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世界にたったひとつだけ  作者: 猫依颯
蛇足たち
5/21

月と富士山

蛇足そのいち。翌日の風景。

「行ってきます」

 寝ている恋人を置いて、休日出勤。

 声を掛けたら自分も出ると云うだろうが、置いていく。……昨夜は無理をさせすぎた。

 離れていた時間を取り戻すように、俺はこいつに溺れ、こいつはそれを赦してくれる。

 それがどんなに幸せなことなのかは、離れていたからこそ、余計に身に沁みた。

 吐き出した息が白く煙る。その向こうに、真っ白な残り月と並んで、積雪が朝焼けに染まる富士。

 富士山なんて、こっちに戻ってきてから毎日のように見ていた筈なのに――美しいものを素直に「美しい」と感じ取れるのは、俺の心が満たされているから、なんだろう。


 職員玄関を開けて中に入る。……なくなっていた仕組みが戻って、土曜なら面倒なアラーム解除をしないで済むようになったのは本当に助かった。事務室に軽く挨拶してから職員室へ向かうと、同じ目的の同僚が数人、仕事と格闘していた。

 ……先輩の姿はない。まあ、あれだけ呑めば潰れていても可笑しくはないだろう。俺もそうなんだが、激しい運動をしてたっぷり汗をかいたからか、出がけに処理した空き缶空き瓶の量を考えたら信じられないくらいスッキリしている。

 さて、仕事だ。昨今は色々あるから周囲の目が厳しく、容易に仕事を持ち帰れなくなった。まあ此方としても大量のノートやプリントを持ち帰って自宅で片付け、それをまた職場に持っていくのはしんどくもあるけれど、勤務時間なんてあって無きが如くというのはどうなのかとは思う。

 書き置きは残してきたけれど、この手に取り戻したばかりの恋人をそう長いこと独りにしたくはない。急を要するものを精選して片付けなければ。

 商売道具の赤ペンと、名簿。漢字テストのチェックは時間も精神もごりごり削られるが、月曜に返したいのはなんといってもこいつだ。


 玄関扉には、出掛けたときと同じように鍵が掛かっていた。書き置きと共に合鍵も置いたから、あいつが自宅に帰っている可能性もある。

 ドアを開け、三和土に靴が置いたままになっているのを見て、ふっと心が温かくなった。

「ただいま」

 リビングのソファーに座る背中に声を掛けると、振り返って「おかえり」と返してくれる。

「職場行くんなら声かけてくれりゃいいのに……」

「昨夜無理させたからな。呑みに出るくらいだから、きっと急ぎの仕事は無いんだろうと思って」

 上着と鞄をソファーに置くと、俺は腕まくりをしてキッチンに向かった。

「昼飯、食ってけよ。朝から何も食べてないだろ?」

「作れるのか?」

「独り暮らしを舐めるなよ?」

 ああ、そういえば……と頷いて、ソファに浮かせかけていた腰を下ろす。その緩慢な動作に、残るダメージの大きさを垣間見て昨夜の自分をちょっと反省した。次からは気をつけよう、うん。


「なあ、昨日『覚えてる』って云っただろ? 俺には全く心当たり無いんだけど、何のことだ?」

 食事を終え、まったり珈琲を飲んでいると、昨日の小さな遣り取りを思い出したらしい恋人に訊かれた。

「ん、単純な話だよ。お前、うちのソファのそこ、定位置だったよなって」

 今まさに座っている場所。昔から、遊びに来る度最初に腰を落ち着けるのはそこだった。

「そうだっけ?」

 首を傾げている。無意識なんだろうな。

「そうだよ。だから安心したんだ。無意識の行動が出るくらい、お前の中にも俺の居場所が残ってるんだなって」

 隣に座る、その距離を少し詰めて抱き寄せる。

「……帰ってきたんだな、俺。こっちに」

 一度は失った温もりを、この腕の中に取り戻せた。

「そういえばまだ云ってなかったな。……おかえり」

「……ん、ただいま」

 やべえ。俺、泣きそう。

もうひとつ、短いものを書いたらこの話は終了です。

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