車と税金と生活習慣。
「なんだ、結構うまいじゃない?」
「だから話しかけないでください、っと!」
楽しげに話しかける遊木に対して、有樹がかみつく勢いで返す。
必死の形相で前をにらみつけているのは慣れない運転中だからだ。
「あ、ほら次右に曲がらないと。車線変更がんばれっ」
「無理ですからっ!」
楽しげに進行方向の指示を出した遊木は、返ってきた返事に軽くふき出す。
無理も何も、車線変更ができなければこのまま幹線道路をどこまでも真っ直ぐに走って行く事になってしまう。
それはそれでまぁいいか、と思っていたのだが、有樹は危なっかしいながらもなんとか車線変更を行い、目的の交差点を曲がる事に成功した。
余裕のかけらも見当たらない有樹の補助をするつもりで、周囲に視線を向けながらもつい口元がゆるんでしまうのは、こんな風に必死な彼女を見る機会が少ないせいだろうか。
遊木の勧めもあって、退院後通勤を再開するにあたって有樹は運転免許を取ることにした。
今まではともかく、これからは運転免許がなければ不便に感じる事も増えるだろうし、何より社会に出てから教習所に通う時間を捻出するのは大変なのだ。
大手を振って休みが取れる機会を利用しない手はない。
加えて、座学で椅子に座っている時間を増やしたり、環境の整った場所以外での行動にどのくらい支障が出ているのかを確認したり、出歩く事に体を慣らす意味もある。
最終的には、ラッシュ時間を避ければ交通機関を使えるようになるのが目標だが、まずは車で通勤しての勤務再開が目標である。当面は警備陣が送迎する予定になっているが、ゆくゆくは有樹自身が運転しての通勤か、就業時間をずらして電車通勤に戻すかのどちらかになるだろう。
駅の階段で突き落とされた、という体験から駅を使う事でフラッシュバックの心配もある。
有樹の事を考えると何重の意味でも車通勤に落ち着いて欲しいところだが、本人が電車通勤に戻したがっているのでそれを頭から否定する事もできず、状況を見て最終判断にする、というのを落としどころにした形だ。
ちなみに今日は有樹の免許取得祝い、という名の下で、無理矢理有樹に運転させてドライブ中である。
有樹の自宅から遊木のマンションまで、というさほどでもない距離なのだが、車庫入れがすむと有樹はぐったりと背もたれに体を預けてため息をついた。
「お疲れ様。まだまだ危なっかしいけど、初めてにしては上出来だったんじゃない?」
遊木が飾らない感想を言うと、ありがとうございます、と微妙に語尾が上がった半端な言葉が返ってきた。
「ほめられてるのかどうか微妙ですけど、一応喜んでおきます……?」
「ほめてるよ? さすが、本試験一発合格するだけはあるねぇ」
「いや、実技はそもそも合格できるレベルになってなければ卒試受けられませんし、学科だって問題集でいくらでも予習できるじゃないですか」
遊木の言葉に何やら不思議そうに有樹が首をかしげる。
わざわざ試験を受けるのだから、一度で合格しなければ何度も何度も足を運ぶようで面倒臭い、というなんとも言い難い主義の持ち主である彼女にとって、試験前にできる限りの予習をするのは当たり前の事だ。
教習所で自習室におかれている学科の練習問題や、購入した問題集を使って正解率が合格ラインを超えるまでひたすら勉強したのだから、これで落ちたら余程本番に弱いか、回答欄を間違える、という伝統的なミスをする注意力不足か、そのどちらかだろう。
「いやいや、でも免許の学科試験って初回の合格率低いよ? だいたい三割くらいだっけ?」
「二回目以降は予約制、とか面倒なんで必死に勉強しましたからね」
「きちんと勉強したのはすごいけど、コメントしにくい理由だねぇ」
「だって、お金もかかるし面倒じゃないですか。二回試験受けるんだったら問題集買って予習した方が安いですし」
正論ではあるのだが、そんな理由で本当に一度で合格してしまう辺りが有樹の面白いところだ。
より面倒な事を避けるために全力で取り組む、というのは、結果として楽ができているのかいないのか。
「というか、指摘し損なってましたけど、この車、どうしたんです?」
ミラーをたたんでエンジンを切り、シートベルトを外した有樹が遊木を見て不思議そうに問う。
これまで有樹の送迎に使われていたのは八人乗りのワンボックスタイプの車種だったが、今日遊木が乗って現れた――つまり、そのまま有樹が運転させられたのは補助シートを出せば最大七人乗れるミニバンタイプの車だ。それも、有樹も運転できるよう、サイドブレーキとアクセルは既に改造済だ。
教習車は右側のアクセルの前には誤操作防止用の保護板をつけ、それとペダルの隙間にU字型の部品を取り付けるタイプだった。その部品の左側に付いているペダルを踏み込むと、連動して傾く右側部分が本来のアクセルペダルを押し込む、という構造。
しかし、今運転したものは、アクセルペダルそのものを取り替えてあった。
構造としてはF字に近い。横棒部分が左右両側のペダルになり、それぞれがバネを使って跳ね上げられるようになっている。
つまり、使わない側を跳ね上げて収納する事で、誤作動防止にもなるし足元が広くなる。
ちなみに昨今主流の足踏み式サイドブレーキのペダルは左側のアクセルを設置するスペース確保のために取り外され、手で操作するためのものに取り替えられている。
「あぁ、これ? うちの警備が使ってる車を、リースしてる会社から借りてるんだよ。
有樹さんの名義で一台借りるから、ってこの前書類にサインしてもらったでしょ? ま、基本的にこれは君のための車だから。当面送迎もこの車でするけど、有樹さんが頻繁に使うようなら専用にしてもらってかまわないし」
「……へっ?!」
「説明したよね?」
「……いや、えぇと……」
「大丈夫。リースだから自動車税とかかからないし、車庫証明もうちでとってるから問題ないよ。リース料金は犯人からふんだくってるし」
「えぇと、そうでなくて、なんか高そうな車だし高そうな改造してません?」
「あぁ、その事? それはこっちの都合。佐々井はこのくらい車高ある方が好きなんだよね。いつもこういう車高あるタイプ使ってるしさ。
あと、確かに改造費としては高いんだけど、このタイプ左右のアクセル切り替えるのが簡単だし、ペダル部分を付け替えてるだけだからさ。下取りに出す時に元のペダルに戻せば普通車として売れるから。床に固定するタイプだと車体に固定金具の穴が残るからね。この方が汎用性があった、っていうわけ」
さらりとした説明に、どう考えても新車だとしか思えない事実をどう指摘したものか悩んでしまう。
しかもやたらと広範囲がカバーされているバックモニターやら何気なく高そうなオプションが山盛りな気がしてならない。
「あ、ちなみに自動車庫入れ機能とかはついてないよ。
あると便利だろうけど、初めてがそういう車だと他の車運転できなくなっちゃうからさ、追突予防のセンサーは付いてる車種にしたけどね」
「……なんだか、内装が特別仕様車っぽいんですが」
「あ~、そこは俺の趣味? 俺、車の内装白っぽいの好きじゃなくてさ。黒がよかったからつい」
「そこでなぜ遊木さんの趣味が関係するんです?」
「いやほら、どのオプションつけるかとかあれこれ打ち合わせしてたらつい楽しくなっちゃって?」
ごめんね俺の好き放題しちゃって、とあまり悪びれずに告げられ、これにはついふき出してしまう。
確かに、この車には後列のドア付近に手すりがつけられていたり、バックミラーが通常より大きいものに取り替えられていたり、エンジンスターターがつけられていたり、と車に詳しくない有樹でもオプションで追加したのだろうとわかる装備がいくつもある。
しかし、どれもこれもが有樹のためを考えてつけられたのだとわかるだけに遊木の個人的な趣味、とは思いにくい。
おそらく、つけるオプションとの兼ね合いで特別仕様車の方が都合がよかったのだろう。
「でもたぶん、有樹さんが使いにくいと思うような仕様にはなってないと思うよ。
あと、シガーライターから家庭用電源に変換するアダプターとか、いくつか警備が使う備品的なものが積んであるけどそれはあんまり気にしないで。降ろされちゃうと困るけど、使ってもらうのは問題ないから」
「了解です」
「ちなみに、アクセル周りの改造、新車で登録する時にやってると自動車取得税が免税になるんだって。中古車改造しても何の減税も受けられないんだけどね。
というわけで、来年度早々買い換え予定の車を先行処分して新車買ったんだよね。これもこっちの都合だから心配しないで。
あとこれ、ファミリー向けの車種だから、高い車、って事はないし。ぶつけても安心」
「……いや、故意にぶつける予定は……」
遊木の言葉に、ぶつけない、とも言えない有樹が微妙な返事を返す。気になっていた所を説明してくれたのはありがたいが、ついでにからかわれてしまった。
まぁ、こういうところが遊木さんらしいといえばそうなんだけどね……。
有樹が少し生ぬるい気分になったのはしかたのない事かもしれない。
「あ~、あと、これは説明しないとだった」
そう呟いて、遊木がワイパーを操作するレバーにかけられている小ぶりのキーホルダーを指す。
小さめのマカロン型ケースにフリンジをつけてあるそれはいかにも有樹が作りそうな物だが、実際には最初からこの車につけられていたものだ。
「これね、非常通報装置だから」
「非常通報装置、ですか?」
「うん。今後、今回みたいに警備が同乗しない状況で有樹さんがこの車使う事が増えるだろうからね。
一応、警備は別の車で近くを走ってるけど、道路状況によっては離されちゃう事もあるだろうし」
そう言って遊木の手が長めのフリンジを指に絡める。
「こんな風にして強く引くと、電気のスイッチみたいな感じで手応えがあるから。こっちでは別に音もしないし変化もないけどね」
それだけ言って指を放した遊木が今度はスマートフォンを取り出してどこかをコールする。すぐにスピーカーに切り替えられたのは、内容を有樹にも聞かせるためだろう。
「はい、佐々井です。どうされました?」
「異常はないよ。車の通報装置の説明がてら、一度有樹さんに試してもらうからその予告」
「了解しました。テスト通報の手続きをしますので少々お待ちください」
返事に続いて、電話の向こうで何やらやり取りをしている声が届くが、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。
しかし、さほど待たされる事もなく準備完了の返事がきた。
「ん、じゃあ試すね。
有樹さん、運転してる姿勢のままそれ引っ張れるか試してもらっていい?」
遊木に言われ、背もたれに体をつけたまま手探りで引こうとするが、なかなか手に当たらない。
「う~ん……。ここだとやりにくいかな? シフトレバーに変えてみる?」
「どのみち慣れないとできそうにないのは確かですねぇ」
ようやく探り当てたフリンジをたぐりながら、でも、と続ける。
「最初にここにあったという事は、遊木さんの家ではここにかけておくのが基本、って事ですよね?」
「まぁね。でも有樹さんが無理にそれに合わせる必要はないと思うよ」
「私はどのみち、慣れないと簡単には使えないと思いますし、遊木さん達が運転する場合に何かあって操作しようとした時、いつもの場所にないと困るでしょう? ですからこのままでいいですよ。運転する度、ここにあるのを意識して軽く触る習慣をつけるようにします。このくらいなら作動しないみたいですし」
フリンジをいじりながら答えて、軽く引いてみるが別段手応えはない。
「あぁ、もっと強く引かないと駄目だよ。服とかに引っかけて誤作動しないようにしてあるから」
確かに位置的にそんな事もありそうだ、と思いながら今度はいくぶん力を込めて引く。するとかちりと手応えがあった。
次の瞬間、遊木のスマートフォンから警告音と、八六八二より通報、という機械のアナウンスが流れてきた。けっこうな音量のそれに思わず体を強ばらせると、遊木が小さくふき出す。
「うん、問題ないみたいだね。とめてくれる?」
「通報者よりテスト通報終了申告あり。警告音を停止後、テスト終了手続きに入ります」
普段通りの落ち着き払った佐々井の声の途中でうるさかった警告音がとまる。
そして先程と同じ程度の間の後、テスト終了の手続きが済んだ旨の報告があった。
「ありがとう。じゃ、後は予定通り部屋に上がって帰りまではこもっりきりの予定だから、それまでは交代で休憩しておいて。動きがある時は連絡する」
「了解しました。それではお気をつけて」
短いやり取りの後、遊木が通話を終える。
「とまぁ、こんな感じでそれを引くと近くにいる警備車両と、うちの警備本部に警告が飛ぶんだ。この車はGPSで追跡してるから、事故とかで車を離れないと危険な時以外はそのまま車にいてくれればいい。
車を離れる場合はスマホの位置情報を使って追う事になるから。その場合、警備がスマホと車のGPSが同じ位置じゃなくなったと判断したら遠隔操作で追跡モードに移行するからバッテリーを温存するのだけは気をつけてね」
「はい」
「過充電はよくないとか気にしないで、スマホの充電は常に半分以下にならないようにキープしてくれると助かる。バッテリーが早く摩耗した分に関してはこっちで機種変費用の一部負担なりバッテリー交換料を持つなり、補填するから。
半分あれば多少のアクシデントがあっても警備が到着するまでの時間、確実に状況と位置を把握できるから、それが安全マージン込みのデットライン」
遊木が言う追跡モードとは、スマートフォンの画面はブラックアウトしたままの状態で周囲の音声をデータ通信で警備に送信し続ける状態だ。
多少通信速度は遅くなるが、通話回線を使わないので普通に電話もできるし他の通信もできる。
もし誰かが有樹のスマートフォンを使ったとしても、そんなアプリが裏で動いているとは気づかないだろう。アプリの性質上、切り替え画面にしても表示されないし、通信中のマークもそのアプリの通信だけの場合は表示されない。
警備本部からの強制起動の場合、警備側から解除しない限りはスマートフォンの電源を切ろうとも、初期化したとしても、GPS機能だけは切れないという謎設定を施されている。
その上、追跡モード中はバッテリー残量表示が実際よりもいくぶん速く減っていくように設定されているらしく、実際の充電切れより早く充電切れのアラートが出て操作不能になるのだ。
悪用されたら怖いアプリだなぁ、とは思うが、確かに何かあった場合には有効だろう。
他社製のスマートフォンによくそこまでできるな、とも思ったが、全員が同じスマートフォンを使っているのも不自然だ、という事で警備陣は敢えて国内シェアにあわせた割合で、あちこちのメーカーのスマートフォンを使っているらしい。
それ故にどこの機種であっても対応できるようにしているという。
「なんか、こういう話になると、本当に別世界の人ですねぇ」
なんとなくしみじみとつぶやくと、これには遊木が苦笑いになる。
「まぁ色々生活習慣とか違いはあるだろうけどね。
こたつでみかん最高、外食が続くと卵かけご飯が恋しい、ってくらいには当たり前の日本人だよ?」
「え? 遊木さんでも卵かけご飯なんて食べるんです?!」
「ちょっ?! 俺をなんだと思ってるのさ?! 炊きたてご飯に生卵、そこにお醤油ひとたらしして、後は梅干しか味のりがあったら最高だよ?」
「うっわ、なんて庶民感覚っ。……って、そうか、遊木さんの場合、お米とか卵とかそれぞれがやたら高いわけですね?!」
「だからどういうイメージなの、それはっ?! よく一緒にそこらのファーストフードとかコンビニで買い食いしてるよねっ?!」
「だってそれは私がいるからでしょう?」
「いやいやいや、そんな事ないから。
だいたい、俺は普段普通の企業で当たり前の営業してるんだからさ、そんな高価なものばかり食べてたり、普通の店に入らなかったらどう見ても変だから。
確かに大学入るまでは言われても仕方のない生活だったけど、大学入ってからは割合当たり前の学生生活だよ。
コンビニ弁当もスナック菓子も食べるし、ゲームに夢中になってりゃカップ麺とおにぎりで飯すませてお袋に叱られたりもする」
事実なのか言い訳なのか、微妙に情けない遊木の言葉は弟の行動パターンとほとんど変わらない。
確かに弟も――有樹自身も何かに夢中になるあまり、食事をおろそかにして両親に叱られた事は再三だ。その意味では確かに同じなのだろう。
けれど何となく納得がいかないのも事実である。
「なんか、遊木さんってさり気に高いものしか食べてないイメージがあるんですけどねぇ」
「いや、それは誤解だって」
「その年で百円ショップに入った事がなかった人が何を言いますか」
「というか、ああいう店って特に用事ないんだよ。
服のたぐいはいつどこで誰と会うかわからないから、最低限家に迷惑かけないラインのものにしないとまずいしさ。
俺のこれまでの趣味だと買うものなんて電子マネーと雑誌くらいだからね。
基本自宅だから食材とか調味料とかいらないし、お菓子のたぐいも家にあるものを食べる。
――それに、ああいう店って棚がけっこう高くて視界がきかないから警備的にはあんまり喜ばれないんだよ。
気にしなくていいって言ってくれるけど、さして用もなければ行かなくてもいいかな、って思うんだよね」
説明に有樹が納得していないと思ったか、遊木が苦笑気味に最後の理由を口にのせる。
本人としてはあまり口にしたくなさそうだったが、有樹はそれを聞いて口元をゆるめる。
以前遊木の兄・春馬も警備を大切にしている様子だったが、彼自身も警備陣の事を思いやって行動を決めているらしい。
「遊木さんらしいですね」
「……それ、どの理由に対して言ってるの?」
「さて、どれでしょう?」
いくぶん不本意そうに返され、からかうように片目をつぶってみせると、軽く息をのむ気配が返った。
「だからそういうのは卑怯だよ」
「すみません、元々こういう性格なもので」
ふてた様子がおかしくて、くすくす笑いながら応じると遊木が苦笑いで、まったくもう、と頭をかいた。
お読みいただきありがとうございます♪




