脈打つルージュ
『なんで泣いてるの』
『みんなが、俺の描く絵はおかしいっていう』
『おかしいっていうか、頭おかしいんじゃないのってくらいうまいよね』
『そんなこというの、奈津だけだ』
『いや、あんたの絵は、頭がおかしいくらいうまい』
『褒められてるのか馬鹿にされてるのかわからなくなってきた』
『彌広の描く絵は、見てると頭がおかしくなるくらい、きれいだよ』
はるか昔、こんなやりとりをした幼馴染はなるべくして画家になった。
伝統だけはあるコンクールで最年少受賞し、一年間の海外留学を副賞としてもらい、そのまま行方知れずになること三年。
帰ってきたときには、私の知っている彌広ではなくなっていた。
「奈津、ちゃんと体毛剃ってきてってば」
六畳一間の薄汚れたアパート。窓枠や外の階段なんて錆びて赤茶けている。薄暗い蛍光灯の灯りに照らされた室内で、かちゃかちゃと絵の具やらファンデーションやらチークやらを畳に転がして、彌広はこちらを見もせずに言う。
インドから帰ってきたときにはどこの荒野でなにを悟ってきたのかという様相だったが、今はなんとか普通の見た目に落ち着いた。ユニクロってすごい。
「ここんとこずっと、残業続きでゆっくりお風呂に入れなかったんですよね。どこぞの画家様とは違って、社畜は今日の今日まで無駄毛剃る余裕もありませんでしたの」
舞台用のおしろいの上に脱いだスカートを放り投げて、彌広の薄い肩を足蹴にした。
彌広の呆れたような半眼が、私の股間を捉える。
「パンツからはみ出てるんですけど」
「今からあんたの大好きなツルツルボディになってきてあげるから、お風呂貸して」
「ひげ剃りしかないよ」
安心しなさい。ちゃんと家から持ってきたから。
かちゃかちゃと絵を描く準備を始めている彌広を横目に、私も風呂に入って準備する。
髪はショートカットなので結う必要もない。簡単にボディソープを泡立てて、体に塗りたくり、シェービング用のカミソリで無駄毛や産毛を剃っていく。このとき、少しの剃り残しもあってはならない。筆の進みが悪いと、彌広はきっと『キャンバス』を替えると言い出すだろうから。
彌広曰く「見識を広めるための世界旅」から帰ってきた彼の作風は、絵といえば絵だが、筆を乗せる対象がだいぶ変わっていた。
人の、生身の肉体をキャンバスに、彌広は様々なものを描きたいと私に言った。まだ構想段階だったそれを、私は黙って聞く。人の肉体――つまり女の裸体に、絵を描く。
それを、〝奈津〟というキャンバスで実行させることにしたのは、私自身だ。
首筋に、乳房に、腹部に、腰周りに、大腿に、爪先に、時には歯にも。
人間を構成する、皮膚という皮膚に、彌広は描いた。
森林を背景に、そこに溶け込むように肉体に風景画を描くこともあれば、魚が泳ぐ水槽を描いた肉体を、街中にぽつんと置いてみたこともあった。
どれも倒錯的で、妙な引力があり、なおかつ、馴染む。けれどその馴れを受け入れきれない、不可思議な違和感。
そういったキャッチフレーズで、彌広の『世界』は瞬く間に世間に広まった。
そんな彌広は、たった一人、私だけをキャンバスにする。海外の有名な画商が、数人の女体を使って個展をしないかと持ちかけたときも、彌広は断った。たくさんいると欲情しちゃうから。と、意味不明な理由をつけて。
(私の体には欲情する価値すらないわけか。……まあ実際、勃たないし)
彌広の前では、幼馴染の裸など平面なキャンバスに過ぎないのである。
(確かに、凹凸はないな)
ささやかな乳房を見て、悲しくなった。絵を描くなら平面的な男の体のほうがいいのではないかと一度問うたことがあったが、女性特有の曲線がうまく色に陰影をつけてくれるから好き、と応えられたことがあった。
「奈津、ここに座って」
風呂からタオルを巻いて出ると、彌広はもう準備万端だった。
手入れのされていない畳の上に転がるのは、色とりどりのアイシャドウ、チーク、アイライナー、口紅、マニキュアという、女の子を彩るための色の魔法。
人に描くからにはと人を装うための道具を使うことにした彌広は、様々なブランドの、様々なコスメを使って私の体に絵を描いている。お陰で化粧品会社のスポンサーまでついているわけだが、使うブランドに制限はないと聞いた。
ボビィブラウンの働く女子的アイライナーに、ジルスチュアートのお姫様チーク、カバーマークの万能女子系ファンデに、マジョリカマジョルカのチェシャ猫アイシャドウ、紫夫人代表アナスイのカラーマスカラ……実に目に鮮やかだ。華やかなコスメ達に、傷んだ畳は似合わないと心底思った。
「今日は座って描くの?」
「うん。練習。背景と同一に描く。一応写真撮って、ミレーさんに送る」
「あのクソマネ」
「敏腕だよ。俺がブランドにこだわらず化粧品使えるのも、ミレーさんのお陰だし」
ちなみに美鈴と書く。写実主義のミレーとかけているらしいのだが、私にはどのミレーさんかさっぱりわからない。
「動かないで」
私がタオルを取って素っ裸になると、彌広にはもう私なんぞキャンバスにしか見えていない。むき出しの肩も乳房も臍も太腿も、ただ絵を描くための素材と化すのだ。
(……虚しいと思ったことなんか、数知れない)
こんなに想ってるのに。こんなに大好きなのに。こんなに見つめているのに。
だから彌広が人の全てを使ったボディペイントをしたいと言ったとき、羞恥心もプライドもかなぐり捨てて、モデルに立候補したのだ。彌広のキャンバスになるということは、衆目に曝されるということ。この試みを始めたばかりのころは、それこそ写真を撮って大きなパネルで発表していたが、軌道に乗り出して個展なんかが開催されると、私は絵の具と化粧品のみを纏った姿を大勢の人間に曝すことになった。両親も反対したし、彌広もこれには本業のモデルを使うと言っていたが、それを却下させたのは私だ。全く知らない人に、時には顔見知りに、色の鎧を纏っただけの、自分の裸体を見せる。
それでもやはり、彌広が他の女の体に触れることを、私は許容できなかった。
(……いいのよ。昔みたいに、あんたが絵を描く姿を、一番近くで見ていられるなら)
彌広とは本当に昔からの付き合いだ。ドラマや漫画でよくあるような、赤ん坊の頃からのお付き合い。家が隣同士で、両親も仲が良く、お互いの家を行き来しては姉弟のように育った。幼稚園に上がる頃には彌広は様々な絵を描くようになっていたし、その絵を完成して一番に見ることができるのは、私の特権だった。
いつもはどこかほんわかした雰囲気の彌広が、キャンバスや画用紙に向かうときだけはじっと黙り込んで妥協を一切許さなくなる。
私は、彌広が持つ筆の先に恋をした。そしてそれは、今も変わっていない。
彌広の持つ大き目の刷毛が、すくったアクリル絵の具を私の体に塗っていく。もったりとした冷たさに身を震わせるが、必要以上には決して動かない。床に散らばる化粧品たちの出番は、まだまだ先だ。なにせキャンバスが大きいので、まずは正当な手法で下地を整えることから始める。ある程度、体に色が乗ってきたら化粧品を使って細々と、更に緻密に、描き込んでいく。
ラメの入ったファンデーションやアイシャドウは陰影をつけることに役に立つし、光に当たったときの肌に馴染むきらめきがお気に入りだそうだ。口紅やチークは、ブランドによって扱いを変えなきゃならない面倒臭さがいいと言っていた。
彌広は芸術馬鹿だ。ほら、寒さと興奮で立ち上がっている私の乳首なんて素通りして、なんの感情も湧かない目で筆を走らせていく。
「プリン食べたくなってきた」
それはプリンほどの膨らみしかない私への嫌味か?
「買ってきてあるよ。あんたが好きなコンビニのやつ」
「やった。さすが奈津」
絵を描いている間、こうしてお喋りすることは珍しくない。彌広も一応、自分がいまキャンバスにしているものは生物だと、頭の端ではわかっているのかもしれない。
「彌広はさあ、私に絵を描いているっていうより、化粧をしてるみたいだよね」
「え、なに」
「だから、絵じゃなくて、化粧」
「化粧品使ってるから?」
それもあるけど。
「私を別人に、……寧ろ全くのべつものにしてくれるから」
彌広の手にかかると、私は森にもなり、水槽にもなり、肉にもなり、壁にもなる。決して素の私ではなりえない存在に、彌広の手によって変身できるのだ。そういうところは、女の子の化粧と似ているような気がする。
「なるほど、……化粧ね」
彌広は納得しているのかしていないのかわからないような顔で、一応の相槌を打った。
(できればそこに転がってるお高い口紅を私の唇に引いて、キスしてくれたらとっても幸せなんですけど)
と、毎回のように思ってしまう私も大概だ。
まあ、思うだけはタダだよな。
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「ばんわー」
私の身体がいよいよ余すところなく肌色ではなくなってきたころ、その男は現れた。
彌広が敏腕と信頼する画商兼マネージャー、美鈴である。画商ながら、長身で均整の取れた体つきに、甘ったるい顔のつくり。初めて彌広に紹介されたときは、ホストかと思った。それくらいには見た目が派手で、口が回る男である。
「……ミレーさん。まだ完成しないから、コンビニで雑誌でも読んでて」
彌広が玄関を振り向きもせず言う。
素っ裸の最中に割り込まれたが、彌広の次に私の裸を見ているのはきっとこの男だ。今更恥ずかしがって風呂場に逃げ込んだりしない。
(それに私はいま、ただのキャンバス……)
彌広の筆が止まらない限り、私も人間には戻れない。
「いいよいいよ。どうせもうすぐでしょ、待ってる」
美鈴の視線が、彌広と私を交互に貫く。
作業を邪魔されることを嫌う彌広は顔をしかめたが、特になにを言うでもなく座っていた位置を変えて再び作業に没頭し始めた。
彌広の体に遮られ、私から美鈴の姿は見えなくなる。まあ、あまり見たくない。
「お疲れさん」
その後一時間かけて描き終わった彌広に、美鈴がコーヒーを差し出した。
毎度のことながら、私の分はないらしい。これにも馴れた。彌広はいつもこのコーヒーを私と半分こしてくれるので不満はないが、私をただのキャンバスと一番に割り切っているのはこの美鈴かもしれない。
「奈津さんもお疲れー。ちょっとよく見せてくれる?」
今までじっと玄関に立って彌広を見守っていた美鈴が、ずかずかと遠慮なしに入ってくる。そうして彌広を押しのけて私の目の前にくると、じっと真剣な目で『キャンバス』を観察した。
画商の目である。今の彌広がいるのはこの男のお陰といっても過言ではないので、無遠慮な視線に文句を言ったりしない。
「……それでなにしにきたの、ミレーさんは。あとで写メ送るって言ってあったでしょ」
彌広がぐっと伸びをしながらこちらを振り向く。
私も四時間座りっぱなしで固まった筋肉をほぐしたいところだが、絵が崩れるので美鈴と彌広が満足するまでは動けない。
「たまたま近くに寄ったからさあ。作業捗ってますかーって、お宅訪問」
美鈴は『キャンバス』から目を逸らさずに言う。
今日の私は、畳と冊子と窓と空模様で彩られている。彌広が座っていた角度から見ると、部屋と同化して背景に見えるはずだ。ただし顔は着色されていないので、生首が浮いているように見えるかもしれない。
「いいね、彌広はほんと腕がいい」
美鈴が感嘆の声を洩らす。
平面ではなく、立体的な肉体に絵の具と化粧品を使って、絵を描く。素人の私にはそれがどれほど難しいことかわからないが、彌広の描く絵は単純にすごいと思う。
うまいともきれいとも違う。人の皮膚を使っているからこそ表現できる、どこか生々しく背徳的な美。正直に美しいと公言できない、妙な罪深さ。
「あとでまた写メ送っとく」
美鈴さんを押しのけて、彌広が私の目の前に座った。
「奈津、もうちょっとだけ我慢して」
携帯を構えた彌広に、描き上げた作品を検分するように見つめられる。
(その目に、ちょっとでも熱がこもっていればいいのに)
ひんやりした彌広を見たくなくて視線を逸らすと、後ろに立つ美鈴と目が合った。
こちらもこちらでキャンバスとしてしか見ていないかと思えば、まるで脈のない私を笑顔で哀れんでいる。いつか美鈴の革靴の中に茶色の油絵の具をしこむことを私は誓った。
彌広が長い留学から帰国してから三年。彌広、私、美鈴。この三人でタッグを組んで、私がこの生きながらにして無機質を演じるモデルを始めてから、二年が経とうとしていた。そうして長い時間、彌広の無感情な視線に曝され続けた私は、ある危惧を抱いている。
(……こうして長い間、私をただのキャンバスとして見ている彌広に、そのうち本当にただのもののように見られてしまうかもしれない)
所詮キャンバスは使い捨てだ。リサイクルするにしたって限度がある。
そうして私は今、その限度が迫ってきているような気がして、恐れていた。
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「奈津さん、見て見て」
私は週に四回の頻度で彌広のアパートに行くが、それは会社を終えた夜にだ。彌広のキャンバスをしているからと言って、昼間は普通にOLをしている。
そんな会社での後輩がうきうきしながら私のデスクに美容雑誌を広げた。そこには、彌広のスポンサーについている化粧品会社のロゴと商品、絵画の写真。
空気に今にも溶け出しそうな色彩には、実に見覚えがある。
(彌広の絵だ)
彌広の顔写真と、今までの作品の数々。使ったコスメの種類。『私』に描いたものもあれば、昔描いた紙の作品もいくつか載っている。
「この画家さん、奈津さんと同い年ですよ。ちょっとかっこいいですよね」
後輩はほくほくしながら彌広の写真を指差した。相変わらず、女受けする顔である。
「童顔すぎじゃない?」
「そこがかわいい~」
そうですね、でもこいつ、舌にピアス開けてるよ。全然かわいくないよ。活動が軌道に乗り出した頃、何故か突然開けたんだよ。痛いの苦手なくせに、意味不明だよ。
「この裸のモデルさん、奈津さんにちょっと似てません?」
ぎくり。
「顔にも髪にも色が塗ってあるからわかりづらいけど、なんか鼻の形とか、唇とか」
鋭い。
やはりいくらキャンバスに徹するとはいえ、身体や顔の造形までが変わるわけではないので、なんとなく似てる、という感想は今までにももらったことがある。
とはいえ、彌広の作品でいる間は、私は私であって私ではないのだけど。
「そうかな。……こんな大胆な真似できたらいいけどねえ」
してます、ごめんなさい。
「ですよねー。こんなの、二十歳のときでもむりです」
そうですよね、もうすぐ三十路のばばあがやっていいことじゃないですよね。
「でもでも、こんな素敵な画家さんと裸でふたりきりとか、なんかいい」
全然よくないよ。大股開いてポーズ撮ったときですら、顔色ひとつ変えなかったんだよ。
(それとも君くらい若くて可愛かったら、彌広も欲情してたのかな)
不毛だ。
「でもこのモデルさん、スタイルいいほうじゃないですよね。普通っていうか、平均っていうか……もっとラインが綺麗な人を使えばいいのに」
うわー知らないって怖いな。
無邪気に笑っている後輩に、ははは、と苦笑が漏れる。
「いいなあ。こんな画家さんとデートしてみたい」
そんな画家さんと仕事が終わってから全裸でお絵かきする予定ならあるよ、と隣でうっとり呟いている後輩に言ってみたくなった。
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「なんか今日、部屋の匂い違うね」
会社帰りに彌広の部屋に寄ると、嗅ぎ慣れない匂いがした。絵の具と化粧品の匂いしかしなかったボロアパートに、甘い匂いが漂っている。私が一度使ったきりほったらかしにしているボディミルクと同じ、とろりとした甘い香りに似ていた。
「え、ああ……」
私が言うと、彌広は思い至ることでもあるのかないのかわからないような返事をした。
今日は花の金曜日。大の大人がふたりそろって、片方は全裸にも関わらず、六畳一間のボロアパートで大変健全な写生大会を開いている。
「再来月、青山ホールで展示することが決まったんだ」
今月に入って四度目の練習を進めながら、彌広がぽつりと洩らした。
「よく大きな演奏会とかやってるとこ?」
「そう。……それで今、その展示に出す作品をどんなふうにするか、考えていて」
この場合、作品イコール私である。
少し傾けた視界に、アパートと隣接する大きな河のきらめきがうつった。今は午後八時。墨を流したような水面に、家々の明かりや車のライトが反射している。その水面の動きに合わせるように動く、彌広の筆が私の皮膚を走る、心地よい音。
「……ねえ、奈津」
彌広の、少し躊躇いがちな声。
「ミレーさんとも話したんだけど、そろそろ、キャンバスを替えようと思うんだ」
ああほら、きた。限度。
「……私の体じゃ、彌広の世界は表現しきれない?」
彌広を直視できなくて、私は傾けた視線のまま、口だけを動かす。
この破裂しそうな心臓の動きが、私の皮膚を撫でる筆に伝わらないようにと願いながら。
「そうじゃない。……そうじゃなくて」
歯切れが悪い。作品のことになると、普段穏やかな性格がなりをひそめて、人格が変わるくせに。
「……用済み?」
言いにくいなら、私から言ってあげるよ。
顔を上げた私の言葉に、彌広は傷付いたような顔をした。
(なんであんたがその顔するわけ?……私がしたいっつの)
「奈津、そうじゃなくて」
「そうじゃないなら、なに?」
「……だから」
必死に言い募る彌広の顔を直視しながら、私の心は冷えていく。
彌広の握った筆の先が、動くのをやめた。
「……今日はもうやめよう」
最悪。
俯いた彌広が、かちゃかちゃと散らばっていた化粧品や絵の具を片付け始める。
その態度が、無性に癪に障る。
言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。
「描けば」
むかむかして、低い声で可愛くないことを言ってしまう。
「描けないよ」
「どうして」
「……描けない」
ああそう。
「これ借りる」
足元に転がっていた蓋が開いたままの口紅をひっつかんで、勢いよく捻る。メイク用には使われなかった憐れな口紅は、先がぐちゃぐちゃに潰れた薔薇色の赤だった。青いケースの文字は削れていて判別できない。国産でも外資系でも、描けるならどっちでもいいわ。
潰れた先端を、乱暴に唇に塗りつける。うまく塗れなくて、前歯で少し齧ってしまった。
「奈津?」
訝る彌広の胸ぐらに手を伸ばすと、驚いた彌広の口の奥で舌が縮み上がるのが見えた。肉厚のそれの中央に光るセンタータン。それを飲み込むように、私は彌広の唇に真っ赤な唇を合わせる。
がつ、と唇と一緒に赤くなってしまった前歯がぶつかった。
「っな、つ」
慌てる彌広の身体を力任せに後ろに倒して、裸のまま乗り上げる。
中途半端に描かれた絵が、まるで刺青のように私の太腿で蠢いていた。
苦い。
塗りすぎた不恰好な口紅が、私の心が。
彌広の抵抗が弱くなって、私は更に体重をかけた。うまく飲み込めなかった唾液がだらだらと口から零れて、お互いを汚す。暫く夢中で彌広の舌を吸っていた。彌広もまるでそれが自然であることのように瞼を閉じて、私の舌に応えている。
口の中でない交ぜになった苦い味覚が、じわじわととろけた脳を覚醒させる。
(……なにやってんだろ、わたし)
冷静になって舌を引っ込めると、彌広の腕が私の肩を押しやった。
その頃には互いの喉がぜいぜいと鳴って、全くもって格好がつかない。
膝立ちになって見下ろした彌広の唇に、かすれた口紅が移っていた。
(やっぱり、彌広みたいに上手に描けないや)
わかりきっていたことなのに、軽い失望感。
「……なにすんだ」
彌広の、どこか子供じみた声が私を責めていた。
怒ってるのかな。
怒ってるよね。
「……なにしてんだろ」
どこか茫然自失に呟くと、ふと彌広の股間に視線が向いた。
くたびれたシャツとデニムがずれて臍が見えている。その更に下。
私の裸をどれほど間近で見ても、触れても反応しなかったそこが。
「なんで勃ってんの?」
思わず口に出してしまうと、彌広の顔が真っ赤に染まった。
あれ、なにその反応。
私が呆然としたまま動けないでいると、彌広は赤くなった顔を隠すように勢いよく立ち上がる。そうしてこちらを見もしないで、ぼそりと呟いて。
「今日はもう帰って」
そのまま部屋を出て行ってしまった。
「……なんで勃ってんの?」
残された私はといえば、思わずもう一度呟いてしまった。
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「あ」
「げ」
彌広のアパートからの帰り道、ついてないことに美鈴と鉢合わせしてしまった。まさかこんな気分でこの男と会うことになるとは思っていなかったので、油断しまくっていた。
「奈津さんじゃん。唇、真っ赤だけどどうしたの。口裂け女みたいになってるよ」
なんとか服は着たけど、彌広の唇に触れた口紅を取ることなんてできなかった。
口裂け女でもヤマンバでもいいから、そこをどいてくれないだろうか。
私が黙り込んでいると、まるで全て知っていますよ、と言いたげに美鈴は笑った。
「彌広もさあ、君一人に絞らないで、数人使えばもっと大々的に活動できるのにねえ」
胸ポケットから煙草を取り出して、美鈴は私を見下ろす。
美鈴は、彌広の才能を埋もれさせている私を毛嫌いしていた。
(……そのとおりだな)
キャンバスを複数使うことを拒否したのは確かに彌広だが、私がそのように持っていったと言われても否定できない。たった今も、キャンバスを替えようかなと言われたことに対する暴挙があれだ。救いようがない。
(でも、……だって)
彌広が、私以外の女性の裸体を見て、それに触れて、作品にする――そんなの、想像すらしたくない。あの濃密でひそやかな時間を、私以外の女性と過ごすなんて。
なるほど確かに、彌広がもっともっと高みへ行くための道を、私はくだらない嫉妬で塞いでいる。
「……女の嫉妬は、ほんと、男を殺すヨ。こわいこわい」
美鈴に遠慮はない。
彌広の作り出す世界に惚れこんでいるからこそ、私が許せないのだろう。
「美鈴さんて、私のこと大嫌いですよね」
わかりきったことを私に言い聞かせて、どうしようっていうの。
「そうだね、俺は彌広の絵を愛しているけど、キャンバスであるあんたは嫌いかな。作品でいる間はいいけど、動き出すと品のない全身刺青女みたいでさ、ちょっと引くよね?」
全国の刺青女子に謝れ。
「しかも彌広が海外留学してる間も、ずっと一途に待っていたらしいじゃない。いい年なのに実家住まいで、いつ隣の家に彌広が帰ってきてもいいように。パラサイトシングルってやつ?一歩間違うとストーカーだよ。で、日本に拠点を定めた彌広の傍にいるためだけに恥ずかしいカッコ世間に曝して、身体張って彌広の気を引こうと頑張ってるのに相手にもされないあんた見てると、もうほんと、見苦しくてならない」
美鈴の瞳が冷たく光る。
(……いたい)
心臓から血が吹き出している。
「そんな奈津さんに、すっごく悲しいお知らせー」
にこにこと、火を点けた煙草を揺らしながら美鈴が楽しそうに笑った。
「彌広は今日ね、君ではない新しいキャンバスに、絵を描いたんだよ」
――あ、心臓潰れた。
彌広の部屋で嗅いだ、甘い香りが蘇る。
「なかなかよかったよ。本業から応募かけたから堂々としてるし、顔もスタイルも申し分ない。彌広とも相性がいいみたいで、君のときより筆が進んでたしね」
美鈴の声がどんどん遠くなる。
薄い膜ひとつ隔てて、私は暗い渦に落ちていく。
(……ああ、だから、〝描けない〟)
彌広は、私以上の文句のつけようのないキャンバスに出会ったのだ。
そりゃ、不恰好なキャンバス相手じゃ途中で筆をやめもしますよね。
「彌広はこれからどんどん大きくなるよ。もともと海外でもある程度のコネクションをつくってから帰国してるし、君から解放されれば、彌広は一躍時の人になれる。……聞いてる、奈津さん?」
私の様子がおかしいことに気付いたのか、美鈴が不審そうな声を上げた。
あんたの声に、応えてる余裕なんかない。
「……じゃあ、お役ごめんってことで」
乾いた唇が紡ぎだしたのは、その一言だった。
彌広とキスしたことも、何故かあそこが反応してたことも、すっかり頭の隅に追いやられて、美鈴のいけすかない言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
(……解放――。私は、彌広にとって煩わしいだけの鎖だったわけか)
せめて使える道具くらいにはなりたかった。彌広の周りに散らばる絵の具や筆、口紅やチークみたいな、女の子を輝かす道具のように彌広の絵を構成する一部になれたら、私は。
「……そうか、終わったのか」
キャンバスとして廃棄されたと同時に、私のしつこい恋も終わった。
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『なんで泣いてるの』
『みんなが、俺の描く絵はおかしいっていう』
『おかしいっていうか、頭おかしいんじゃないのってくらいうまいよね』
『そんなこというの、奈津だけだ』
『いや、あんたの絵は、頭がおかしいくらいうまい』
『褒められてんのか馬鹿にされてるのかわからなくなってきた』
『彌広の描く絵は、見てると頭がおかしくなるくらい、きれいだよ』
だって私、あんたが描く絵が大好きだもの――。
頭が重い。随分と懐かしい夢を見ていた。
中学校に上がりたての頃、抽象的な画風を描くことにはまっていた彌広の絵に友人たちはついていけず、そんな周囲に、彌広はよく馬鹿にされていた。
(ばかだな、あんたの描く絵が、おかしいわけないでしょ)
小さい頃からそうだった。純粋で真っ直ぐで、とにかく綺麗で、でもどこか曖昧で悲しくて、彌広という人間をまんま表現したような絵が、私は好きで好きで、堪らなかったのだ。
(でもそれは、あんたのことが大好きだったからで)
失恋して、彌広を思うたび痛い思いして、そんな自分は果たして、今までのように彌広の作品を好きになれるのか――私ではない、違う女の肉体に描かれた絵を。
(……って、ちがう。それはもういい。私には関係ないことだ)
彌広のアパートを訪れなくなって、一ヶ月以上経っていた。
彌広から何度か着信があったので、メールだけ入れたのは覚えている。
今まで使ってくれてありがとうとか、これからは新しい人と頑張って、とか、美鈴ぶっ殺したい、とか、これからも応援してる、とか。
まあなんか、そういう内容だった気がする。
彌広からはそれ以来連絡もなくて、傷むプリン胸を除けば、穏やかな日々だった。
無駄毛処理をしなくなってあちこちぼうぼうになった体を見て、彌広の絵が刺青みたいに傷として残ればよかったのに、と、何度も思ったけれど。そしてその度、美鈴が言った〝刺青女〟が頭に浮かんでむかむかした。
(彌広のあれは、化粧だ。纏っている間は別人でいられるけど、落としたら本来の自分に戻る。……戻らざるをえない)
それを望むか望まないかなんて本人の意思は無視して。
べっとりついていたあの赤い口紅も、その日のうちにクレンジングで綺麗さっぱり落ちてしまった。それが寂しくて寂しくて仕方ないなんて、まあそれが、失恋の醍醐味ってやつですよね。
「奈津、あんた休みだからっていつまで寝てるの」
台所に入ると、食器を洗っている母親から諌められた。
彌広のもとへ通わなくなった私は、その空いた時間をほぼ全て睡眠にあてるという、自堕落なのか健康的なのかわからない生活を送っていた。
「みっちゃんのモデルやめて寂しいのはわかるけど、ちょっとだらしないわよ」
みっちゃんとは彌広のことである。幼い頃から面倒を見たり見られたりなので、母にとっては彌広も息子のようなものなのかもしれない。
「……申し訳ござーません」
私は謝罪しつつ、トースターに食パンを突っ込んだ。
そういえば美鈴にパラサイトシングルって馬鹿にされたな。ヒトサマの家のあり方に口を出すとか何様だ。ミレーさまか?絵の具に溺れてくたばれ。
「そういえば、あんた知ってた?青山ホールで開催される予定だったみっちゃんの個展、中止になったみたいよ」
ガチャン。
冷蔵庫から取り出しかけていたマーガリンが、見事に私の右足を直撃した。
なんだって?
「なんでも、納得のいく作品が描けなくなったとかなんとか。画商の人も大変だったみたい。隣のみっちゃんのお母さんも、どうしたのかしらって困ってたわ」
母のそんな言葉を尻目に、私は自室に携帯電話を取りに向かった。
(……あのクソマネ、自信満々で彌広のことは任せろって言ってたくせに(言ってない)、役に立たなすぎでしょ)
アドレス帳から美鈴を呼び出して、呼吸を整えることもせず電話をかける。
(あんたが、彌広を支えてくれるって思ったから、だから私は――)
思い至って、私は呼び出し中だった電話を切った。
(美鈴に説明させても意味ない。彌広に、直接会いに行かなきゃ)
なにがあったの。
どうしたの。
あんたが今までたくさん悩んできたこと、知ってるよ。でも、いつだって乗り越えてきたでしょ。
(あんたが今まで死に物狂いで絵を描いてきたこと、私は知ってる)
だって一番近くで、見てたんだから。
「彌広」
錆びた蝶番を破壊する勢いで、私はボロアパートのドアを開けた。
彌広は、何故か上半身裸でうつ伏せになっていて、その周囲には私が最後に見たときと同じように、絵の具や筆、きらきらとした化粧品達が転がっている。よく見ると化粧品の格がグレードアップしていた。おい、シャネルの口紅どうする気だよ。くれ。
まさかその口紅で描いたのかと知りたくはないが、彌広の身体には、ところどころ色が塗ってあった。まるでらしくない、ばらばらで落ち着きのない、無秩序な色の散乱。
「彌広、寝てるの?」
声をかけても、彌広は動かなかった。
奥の窓は開け放たれていて、黄ばんだカーテンが波のように揺らぐ。少し肌寒い。
靴を脱いで、荒れた畳に足を踏み込む――ボディミルクの甘い香りは、しなかった。
「ちがうんだ」
蹴っ飛ばして起こそうか、と考えていると、俯いたまま彌広がぼそぼそと喋った。
なにが、と私が口にする前に、彌広は言葉を続ける。
「臍の形が違った」
「肩から胸への曲線が違った」
「絵を描くには脚と腕が細すぎて、絵がかわいそうだった」
「肌が柔らかすぎて、筆の乗せ方が難しかった」
「……色の乗りが妙に悪くて、どうしてだろうと思ったら、身体になんか塗ってた」
そこでようやく、新しいキャンバスのことを言っていることに気付いた。
「……あんた、その人のこと気に入ってたんじゃなかったの」
彌広の頭の傍でしゃがみこんで、こちらに向けられている旋毛に向かって話しかける。
ぺったりと垂れた髪の毛にも絵の具や口紅がついていてぼそぼそになっていた。
「ちがう。ミレーさんが勝手に連れてきたんだ。そろそろ新境地に入らないといけない。奈津ばかりじゃなくて、もっと複数の作品を同時に展示したほうがいいって」
彌広は私の気配に気付いていながら、顔を上げようとはしなかった。
「でも美鈴は、キャンバスが変わってあんたの筆の進みがよくなったって言ってたよ」
相性がよさそうだと、美鈴は単純に喜んでいるようだった。勿論、私を追い詰める意図もあったのかもしれないけど。
「奈津と違いすぎて、正直はやく終わらせたかった。初めて会った人となに話していいかわからないし、きれいな人だったし、裸だし」
いや、私も裸だったんですけど。
彌広の言葉に突っ込みたいところは多々あるが、つまり。
「要するに、興奮して作業に集中できなかったということでよろしいですか?」
「ちがう」
私の呆れたような声に、彌広は即答した。
「そうじゃない。俺だって、キャンバスを奈津がやらなくて済むなら、そっちのほうがよかったんだ。……だから頑張って、あの人で我慢しようとしたのに」
何度となく練習を重ねても、納得のいく作品が出来上がらなかったという。
だけど美鈴は、相変わらず素晴らしいね、と満足していたらしい。
「〝ね、誰がキャンバスでも変わらないでしょ〟、って言ったミレーさんの顔を、ぶん殴ってやりたくなった。全然違うのに。全然描けてないのに、どこ見てんだ、って。そうしているうちに、自分がなにを描きたいのかわからなくなってきて、気付いたら青山ホールの個展の締め切りが過ぎてた……」
これは俗に言うスランプというやつだろうか。
私は思わず、彌広の頭をよしよしと子供にするように撫でていた。
私が知らないところで、この幼馴染は相当なプレッシャーを感じていたのだ。
「奈津は奈津で、急にキスしてきたと思ったら来てくれなくなるし。相談したいことや話したいこと、聞いてほしいことがたくさんあったのに、なんか気まずくて、……情けないけど、俺、奈津の会社や家の前まで行ったのに、インターホンも押せなくて」
え、きたの?
驚いて、彌広を撫でていた手を引っ込めてしまった。
その手を追うように、彌広がむくりと起き上がる。
「……ねえ、奈津」
一ヶ月ぶりの彌広と視線が交わる。黒々とした大きな黒目が、私を見ていた。
(……なんか痩せたな)
見飽きるほど見ているはずの顔がなんだか新鮮に思えて、私は見とれながらそんなことを考えていた。
「俺はね、奈津をキャンバスにすること、本当はすごくすごく嫌だったんだ」
真っ直ぐ見つめられて言われると、結構傷付く。
思わず、ごめん、と言いそうになって。
「奈津をキャンバスにしたら、奈津の裸が他人の目に曝されることになる。俺の個展には下心を持ってやってくる男だっているのに、それがわかってて、奈津をキャンバスにしなきゃいけなかった俺の気持ちがわかる?本当はミレーさんにも見せたくないのに、仕事だからそうもいかない。そんな俺の気持ち、ねえ、奈津、わかってるの?」
全然わからない。なんだこの展開。
「奈津の裸を誰にも見せたくないのに、他の女の子に描きたいとは思わない。すっごく葛藤したんだ。悩んだんだ。絵を描きたい、でも、奈津をキャンバスにはしたくない。でも描きたい……そのうち訳がわからなくなってきて、奈津の裸も見れるし、奈津の体になら、きっといい絵が描けると思って、奈津の提案を飲んだ。結局俺は、どっちも選べなかったんだ。奈津も、絵も、どちらか一方を取ることなんかできなかった」
彌広の腹部には、あの日の口紅のような赤でなにかを描きなぐった跡があった。
それに注目していた私の頬を、彌広がさらうように引き寄せる。爪の隙間という隙間に絵の具が詰まっている十本の指が、私の両頬を固定した。
「ずっと昔から好きだった女の子の裸に絵を描いてた俺の気持ちが、わかる?」
鼻先がくっつきそうな距離で、彌広が囁く。
私はなにを言えばいいのかわからぬまま、何故か彌広の股間を凝視していた。
「だって、彌広、私がどんなポーズしても、全然勃たなかったじゃん……」
「俺が平然としてたと思うの?無我の境地で描いてたんだよ。俺だってインドでやった修行がここで役立つとは思ってもみなかった。それでもだめなら、センタータン噛んで痛みでやり過ごした。そのために開けたんだし」
インドの修行?センタータン?
「え、待って、なにこれ、どうなってるの?」
混乱してきた。
「混乱したままでいいから、聞いて、奈津」
いやだめでしょ。ちゃんと冷静になってから聞くから、時間ちょうだいよ。
「ねえ、奈津。お願い、戻ってきて」
戻ってきてもなにも、追い出されたのはむしろ私なのでは。
彌広の懇願に、私はどう反応すればいいのかわからない。
「……あのさ」
とりあえず、呼びかけてみる。
「うん」
彌広は律儀に、真っ直ぐ私と見つめ合ったまま、返事をした。
その凪いだ表情を見ていると、逆に恥ずかしくなってくる不思議。乳首も股間も恥毛も見られておきながら、まだ恥ずかしいとは。
「私も、彌広のこと、す、すす、好きなんだよ」
「知ってる。キスしてくれたから」
決死の告白にあっさりと返されて、私の脳内火山は噴火寸前である。
「だ、だってあの時、彌広逃げたじゃん……」
そうだ、あの時、少しでもきちんと話し合っていれば、こうはならなかった気がする。
私が責めると、彌広は拗ねたように唇を引き結んだ。
「好きな女に裸で馬乗りされてキスされたら……俺、逃げるしかないじゃん」
逃げるなよ、とは突っ込めなかった。
私が彌広の立場だったら、やっぱり逃げてしまっていたかもしれない。キスで股間が反応したということは、無我の境地も宇宙の彼方に吹き飛んでしまっていたわけだ。
「でも、逃げなくていいっていうなら、もう、逃げないけど」
そう言って、彌広の目が妖しく光る。
え、と声を上げる前に、私は畳の上に押し倒されていた。
小汚い板張りの天井に、埃の被った蛍光灯。少し影になった、彌広の顔。
「……あの、ここんとこ油断しまくってて、無駄毛ボーボーなんです」
「うん?じゃあ一緒にお風呂入る?気になるなら剃ってあげる」
「え、いや、あの」
「でも、ちょっと待って」
言って、彌広はそこらに転がっていた口紅を無造作に手に掴んだ。
潰れた先端、ロゴの消えた青いケース。
(あ、あのときの)
できればシャネルがよかった……と、思う間もなく、彌広の手が私の服をひっぺがした。
薄手のシャツを遠慮なしに脱がして、さらにはブラまで外そうとする。外そうとして、失敗して、何度か繰り返して、やっとホックが外れた。
「……慣れてないんだね」
「……そこ突っ込むなよ」
「あっちで、金髪の美人とやりまくってんのかと思ってた」
「期待を裏切って悪いけど、俺まだ童貞なんですよね」
「は!?」
「奈津もでしょ?俺が童貞なのに、奈津が非処女なわけがない」
それはどこの理屈だ?
(ていうか、童貞があの状態で反応しないって……インド、なんて恐ろしい国)
上半身だけ裸になった私に、彌広は馬乗りになった。
心臓がとくとくと脈打っている左乳房の下。その位置を確かめるように手で撫でて、持っていた口紅をぬるぬる動かし始める。私の体温と皮膚との摩擦で、徐々に口紅がとろりと溶けていくような柔らかさになった。
(……いや、溶けるは言い過ぎた。寧ろ溶けそうなのは、私の心臓のほうだ)
彌広は私の心臓の上に、一心不乱になにかを描いている。
気付いたときには持っていた口紅が筆になり、たまにチークになったりした。その色はマットな赤からヌーディーカラーになり、グリーンのカラーマスカラが出てきたかと思えば、けぶるようなオレンジになったりする。
「奈津が俺にキスしてきたときの赤い口紅が、頭から離れなくて」
自分の体に試し描きして、これじゃない、あれでもない、ちがう、ちがう、やっぱり奈津じゃないとだめだ、という結論に至ったらしい。なんだそれ恥ずかしいな。
(なに描いてんだろ)
彌広はやっぱりむき出しの乳房には視線すらさ迷わさず、ただ無心に手を動かしている。
けれどその視線は、今まで見たこともないくらい熱っぽくて、どこか焦っているようだった。
はやく、はやく、はやく――。
(早く描き終わってよ、彌広)
そして確認しよう。お互いのこと、お互いの想い、お互いの体、お互いの色。
やがて彌広がふうと息を吐いて、無言で私を立つよう促した。
私を立ち上がらせておきながら、彌広は窺うように座り込んで私を見上げている。
「……心臓?」
首を傾けて自分の左乳房の下を見ると、心臓が描いてあった。まるでそこだけ皮膚が透けて、本物の心臓が覗いているような錯覚に陥るほど、リアルだ。
「うん。頂戴」
さくっと答えると、彌広は猫がする背伸びのようにしなやかな動きで膝立ちになった。
そうして私のむき出しの腰に手を回したかと思うと、大口開けてその心臓に喰らいつく。
(う、わ)
ど、と勢いに押されて、壁紙がやぶれた壁に押し付けられる。逃げ場がなくなったことをいいことに、彌広は更に体重をかけてきた。
(あれ、デジャブ……)
一ヶ月前にも、これの逆バージョンをやった気がする。
彌広の舌が私の体に描かれた心臓をべろべろ舐めて、溶けた口紅がついた歯でがぶがぶ噛んで、文字通り、〝ちょうだい〟している。
くすぐったいのに、猛烈にきもちいい。
彌広が私の〝心臓〟を食べ終わる頃には、私は首を仰け反らせて感じまくっていた。
顔を上げた彌広の口周りは、食人鬼もかくや、という状態になっている。様々な色が混じった赤い汚れが、彌広の顔を妙にだらしなく見せている。けれどそのだらしなさが、異様にいやらしい。
(あんたも化粧したみたい)
そうして私は、その赤い化粧に吸い寄せられるようにして、彌広の唇に喰らいついた。
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「あ」
「げ」
錆びた蝶番が鳴ったかと思ったら、狭い玄関口に美鈴が立っていた。
一ヶ月以上前と同じ声を上げたが、今度は吐いた言葉が逆だ。
「あ」が私で、「げ」が美鈴。
美鈴は気まずそうに視線を逸らすと、持っていたビニール袋をそっと床に下ろした。そうしてそろそろと部屋に上がってくると、部屋の端で正座する。そのまま土下座してくれるかと思ったが、そこまではさすがにしてくれなかった。
裸のままうつ伏せで横になっている私は、ただ視線だけを美鈴に向ける。美鈴からだと、私の背中と尻しか見えない。とはいえ、今は蔦が絡んだレンガの絵が描いてあるので、逃げ出すほどの羞恥心はない。一ヶ月休業していたとはいえ、私は彌広のキャンバス。慣れっこである。ちなみに彌広は風呂に行った。
「……どうして、ここにいるんですか、あんた」
美鈴が視線を逸らしながら、かたい声で言う。
「見てわかりませんか。キャンバスやってるんですけど」
いつもなら、私の体の絵を無遠慮に見つめてくる目がない。どうした、殊勝だな。
私の言葉に、美鈴は膝に置いた拳にぎゅっと力を込めた。そうしてやはり視線を落としたまま、拗ねたように続ける。
「……彌広は、やっぱりあんたを選んだんですね」
「やっぱりって?」
「……奈津さんは危険だ」
はあ?
とりあえず、今この状態で自由になるのは顔だけなので、首を上げて美鈴を睨んでみる。
「知らないんですか?彌広の絵は、あんたに左右されるんですよ。なにが作用しているか知りませんけど、あんたの様子がおかしいと彌広の画風も微妙に変わる。あんたの体調や気持ちを、彌広は敏感に感じ取ってそれがそのまま筆に出る。俺はそれが怖かった。あんたみたいな執念の塊みたいな女が、彌広に必要とされていると自覚したら、一体どういう態度に出るか想像したくもなかった。それが彌広に良かれ悪かれ影響を及ぼすのは、目に見えているから」
お前の中で私は一体どんな悪女なんだ。
あまりの言いように、腹が立つというより呆れるばかりだ。
「だからあんたを早く引き離したかったんだ。あんたが彌広に脈のない片思いをしているうちに。彌広があんたに片思いしていると思い込んでいるうちに」
で、満を持してそれを実行したら見事に失敗したと。
「あんたがここに来なくなっても、彌広は絵を描き続けたよ。相変わらずいい絵を、新しいキャンバス相手に描き続けた。それなのに、急に、もう描きたくないと言い出して」
美鈴の拳は、今にもぱーんと破裂しそうなほどの力が込められている。敏腕マネージャーとして、彌広の一ファンとして、描くことをやめてしまった彌広を見るのは辛かっただろう。大きな個展も目の前に迫っていたのだから、その焦燥やいかばかりか。いや、自業自得だけどな。
「くそ……彌広は、もっともっと上に行けるはずだったのに」
おいおいちょっと待て。なんなのこの人、超ネガティブになってません?
「彌広さん、あんたのクソマネがこんなこと言ってますけど」
丁度風呂から出てきた彌広を見ると、肩を竦めて苦笑していた。いやそれはいいけど、パンツくらい履いてこいよ。
「個展逃してからずっとこんな調子なんだよね。俺のこともっと過大評価してると思ってたのに、青山ホールくらいでお通夜モードになってさ」
「だよねえ。世界の彌広画伯が、青山ホールくらいでついた傷を取り戻せないと思ってるんですかねえ、そこのクソマネは」
彌広と一緒にここぞとばかりに美鈴を攻撃してみる。
すみません青山ホールさん、青山ホールくらいで、とかぬかしてすみません。本当は私達、あなたを逃してめっちゃ後悔してます。
美鈴は私と彌広に責められて、今にも泣きそうになっている。サドは打たれ弱いってほんとなんだな。
「偉そうに奈津を追い出したときの気迫はどこいっちゃったの?償うつもりで精一杯頑張ってよ、ミレーさん」
「そうだよクソマネ。あんた私を哀れんでる必要なくなったんだから、その空いた時間使ってさっさと次の仕事とってこいよ」
私が言い終わらないうちに、美鈴は勢いよく立ち上がった。彌広を押しのけて玄関に歩いていく。
「……次の個展で、お前達の関係を公表してやる。その話題と世間の度肝を抜く新作で立て直しする。奈津さん、あんたの名前もそのうち発表してやるから、覚悟しとけよ」
肩越しに私を睨みつけて美鈴は部屋を出て行ってしまった。
美鈴が置いていったコンビニの袋からは、彌広の好きなプリンが覗いている。
「……いいの、奈津」
素っ裸の彌広が、真剣な声で私に尋ねた。
「……俺はすっごくいやなんだけど」
しかし私の返答を聞かず、不機嫌そうに呟く。
「なんで?」
「今までとは違って、〝奈津の裸〟として見られるだろ」
「今更じゃん……」
起き上がって、彌広の傍に寄った。眉間に皺が刻まれている。
「奈津は男心がわかってない」
わかってないのはあんたもよ。
私は転がっていたあの青いケースの口紅を掴んで、彌広の胸にハートマークを描いた。
彌広のようにリアルな心臓が描ければよかったのだが、生憎私に絵心はない。
「正体ばらすくらいであんたの傍にいられるなら、安いもんだよ」
そうして描きあげたいびつな心臓に、私はそっと歯を立てた。