過保護な保護者再び?
退院を間近に控え、有樹は着替えて散歩をする事が増えてきた。
病院の中はパジャマで出歩いていても問題ないのだが、病棟の中ならまだしも、外来棟にある売店や、病院の中庭に出るのにパジャマ姿というのには抵抗があったからだ。
リハビリの一環でもある散歩は午前中の日課となりつつあり、午後は家族が代わる代わる顔を出してくれるので、必然的に午前中に一人――といっても警備は同行するのだが、中庭を軽く散歩してから売店で無糖のカフェオレを購入、テラス席で休憩、というのが定番のコースだ。
別に食事制限はないので病室に戻ってから飲んでもかまわないのだが、入院しているのが産科病棟なのでどうしても気になってしまう。
なぜ産科病棟かというと、有樹の入院している病院は小児専門の病院なので、成人向けの病棟は主に出産前の妊婦が入院している病棟と、産後に新生児と一緒に入院する病棟くらいしかないので、ほぼ必然的に産前の妊婦達と同じ病棟になったのだ。
妊娠中や授乳中はカフェインが良くないと聞くので、我慢している人がいたら申し訳ない、と気兼ねしながら飲んでも美味しくない。それなら、と外来棟の売店近くにあるテーブル席で飲んでから帰るのを選んだのである。
この日も同様で、有樹は売店から遠く静かな場所を選び、カフェオレ片手に読書を楽しんでいた。
ただし、読んでいる小説が何度もドラマ化されている時代物な辺り、久本が知れば全力でつっこみかねない代物なのが有樹ならではだ。
目の前の席ではブレンドコーヒーを頼んだ佐々井が何やらタブレットを操作しているが、仕事をしているのか趣味に走っているのかは有樹にはわからない。特段詮索する必要もないので別に尋ねた事もない、という事実もあるが。
何かを話すでもなく、ひたすら自分の事に集中しているのは遊木といる時と同じだが、静かと言っても子供連れが基本の場であり、あくまでも売店周辺に比べれば多少は、程度でしかない。
手が治っていたとしても手芸道具を持ち込めるはずもなく、いきおい読書とアプリに精を出してしまう。
人が近づく気配に気づく度、視線を上げて確認するのはうるささが気になるというより、突き落とされた後遺症のようなものだ。
どうしても親しくない人間が近くにいると気になってしかたがない。
これじゃ足が問題なくても交通機関を使っての通勤はできないかも知れないな、と有樹は内心ため息をついているのだが、これも不自由さを増した体同様、時間をかけて慣れるしかないのはわかっている。
何度目になるか人の気配に視線を上げた有樹は、やけに高級そうなスーツを視界にとらえて片眉を上げる。
しかもその相手がテーブルのすぐ側で立ち止まったとなると、嫌な予感しか感じない。
「こんにちは、佐久間さん。少し、いいかな?」
「迷惑ですけど、断っても無駄そうなのでどうぞ。――あぁ、女性を立たせるような下衆な真似はもちろんしませんよね?」
雇い主に等しい相手の登場に、腰を浮かせかけた佐々井を制するように、有樹が満面の笑みを浮かべて件の相手――遊木春馬に問いかける。
第一声から友好的な対応を期待させない言葉に春馬は苦笑いでうなずくと、近くの席から椅子を運んで腰を下ろした。
「君は本当に面白いね。俺に――というか、俺の立場を知ってそういう態度に出られる人は案外少ないよ」
「それは権力自慢ですか?」
「ただ事実を告げただけなんだけど、そう聞こえたなら悪かったね」
非友好的な態度を崩さない有樹に対し、春馬は苦笑いするしかない、といった様子だ。
「それで、弟さんの妨害が入らないだろう時間帯を選んで、わざわざ用もない場所に現れたのはなぜでしょう?」
「今日は娘のリハビリの付き添いなんだよ。まぁでも、友達と一緒のようだから親が一緒よりも子供だけの方がいいかと思ってね」
「なるほど?」
どうやら有樹に会うためにわざわざここを訪れた、というわけではないらしい。それが本当なのか口実なのかはわからないが、まぁまだまし、といったところか。
「ではその付き添いの父親が、私に何かご用事でも?」
「用事というか、君とちゃんと話をしてみたかった、という事ではいけないかな?
あれ以降、佐久間さんとはきちんとした対話をした事がないと思ってね」
春馬の言葉に、どうやら品定めに来たらしいと知って有樹は隠しもせずため息をついた。
「いい加減、そこまでの過保護はブラコンと言われても仕方のない範囲かと思いますが」
「一応自覚はしているよ。
でも、和馬が心配なのも確かだけど、純粋に君に興味があるのも事実だからね。
俺達の立場を知った上でここまで率直にものを言ってくれる人は貴重だから、せっかく知りあう機会があったんだし友好的な関係を築きたい」
「私にはまったくメリットがないと思いますが?」
「そうかな? 将来義理の家族になるかもしれない相手と険悪なよりはいいと思うんだけど」
「少なくとも私の側に結婚するつもりは一切ないんですが」
面倒な事になったな、と思って先に釘を刺すと、春馬がやはり苦笑いになる。
「そこも不思議なところなんだよね。佐久間さんは和馬にも、うちの子供達にもすごくよくしてくれているのにこちらに見返りを求めてこない。
特に今回の事件なんて、こちらの落ち度を指摘して犯人だけじゃなくうちに賠償を求めたっていいくらいだよ?」
「つまり、私が何も要求しないからかえってうさんくさい、と」
「端的に言えばそういう事になるかな」
面倒臭い、と思いつつ有樹がつぶやくとあっさりと春馬が認める。
ここまで簡単に認めると思っていなかった有樹が、おや、とばかり片眉を上げた時、見知らぬ男が近付いてきて春馬の前にコーヒーのカップを置いた。
どうやら警備の人間に買いに行かせていたらしい、と視線を向けると、その男はクッキーの包みをテーブルの中央に置いて立ち去った。
なんとなく動きを追うと少し離れた席に座って同僚らしき男達と飲み物を片手にくつろぐ体勢に入る。
「もしよかったらどうぞ」
「このくらい自分で並んで買えばいいじゃないですか」
いくからあきれた気分で言うと、これには春馬が肩をすくめた。
「ま、それはそうなんだけど。ついでに自分達も好きな物を買っていいよ、と言えば彼らも自由に飲み食いできるからね」
「なるほど、確かにその通りですね。失礼しました」
まったく考えていなかった理由を聞かされた有樹は素直に頭を下げる。
確かに売店に並んで品物を買うくらい、自分でしてしまうのは簡単だが、どうせ警備対象がここにいるのだから彼らとて何か注文した方が悪目立ちしない。
言われなくとも何か注文するのは経費になるかもしれないが、そうなると一番安い物を、という縛りでも発生するのだろう。
けれど春馬が、好きに頼め、と言えば何を頼んでもかまわなくなる。細かい用事を頼む事で、春馬の財布からまとめて支払えるようにしたのだ。
こんな形で警備陣をねぎらっていたのなら、その口実に使った雑用をものぐさと批判するのは筋違いである。
「いや、かまわないよ。佐久間さんにはわからない環境での事情だからね。横着と思われて当然だ」
さらりと謝罪の言葉を聞かされ、いくらか驚いた様子ながら春馬がそれを受け入れる。
こうして変な意地を張らずに間違いを認められる潔さは好ましい。
こうした部分が彼女の本質なら、確かに前回のやり方は地雷を踏み抜いただけだったろう、と苛烈な反応にもある程度納得がいく。
とはいえ、今謝罪を口の乗せてもうるさげに流されるだけだろう、というのも予想がつくので、内心で少しばかり彼女の評価を上方修正しておくにとどめた。
「ま、こういう環境だとね、魅力的な相手が目的をはっきりと言わずとてもよくしてくれる、というのは疑うべき状況だなんだ。
それだけでもわかってもらえると、こちらとしては非常にありがたいんだよ」
変に駆け引きめいた事を言うよりも、率直に口に出してしまった方が話が早そうだ、とふんだ春馬の言葉に、有樹は唇の端にわずかばかり苦笑めいた色をのせる。
「そういう環境のようだ、というのは想像がつきますが、好意だとか気まぐれだとかいうたぐいの曖昧模糊な理由しかありませんよ」
文庫本に栞をはさんで閉じた有樹が、指先でテーブルを弾く。爪がまだ不完全なので一応まだ絆創膏だけは貼っているが、手首の捻挫はすっかり治っている。
退院さえすれば手芸も再開できるだろう。
「元から手芸は趣味ですし、材料費と収納場所の心配をしないで作れるのならそれは私にとってのメリットです。
ああいう子供向けのおもちゃも今まで作った事がなかったので面白いですし、一方的にこちらがかぶっているわけでもありません」
「そう言われれば確かにそうだけど、同じ趣味の人が誰でもここまでしてくれるとは思えないからね」
「ぶっちゃけるのは簡単ですけど、気持ちよくない話になりますよ?」
どうやら通り一遍の耳触りのいい理由では納得してくれそうにない、と悟った有樹がため息混じりに告げる。
それが目的だったらしい春馬がうなずくのを見て、本当遊木さんの家って変な人ばっかり、などと思ったがさすがにそれを口に出さない分別はあった。
「極限まで平たく言えば、あなたの娘さんを見下して優越感を感じているからでしょう」
あまりにもな言葉に春馬の表情が一瞬で変わる。よく表情の変化だけに抑えた、と言いたくなる程険しい視線を向けられたが有樹は平然としたものだ。
「だって正直思いましたよ。あぁここまで大変じゃなくてよかった、これに比べればまだいい、――見下せる相手がいる、ってね」
「……それは、どういう意味かな?」
「言葉通りです。それとも、あなたは病院で他の、娘さんよりも重度の障害を抱える子供達を見て、一度たりともそんな事は考えなかった、と言えますか?」
薄く笑みを浮かべている相手からの切り返しに、春馬は言葉につまる。
確かに彼女の言うような事を考えた事がないとは言えない。
麻痺はあれど命の危険はない事を、大きな手術が必要にならなかった事を、その境遇に置かれている子供達を見ながら、ああでなくてよかった、と胸をなで下ろさなかったか、と言われたら否定などできない。
けれど、そんな言葉が初対面に等しい相手――それも自身も障害を抱える有樹から指摘されるとは思ってもいなかった。
「昔から思ってるんですけど、みなさん障害者に夢を見すぎですよ。
たまにテレビで放送される、難病に冒された素直で優しい健気な子供、なんて絶滅危惧種だからこそわざわざドラマになるって理解してます?」
確かに障害を抱える人に対する理解を求めるためにはテレビという媒体は有効なのだろうし、人気の俳優やアイドルを起用して感動的にまとめたドラマを放送すれば、啓蒙活動としても寄付集めとしても効果は高いだろう。
けれどそれも過ぎれば、障害を抱えた人はドラマティックな人生を歩んでいる、という間違ったイメージをつける事にもなりかねないな、と有樹は思う。
小綺麗で感動的に脚色されたドラマの中にいるのはあくまでも作り上げられた虚像でしかない。そこに現実に起きた事が盛り込まれていようと、所詮は絵空事にしかなっていない気がするのだ。
「なんで健康に産んでくれなかった、って親を恨みもします。一生治らない事に絶望してやさぐれもしました。できない事ばかり突きつけられてその度どれだけ苦しいかだなんて、あなた方には絶対に理解できない。
自分より大変そうな相手を見かけて、あれよりはまだましだ、って安心するのの何がいけないんです? そういう相手に施して優越感を感じる事でバランスを取ることの何がいけないんでしょう?」
笑顔のまま言い放ってから、有樹はカフェオレに口をつける。
「もう一つ言わせていただくのなら、私みたいなのに本気で結婚を申し込むような酔狂な人間は弟さんを含む一部の酔狂な人間くらいなものです。
普通、障害を抱えていると知ればデメリットを計算して距離を取りますし、それがより正常な反応なんですよ。
恋愛モードでお花畑になってる間だけの虚言なんですから、真剣に受け取って露骨に反対すれば逆に意固地になるだけでしょう。
放っておけばいいと思いますよ。本人にも言いましたけど、私は彼に限らず誰とも結婚するつもりはありません。
こんな面倒臭いものに誰かを巻き込むつもりなんてありませんからどうかご安心ください。
その方が娘さんにとって、何よりもいい結果となりますから」
さらりと告げて口を閉じる。最低限言うべき事は言ったので、後はむこうがどうとるかだ。
いつだったか有樹が読んだ小説に、障害がなくとも元から面倒な性格だった、と書かれた一文があったのを思い出す。
確かにそれも一理あるな、と思う。
障害を抱えていようがいまいが、面倒臭い性格の人間というのはどこにでもいる。おそらく自分も元からひねくれていて面倒臭い性格になる素地はあっただろう。
けれど、障害がなかったとしてもまったく同じ性格になったか、と問われれば、似たような物にはなっただろうけど、と答えるしかない。
なぜなら性格――というよりは、人間関係における基本のスタンスや思考の方向性は、やはり思春期までに置かれた環境に左右されると思うからだ。そしてその頃までの出来事で、トラウマになる程のものと言えばすべて障害がらみである。
確かに障害がなかったとしても、同じような状況になった可能性は否定しないが、両親の話を聞いていると、幼稚園くらいまでは木登り塀登り上等、そこら中を走り回っていたという。
となると、運動能力的に同学年の遊びについて行けなくなった、体育の不参加指示を受けた、などの事がなくともここまでインドア特化になったとは思いにくい。加えて小学校高学年くらいまではプールやスキー、スケート、二十キロウォーキングと、家族とだけであればそれなりの運動量になる遊びもしていたわけだし、今も博物館や手芸店・本屋に吸い込まれると半日以上出てこない事もある。もちろん、翌日から体の痛みにうめくはめになるので、連休初日にしかできない無茶な楽しみ方なのはわかっている。
これらを考え合わせるともしも障害による運動面での枷がなければ小さい頃に習っていた水泳が続いていた可能性もあるし、自転車に乗れるようになっていれば行動半径が広がって別の習い事を始めていたかもしれない。
仮定の話など無益だとはわかっているが、それでも自分の性格形成において、障害を抱えている、という事実は切り離し得ない重要な要素だろう。
すべてをひっくるめてこその自分自身だと思っているからこそ、なくてもこうだった、とは思わない。
だいたい、障害を抱えている事抜きに評価されたいなど、考えても無駄でしかないのだ。
障害がある以上、接する人間にはそれをふまえたフォローをしてもらわなければいけないし、フォローを期待する以上、障害者というカテゴリーにくくられて偏見なり差別なり、フィルター越しに見られる事も受け入れるしかない。
そもそも思いやりなどと言っているが、それは余裕がある人間の施しにしか過ぎない。
それがもっともわかりやすいのは思いやり駐車場だろう。
全体的に駐車場が空いている時は空いているが、混雑し出すと許可証のない車ですぐに埋まってしまう。
とめる方からすれば空けておくのはもったいない、という事なのだろうが、歩ける距離に制限がある立場からすれば、混んでいるからこそ空けておいてもらえなければ困る。本来、混雑してとめられない事がないように、という意味でのスペースのはずが空いている時しか使えない。
何のためにあるのかわからない存在になっているのも、他にとめられるから空けとくか、という余裕のある時にしかそこを避けない、という心理からだろう。
仮に有樹が遊木の姪に優しかったというのなら、理由はそんなところだろうと自分で思っている。
彼女自身としては特に何かを考えて敢えて親切にしたわけでもないし、断る程のデメリットもなかった、そもそも断るのが面倒だった、という至って消極的な理由で協力的だっただけだが、それで納得しない相手に理由を問われたら最初に言ったような事だろうな、と思ったのだ。
自分の中により重度の障害を抱える相手を見下すような心理があると認めるのは気分のいい事ではないが、存在を否定できるものではないし、少なくとも無意識にそう考えていた自分を自覚させられた小学生の頃、自分のそんな部分も受け入れると決めたからだ。
そして、自分がそうやって見下される立場にあるのだというのも理解せざるを得なかった。
「誰しもそんな心理があると言われれば確かにそうだろうけど、広言していい内容ではないね」
渋い顔をした春馬が、肩をすくめながらそう言った。
「自分で追求しておいて何を言いますか」
それに対して有樹は苦笑いだ。
「広言する内容ではないのは知ってますよ。だから最初は言わなかったんです。
私にとって、今回程度の融通は会社の同僚程度の付き合いがある相手になら誰に対してもする程度の事です。なんとなく気が向いたから、以上の理由をつけるとしたら、こんなところでしょう」
「それはつまり、本当にただ気が向いたから、という事かな?」
「ええ。――まぁ、付け加えるのなら娘さんに会って欲しいと頼まれた時にご馳走になったお店がやたらと高そうだったので、食事代分くらいは働こうかな、と思ったのもありますが」
後でネットで調べたのはちょっとした好奇心だったが、それを本気で後悔するような値段を見て頭を抱えたものである。なので、その分くらいは働かないとまずいかなぁ、という気分があったのも否定しない。
ついあの時見たゼロの数を思い出してため息をつくと、春馬がふき出した。
「なるほど? 和馬の出した食事の代金分、か。なんとなく、というよりよほど納得がいくね」
くすくすと笑いながら飲み物に口をつけた春馬は、有樹に視線を戻すと少しばかりからかうような色を見せる。
「その返済はいつくらいまで、と考えていいのかな?」
「とりあえず現時点で引き受けている物を作り終えるまでは。――といっても、結構な数なんでいつ終わるかはわかりませんけど」
そもそも最近は自分の裁縫道具を持ち歩いたりはせず、遊木のものを借りている。作りかけのキットも遊木のマンションに置きっぱなしである。
持ち運びの手間を考えた結果なのだが、家で作業しない分、進みは遅い。自宅ではまた別の物――これは頼まれたものだったり有樹自身の物だったりするが――を自分の道具で作る、という形なので、頼まれ物ばかりで自分の作りたい物を作れない、というストレスを感じる事もない。
だから余計に遊木のためにやっている、という意識が薄いのだ。
「佐久間さんの意見はなんとなくわかったよ。
確かに結婚となると賛成しがたい理由はあるけれど、友人付き合いに反対する要素はなさそうだ。これからも和馬と仲よくしてやってくれると嬉しい」
「そのくらいのスタンスでいてくれる方がこちらとしても安心です。
まぁ、今のところ険悪になる予定はないのでご安心ください」
結局過保護なのは変わらないんだなぁ、と思いつつうなずいてから、ふと思い出す。
「あぁ、そうだ。桐子さんに伝言を頼んでも?」
「うん?」
「手芸キット、ありがとうございました。ずっとやってみたかったので代理購入してもらえたおかげで、念願かなって楽しんでます。
と、まぁ、それだけなんですが、会う機会がないので伝えてもらえたら、と」
「それはかまわないけど……。和馬からも聞いたよ?」
「弟さんにも頼みましたから。でも、あれは受け取った時ですし。実際やってみると複雑だしややこしいしやってもやっても進まなくて発狂しそうになりつつです」
苦笑いで言いながらも、それが楽しくてしかたがない、というのが伝わってくる。本当に手芸が好きなのだろう。
春馬は、制作費ゼロで作れるのがメリット、というのも案外本心なのかもしれないな、などと思いながら伝言を引き受けた。
「あ~ぁ、折角のくつろぎタイムが台無し」
あの後雑談をいくつかしてから席を立った春馬の背中に、視線を向けつつ有樹がぼやくと珍しい事に佐々井が笑う。
「自分を省みて悩み苦しむのも成長には必要な事ですよ」
単になだめるというには幾分か実感のこもったつぶやきに有樹は少し驚いたが、そうですね、とだけ応じてもう一度飲み物に口をつけた。
佐々井にも何か抱えているものがありそうだが、興味本位でそれをつつくのは失礼に当たるだろう。
口数の少ない佐々井なりになぐさめてくれているのだから、その心遣いだけをありがたく受け取っておけばいい。そう思いながら付けてくれたのが佐々井で良かったとしみじみと遊木に感謝する有樹であった。
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