それぞれの思惑と魔神降臨。
「せやけど、好きならなんで結婚したないねん?」
「ん~……。一言で言えば、信じられなくなりそうだから、かなぁ」
久本が腰を落ち着けて話をする体制に入ると、有樹は一つため息をついた。
「遊木さんが否定しても、必ず思っちゃう気がするんだよね。――この人は自分のせいで私が人生めちゃくちゃにされたって責任感じて、そのぶん大事にしてくれてるんだろうな、って」
視線を手元に落としたままつぶやかれた言葉に久本は眉をよせる。
遊木が有樹を好きになったのは事件が起こるずっと前だ。
もちろん彼女自身もそのくらいわかっているだろう。それに長年遊木を見てきた立場からすると、あの男はそういった罪悪感で態度を変えることはないと断言できるのだ。
相手が親しければ親しい程、負い目からの甘やかしを喜ぶかどうかをよく考える。有樹がそれを嫌っていると悟れば、内心複雑であろうとそんな事はしないはずだ。
遊木が有樹の怪我を悔やむのは当然だし、負い目に感じてもいるだろう。しかしこんな時、本当に責任を負うべき相手へそれをさせるため、全力を持ってかかるのが彼の性格であり、不必要な自虐に近い後悔はひきずらない。
そんな感情がなければ、有樹に対して過剰に引け目を感じて甘やかすような態度にになどでないに違いない。
けれど、有樹にそれを理解しろと言っても無理だろうと言うのも判る。付き合った時間が短い彼女には――それも、恋愛対象として見られていてはそれなりに格好をつけたところばかりを見せられていたはずだ。本質的な部分まで理解できる方がおかしい。そこに理解が及ばなければ、例えばけんかをして遊木が折れた時、今回の事件とつなげずにいられるはずがない。
負い目を感じる遊木に対して、負い目があるから、という不安がぬぐえなくなる。そんな微妙なしこりを抱えて結婚するなど確かに無謀だし、いつか破綻するという判断は決して間違いではないのだから。
しかし、だ。
「和馬はば和馬やけど、本物の馬鹿と違うからそない間違い方、せえへんと思うけどなぁ」
「まぁ確かに、そういうかわいげはあんまりなさそうだよね」
「……どこがかわいいんや?」
「いや、言葉のあやだけど」
「どないなあややねん……」
フォローを入れたのにさらりと返され、つい遠い目になってしまったのは当然だろう。
「ん~。まぁ、確かに遊木さんははっきり言えばわかってくれそうかな? と思わなくはないんだけど……。正直に言えば、どうせ障害持ちだし、ってひねて考えるのは私の側なんじゃないかな」
相変わらずのんびりとした口調で言ってから、ふと気づいたように有樹が手を打つ。
「どしたん?」
「喉かわいたなぁ、って。そこのクーラーボックスにペットボトル入ってるから取ってもらっていい? 久本も好きなの飲んで」
「せやな、言われてみれば喉かわいとるな。ありがたくいただくわ」
「や、ただのペットボトルだけどね?」
「んでもおごりには違いないやん」
何を思いついたのかと思えば、と苦笑しながら指し示されたクーラーボックスに手を伸ばす。ベッドの上からは角度の関係で届かないが、床に足をおろして立ち上がれば歩かなくとも届く距離だ。
警備兼のヘルパーがついていて、少し離れた位置に冷蔵庫があるのにわざわざこんな場所にクーラーボックスがあるのは、普段であればリハビリがてら有樹が自力で立ち上がって取るためだろう。
今彼に頼んだのは話が脱線し過ぎないよう配慮したものか、まだぎこちない動きを見られたくないか、どちらなのだろう。
ちなみにその警備は今、病室を出てすぐの位置にある大きな出窓がある休憩スペースにいる。来客中はそうして病室への出入りを監視する事で、側についての警備に換えているのは有樹や家族に配慮した結果だろう。
意識を目の前のクーラーボックスに戻すと、ジュース、お茶、コーヒー、紅茶とそれなりの種類が数本ずつ入っている。
「いい品揃えやな」
「私の家族と遊木さんがまめに買い足してくれるからね。定番以外はけっこう入れ替わってるよ」
「なるほどなぁ。……したら、和馬が買い置きしてそうなこれもらお。佐久間っちは何がええ?」
「無糖のカフェオレかノンカフェインのお茶で」
「ほいさ」
普段と変わらないリクエストに、適当に取り出した一本を有樹にさしだしかけて、動きを止める。
「これ、開けられるん?」
「かなり痛いからお願い」
「せやろな」
気づいてよかった、と思いながら有樹の分のペットボトルのキャップをひねる。
「キャップいる?」
「欲しい。一回開けたやつなら開け閉めできるから」
「そかそか。少しっつようなっとんやな」
遊木に聞いた話では右手は完全に使えないらしかったが、開封済みとはいえペットボトルの開け閉めができるようになってきたなら、日常生活もだいぶ楽になり始めているのだろう。
ペットボトルを渡し、キャップは有樹の手が届く位置に置かれている簡易テーブルに置く。自分の分は宣言通り、遊木が好む緑茶を選択した。
お互い飲み物をあおってからしばし、有樹が一つため息をこぼす。
「なんていうか……。実際に遊木さんがどう考えてるかより、私がそれを素直に受け取れるか、の問題な気がするんだよね」
「和馬は佐久間っちに変な遠慮せえへん、って信じんのが難しい、いう事なん?」
「……うん」
確かに言われた言葉をどう受け取るかは本人次第だ。
遊木にそんなつもりがなくとも、有樹の側に勘ぐる心があれば言葉に別の意味が生まれてしまう。けれど、こんな事があったのではそういった勘ぐりをしてしまうのもいたしかたないだろう。
普段の彼女であればそんな卑屈さとは縁がない。必要な配慮は必要として受け入れる度量を持ち合わせているのだが、今の彼女では同じ事をされても見下されたりあわれまれている、と受け取ってしまうのだろう。
ある意味で対人関係の基本でもある、相手の意図を正しく読み取る、という部分が揺らいでしまうほど、今の有樹は精神的に不安定であり、精神的な拠り所を見失っているかもしれない。
話している感じ、そこまで不安定には感じないので遊木限定なのかもしれないが、だとしても状況は何も変わらない。
て事は佐久間っち、かなり本気で和馬の事好きなんやろなぁ。でも、時間おいたらかえって意固地になるだけとちゃうか?
相手に好意があるからこそ、自分を低く見積もりがちな有樹は相手にどう思われているのか疑心暗鬼にかられてしまうのだとしたら、悩めば悩むほどどつぼにはまるに決まっている。
「まぁ、その辺に関しては和馬ととことん話し合うしかないんとちゃう? あいつ、そないな理由やと絶対引き下がらへんと思うから、納得いくまで時間かけや」
「それを信じられるならこんなに悩んでないって……」
いくらかふてた口調で言われ、らしからぬ子供っぽさに苦笑いで返す。
「もうどつぼやったか」
本当に普段とは別人のようだが、こういった面は心を許した相手にしか見せない――つまりは本人が意識して隠している本来の性質がこれなのだ。
ならば自分に出来るのは、この面倒くさい友人の背中を押してやることぐらいだろう。
スーツのポケットからスマートフォンを取り出し、手早くメッセージを打ち込んで送信する。
この間、有樹は特に気にする素振りを見せない。話している間に着信したり、アプリの時間限定ダンジョンの入場時間で久本がスマートフォンを取り出すなどよくある事なのだ。
手早くメッセージを送信してからついでに会社からも連絡が入っていたので、さすがにこれは一言断ってから折り返しの電話をかける。
短いやり取りの間に電話口から悲鳴じみたうなりがあがるのは予想の範疇だ。いくつか伝言を引き受けてから通話を終えると、有樹に苦笑いで視線をむける。
「佐久間っち、課長がやめへんで、って説得に来る言うとったで」
「えぇぇっ?!」
「パジャマ姿さらしとうなかったら、辞めるいうんは撤回した方がええんちゃう?」
「いや、そりゃ、私辞めたら障害者枠埋めなきゃなんなくなるけど……」
「それ抜きにしても佐久間っちにはいて欲しいと思うで? 新人さんにもマクロの基礎知識しこんどるから、そっちのスキルアップもなっとるしな」
業務の引き継ぎの際、有樹は自分で作ったフォーマットのメンテナンス方法を教えるためにマクロの基礎知識もついでに教えているのだ。
その結果、新人も回ってきた仕事に教わった内容を応用して、作業時間を短縮したりと小器用な事をし始めている。
あちこちの課から有樹に集計フォーマットを作ってもらいたいという申し込みもたまっている事だし――有樹への依頼は課長が整理しているので久本自身も順番待ち中である――彼女を手放すつもりなど会社には毛頭ないはずだ。
「どないすん? ここで撤回決めとけば、上司にパジャマ姿見られるの恥ずかしい、言うとったし、復帰の言質とったんで行かんでやり、って課長とめたるよ?」
その言葉に有樹は悩む。眉間にしわをよせ、何やらうなりながら悩み、悩んで、沈黙の末に、
「……わかった。物理的に可能であれば復帰する。通勤の足とか勤務時間とか、懸案事項多いから確約はできないけど」
脅しがきいたのか、そこまで復帰を望まれているとわかって嬉しかったのか――照れ隠しにしか見えない不自然な渋面を見る限り、後者に間違いないが――復帰に前向きな言葉を口にした。
「んじゃ、課長が胃炎になる前にひとまずそれだけメールで……って、なんや?」
再度スマートフォンを操作しようとしたところでバイブレータ機能が着信を告げる。画面を見ると相手は遊木だ。
「ちょいごめんな、電話取る」
「ん、了解」
またしても断りをいれて通話を開始したが、ふと思い立ってスピーカーに切り替えた。
「どないした? まだ勤務時間中やろ?」
「どうしたもこうもあるかっ。さっきのメール、何なんだよっ?!」
余程焦っているのか、声がとがっているし、早足に歩きながら通話をしているらしく、時折雑音が混じる。
会社で隙を見せるのが嫌いなあの男が就業時間内にこんな態度を取るというのは、いや就業時間外であっても慌てる事自体が少ないのでかなり珍しい。
久本の行動を最初不思議そうに見ていた有樹も、相手が遊木だと知るや眉をひそめたが、律儀に沈黙は守っていた。
「何って、事実しか連絡してへん」
「だから何がどうしてこんな事実なんだよっ?! ふられるどでかいフラグがたったけどどないする? とか意味わかんねぇっ。これでもしくだらない冗談だったら本気で殴るぞっ?!」
「……和馬、もしやきれとる?」
音量こそ抑えられているものの、らしからぬ言葉遣いに久本は目をまたたく。
幼なじみとはいえ、この男がこんな風にわかりやすく取り乱したところを見たのは数年か、下手をすれば高校のあの件以来十数年ぶりだ。
「いいからさっさと説明しろっ」
「あ~……。なんや、佐久間っちが和馬と付き合い続けていいんかな、って悩んどったから? これは次辺り顔出したらなんぞ言われるんちゃうかな、思ってん。気構えなしに顔あわせたら驚くやろなぁ、思って予告したんやけど」
さすがに今の遊木にありのままを伝えるのはまずいとふんで、いくらかオブラートに包んで答えると、この言葉には思うところがあったのか電話口からはすぐに返事がない。
その代わりなのか、車のドアを閉めるような音が微かに届く。
「出していいよ。有樹さんの所。急ぎで」
「って、やから和馬、まだ勤務時間やろっ?!」
いくらか遠い声が運転手への指示だと察して久本がかみつく。
反射で時計を確認すると十五時過ぎ、定時であれば後二時間程残っている。
「ちょうど出先の打ち合わせがすんだところだったから、このまま直帰するってねじ込んだ」
「……なんちゅう無茶やらかすねん」
「何のために普段優秀で融通の利く社員を通してると思ってるんだよ。
つか、近いから十五分もあれば着く。有樹さん逃げないように見張っとけよ。……というわけだから。詳しい話は直接聞かせてもらうよ。たぶん事故のせいで俺が責任感じてなんとか、って馬鹿な事考えついたんだとは思うけど、その辺きっちり説明してもらうからね?」
「へっ?!」
明らかに自分にむけられた言葉に驚いたのか、有樹がいくらか裏返った声を上げる。声を出さず貝になっていたはずなのに、その上で名指しされればこんな反応にならざるを得ない。
「スピーカーと普通の通話だと、声の感じが違うからわかるんだ。隆がこのタイミングでスピーカーで通話するなんて、有樹さんがその場にいるからだとしか思えないし」
「うっわ、何その無駄な優秀さっ?!」
「役に立ってるんだから無駄じゃないし。……いいね? しっかり話聞かせてもらうから、着くまでにトイレとか雑用すませておいてよ? じゃ、また後で」
言うだけ言うと一方的に通話が終了される。そして事態を飲み込むのに時間がかかってしまった二人の間に、なんともいえない沈黙が落ちる。
「……なんや、えらい怒りまくったオーラがスマホ越しに……」
「…………遊木さん、大魔神モード? 初めて見たかも……」
予想外の事態に若干現実逃避的なコメントが続いたのはしかたがない。
しくんだ久本とて、まさか遊木がここまでの反応を見せるとは思ってもいなかったのだ。慌てはするだろうが普段の範疇でおさまると思っていたのに、これはとんでもない地雷を設置してしまったらしい。
「つか、その大魔神、すぐここに現れるんやで?」
「ってそうだった! なんて事してくれんのっ?!」
「いやっ、せやかて俺も、まさかここまで豹変するとは思わんかってん。ちと慌てさしてやろ、思ただけやし。
……ほんま佐久間っち、和馬に愛されとんなぁ」
「……ははは」
有樹の悲鳴に頭をかきつつ応じると、乾いた笑いが返された。
「まぁ、うん……。事故とは無関係なところでそれなりに好かれてるんだろうな、ってのは……、納得がいった、かな……」
この状況はあんま嬉しくないけど……、とため息混じりにつぶやく声が本気で疲れているのは、今後の展開を予想しての事だろう。
「……まぁ、がんばり?」
「……とりあえず、途中でトイレ行きたい、とか言ったらにらみ殺されそうだから行ってくる」
「おう。先に帰ったら後が怖いで、和馬来るまでここにおっとるわ?」
「むしろいて。一人にしないでよ……」
特大のため息をついた有樹が動き出す気配に、久本は付き添い役の佐々井を呼ぶため立ち上がる。
いくら親しいとはいえ、相手はパジャマ姿の女性だ。体を支える程密着するのは抵抗があるのはお互いだろう。ここは慣れている相手に投げるのに限る。
お読みいただきありがとうございます♪




