙な力加減で体を引き上げられた。
これまでは床から立ち上がる時でもなければ手を貸してはこなかったのだが、これは症状の悪化を受けての事なのか、今日の体調不良のためなのかどちらなのだろう。
どちらにしても普段こんな事をする機会などないだろうに、と思うとやけに慣れているのが不思議でもある。
「手慣れてますねぇ」
そんな事を考えたせいかつい口からこぼれ落ちた言葉を聞いて、思わず硬直する。さすがにこれはまずかった、と思うが一度口から出てしまった言葉は戻せない。
なんとも微妙な空気の中、先に口を開いたのは遊木だ。
「有樹さんって結構失言癖あるよね?」
苦笑いで言われ、反論の余地がなかった有樹は頬をかく。確かに普段は気をつけているのだが、気を許している相手にはよく失言をたしなめなれる。
……あれ? て事は私、遊木さんの事わりと好きなのかな?
いまさらといえば今更な事を思ったが、これを口に出したらまずいというのはわかる。
「まぁ、なんというか……。よく言われます?」
結局半端に語尾が上がった返事をすると、遊木がふき出す。
「なるほど? 慣れてきて遠慮がなくなってくると出るのかな?」
「……まぁ、遊木さんには飾ってもしかたがないですしね」
「俺も飾って欲しくないからそれはいい事だけど……って、ごめん、引きとめちゃったね」
つい雑談に流れかけた会話を遊木が戻す。そのままごく自然な動きで有樹を佐々井の方へ送り出す。
「佐々井、あとお願い」
「かしこまりました」
握られた手をそのまま佐々井の方へさし出され、佐々井からもごく自然に手をさしのべられたのでついその手を取る。
支えなんてなくても歩けるけどなぁ、とは思うが生理痛で酷い顔色になっていそうだったのでおとなしく手を預けたまま歩く。考えてみれば、今まで必要もなかったので洗面所など借りた事がない。一人で行くより佐々井が一緒の方が気楽なのも確かだ。
椅子さえあれば一人でも着替えられるのだが、今の状態では下にタオルなりビニールをひくようで、それはそれで危険である。かといってトイレは中で着替えるにはいくらか狭い。恥ずかしくはあるが佐々井の手を借りて着替えるのが最善だ。
下着類を取り替えて、さて汚れた服はどうしよう、と思っていると、佐々井が持っていた荷物からスカートを取り出した。
「警備の備品で申し訳ありませんが、こちらを」
「……備品?」
「場に合わせて服装を変える事も必要ですので、警備の部屋にはある程度サイズの融通が利く服を準備しているんです。汚れた服をもう一度着るのでは落ち着かないでしょう?」
言いながら手回しのいい佐々井が広げて見せたのは、ロングのフレアスカートとタイツである。言われてみれば、タイツであればズボン程体型の影響を受けないし、このスカートもウエストがゴムになっていてだいぶサイズの融通が利きそうだ。
ロングスカートなど普段は着ないが、色も雰囲気も今日着ている服と違和感がない。おそらく有樹の普段の服装から抵抗なく着られそうなものを見繕ってくれたのだろう。
「ありがとうございます」
行き届いた手配が嬉しくて有樹は自然と浮かんだ笑みと共に礼を言う。すると佐々井もわずかに表情を和らげた。
そのまま着替えも手伝ってもらい、細々とした用事を済ませる。汚れ物は警備の部屋にある洗濯乾燥機で洗ってくれるという言葉に甘える事にした有樹が部屋に戻ると、気配に顔を上げた遊木が硬直する。
「……変、です?」
変わった服のせいだろうと予想がついた有樹が少し眉を下げる。着慣れないので違和感はあるが、鏡を見た限りおかしくはないと思った。けれど外見を飾るのに命をかけていそうな相手を見慣れている遊木から見るとまた違ったかもしれない。そう思ったのだが――。
「……って、違う違うっ。着替えてたのに驚いたというか、有樹さんのスカート姿、すごいかわいいからつい見とれた」
「って、だから心臓に悪いセリフはノーサンキューですからねっ?!」
数拍おいて我に返ったらしい遊木の言葉に有樹がかみつく。
「いや、だって不意打ちでそんなかわいい格好見せられたら見とれるって。有樹さんがいつもズボンなの、安全対策だってわかってるから気にしてなかったけど、スカートめちゃくちゃかわいい」
「だから何度も言わないでくださいっ?!」
さらりと恥ずかしい言葉を繰り返された有樹が真っ赤になって叫ぶ。
「だってかわいいものはかわいいし。……って、あんまり何度も言うと本気で怒られちゃうからこの辺で自制しよ」
有樹が定位置に戻るための最短コースをふさぐ形になっていた遊木が立ち上がって場所をあけると、そのまま視線を佐々井に向けた。
「さすが佐々井だね。俺、着替えまでは思いついてなかったや。ありがとう」
「いえ。女性なら大抵気づく事ですから」
「それでも、佐々井がそうやって細かい事まで気づいてフォローしてくれるから安心してられる。やっぱり任せて正解だったよ」
「ありがとうございます」
嬉しそうな遊木の言葉を受けて軽く頭を下げた後、佐々井は汚れ物を洗濯してくると言って部屋を後にした。
「どうする? ソファで横になる? それともいつもの席?」
服装にはしゃいでいた遊木だが、その辺を忘れたりはしないらしい。有樹が席を外している間に汚れ対策のものが取り除かれ、代わりに毛布と枕が用意されていた。
確認してはいるが、横になるだろうと思われていたらしい。確かにその方が楽なので有樹としてはありがたい。
「少し横になりたいです」
「うん、じゃあどうぞ」
柔らかな言葉に有樹は三人がけのソファを独占して横になると、遊木がすぐに毛布をかけてくれた。
「そういえば鎮痛剤はもう飲んだ?」
「はい。着替えの時に洗面所で」
「そっか。早く効いてくるといいね」
「そうですね。これだけ調子悪いのはちょっと……」
遊木の言葉に思わずため息をつく。これだけ調子が悪いと動くのも手芸すらもおっくうだ。けれどやり過ごすしかないもの確かなのである程度あきらめはついている。
「女の人って色々大変だよね。毎月これだけ大変で、その上下着で体締め付けるようだし、化粧だってしなくちゃいけないし。通勤するのに男はスーツ一着あれば済むけど、女の人はそうもいかないみたいだしさ」
ぽんぽんと軽く頭をたたく遊木の手の感触にか、発言内容にか有樹は小さく苦笑する。
「確かにそれはありますよねぇ。特に吐き気があったりすると下着つけてるの辛いですし。化粧もすぐ顔がかゆくなるし毎朝面倒ですしお金もかかりますし。でも、通勤に関しては制服があるところであれば、男女関係なく割と適当ですよ。特に冬場なんて上にコート着てしまえばそう見えるものでもありませんし。……私は、ですけど」
答えながら、これまで遊木の周りにいたような女性達はそういった意味での手抜きはしてなかっただろうと思い、一言つけ加える。
有樹などは職場では作業着なのだし、結局作業着の下に着ていて不便でない、だとか、着替えが楽、だという理由を優先するが、通勤中だけと言いながらも毎日気合いの入っている人間というのはいる。有樹にすればそんなところにお金を使うくらいならば別のところに使いたいが、むこうにはむこうの理論があるのだろう。
「そうなんだ?」
「私は基本的に夏は半袖Tシャツの上に薄手の上着をはおる程度ですね。冬は気温にあわせて中に肌着を着込んで調節した上で、タートル一枚です」
「へぇ? 上には着ないんだ?」
下半身についてはズボン一択なので話題にすらしない。遊木も特に気にしなかったようで、質問は別のところにだった。
「上に重ね着すると、作業着の中でもたつくんですよね。そうすると結局ロッカーで脱ぐ事になりますし。面倒なのでゆったり目でタートルか薄手のニットの中に肌着を着込むのが楽なんですよ。ロッカールーム、それ程広いわけでもないのでできるだけ簡単に着替えたいですし」
「なるほどねぇ。確かに、脱ぎ着するものは少ない方が色々楽か。狭いところでぶつからないように気をつけながらじゃ面倒そうだ」
遊木自身はそんな環境におかれた事はないだろうが、おおよそ想像はつくらしい。着替えだけではなく化粧直しという手間ものってくるのだがら、ロッカーでの用事は極力少なくしたいものだ。
「こうして考えてみるとさ、仕事するための経費は女の人の方がかかってるのにお給料は安い、っていうのはなんか間違ってる気がするなぁ」
「でもその代わり、女性は深夜勤務とか残業とか少なくしてもらえてる場合が多いですし、結婚を機に辞める人も多いですよね。家族全員の食い扶持を支えてる確立でいうと、たぶん男性の方が高いでしょうしその辺も影響しているかと」
「それもそうか。そう考えると単純に比較するわけにもいかないか」
「と思いますよ。まぁ、実際のところは調べてみないとわからないんでしょうけど」
「ま、そこまでは気にならないかな。ちょっと思っただけだし。――というか、有樹さん。化粧で顔がかゆくなるのはアレルギー反応起こしてるって事だから。化粧品変えた方がいいよ?」
横になると眠たい気がするなぁ、と思いつつ話をしていたら思わぬところを指摘されて目をまたたく。
「隆のお姉さんが結構肌弱いらしくて、しょっちゅうぼやいてる、なんて聞くよ。有樹さんもその口じゃないの? 我慢して使い続けたりしない方がいいんじゃない?」
「まぁ確かにそれもあるんでしょうけど……。色々事情があるんですよ」
「――つまり、お値段的な?」
微妙にぼかすと、苦笑いの指摘が来た。
確かに一番の問題はそれだ。敏感肌用だのパッチテスト済みだの石油系原料不使用をうたう商品程値段が高い。安い物なら二つ買える、と思うとなかなか手を出そうという気分にならないのである。
「言っておくけど、下手に我慢して使い続けるとだんだん酷くなるらしいよ? 最終的にはかぶれて大変な目にあうって聞くけど、覚悟の上?」
「これ、悪化するんですか?」
「するらしいね。自分の体の事なんだから経費って割り切ってあれこれ試してあうの探したら?」
「……や、でも」
「有樹さんはナチュラルメイクしかしてないんだから、変えるとしてもスキンケア用品とファンデーションくらいだよね? その位いいのに変えたって今回の事故でおつり来るぐらい毎月賠償金もらうんだから気にしないでおいたら?」
体調に関わるとろろでお金出し惜しむのはよくないよ、と声だけ聞いていても眉間にしわが寄っているのがわかる声がした。確かに理屈としては正しいのだが、色々複雑なのである。
こと、有樹の近くのロッカーを使っている中に、化粧品やら洋服やらに命をかけているタイプがいて、さりげなくまわりがどんなものを使っているかチェックしていて、高い物を使っているとあれこれうるさいのだ。
有樹も昔は皮膚炎を起こすよりは、と割り切ってそれなりの値段の物を使っていたのだが、服も髪も雑なのに化粧品だけいいの使って馬鹿じゃないの、だの表でも裏でもねちねち言われるのが嫌になって安い物にした、という経緯がある。
今使っているのは安い物の中でも耐えられる範囲のかゆさで収まる物を探し当てたのだ。
そんな事情を話すと、遊木が盛大にため息をつく。
「有樹さん?」
「……はい?」
「そういう脳みそ足りてない相手のために自分を粗末にしたら駄目だよ。だいたい、回避する方法なんていくらでもあるんだからね?」
やたらとあっさり言われて、有樹が首をかしげる。
「たとえば、ファンデーションの大きさは各メーカー毎の規格で統一されてるから、やっすいシリーズのケースを買って、中にいいやつ詰めててもわかんないからね?」
「……あ、なるほど」
「なるほど、って……。その位気がつこうよ……。それに、化粧水とかは基本持ち歩かないだろうし、もし持ち歩くなら旅行用の詰め替えボトル使えば元がなんだかなんてわからない。さすがに詰め替えが面倒だし言いがかりつけられるのも嫌、とか言わないでね?」
「いや、さすがにそこまで横着じゃないですし。……っていうか、遊木さん詳しいですね?」
「ん? いや、このくらいは普通知ってるよね?」
「知らなかった私がここに」
「……有樹さんが疎いんじゃないの?」
何で男なのにそんな事情に詳しいんだろう、と思っての言葉には意外と酷い返事が来た。けれど、それを真っ向から否定できるだけの根拠もなく、有樹は微妙な気分ながらも反論をあきらめる。
「とりあえず、復帰までに一度化粧品きちんと見直してダミー用のケースとか用意する事にします」
「それがいいと思うよ。――って、なんだったらそういうの詳しい人紹介しようか? 予算上限話してそこで収まるくらいで有樹さんにあったの教えてもらうといいよ」
「いろんな知り合いがいますね?」
「高校の同級生に化粧品メーカー持ってる奴がいるから。確かあいつのところカウンセリング化粧品もやってたはずだし、全年齢むけに価格帯も幅広くやってるとか聞いたからさ。話したら営業チャンスとばかり食いついてくるだろうな、って」
予想の斜め上をいく返答に、なるほど、だけつぶやく。これだからお金持ちは、と思ったのも事実だが、価格幅の広い所、という条件が付いているあたり、有樹の事情をしっかり織り込んでいてくれる。
「有樹さんが嫌じゃなかったら声かけとくけど、どうする?」
「そうですね……。そういう事でしたら、たいした額は買わないと思いますけど」
「その辺は心配いらないと思うよ。むこうにしたら金額よりも、俺がまわした仕事、ってところに意味があると思うし」
一度そういう付き合いが出るとうちで持ってる店に商品並べるきっかけになったりもするからね、と裏事情を暴露されてしまった。確かに経営者一族と個人的とはいえ取引があったとなれば、そういった交渉のきっかけにもなるのだろう。
「それに、何かあった時声かけて人脈切れないようにしておくのも大切な事だしね。俺としても化粧品メーカーだからって営業対象にならないわけじゃないし、みんなおいしいんだから気にせず話だけでも聞いてやってよ」
言われてみれば確かに、遊木にすれば化粧品メーカーに声をかける機会など積極的に探さなければ出てこないだろう。であればその口実になるのは悪い事でもないだろう。
「じゃあ遠慮なく甘えさせてもらいます。お願いしていいですか?」
「了解。じゃあ、夜にでも連絡取ってみるね。むこうから返事来たら伝える。――ごめんね、ちょっとごり押しっぽかったかな?」
話がまとまった後で気になったのか、遊木が小さくわびてきた。その間合いが何となくほほえましく感じた有樹がうっすらと笑みをのせる。
「いえ。化粧品って種類がありすぎてどんなのにしていいのかいっつも悩むんで助かります。ああいうのって何を基準にどう選んでいいのか難しいんですよねぇ」
買う必要に迫られる度、ため息をつきながら選んでいた有樹にとっても、あった物を予算内で選んでもらえるとなれば願ったり叶ったりだ。
生理痛のせいでちょっと得したかも、と前向きな結論にたどり着く有樹であった。
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