脱線のち暴走。
応接セットのローテーブルで作業するのだから、ソファより床に座る方がやりやすいだろう。床に座り直した有樹は、ティッシュケースの材料をテーブルの上に広げながら内心ため息をつく。
正直、遊木が本気でない、というのは有樹にとってもありがたい事実だった。恋愛――というよりは対人関係そのものに対して忌避感の強い有樹にとって、遊木はあまり気を張らずに付き合える数少ない人間だ。そして、浅い人生経験でもこの居心地のよさは今の友人とも恋人ともつかない距離感だからこそのもの、だというのはわかる。
二人の関係が変わってしまえばその関係性も変わっていくだろう。それが嫌で、相手が具体的な事を言い出さないことに甘え、二人の関係性をあいまいにしていた自覚はあった。けれど、いざ言葉にされるとどう答えればいいのかわからないのも確かなのだ。
遊木の事は嫌いではない。むしろ好きな部類に入るだろう。しかし、それがどの程度の思いなのかはわからない。友人としての好意なのか、恋愛感情をはらむものなのか、有樹の乏しい人間関係では比較する対象が少なすぎてなんとも言えないのだ。
ま、あれこれ説明したら目を覚ますでしょ。
遊木にむける感情の種類がわからなくとも、自分がいかに恋愛対象として、それ以上に同居人として最低ランクだという自覚があるだけに、最終的には遊木が手を引くだろうと信じて疑いもしない。
遊木が知ったら、だからどうしてそう自己評価が低いかな、とため息をつかれるところではあったが、幸いな事に飲み物の準備に忙しかった男に知られる事はなかった。
飲み物と共に戻った遊木が普段通りの一人分には足りない微妙な空間をあけて腰を落ち着けると、厚紙にカット線を引いていた有樹が視線を上げた。
「そこにあった箱ティッシュ借りてますね」
「うん、それはかまわないけど、箱を上に置いてまわりなぞる、なんてアバウトな方法で大丈夫なんだ?」
「単純な形ですし、間に合わせですからね」
「え? 俺、壊さないように大事に使うつもりだけど?」
「……百円ショップですよ?」
「いや、だって佐久間さんが作ってくれるんだし、大切にするよ?」
当たり前だよね、とつぶやく遊木に、有樹が目をまたたく。
「私なんかが百円ショップの材料でねつ造したようなものを大切にしたら駄目ですって」
「いやいやいや、何でそうなるの?! そもそもねつ造って何さっ?!」
「その場ののりと思い付きで適当に作った物がねつ造じゃなくてなんだと?」
「ねつ造は、ありもしない事をでっちあげる事だからね?!」
「わかってて言ってるので大丈夫です」
さらりと返され、さすがに二の句が繋げなかった遊木がひたいをおさえる。
「そういう問題じゃないよね……?」
「この品質の材料で作ったものじゃ、普段遊木さんが使ってる物と比べて露骨に見劣りすると思いますから。今度、ちゃんと作り方を調べてしっかりした材料で作りましょうか?」
柔らかな笑みと共に言われ、遊木は思わず目を見開く。
「私としても、この程度の物を私の作品として扱われるのは微妙ですし、作り直させてくれないのなら作るのやめますよ?」
「わぁっ?!」
「冗談ですけどね」
「……佐久間さん」
慌てた所に真顔で言われ、遊木が盛大なため息をつく。
「君ってこういう冗談言うタイプだったっけ?」
「素の私はわりあいこういう人間ですが?」
今度はいくらか苦笑混じりの返答に、遊木も苦笑いになる。自覚してる悪癖を披露しているような態度なのはさっき口にした、誤情報の修正、の一環なのだろう。ならばリアクションは重くしない方がいいはずだ。
「これは、素の部分を見せてもらえるようになった、って喜ぶところ?」
「……まぁ、外れては、いない、です、かね?」
遊木の言いようが予想外だったのか、軽く首をかしげた有樹の返事はぶつ切りの上に半端な疑問形になっていた。
鋭いかと思えばこんな風に子供っぽい部分もある。作っている様子はないので彼女の個性の幅なのだろうが、見ていて飽きることがない。
「俺は君のいろんな部分を知りたいんだ。確かに、知って幻滅する事もあるかも知れない。でも、知らないままよりいいな。だから、遠慮しないであれこれ見せて?」
少し冗談めかした遊木の言葉に、毒気を抜かれた有樹が小さく笑う。
「わかりました。じゃあ遠慮なく、素でいかせてもらいますね」
「望むところ……って、素で、って言うならその言葉遣いもなんとかならない? 丁寧語使われてるとちょっと距離おかれてるみたいでさびしいんだよね」
「はぁ……。まぁ、かまいませんけど……」
「じゃ、早速お願いしていい?」
にこにことうながされた有樹が、変な人、と思ったのも無理からぬ事かもしれない。
「どうしてそんなに人の嫌な面を知りたがるんだか……」
「いや、俺だって普段は別にそんな事思わないし」
「だったらなんで?」
「だって、そういう面も見せてもらってからじゃないと佐久間さん、俺との事ちゃんと考えてくれないんだろ? なら、どんな所でも見せてもらえるよう努力しないとだからね」
笑顔でさらりと言われ、有樹が盛大なため息をつく。
「本当、なんなのこの物好きは……」
「ごめんね、この感性はもうどうにもならないからあきらめて?」
「はぁ……。面倒なのに好かれちゃったよ」
思わずなのか、万感のこもったつぶやきに遊木が派手にふき出した。
「うん、いいなぁ。そういうリアクション好きだよ、俺」
相手にこびる気がないからこそできる反応は、遊木にとって新鮮だしありがたい。けれど、有樹からすれば、暴言に喜ぶ変態すれすれの人、もとい、特殊性癖の持ち主である。
「ま、続けるね……」
疲れた空気をまとわりつかせながらも、約束は約束、ということなのか有樹が作業へと戻る。意識がそちらにむくとすっと表情が変わり、集中に入ったのがはた目にも分かった。
「手際いいねぇ」
「慣れですよ、慣れ」
「言葉遣い、戻ってるよ?」
「……あ。……ほ、ほら、遊木さんにはずっとああだったから習慣というか?」
「早く慣れてくれないと、名前呼びするよ?」
「はぃっ?!」
――が、集中は良いようにかきみだされているようで、さらりと投げられた言葉に、有樹が裏返った声をあげる。
「何がどうなってそうつながるんですっ?!」
「ん~? 嫉妬?」
「今日の会話の、どこに嫉妬する誰かが出てきたんですかっ?!」
「今日というか、ずっと? 隆はあだ名呼びだし、弘貴さんにいたっては名前呼びしてたし」
やはりというかしれっと言うと、有樹の表情が微妙にゆがむ。言葉に出されなくとも、何か暴言を飲み込んだのだとすぐわかった。
「俺だけ取りつくろっていい面だけ見てもらってたらフェアじゃないだろ? だから、俺も素の部分見てもらおうかな、って思ってさ」
「……まぁ、理屈としてはあってますけど……。それで私が嫌がる、とか考えないんですか?」
「それで駄目になるなら、正式な話になる前に駄目になった方がいいんじゃない?」
「うっわ……、正論だけど屁理屈にしか聞こえない……」
苦った声でつぶやいた有樹が、作業中のテーブルへとつっぷす。
変な人だとは思ってたけど、本当変な人だ……。
酷い事を考えるものの、遊木の感性は有樹のそれと近い。どうせ駄目になるなら深入りする前に駄目になった方がいい、というのは彼女自身思う事だ。だからこそ、好感を持っていた相手とこじれるのが嫌で、誰とも親しくしない、というこれまたかなりあちこちから苦情が来そうなスタンスをつらぬいているのだ。
ここ数年の例外は久本と、不本意ながら遊木も入る。
「なんで、そんなに私にこだわるんです?」
「ん? 気づいたら好きになってた、からかな」
「だから、人の外面にそう簡単にだまされちゃ駄目ですって」
「俺はこれでも結構人の内面探る方だよ? こと、女性に対しては念入りにね。それでも君を好きになっちゃったんだから、こればかりはしかたがないと思わない?」
「……はぁ。なんだか、同情したくなる程女性運悪いみたいですね?」
ほとほと呆れた、とでも言いたげな言葉に遊木はにやりと笑う。
「名前呼び、決定ね」
「……っうぁっ?!」
「んじゃ、これからは有樹さんって呼ぶね?」
遊木の嬉しそうな宣言とは対照的に、有樹はがっくりと肩を落とす。
「だからなんで名前呼びにこだわるんですか……?」
「だから嫉妬? それとも、有樹さんは俺に名前で呼ばれるのが嫌? 別に俺が名前で呼ぶからって、名前で呼んでくれなんて言わないし?」
嫌なら善処するよ、とつなげられ、有樹が一つため息をついた。
「遊木さんに呼ばれるのが、というんじゃなく、親以外から名前呼びされるのが嫌いなだけですけどね」
「そうなの? 素敵な名前だと思うけど」
「名前がどうこうじゃなくて、名前呼びしてくる相手に、殺意わく相手だとか、心底軽蔑している相手とか、うっとうしい馬鹿だとかが多すぎるせいでしょう」
「……はは」
目を伏せ人差し指でこめかみをもむ仕草からは、演技でも何でもなく本気で口にした通りの事を考えているのだと伝わってくる。
さすがにこれにはなんとも言いがたく、乾いた笑いを返すしかなかった。
「それに、言葉遣いにしても別に作ってこれにしてる訳じゃありませんし。私、大抵こんなですよ」
「そうなんだ?」
「はい。そろそろどっちの言葉遣いが素かわからなくなるくらい、これが基本です」
「……それはそれでどうかと思うよ?」
「ですねぇ。でも、家族以外でこの言葉遣いじゃないの、久本含め数人ですし」
何気ない口調で遊木の嫉妬心をあおってしまった有樹が、作業に戻りつつ指先で頭をかく。
「なので、別に距離をとってるつもりは……って、何そんな近づいてるんですかっ?!」
「君があおるから」
いつのまにか息のかかるほど近くに遊木がいるのに気づいた有樹が裏返った声をあげるが、原因になった男はしれっとしたものだ。
「好きな人に対象にすらしてもらえてない上、友達は特別、とか言われて何にも感じない男がいると思う?」
「いやでもそんな事言われても相手は久本ですよっ?!」
「隆だろうと弘貴さんだろうと、たとえ俺の知らない相手だろうと関係ない。俺は、有樹さんが俺以上に気を許してる男がいる、っていうのが気にくわないだけ」
「心せまっ?!」
「自覚はしてるよ。でも、どうしようもなく腹が立つ」
こうなってくると不穏にしか感じられない笑みのまま、遊木がさらに体を近づけてきて髪に唇をよせる。いつの間にか、テーブルと遊木の体の隙間にしっかりと閉じ込められている事に気付いたものの、有樹の力では逃げる事すらできない。まずいな、とは思うものの、どこかで、遊木は本当に嫌がる事はしないだろう、という思いがあるので、そこまで必死に逃げようともしていない。
そんなあいまいな態度は、消極的な同意と受け取られてもしかたがない、という事にまで気付いていない辺り、有樹の危機感のなさも大概だ。
「口に出しちゃったらこうなるってわかってたから言わないようにしてたのに、あおるような事ばっかりするのが悪いんだよ?」
「私悪くありませんからっ?! というか、本当に久本とため口なのはあれだけやらかした後にこの口調に戻せなかっただけですからねっ?!」
「やらかしたって何を?」
「ですから近いですって! 離れてくださいっ!」
「教えてくれたら離れるよ?」
「これが会話をする距離ですかーっ?!」
一向に離れる気配のない遊木の態度にじれたのか、有樹の手がテーブルの上に転がっていた箱ティッシュに伸びる。会話をするためか、視線をあわせられるだけの距離は残している遊木もそれに気付くが、箱ティッシュで叩かれたところでさほど痛くもないだろう、とあまり気にとめなかった。
「俺にとっては、会話できる距離だけど?」
「和馬、そろそろやめときぃや。佐久間っち犯罪者にしたいんか?」
遊木の言葉の後半へかぶせるように、あきれたような声が重なり、二人の視線が動く。すると、玄関へと続く廊下と室内を区切るドアにもたれるようにして、話題の人物――久本が立っていた。
「佐久間っち、ちなみにその箱ティッシュ、どないするつもりやったん?」
「角で目つぶしだけど?」
「ほれみぃ。しゃれんならんとこやったわ。和馬、さっさと離れとき」
答えそのものよりも、なんの気負いもなくさらりと口に出された事に怖さを感じて、遊木がいつも通りの距離を保って床に座る。たかが厚紙といえど、思い切り角を目にたたき込まれたら痛いではすまないだろう。力で敵わない相手から逃れるには確かに有効な攻撃手段だが、そう簡単に実行に踏み切れるものでもない。そこまで有樹を怒らせたのかとも思ったが、当の本人は遊木が距離を取ると、もう平然としている。冷静に目を狙うべきだと判断したのだとしたら、それこそ恐ろしい。
「遅れたんも悪かったけど、いったい何やらかしとるんよ? そないに佐久間っちに嫌われたいん?」
「……いや、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「せならちゃんと謝って許してもらい。佐久間っち、一度敵認定したら人間扱いしてくれへんよ?」
「人間扱いしてないって酷い。ただ、対等な人格を認めないだけだもん」
「余計酷いわっ! 何言うても犬猫の鳴き声程度にしか拾わへんとか、相当な仕打ちやからなっ?!」
「常識が通じない相手は心神喪失扱いでいいし、変質者に人格認めて被害受けるくらいなら、過剰防衛上等」
「……せやから、そない恐ろしい主義を堂々と口にしとったらあかんて……」
さらりと言いきる有樹に、ひたいをおさえてため息をつく久本。職場で話している時とは見事なまでに立場が入れ替わっている。
「まぁ、遅れて悪かったわ。和馬になんぞ悪さされへんかった?」
「ん? まぁ、別に制裁必要な程の事はなかったよ。……久本が来るのが一分遅かったら救急車呼ぶはめになってたかも知れないけど」
「……そら間に合ってよかったわ」
どうやら、本気で遊木の目を狙って攻撃するつもりだったらしい言葉に久本の視線が泳ぐ。本当に目の前にいるこの人間の考える事はわからない。普段のおとなしげな雰囲気のまま、こんな恐ろしいセリフをはけるのだから、まったくもって理解できない。――理解できるようになってしまったらそれはそれでまずい気もするのだが。
「ま、別に謝って欲しいとも思ってないしどうでもいいよ。私、これを今日中に仕上げたいから邪魔しないで貰えるかな」
やはり普段通りの様子で有樹がテーブルに広げられている厚紙と包装紙を指す。
「や、ここはしつけのためにも謝らせといた方がええって」
「しつけって、おい……」
「やかましわっ。あとちょいで片目なくした上、佐久間っち犯罪者にするとこやったんやぞ? そもそも、平然とやらかしたからって後悔せえへんのとは訳が違う。和馬が悪かったんでも、佐久間っちは怪我さした事ずっと悔やんで生きてく事になるんや。好きな子にそないな思いさせるとこやったんやから、きっちり反省しときぃや」
眉間にしわをよせ、目を細めた久本の言いように遊木が目をまたたく。そのまま有樹に視線を向けると、淡く苦笑めいた表情を浮かべられてしまった。
「まぁ、馬鹿が報いを受けるのは当然ですし、私には自衛の義務がありますからね。必要であればいくらでもやりますよ。……ただ、そんな方法でしか身を守れないとしたらそれは私の責任でしょう」
相変わらず平然とした声だったが、視界の隅に捕らえた有樹の手にわずかな違和感を覚えて視線をずらす。何気なくテーブルに置かれた指先が妙に白く思えて、首をかしげかけたところで意味を悟る。
遊木に対するものか自分のやろうとした行為にか――どちらだとしても、指先から血の気が引く程の緊張を強いたのだけは間違いがない。よくよく注意してみると、かすかにだが指先が震えている。そこまでの動揺を表情にも声にも出さず押し殺しているのだ、と理解した瞬間、遊木は考えるよりも先に体が動いていた。
「ごめんっ。本当ごめんっ。怖がらせるつもりじゃなかったんだけど、ごめん。もう二度としないから」
遊木の口から出た言葉に動揺を悟られた、と気付いた有樹が小さく息をのむ。表に出さなければ、気付かせなければなかったものとして消してしまえるはずだったものを否応なく自覚させられ、唇をかんだ。左手首をおさえたのは無意識で、けれどその感触が余計に蓋をしたはずの恐怖をあおる。
「も、いいです」
それでも頭を下げたままの遊木に何か返事をしなくては、と思って絞り出した言葉は、自分でも無様だと思う程みっともなくふるえていた。
「でも、本当、こういうの、……これっきりで、お願いします」
油断すると泣き出しそうなのを喉に力を入れておさえこみ、なんとかそれだけ言うと、ふわりと頭にあたたかな感触がふってきた。父親の手を思い起こさせるぬくもりが誰のものかなど、考えるまでもない。
「もう大丈夫や。よぅがんばったなぁ」
日頃ふざけた事しか口にしない同僚の柔らかな声と、ゆったりと頭をなでる手の感触に張りつめていたものが切れる。とうとうこらえきれなくなった涙がこぼれ落ちると、笑いの気配がふってきた。
「けんかしとる間は絶対泣かへん、なんて相手甘やかしすぎやわ」
言葉だけは叱る調子で、けれどいたわりのこもった優しい声は、泣かせてやる、と言わんばかりで、弱ってる時にこれは反則だ、と思ったものの、口をつくのは文句ではなく嗚咽ばかりになってしまった。
お読みいただきありがとうございます♪