暴走のち脱線。
「というかさ、人がせっかく意識しないようにがんばってるんだから、藪をつついたら駄目だよ?」
「……え?」
意味深な、そして非常に危険な気配のする笑みをむけられ、有樹が思わず体を引く。しかし、買って来た昼食を片付けるために台所にいるのだから、逃げ場などないに等しい。
初めての場所で確認もせずに下がった有樹の体はすぐに食器棚にはばまれてしまう。
「俺が怖い?」
笑みをはりつけたまま、有樹が下がった分をさりげなくつめた遊木が小さく首をかしげる。
「怖いというか……。らしくない、ですね?」
「そう? でも、好きな相手から恋愛対象にしてないと思ってた、だなんて言われたら少しくらい不機嫌になっても許されると思うよ?」
「……え、えぇと……。だって、遊木さん、そんな感じに見えなかったですし」
言い訳のつもりなのか、さらに墓穴を掘る有樹の言葉に遊木の手が伸びる。頬に指先が触れるだけで、有樹は体をすくませる。
「確かに、俺は君に対してそういう欲求があるように見えなかったかもしれないね。だって、そういうのが丸見えな男なんて気持ち悪いだろ?」
だから見せないようにしてたんだよ、と笑う遊木がさらに一歩、有樹に近づく。
「それに佐久間さんの事は好きだけど、君は普通の家庭に育ってきた。俺達みたいな生活にはあまりむいてないだろうと思って、お互い本気にならない方がいいだろうな、って自制してたんだよね。触れたら歯止めきかなくなる自信、あったしさ」
更に近づいた遊木の左手が食器棚におかれ、右手のひらが有樹の頬を包む。
緊張にか、恐怖にか、まばたきひとつせずに見上げてくる相手を見ていると、遊木は自分がとんでもない悪人のような気がしてくる。
そもそも女性に迫り、こんなリアクションをとられたのは初めてだ。これまでなら、釣れた、とばかりに舌なめずりをしているのを隠しきれていない、媚びた反応を返される女性ばかりで少々うんざりしていた。
このリアクションが普通なんだろうな、と思うとなんだか不思議な気分でもある。
「本当に、佐久間さんかわいい」
「や、この状況でその発言、犯行声明にしか聞こえなくて怖いですから」
思わぬ言葉に、意味が頭に入ってこずにまばたきをする。しかし、いくらかかすれた声でつぶやかれた内容が脳に達した瞬間――遊木がふき出した。
顔をそらすのが間に合ったのは行幸だろう。
有樹の頬に触れていた手を外して口許を押さえ、なんとか笑いの発作を押さえ込もうとするがなかなかうまく抑えることができない。
「……は、犯行声明、って……」
「じゃあ犯行予告です?」
「ぶはっ」
喉の奥で笑いながらの言葉にまたもや斜め上をいく言葉を返され、こらえようもなく派手に吹き出す。
確かに、こんな雰囲気になれば色事方面に事が流れるのはほぼ確定だ。もちろん遊木はそのつもりでいたのだから間違ってはいない。いないのだが、それに対してよもや犯行声明だの犯行予告だのという言葉を使われるとは思ってもみなかった。
笑いすぎで疲れた気がして、つい手近にあったものに額をよせ、軽くつかまる。こんなさわり心地がいいものあったかな、と思うものの、笑いがおさまらなくて深く考える余裕もない。
「うん、俺、佐久間さんのセンス好きだなぁ」
さんざん笑った後、思わずそうつぶやくと、苦笑いの気配が返ってきた。
「とりあえず、離れてもらえません?」
予想外に近くから――ほとんど耳元で聞こえた声と、驚いて見開いた目に映った色が頭の中でかみあう。暖かそうな落ち着いたピンクは有樹の着ているセーターの色だ。
慌てて体を起こし、両腕をつっぱる勢いも借りて一歩下がる。目の前には頬を染めた有樹の姿。恐らく自分は彼女以上に赤くなっているだろうと思えるくらいに頬が熱い。
「……その、ごめん」
「……いいですから、もう少し離れてくれませんか?」
ほとんど思考の止まった頭でなんとか謝罪の言葉をひねり出したが、更に離れて欲しいと言われ、まばたきをする。
「その……。世に言う壁ドンです?」
「うわっ?!」
困ったように言われ、状況を悟った遊木が叫び声と共に両手を上げて数歩分の距離を飛び離れる。勢い余って腰をカウンターに打ち付け悶絶するはめになったのはご愛敬だ。思わず打った場所を押さえてうめくが、さすがにしゃがみこむような失態は見せられない。
「だ、大丈夫です?」
あまりに痛そうな鈍い音がしたからか、有樹が心配そうな声を出す。
「だ、……大丈、夫」
なんとか返事を絞り出したが、それきり言葉が続かない遊木を見てか、有樹が少し離れたソファの上に置いてあった自分の鞄にかけよる。逃げ出されるかな、と思う遊木をよそに、鞄の中をごそごそとあさる音がしばらく続く。何を始めたのか気にはなるが、体をひねるのも移動するのも厳しいくらいには痛むのだから仕方がない。やがてサンダルの足音が側に戻ってくると、ジッパー付きのビニール袋にいれられた、ハンドクリームでも詰め替えたのだろう円形の薄いケースが差し出された。
「これ、よかったらどうぞ。私が普段使ってる塗り薬――塗るタイプの湿布です」
「うわ、たすかる。結構本気で痛いからどうしようかと思ってたとこ」
「市販薬より強いですから、少な目に塗ってくださいね。あと、すぐに手についた分は落とした方がいいです」
「わかった。ありがとう、ちょっと塗ってくるね」
さすがに場所が場所なので、この場で塗るのもはばかれたのだろう。遊木は薬を受けとると、腰を押さえたまま歩き出した。
洗面所で薬の袋を開けると、その時点で強いメントールの匂いがした。なるほど、これはケースを更にビニール袋に入れる訳だ、と思いつつケースからすくい取ったクリーム状の薬を塗りつける。
「……しっかし、変なところに痣ができそうだなぁ」
ちょうどベルトがあたる。しばらくはこすれて痛むだろうとため息がもれた。けれど、あまり時間をかけて有樹を放置するのも失礼だ。借りた薬のケースを元通り片付け、手を洗う。こんなわずかの間にも薬がついた部分が熱いような感覚があり、痛みのないところにつけっぱなしにしたら、きついメントールの匂いを別にしても辛いだろう。
有樹はそんなところまで気を配って、手を洗った方がいい、と言ってくれたのだろう。そもそも、直前の状況を考えれば放置で逃げ出されてもしかたがない。それなのに有樹は遊木を心配して薬まで渡してくれるのだから優しいというかお人好しというか、思わず苦笑いしてしまうところだ。
恐らく遊木を取り囲んでいた連中であれば、利用しやすい駒だと考えるのだろう有樹の行動を、彼自身は優しさだと感じた。本来であればもっと警戒してしかるべき相手に対してまでおおらかなのは心配だが、それも彼女の個性だし美点だ。
そして何よりも、遊木が有樹に惹かれるのはそういう部分になのだ。
「本当、素でこんな優しくされたら好きにならないのなんて無理だよなぁ」
独り言がいくらか自嘲めいたのはしかたがない。いくら歯止めをかけようとしても、会う度有樹は遊木の気持ちを揺さぶる。出会ってすぐにも好きだと思ったが、少しずつ降り積もった気持ちはもはや理性で閉じ込めておくには大きくなりすぎた。ついさっき、有樹の言葉に触発されてあんな事をしでかしたのもそのせいだろう。
確かに、有樹に本気になるのは彼女に負担が大きい。けれど、自分を対象外にしていると思われていたのを幸いに、引き下がることの出来る段階はとうにすぎている。ならば、この機会に一度しっかり話し合うのもいいだろう。その上で有樹が無理だというのならあきらめもつく。
半端な現状に甘んじるよりよほどすっきりする結論を出し、遊木が気合いを入れ直して戻ると、有樹は何か考え込んでいる風情でリビングのソファに座っていた。
背もたれによりかからず、浅く座って背筋を伸ばしているのは落ち着けない気分を表しているのだろうか。
「ごめん、お待たせ。薬ありがとうね」
遊木が声をかけると有樹がふり返り、大丈夫そうですか、と聞いてきた。
「まぁ、痣にはなりそうだけどその程度かな。心配してくれてありがとう」
のんびりと返事を返すと、有樹に薬をさし出す。
「これもありがとう。効きそうな薬だね」
「医者で出してもらった薬なので市販薬より強いんです。よかったら置いていきましょうか?」
「俺は助かるけど、佐久間さんが困るよね?」
さらりと口に出された提案も遊木にとっては非常に都合がいい。普段必要になる事もない薬は常備されていないし、わざわざ買いにいくのも面倒だ。それに、処方薬ならば市販薬より効果が強い。多少匂いは強いが効果自体が強すぎて、患部がひりつく程ではないのだから願ってもない提案だ。
けれど、このケースにはそれなりの量が入っていたし、持ち歩いているという事は有樹は朝晩だけでなく昼間にも塗り直すくらい頻繁に使っているはずだ。そうだとすると、この量を予定外に消費するのは痛いだろう。
いくら自分が助かるからといって、相手が困るとわかっているのに甘えるわけにはいかない。しかし、遊木の心配を見透したような笑みと共にゆるく首がふられる。
「頻繁に湿布貼り続けになるので、大きいのを出してもらったんです。一人だと使いきるのに半年一年かかるって言われてるような量なんで、そのくらい減っても困りませんから」
「いやでも、ケースとか」
「それ、ボトルガムについてきたノベルティですし、家にもう何個か予備あるんです。気になるのなら薬使い終わったら返してくれればそれで」
自分が困る提案はしませんよ、と笑い混じりに結ばれた言葉に遊木は苦笑するしかない。本当に有樹が考える、人のためにして平気な範囲は広い。
「わかった、甘えるよ。本当、何から何までありがとう」
ここであまりしつこく断ってもかえって失礼だろうと甘える事にした遊木は、薬をテーブルに置くと有樹のとなりに座る。
「……なぜとなりに?」
「ん? 大事な話したいから、かな」
不思議そうに首をかしげる有樹を笑顔でかわし、正面から視線をあわせる。
「君にとって俺と付き合う事は面倒な事ばっかり多いと思う。負担をかけるだろうし、君の事を考えるなら本当は俺があきらめるべきなんだろうけど、無理みたいだ。――俺との事、真剣に検討してもらえない?」
「真剣に、ですか?」
「うん。試しに三年、とか言っておいてこんな短期間で悪いんだけど」
遊木の真剣さが伝わったのか、有樹は少し考えてから、小さくため息をついた。
「遊木さんは勘違いしてますよ」
「俺が?」
「はい」
はっきりとうなずいた有樹の視線がちらりと足元にむけられ、すぐに遊木に戻された。
「私があなたにした事は、あなたにだからじゃありません。他の誰が相手であっても同程度の事はしますよ」
言外に、特別な気持ちはない、と断言されたが、そのくらい予想済みだ。
「うん、知ってる」
だからあっさりとうなずくいたのだが、これは有樹の方で予想外だったのか、目をまたたく。
「俺だって、そのくらいわからない程馬鹿じゃないし、好きだからこそ、佐久間さんの事よく見てたつもりだよ。だから、君が現時点では俺の事、恋愛的な意味では好きでもなんでもないだろうな、っていうのもわかってる」
有樹の態度を見ていれば、自分が恋愛対象として意識されていないに等しいのはわかる。あるいは意識されていないからこそ、余計惹かれるのかもしれない。
「だけど、俺はそんな君だから好きになったんだよ」
「そういう問題ではなくて……。遊木さんはまだ猫被った外面の私しか知らないでしょう、と言いたかったんです」
「外面?」
「ええ。実際の私は頑固で意地っ張りで短気でわがままでどうしようもなく扱いにくいですよ」
真顔でそんな事を言われ、今度は遊木が目をまたたく。告白に返す刀でここまでの自己批判を聞かされるのは初めての体験だ。
「……あんまり、そういう風には見えない、けど?」
「だからそれは猫被ってるからです。スペック低いし面倒くさいし、私なんかと親しくなってもいい事ないですからやめておいた方がいいですよ」
いたって真面目に遊木の心配をしているらしい有樹の言葉をかみくだくのに少し時間がかかったが、意味が脳に達した瞬間、思わずふき出す。
「本っ当、佐久間さんっていいキャラだよなぁ。ここで俺の心配とか、普通はしないよ?」
「目の前にいる人が露骨に誤情報つかまされてるのに黙ってるなんて酷いじゃないですか」
「いや、だからね? ここは俺の心配するところじゃなくて、佐久間さんが俺の提案を飲んでくれるかどうか、検討するところじゃない?」
笑いをかみ殺しながらそう言うと、有樹が首をかしげる。
「ですから、その提案が誤情報に惑わされてのものなので、正確な情報を知った上でにしてください、と言ってるんですが?」
なんで通じないのかわからない、とでも言いたげな不思議そうな表情で言われ、遊木は思わず頬をかく。
……なんでここまで自己評価低いかな、この子。
ついそんな風に思ったが、この話題の決着をつけない限り、有樹は遊木の申し出を検討すらしてくれないだろう、というのだけはわかる。
「オーケー。じゃあまず、佐久間さんの言う、誤情報がなんなのか、認識のすり合わせからしようか」
「あ、でもティッシュケースが完成しないと困るので作業しながらにしましょう」
唐突に実務的な問題に引き戻され、遊木は目をまたたくが、有樹は置いてあった袋から買ってきた材料をひっぱり出し始める。
「手順説明してると話ができないので私が作っちゃっていいですよね? ……って、どうしました?」
手際よく作業に入ろうとしていた有樹が、きょとんとしている遊木を見て首をかしげる。
「いや、うん、ちょっと驚いたというか?」
「……自分で作りたかったです?」
「えぇと、そういう事じゃなくてね? ながらでする話題じゃないかな、って思ったから?」
「別に、テレビ見たり本読んでる訳じゃないですし」
さらりと言うあたり、彼女の感覚では問題ないらしい。面白いバランス感覚だなぁ、と思ったがそこを指摘するとさらに話がそれるだろう。
「まぁ、佐久間さんが嫌じゃないなら――というか、作ってもらうまで甘えていいの?」
「別にかまいませんよ。今は急ぎのものを作ってるわけでもないですし、一日くらい作業を止めても問題ありませんから。それに、ティッシュケースを作るのも苦になりません」
何かを作れれば何を作るかにはあまりこだわらない有樹らしい返答だ。
さらりとした返答だが、内容は遊木にばかり都合がいいと気づいているのだろうか。ティッシュケースが完成しなくても有樹はまったく困らないのだから、話に集中してもかまわないはずだ。それとも、何かをしながらでないと重たいという事なのだろうか。
「それじゃあ甘えようかな。あ、でも話し始める前に飲み物用意してくるよ。あの店ほどはおいしくないけど、紅茶いれるからちょっと待ってて」
長い話の途中で喉が乾いて集中できなくなる、というのはいただけない。先に飲み物を用意した方がいいだろう、と提案すると、お願いします、と笑顔の返事が来る。
こういうところかわいいなぁ、と思いつつ口に出すと文句を言われそうなので黙って席を立った。
お読みいただきありがとうございます♪
……素で更新忘れてたとか。
本っ当、ごめんなさいっ。