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遅刻と呼び出し。

 待ち合わせの時間を過ぎても有樹が現れない、という初めての事態に遊木は首をかしげた。予定確認という名目で、昨夜送ったメールにも返信が返ってこず、これも初めての事態である。

「……何か、あったのかな?」

 つい口からこぼれ落ちた言葉に、考えすぎだな、と否定してから苦笑する。

 律儀な性格だし、アプリをよくやるといっても、たまにはスマートフォンを手元から離す事もあるだろう。

 そう切り替えると、しばらく待っても苦にならないよう、改札の様子がよく見えるベンチへ陣取り、人の動きを気にしながらスマートフォンをいじり始める。

 アプリをしたり電子書籍を読んだりと、時間を潰す手段に事欠くことはない。出る直前までバッテリーも充電していたので、残量が心配になる程有樹が遅れるはずもないだろう。

 そう考えていた遊木だが、さすがに一時間が過ぎると不安が勝ってきた。

 有樹の性格で連絡もなしにこの遅刻、それも前日のメールにも無反応となると、何かアクシデントがあったと考える方が無難ではないのか。

 有樹に電話をかけてみるか、それともメールを送ってみるか、悩み始めた所で当の有樹から着信が入り、慌てて通話を開始する。

「はい、遊木です。有樹さん?」

「は……」

「男かよっ?!」

(たくみ)っ! ……ったぁ」

「わっ、馬鹿、怒鳴んなよっ」

「誰のせい、よっ」

「わかった、ごめんって。黙ってスマホホルダーになってっから」

 電話のむこうで突然始まったやり取りについていけず、目をまたたいていると、ごめんなさい、と有樹の声がした。

「連絡なしに、行けなくてごめん、なさい。ちょっと、アクシデントが」

 普段と違い、上がった息を無理やり整えながらしゃべっているような細切れの言葉だ。これは最近はやりのインフルエンザか腸炎にでもやられたのだろうか。

「いいよ、大丈夫。それより何かあったの?」

「端的に言うと、駅で、下り階段付近で、転げ落と、……落ち、た、ような?」

「ちょっ?! 何があったのっ?!」

 単なる言い間違えなのか、違うのか、非常に不穏極まりない単語を耳にした気がして遊木の声が跳ねる。通話をしながら、決められた間隔で画面をタップしたのは、近くにいる警備に通話内容を聞かせるためだ。

 万が一、有樹が突き落とされたのだとしたら、その原因はほぼ間違いなく遊木の側にある。だとしたら、警備との意思疏通は早い方がいい。

「ですから、階段から、落ちた、んですが」

「だからなんでっ?!」

「体勢を崩して、ダッシュした先が、階段だった、というしか……」

「それ、自分でつまづいたの? それとも……」

「ちょい、すいません」

 今一要領を得ない有樹の説明に、はっきりと問いただそうとしたところで、のんびりした声が割って入った。

「俺、有樹の弟で匠って言います。姉貴、熱高いし鎮痛剤のせいでちょっとぼけてんで、ややこしい話はまだ無理っすよ」

「……え?」

「熱、八度超えてるんですよ。で、あちこち骨折やら打ち身やら捻挫やら、満身創痍? みたいな感じで。なんで、スマホ自分で持ってる事もできないっす。今もスピーカーにして俺がスタンドがわりってわけで、病院教えるんで今から来てもらえません? 会って話す方が姉貴も楽だろうし、さっきまで警察の人来てたんで」

 有樹をそろそろ休ませたい、と含ませた言葉に、遊木はあれこれ聞きたいのをおさえてひとつ深呼吸をする。

「そっか、それじゃ長話は辛いね。気がまわらなくてごめん。大変なのに連絡ありがとう」

「いえ、約束、してましたし」

「お見舞いは有樹さんが嫌じゃなければ、行かせてもらいたいけど、どう、かな?」

「私は、別に嫌、では……」

「じゃ、その辺の情報は俺が伝えとくから姉貴は少し休めって。ほら、水ここ置くから飲んで寝ろよ」

 スピーカー越しに聞こえる声は、雑な言葉遣いに反して有樹を心配しているのがよくわかる。仲のいい姉弟なんだな、とほほえましく思う反面、こんな形で知りたくはなかったな、とも思う。


 その後、普段なら使わない、警備陣の使っている車で移動する、という方法を選んだのは、彼らとの打ち合わせをしたかったからと、普通に交通機関を使って移動するとかなり遠回りをさせられるからだ。

 有樹の入院している病院は、遊木のいる駅から接続の悪い別路線になるのだ。車でむかえば電車とバスを乗り継ぐ時間の半分で着くとなれば、車を使いたくなるのが人情というものだ。

 それに加え、有樹が階段から落ちたのがただの事故であればいい。誰かとぶつかって転げ落ちたにせよ、それが偶然であれば問題はない。けれど、まったく嬉しくない事に、そういうとんでもない事をやらかしそうな心当たりはいくつもあるのだ。その連中が関わっているのかいないのか、はっきりさせる必要がある。もしも関わっていたのなら、相応な対応が必要となってくる。無駄に終わるかもしれないが、情報が揃うまで漫然と待つつもりはなかった。

「もし、俺のせいで有樹さんが怪我をさせられたんだとしたら、……どんな手段を使っても潰してやる」

 あちこちに連絡を入れる隙間、遊木の口からもれた言葉は酷く冷静で冷たい。それに反して薄く笑みすら浮かべる様を見て、警備陣は怒らせると非常にやっかいな相手の逆鱗に触れた犯人の冥福を祈らずにはいられなかった。


 遊木が教えられた病室のドアをノックすると、すぐに返事があった。有樹の声ではなく、電話越しにしゃべった弟・匠の声だ。

 引き戸のドアを開けて中に入ると、そこは個室でいくつか用意されている椅子の一つに声の主が座っていた。何かスポーツをやっているのだろう、しっかりと鍛えられた体つきの、けれどどことなく有樹と面影が重なる少年だ。

 目元がよく似てるな、と思う遊木の前で、匠が唇に人差し指をあてる。

「姉貴、あの後うとうとし始めて」

 おさえた声での説明に、ドアから死角になっていたベッドをうかがうと、確かに有樹は眠っているようだった。布団の上に出されている右手の中指と薬指、そして少し折り返されたパジャマの袖から露出している部分には包帯が巻かれ、点滴の管もつながれている。足元の不自然なふくらみは、痛めた足に布団の重みがかからないようにしているのだろう。

 熱が高いと聞いたのを裏付けるように、頬が赤くほてり、呼吸もいくらか速い。

「あ、これよかったら。急いだからちょっと適当で申し訳ないんだけど」

「いえ、かえってすんません。……って、うまそう。もらっていいです?」

 遊木がさし出した袋を受け取った匠は中をのぞいて存外嬉しそうな声を出した。

「うん、ぜひどうぞ」

「あ、この椅子使ってください。姉貴、枕元で食うな、ってうるさいんで、俺そっち行きます」

 有樹のベッドの側に置かれていた椅子から立ち上がり、匠はベッドの足元にある椅子に座り直すと、早速袋から取り出したペットボトルのお茶をあおる。遊木が入れ替わりに空いた椅子に腰を下ろした時には、既に匠は一つ目のパンをかじっていた。

「たすかったです。両親帰っちまったし、姉貴を置いて売店まで遠征するのは気がひけてたんで……。朝飯食ってないのに食い物も飲み物もなしでちょい涙目でした」

 いくらか怪しい言葉遣いだが、有樹は五才離れていると言っていたし、おそらくまだ大学か専門学校に通ってる年のはずだ。社会に出ていなければこんなものだろう、と少しばかりほほえましくもある。

「昨日の夜遅く……十一時近くに病院から連絡があって、家族で泡食って駆けつけたんす。その後、検査終わった姉貴から話聞いて、……っつっても、なんか混乱してたのか要領得なくて。結局、仮眠取りながら付き添ってたんですけど、母さんが真っ青な顔して寝ないで頑張っちゃって。父さんが無理やり連れ帰りました。無理してお前が倒れたら有樹が気に病むから嫌でも帰ってちゃんと寝ろ、って」

 事の顛末をざっくりと説明され、遊木は短いうなずきだけを返す。おそらく原因だろう自分がなんと言うべきなのか、言葉に迷ってしまったのだ。

「んでも、冷静に見えて父さんもけっこうぼけてたらしくて、側離れるなよ、って言って、補給物資なしで立ち去る鬼畜っぷりっす。んまぁ、二人がいなくなった後、姉貴に朝食が運ばれて来るまで気づかなかった俺も大概抜けてんですけど」

 そろってかなりテンパってたみたいっす、と苦笑いで頭をかく仕草が、有樹の照れ隠しの仕草とそっくりだ。こんな時だというのに少し和んだ遊木の表情が和らぐ。

「それは災難だったね。でも、有樹さんもそんな遅い時間まで残業だなんて大変だなぁ」

「あ、いや、昨日は飲み会っした。課の忘年会」

「あぁ、もうそんな時期だもんね」

 有樹の飲み友達でもある幼馴染みと飲んだ帰りの事件だったら八つ当たりをしそうだったので、内心胸をなでおろす。

「で、姉貴自身は昨日っから薬でうとうと眠ってる時間がほとんどなんす。遊木さんに電話する二時間くらい前に姉貴のスマホのアラームがなって、しまった、待ち合わせっ、って青くなったところで警察が現れて。で、まわりくどいおっさんにいらいらさせられて、最後は笑顔で追い払った途端、電話するからスマホっ、と叫んだ次第っす」

「なんか、大忙しだったんだねぇ」

「んまぁ、当人はうとうとしてるだけっすけどね。なんか、連絡遅くなった、ってずいぶん気にしてたんで怒らないでやって欲しいかな、などと」

「怒ってなんてないよ。むしろ、そんな状況で思い出して連絡してもらえて嬉しいくらいだしね。――ところで、怪我、どんな具合なのか聞いてもいいかな?」

 どうやらかなり強い鎮痛剤を使っているらしい様子を聞いて余計心配がつのった遊木が尋ねると、話しながらもパンを食べる手――口?――は休めない匠が、いっすよ、と前置いてから話し出す。

「左足折れたのと、右手の爪が二枚ばかりはがれてます。あと手首は捻挫してて、打ち身があちこちに、って感じらしいです」

「頭は打たなかったんだ?」

「一応、検査も異常なかったんで、まぁ、もしかしたら小さなこぶくらいはできてるかもしれないけど、その程度っす」

「そっか、ならよかった」

 ひとまず重大な後遺症が残る可能性は低そうだ、と遊木がひとつ息をつく。匠が何気なく使った、満身創痍、などという不穏な言葉に不安をあおられていたのだが、どうやら心配しすぎだったらしい。

「ただまぁ、姉貴なんで軽く一ヶ月は入院ですけど」

「一ヶ月っ?! ……って、あぁ、左足、かぁ」

 聞いた怪我から想像するよりはるかに長い期間に、頭を打っていないのなら数日で退院するのだろうと考えていた遊木が声を上げかけ、すぐにその理由に気付く。

 右足に障害がある有樹は日常生活を左足だけに頼っている。その左足の骨が折れてしまえば日常生活に事欠くのも当然だろう。

「さっきトイレに行こうとして、歩くどころか立つのも怪しかったらしいっす」

 余程空腹だったのか二つ目のパンをかじりながらの説明に、遊木は眉を寄せる。確かにその状態では、退院したとしても家族が常についていなければならない。それならば入院した方が本人も家族も楽だろう。

 しかし、もし痛めたのが右足であればそこまで大事にならなかったのだろうと思うと複雑である。少なくとも、一ヶ月という入院期間は必要なくなるはずだ。経済的な負担を考えると入院期間の差は大きい。支払う入院費に加え、仕事を休む事で収入の減少も発生するので何重にも痛い。

「そういえば、さっき警察がどうとか言ってたけど」

 これも気になっていた事を口にすると、パンをかじっている匠が眉を寄せた。

「なんか、姉貴が階段から落ちた時間に、同じ場所で人が階段に向かって突き飛ばされた、って通報があったらしいんす。匿名の通報だったし、駅から少し離れた場所の公衆電話だったんで、誰がそんな通報をしたのかはわからないとか言ってました。それとその人、救急車も呼んでくれたみたいで、駅員から要請が入るよりも早く、駅で人が階段から落ちた、って出動要請してくれてたとか」

「そうなんだ?」

「はい。でも、警察にも消防署にも名乗らなかったらしいっす。ただ、実際に姉貴は階段から落ちて怪我してるし、本当に突き落とされた可能性が否定できないから、って事情聞きに来たみたいで」

 匠の説明に遊木は思わず眉を寄せる。それはつまり、有樹が階段から落ちるのを目撃した人物がいるという事だ。しかも、わざわざ離れた場所に行ってから通報しなければいけない事情を抱えた人間が。昨今携帯電話を持っていない方が少数派だろうし、単純に善意から通報してくれたのだとすれば、駅員に知らせるなり、非常通報ボタンを押すなり、手っ取り早い方法は他にいくらでもある。

 つまり、通報者は救急車と警察、両方を呼ぶという丁寧な対応をしているが自分が誰かは知られたくない、という事だ。

「それに、その人、駅にも連絡入れてくれたらしくて。それがなかったら、次の電車が来るまで十分以上、誰も気づかなかっただろう、って話でした」

 あまりの丁寧さにかえって不審げな匠の様子に、遊木の脳裏を有樹の自称婚約者の顔がかすめる。どうやら有樹のまわりに警備を置いているらしかったし、本人に知らせていないのなら、通報者として名乗り出る訳にもいなかないだろう。

 それにもし、通報者が彼の部下であれば、有樹が転落した時の様子を目撃している可能性が高い。それはつまり犯人を目撃している可能性があるという事だ。うまくすればそちらから何か情報が入ってくるかもしれないので、早目に連絡を取った方が良さそうだ。

「そっか。じゃあ、あちこち連絡してくれた人がいて良かったね」

「まぁ、そうなんすけど……。ちょっと不気味といえば不気味で」

 ため息をつく匠の気持ちもわからないではないが、今議論しても何かわかるはずもない。けれど事情に察しがつく遊木はともかく、何も知らなければ薄気味悪いと感じるのも無理はない。

「何にしても大事にならなくてよかったよ。入院が長くなりそうで心配だけど、怪我自体はそれ程深刻じゃないみたいだし」

 安心した、とため息をつく遊木を見て、匠もいくらか表情を和らげる。

「姉貴、転ぶのだけはうまいんです。しょっちゅうこけてるから場数踏んでるっていうか、昔、駅の階段半分くらい転げ落ちても擦り傷一つだったことがあるんです」

「えぇっ?!」

「だからちょっと、姉貴が転んでこんな怪我するなんて信じられなくて」

「確かにそれを聞くとこの怪我が信じられないね……」

 駅の階段を半分も転げ落ちて擦り傷一つ、などどこのスタントマンだ、と言いたくなる。いや、擦り傷をしている辺り、スタントマンとしては失格なのだろうが。

「本当、姉貴の特技って言ったら転んでも怪我しない事だけ、って感じなのに何大怪我してんだか……」

 ほめているのかけなしているのか、ため息をついた匠の言いようについ笑ってしまう。心配しているのは伝わってくるのだが、どうにも緊張感が足りないというか、のんびりした雰囲気なのだ。

「有樹さん、そんなに転ぶのうまかったんだ?」

「本人いわく、三歩ごとに転んでたら嫌でも受け身がうまくなる、だそうで」

「三歩っ?!」

「鶏だったら注意しなくちゃいけない事を忘れた瞬間にまた転ぶわけだ、とか笑ってましたけど」

「……あはは」

 なんとも言いがたい言葉に乾いた笑いがもれる。三歩ごとに転ぶというのはつまり、有樹にとってそれだけ歩く動作が大変だったという事だ。今はそんな風には見えないので、相応の治療やリハビリを乗り越えてきた、という事なのだろう。

 それなのに、鶏は三歩歩くと忘れる、という言葉に絡めて笑い話にしてしまえるのだから、有樹の精神的なタフさには呆れるやら感心するやら、である。

「何だか、新たな一面を知った気分だなぁ」

「うわっ?! いや俺何も話してないっすからっ! 姉貴の素をばらすような発言は何もしてないっす!」

 包装を破きかけていた三つ目のパンを取り落とす勢いで手と首を降る匠の過剰反応に、目をまたたいた遊木だが意味を悟るとふき出した。

「ごめん、大丈夫だよ。俺、有樹さんにはお互いそういう部分も見せよう、って話してるから 」

「……あの妖怪猫かぶりが? ……遊木さん、本当、姉貴に好かれてんすね……」

 心底意外、というようにつぶやかれ、普段の有樹の人間関係が非常に心配になる。実の弟にここまで言われる程の猫かぶりとは一体どれ程のものなのだろう。

 話がそれるのを承知で聞いてみようかと、真剣に悩んだ遊木だったが、結論を出すよりも早く、眠っていた有樹がかすかに声をもらす。

 遊木が視線をむけると、眠たげにとろんとした目が数回またたき、遊木の姿をとらえて不思議そうに首がかしげられる。

「……ゆき、さん?」

「うん。うるさかったかな? ごめんね、まだ寝てて大丈夫だよ」

「ん~……。眠いというか、薬で意識飛んでるような感じだったんで」

「あぁ、解熱剤と痛み止めか。でも、寝られるなら眠ってた方が楽じゃない?」

「そうなんですけど……。目、覚めちゃいましたし」

「そっか。ごめんね」

「いえ、大丈夫、ですから」

 まだ眠いのか、いくらかぼんやりした返事をしてから、有樹の視線が改めて遊木にむき、それから病室を一巡りして弟を見つけると眉間にしわがよる。

「匠、自分だけ飲み食いしてちゃ駄目でしょ」

「あ、いや、これもらったやつだし、他に何もないんだぜ?」

「そういう時は、お持たせですみませんけど、って言って勧めるの」

「あ~、いや、気にしないでいいよ?」

「遊木さんは気にしないでくれても、社会に出たら困るんだから、今のうちに覚えな、って何度言わせるの」

 目を覚ます早々、弟に説教をした有樹はため息をひとつついた。

「お母さん達は?」

「母さんはまだ寝てんじゃないかな? 連絡ねぇし。父さんは仕事行ったよ。帰りによるって」

「そっか、ありがと。匠も疲れてるだろうし帰ってもいいよ?」

「んにゃ、姉貴一人にしたら後で父さん達に何言われるかわかんねっし」

 相変わらずパンをかじりながら答える匠は、どこか面白がるような表情だった。

「だいたい、帰らないってごねた母さんに、俺がついてっから大丈夫、って言った手前、母さん来るまで帰れねえっての」

「でも、匠だって昨日からほとんど寝てないでしょ?」

「まぁ、俺は付き添い用の仮眠室で何時間か寝させてもらってっし」

「でも……」

 どうやらお互いに相手が心配らしい二人のやり取りを聞いていた遊木は、ほほえましさについ浮かんだ笑みを自覚しているのかいないのか、有樹と匠を見比べるように視線を動かす。

「しばらく俺がついてるから匠君は休憩してきたら? 有樹さん一人にする訳じゃないし、彼女も少し休憩してもらった方が気がねないみたいだしさ」

「あ~、そういう事? 姉貴がその方がよけりゃ、少し散歩したり仮眠したりしてくっけど」

「そうして。匠もあんまり寝てないんだし、ずっといてくれたんなら、体痛いでしょ?」

「ま、痛くないと言ったら嘘だし、食ったら眠くなってきたから、ありがたく休ませてもらうわ。んじゃ、ごゆくっくり」

 言うだけ言うと、かじりかけのパンの最後の一かけらを口に放った匠が席を立つ。ドアが閉まるまで二人とも黙っていたが、視線が絡むとまず有樹が口を開いた。

「お見舞い、ありがとうございます。なんか何にもないみたいなので、持ってきてもらったもので悪いですけど、よかったら」

「気にしないで。こんな時ならその場で飲み食いできるものの方がいいかな、ってペットボトルとパンとゼリーだし。……ちゃんと、自分の分も計算して選んできてるから」

 最後のくだりで冗談めかし、片目をつぶって見せられ、有樹がふき出す。

「それはありがとうございます」

「いえいえ。一本もらうね。有樹さんも何か飲む?」

「ノンカフェインのお茶かミネラルウォーターがあれば欲しいです」

「あるよ。どれがいい?」

 袋の中から数本のペットボトルを取り出してみせながら尋ねると、有樹はノンカフェインのお茶を選ぶ。今一つマイナーなのか、コンビニに置いてない事もあるのだが、一度遊木の前で飲んでいたような気がして選んだものだ。

「あ、起きられる? それともベッド起こした方がいい?」

「できればベッドごとがいいです。この辺にスイッチが……」

「あぁ、いいよ。俺がやる。体ひねるの辛いだろうし、そのままで」

 枕元を探ろうと体をよじりかけたのを見て遊木が制止する。強い鎮痛剤が処方されているという事は、それだけ痛むという事だ。無理をさせたくない。

 そんな遊木の気遣いを察したのか、有樹はおとなしく動きをとめた。しかし、とめたものの遊木から見ると、有樹の体の反対側にあるスイッチが少し遠かった。

「ちょっとごめんね」

 声と同時に、遊木がベッドに手をついて体を乗り出す。この前有樹を怯えさせたばかりなので、素早くスイッチを取り上げた遊木はコードの許す範囲で離れてから適当な角度までベッドを起こす。

「ありがとうございます。……遊木さん、香水か何か使ってます?」

「ん? 使ってないけど……って、あぁ、洗濯の時に何か香りのいいやつ使ってくれてるらしい。汗とか煙草のにおい和らげてくれる効果があるとかでさ。それかな?」

 言われて気になったのか、自分の袖を顔に近付けてにおいをかぐ遊木を見て、有樹が小さく笑う。

「遊木さんって、最初とずいぶん印象違いますよね」

「え? 俺、何か変な事した?」

「変っていうか、初めて会った時はなんだかあれこれ気が回りすぎて、言うなれば優秀すぎて取っつきにくいタイプかなぁ、って思ったんですよ」

「なんとも言いがたいコメントだねぇ」

 ほめられているのか違うのか、悩んでしまった遊木が苦笑いで応じると、有樹が首をかしげる。

「だって、なんかそつがなさすぎて、一緒にいるとなにかやらかさないように、って緊張してないといけない雰囲気があったというか?」

「……あ~、まぁ、ああいう時はつけこまれないように気はってるから」

 余計な面倒をさせるためにも、相手に不快な思いはさせず、けれど余計な言質は与えないように言葉にもずいぶん気を使っていた。

 だいぶ気を許している最近とそんな時とが違う、といわれるのは当たり前だ。

「正直、あの雰囲気のままだったら会うのも億劫だったと思うんで、私としては助かってますけどね」

 一応失言の部類だという自覚はあるのか、付け加えられた言葉はあいまいな笑みを浮かべながらのものだった。けれど、その言葉が本心からのものだというのは伝わってくる。有樹はこうして不意打ちでこういう事を言うので、油断ならないのだ。心臓に悪い、と文句を言うのは有樹の専売特許になっているが、遊木とて言いたくなる時はある。ただ、慌てたところを見せたくなくて隠しているだけだ。

「はい、どうぞ。自力でもって飲めそう?」

「左手でなら大丈夫です」

 照れ隠しもかねてキャップを開けたペットボトルをさしだすと、有樹は笑顔で受け取ってあおる。かなり喉が渇いていたのか、三分の一程を一息に流しこんでから遊木にむけられたのは、いくらか険しい表情だった。

「匠がいない間に話、いいですか?」

「うん。……やっぱり、ただ転んだだけ、じゃないんだね?」

 確信をこめた遊木の確認に、有樹は一つうなずいた。

お読みいただきありがとうございます♪

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