アクシデント発生。
遊木のマンションまで運転させられる、という嬉しくないサプライズの後、いつも通りテレビの前で落ち着きこんだ二人は、普段通りのんびりとした時間が過ぎると疑いもしていなかった。
しかし、そんな予想を裏切るようなアクシデントが起こったのは、有樹がトイレから戻った時である。
定位置になっている座り心地のいい椅子まで戻るどころか、絨毯のひいてある部分より手前、フローリングの上で座り込んでしまったのだ。
「ちょっ?! 何どうしたのっ?!」
そんな有樹を見た遊木が、慌てた声をあげると同時に立ち上がって駆け寄る。
事件以降、右足を扱いそこねてよろけていたり転んだりしている、と報告があるだけに、どこか痛めでもしたのではないかと心配になったのだ。
床に膝をついて顔をのぞきこんでくる遊木に、有樹は左手で腹部を押さえながらなんとも情けない表情をみせる。
「申し訳ないんですけど、ちょっとお願いが……」
「何? どうしたの、急に」
「……その、ちょっと買い物を頼みたいんです」
「買い物? そりゃ構わないけど、顔色悪いよ? 大丈夫なの?」
普段と違う様子に首を傾げながらの確認に、有樹は事更に眉を下げて情けなさそうに笑う。
「えぇと……。なんと言いますか。例のあれ、的な?」
「えっ……と、あれって、……何か頼まれてたっけ?」
悩んだあげく、ぼかして伝えた言葉に不思議そうに首を傾げられ、有樹の眉が下がる。
「久本じゃあるまいし、やっぱり通じないですよね……」
つい、父親や久本を相手にしている時と同じ表現を使ったが、考えてみればそれで伝わる方がおかしい事に有樹も気づく。
「……て、なんでそこで隆が出てくるかな」
何気なく口に出た言葉に、不機嫌そうに眉を寄せられ有樹は目をまたたく。
「いえ、通じた久本が変だ、って言いたかったんですけど……」
「意味の良し悪しじゃなくて、あいつと比べられたのがちょっと悔しいってだけ。
それはともかく、何が必要なの? 薬?」
さらりとした説明で流されいくらか迷ったが、このままぼかして伝えても通じないだろう、と腹をくくって、ど真ん中狙いのストレートで勝負をかける。
「鎮痛剤と生理用品が欲しいです」
「……へ?」
意味がまったく入ってこなかったのか、きょとんとしている遊木を見て、有樹は軽く首を傾げる。
「いや、その……。いつもであれば始まるような時期じゃなかったので油断していたと言いますか。まったく用意してなかったんです。
その上、時期外れだからか生理痛がいつも以上に酷くって、正直、もう動きたくないというか、動けないというか……」
ため息混じりに説明すると、なかば硬直していた遊木が我に返ったように目をまたたく。
「って、そんな調子悪いなら床に座ってたら駄目だよ。ソファか、有樹さんが嫌じゃなかったら俺のベッド使う?」
「いやいやいやっ。汚しそうで落ち着かないので嫌ですってっ。
床なら水拭きすれば落ちますけど、その高そうなソファにしみをつけるのだけは勘弁ですっ。精神的に非常にくるものがあるので現状床が最適ですからっ」
遊木の申し出を大慌てで断ると、納得したのかしていないのか、どちらとも取れるうなずきが返される。
「えぇと……。とりあえず、その買い物、佐々井に頼んでいい?
薬局は近くにあるんだけど、俺が行くのはちょっと恥ずかしいから……」
「あ、はい。買ってきてもらえるのならば誰でも」
視線を斜め下に逃がして頭をかきつつ言われ、確かに遊木の考えている通りなら結構な罰ゲームかもしれない、と思いながら同意する。
「というか、最初からそのつもりだったんですが」
けれどその辺りは言っておかないと誤解されそうだったので、そう付け加えると、テーブルの上のスマートフォンを取りに立ち上がりかけていた遊木の動きが止まる。
「……だったらなんで俺にそんな話題……?」
「え? だって、佐々井さんは遊木さんの家で雇っているわけですから、私が勝手にお願いしたらまずいですよね?」
「いやいやいやっ。佐々井は有樹さんの警備とヘルパーが今現在の仕事なんだから、有樹さんがして欲しい事は何でも頼んでくれないと。
そのために女性を選んでるんだし」
「でも、今は目の前にいるんですし、遊木さんを通すのが筋かと思ったんですが」
思った以上のリアクションに軽く首を傾げつつ説明すると、遊木が意表を突かれた、とでも言いたげに動きを止めた。
「……まぁ、それは確かにそうかもしれないけど。
でも別に……って、その話は後にしようか。今はともかく佐々井に連絡するね」
何か言いかけたものの、今は買い物の手配が先だと考えなおしたのか、遊木はスマートフォンを手に取ると、慣れた様子で相手を呼び出す。
「ごめん、ちょっと用事頼みたいんだ。……いや、俺じゃなくて有樹さん。薬局まで……うん? わかった」
なにやら話しながら戻ってきた遊木が有樹にスマートフォンをさし出す。
「佐々井がかわって欲しいって」
「はい。ありがとうございます」
渡されたスマートフォンを耳に当てると、おおよその事情は察したらしく、欲しい物のメーカーやサイズを確認してくる。
やはりこの辺りの理解の速さは男女の違いなのか、それとも佐々井の察しがいいのか、どちらなのだろう。
通話を終えると、スマートフォンの画面を服の袖でこすってから遊木に差し出す。
「ありがとうございました」
「いや、俺は何もしてないし。それよりも体調は本当に平気なの? そこ足痛そうだし、せめて絨毯の上に来ない?」
「そんな高そうなものにしみをつける危険を犯すなんて、精神衛生上非常によろしくありませんっ!」
間髪を入れずに遊木の言葉を否定する。
このマンションに置いてある物が安いもののはずがない。今の状況で絨毯の上に座ろうものなら……、多少ならクリーニングで落ちるにしても、その代金を考えると胃が痛くなりそうだ。
「有樹さんらしいけど、でも心配なんだよなぁ……」
応じる遊木が苦笑いなのは、いい加減彼女の性格を把握しつつあるからだろう。
「というか、服貫通して他のもの汚す心配する程悲惨な状況になるんだ?」
「まぁ、個人差はあると思いますけど、私の場合は間違いなくなりますね」
自覚したとたんに酷くなった痛みに顔をしかめながら返事をすると、遊木が何か思いついたのか不意に立ち上がる。
「まぁ、そういう事ならちょっと待ってて。要はソファとか汚さないですめばいいんだよね?」
「はい」
何をするんだろう、と思いつつ遊木を見送る。確かに床に座り込んでいる体勢は有樹にとって苦手な部類である。
自宅であれば痛み止めを飲んでソファで丸まってうめきながらテレビを見るか、ベッドで本を読むかして現実逃避をするか、の二択なのだが、他所のお宅ではそんな訳には行かない。
「……痛ぁい」
聞かれる相手がいなくなった事で気がゆるんだのか、つい弱音が口をつく。痛み止めくらい持ち歩いていればよかった、と思うが後の祭りだ。
「ごめん、お待たせ」
何やら部屋を出たり入ったりしていた遊木は、しかし有樹の横を素通りしてソファにむかう。
手に持っていた物を重ねて広げてから有樹の前に膝をついた。
「立てる? ソファが汚れないように対策したから移動して」
つかまって、というようにさし出された手を、調子の悪さも手伝っておとなしく手を借りる。
実のところ、まだ床から立ち上がるのは苦手で、うまく動いてくれない右足がついて来ず、バランスを崩してしまう事が多い。
けれど、それを見越してか佐々井から聞いていたのか、遊木はうまく有樹の腕をひいて立ち上がらせてくれた。
そのままなんとなく手をひかれてソファに近づくと、三人がけのソファの真ん中にゴミ袋を切り開いたらしいビニール、その上にバスタオルがかけられていた。背もたれと座面をしっかり覆っているのは急ごしらえというのに行き届いている。
「これなら汚れるのはバスタオルだけだから大丈夫だよね? タオルなら洗濯機に放り込むだけだし」
そう言いながら、座って、というようにうながされ、有樹はおとなしく腰を下ろす。確かに床にへたりこんでいるのと比べたら雲泥の差だ。
「座ってて平気? 横になった方が楽だったら遠慮しないで横になって」
心配そうな言葉にありがたく横にならせてもらう。
広いソファは有樹が背もたれによりかかるようにして、体を伸ばしても充分な余裕がある。
頭が下がるなぁ、と思っていたら、遊木が折りたたんだバスタオルを枕代わりに頭の下に入れてくれて体勢が落ち着く。
お腹を抱えるようにして少しまるまると、気休め程度にだが楽になった気がする。
「ありがとうございます。横になるとやっぱり楽ですね」
「ならよかった。俺、こういうので辛い、って申告されたの初めてでさ。どうしていいか焦ったよ」
「……これまでそれなりに付き合った相手がいたんですよね?」
遊木の思わぬ告白に首をかしげたのは本当に不思議だったからだ。遊木や周りの人間の態度から、これまでにそれなりの数の女性と付き合っていたのは間違いないと思っていたし、本人もそれを否定するような事を言ったことがない。
それなりに親しくなれば――こと体の関係があればこういった話題は避けられないだろうと思ったのだが、そうではないのだろうか。
有樹の疑問をどう解釈したのか、遊木は苦笑いだ。
「それは否定しないけど、でも、なんていうかな……。そういう生々しい話までしてもらえる程打ち解けた相手はいなかった、って事になるかな」
「まぁ、私だってこんな緊急事態にならなければ話題にしませんでしたし。聞いて気持ちのいい話じゃないでしょうから」
「焦るのは確かだね。経験ない事だからどう対処していいのかわからないしさ。
ところで何かして欲しい事とか欲しい物とかってある? 大丈夫?」
「……そんなに体調悪そうに見えます?」
やたらと心配そうな遊木になんだか落ち着かない気分になった有樹が問い返すと、やけにきっぱりとしたうなずきが返ってきた。
「だって有樹さん、眉間にしわよりっぱなしだし、時々すごく辛そうにしてるから。
それに顔色もあんまり良くないし、さっきまで普通にしてたのに急にすごく大変そうだから余計に心配なんだよね」
反論の余地がない言葉につい小さく笑うと、笑い事じゃないよ、と苦笑いででたしなめられた。
「大変には大変ですけど、こういうのはおとなしくやり過ごすしかないですから。
多分明後日にはけろっとしてますから、そんなに心配しなくていいですよ」
「俺は今大変そうなのが心配なの」
「はぁ」
有樹としてはもはや台風と同じで、家でおとなしくやり過ごすしかない、と割り切っているため、逆にあまり心配されるとかえって落ち着かない。
鎮痛剤を飲めば多少は落ち着くし、命に関わるような問題でもないのだ。
「急に、といえば急ですけどね。自覚する前もじわじわと痛み出してるんですよ。ただ、トイレに行って視覚的に確認しちゃうと途端に酷くなるので」
何割かは精神的なものなんだろうなぁ、と思いつつ説明すると、へぇ、と妙に感心したような声が返った。
遊木は横になっている有樹の頭のある辺りの床に座り込み、片手で軽く髪をなでる。
意識してなのか無意識なのか、どちらともつかない動きだが手の感触に少しばかり痛みが和らぐような気がしたので、黙ってされるに任せる事にした。
「毎月こんなに大変じゃあ辛いね。……って、今までどうしてたの? 俺と会う時に一度も重ならなかった、なんて事ないよね?」
「体調が悪い、とか、他の用事が、とか適当な理由で断ってました。さすがに座って手芸にいそしめる体調じゃないですし」
「あ~、なるほど。他の約束、って女の子の場合そういう意味の時もあるのか」
「ま、本当に他の用事の事もあるでしょうけど、低い確率じゃないと思いますよ」
女同士である程度親しいのなら正直に告げて断るのも選択肢だが、異性相手ではなんとも微妙な気分になるのがわかりきっているので、それであれば無難な断り文句として、他の約束がある、というのは便利なのだ。
詳細を執拗に尋ねてくる相手でもなければその一言で煙にまけるのだからありがたい限りである。
現に有樹も、数回ほど遊木との約束を体調不良や別の予定が入った、と言って断っている。
「周期が安定していれば前もってその日を避けて予定を入れればすむんですけどね」
「え? あれって定期的に始まるものじゃないの?」
「人間の体なんだから誤差くらいありますよ。
それに、その辺もかなり個人差がありますから。ほとんど誤差なしの人もいれば、ばらつく人もいます。周期そのものだってほぼひと月って言われますけど、私は三ヶ月に二回程度ですし、日数的にも半月くらいずれこむ事もありますから」
「へぇ……。そりゃ予測もしにくいね」
「そうなんですよねぇ。今回なんて、前回からまだひと月たつかたたないか、くらいなんで、まだ絶対に始まらないと思ってたんですけど」
面倒で困る、と横になったままため息をつく有樹。大きく時期がずれればその分生理痛は酷くなる。
有樹の場合、腹痛だけでなく腰痛や吐き気、出血で軽い貧血まで起こすのか、めまいや動悸といった症状が出る時もある。
さすがに毎回仕事を休むわけにはいかないので、大抵は市販されている中で一番強い鎮痛剤を飲んで耐えているが、数回に一度は薬を飲んでも駄目で、家で倒れ込んでいる始末だ。
今回も痛みは普段以上だし正直もう体を起こす事すらおっくうな程調子が悪い。
「なんか本当に辛そう。俺のまわりってこんな風に倒れちゃう人いなかったし、ちょっとなめてた部分はあるかも。
生理休暇とか優遇しすぎだろ、とか思ってたけど、有樹さんみたく本気で調子悪くなっちゃう人にしたら、休ませてくれないなんて酷い、ってなるよね」
「でも上司に、生理痛で休みます、なんて断言できる人の方がレアケースだと思いますけどね。
たぶん、利用してる人の半分くらいはそれを口実に休み取って遊んでるかと……」
「ははは……」
有樹自身、生理痛が酷すぎて医者にかかっているし、無理して出歩くと倒れかねない、として診断書を書かれてしまった。
仕事の都合でどうしても無理な時以外は一番酷い日だけでも休みなさい、とまで言われたのは、学生時代通学中に倒れたせいでもある。
それでもあまり生理痛を理由に休まないのは、上司にそれを告げるのに抵抗があるからだ。
結局、腹痛や腰痛を理由に休むのだが、おそらく薄々感づかれているだろうな、とも思う。思うのにやはり生理痛を申告するのはどうにも嫌なのだからままならないものだ。
なので、あっけらかんと生理休暇を申請できるのは、その辺の抵抗感が少ない人か、口実でしかないので気にならないか、見栄をはる余裕がない程生理が重いか、という事になる。
そして有樹のまわりを見ている限り、そこまで生理が辛い女性の比率は口実に使いそうな人間の比率よりも数少ない。
そうなると結果として本当に動けなくて休んでいる人の方が少なそうだ、という結論になってしまう。
どのみち生理休暇は休んでいいとされているだけで欠勤扱いになるのがほとんどなので、財布を直撃するのは普通の病欠と変わらないのだろうが……。
「寒くない? 毛布かけてあげたいところだけど、毛布は嫌だよね?」
言いながら遊木が広げたバスタオルを有樹にかける。室温は快適な温度になっているのだが、体調が悪いと体感温度は変化する。こと、痛みが酷くて汗をかくと、それが引き始めた時急激に体温を奪われるからだ。
「寒くはないです。でもなんか、タオルかかってる方が落ち着くような気が」
「そっか。ならよかった。佐々井が戻ってきて大丈夫になったらちゃんとベッドで横になろうね。薬効いて落ち着き始めたら送るから」
「あ~、送ってもらえるのは助かりますけど、ベッドは遠慮します。テレビついてたり、何か気が紛れる方が楽なんで」
やけに過保護な事ばかり言う遊木にいくらか苦笑混じりになってしまった返事をする。確かにベッドの方が体は楽だろうが、いくら体調が悪いと言っても遊木のベッドを借りるのには抵抗があるし、この体調ではぼんやりテレビをながめているか、遊木と話をしている方が気が紛れそうだ。
「そっか、じゃあ毛布だけ後で取ってくるよ。体調悪い時って、何かにくるまってると落ち着くしね」
今は汚す心配をしてかえって落ち着かない、という気分を飲み込んでくれたらしい言葉に小さくうなずくと目を伏せる。眠れそうにはないが、痛みに強ばっていた気分が少しずつほぐれてきたのだろう。あれこれ考えるのがおっくうになってきた。
「字幕の番組になっちゃってるから変えるね」
返事を期待していない声に続いて、遊木が動く気配がする。少し間をおいて流れていたテレビの音声が落ち着いた雰囲気の旅番組に変わった。
「しゃべるの怠かったらうとうとしてて。佐々井戻ったら起こすから」
有樹が眠りかけているのに気づいたのか、元の位置に戻った遊木の手が柔らかく髪をなでる。
その感触に有樹は、この手は催眠音波でも出してるのかなぁ、とぼんやりと思いながら、痛みが酷くて眠れるはずもない、と思っていたのに静かに流れてくるテレビの音声を聞いている間にするりと眠りに引き込まれてしまった。
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作者都合により当面休載させていただきます。
急で申し訳ありませんがご了承くださいませ。
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