佳人薄命
ハッピーエンドではありません。
死にネタが嫌いな方は閲覧をお控え下さいませ。
「――お先に」
終業時刻。
普段から想像もつかないような無表情で、男が席を立つ。
「お疲れ様です」
掛けられる声に応えることもせず職員室を出て行く背中を見送って、汀は首を傾げた。
「……なあ、最近の先輩、明らかに変だよな?」
初任時代から男に面倒を見て貰ってきた汀の恋人は、うんと頷くと。
「俺も本当のところは判らないけど、前に訊いたことがある。先輩、前に仲の良かった同僚を病気で亡くしているんだって。命日が近くなると様子がおかしい、っていうのも、毎年同じ時期にってことを考えると……本当のことなのかもね」
子どもに向けている顔が普段と変わらないのが凄いよ、と、男が出て行った扉を見つめて溜息をついた。
**
「――ッ」
仕事中に突然、誠が倒れた。
職員室にそれを告げに来たパニックを起こしかけている子どもを宥めつつ、俺は急いで保健室に連絡を入れた。
養護教諭から救急車を呼ぶようにとの伝言を教頭に伝えると、俺は子どもと共にあいつの教室に向かった。
「保科先生ッ!?」
ぐったりと床に横たわる姿に、目の前が暗くなった。
最近、妙に体重が落ちたと云っていた。
本人も、そして俺もさして気にしてはいなかったのだが。
「旭井先生!」
子どもの声で、はっと我に返る。
「保科先生」
あいつの脇に跪き、耳元で呼びかける。
……反応は、ない。
首筋で脈を取り呼吸の有無を確かめ、心肺機能の低下がないことに安堵し、それでも念の為気道確保をしつつ救急車の到着を待った。
下された診断は、急性白血病。骨髄移植しか助かる道はない。そしてそれも、絶対ではない。
すぐ検査を受けたが、俺はともかくとして確率が比較的高いとされる身内とも型が合わず、誠はドナーが現れるのを待つことになった。
仕事は休職、代わりが見つかるまでは職員総出でクラスのフォローをし、職場では誠が居ない風景が当たり前になるくらい時間が流れた。
「異動、ですか……」
同じ職場に勤務できる年数には制限がある。初任校での制限は2校目からより短く、気がつけば残り僅かとなっていた。
どうするのかと訊く同僚や管理職に、俺は決まってこう答えた。
「あいつが戻るまで、俺は此処に居ます」
病魔と闘う、面窶れた顔ではなく。
敢えて、自分と肩を並べて歩いていた頃の姿を思い描きながら。
信じていた。
誠が病に打ち克ち、職場に――俺のところに戻ってくると。
その日、職場に入った連絡に、俺の世界は真っ黒に塗り潰された。
「……」
ひたすら、降り続く雨。
「どう、して……」
傘を差している意味が無い程、ぐらつく腕の所為で喪服はぐっしょりと濡れそぼつ。
こんな別れ方など、したくはなかった――
「結婚するんだって?」
「はい」
控えめな笑顔で祝いの言葉を受けつつ、思うのは誠のこと。
『2番目でいいから』
貴方に忘れられない人が居るのは知っている。それでもいいのだと。
本気なのかは判らないがそう云って、しつこくしつこく迫ってくる相手に根負けする形で、俺は同じ職場の同僚と籍を入れた。
けれど、心だけは、永遠に誠のものだ。
妻となった人から妊娠を告げられたとき、口が勝手に動いていた。
「名前は『まこと』な。男でも女でも」
愛する者の名前をつけたら、生まれてくる子どものことを心から愛せる気がして。
生まれてきたのは娘だったので、『真琴』と名付けた。
素直に可愛いと思える自分に、何より安堵する。仕事柄、育児放棄された子どもも数多く見てきた。子どもがどんなに辛い思いをするかはよく判っていたから。
――それでも。あれから十年以上の月日が流れても。
誠の命日が近づくと不安定になる自分を抑えることが出来ない。
子どもの前では何一つ変わらない態度でいられるのは、仕事中はスイッチが入っているからだ。子どもが帰った途端にオフになるそのスイッチは、普段より多くのものを俺から削ぎ落としていく。
川端と久瀬が心配そうにしているのも判っているが、気を回す余裕は今の俺には無い。
もう何年も繰り返してきたことだから、妻はある意味慣れたもので。自分も真琴も寄りつかせずに、ただただ放っておいてくれる。
「誠……」
幾度となく抱きしめられた腕の強さも、肌の匂いも。
『孝史』
耳元で名前を囁く声も。
忘れまいと思っていたのに、俺の躰からそれらは徐々に喪われていく。
墓石の前で立ち竦む俺は、あの日のようにずぶ濡れだ。此処に来るときはいつも雨が降っている。
これだけ濡れてしまえば涙も紛れてしまうだろ? と、誠が苦笑しているような気がしてならない。
俺は誠の『お迎え』を、心の底から待ち望んでいる。
ちょこっとだけ実話。
佳人薄命という言葉を噛み締めたあの日のことを時折思い出します。