後編
「ほら、入れよ」
「お邪魔します……」
何年ぶりだろう。男に続いて、家の中に足を踏み入れる。手を入れる暇もないのか、散らかっているという訳ではないけれど荒れた雰囲気の室内。
「そっち座ってろ。適当に持っていくから」
「ああ……」
リビングのソファー、昔と変わらないそれに腰を下ろし、改めて周囲を見回す。仕事道具が置いてあることから、男が此処で暮らしていることが判った。……そういや年度初めに住所録が配られたけれど、連絡網と違ってバインダーに綴じてそれっきりだ。連絡網ですら、学年の部分しか記憶していない。
「お待たせ、……」
戻ってきた男が、少し驚いた顔をしている。
「?」
「ん、なんでもないさ。覚えてるもんだなと思っただけ。それより、ほら」
向かいに座った男に、地ビールの瓶を押しつけられる。覚えているとは何のことだろうと少し気にはなったが、喉を滑り落ちていくアルコールごと呑み込んだ。
明日が休みで良かった。だいぶ酔いが回った頭でぼんやり思う。
家中からありったけかき集めてきたような、ローテーブル上の酒、酒、酒。その殆どが空という状況を作り出したのは間違いなく自分も含まれるのだけれど。
会話もないまま、ただ酒を口にする。気づけば真っ赤な顔をした男が、隣に座っていた。昔のような近い距離にも、酔いの所為か動揺することはない。
「……なあ、あの先輩とお前って、どういう関係?」
唐突に男が口を開いた。酒に強い筈のこいつには珍しく、強かに酔ってとろんとしながらも据わった目が、真っ直ぐに自分を見つめてくる。
「関係も何も……初任のときに同じ学年だったから、それから何くれとなく面倒見てくれているだけだよ」
「本当にそれだけか?」
「それだけだよ。他に何があるってんだ。そもそも先輩は既婚者だろうが……」
机上に妻子の写真を飾っていることで有名な人だ。
「や……お前との距離がいつも近いからさ」
「は?」
思わず男の顔を見た。声音同様、拗ねた表情の男が呟く。羨ましいんだよ、と。
「だって俺の場所だろ? お前の一番近くはさ……」
「――いつの話だよ、それ」
意識して、冷めた声音を作った。それを誤魔化すようにアルコールを呷る。喉を灼く熱。味なんてもう、判らない。
「そうだよな。俺が気づかなかっただけで、お前って結構ドライだもんな。あの電話のときも、俺を切り捨てるのに何の躊躇いもなかったくらいに」
「……電話? 何のことだ?」
心当たりが全くない。
「何のことって……俺たちが別れたのって、お前があっさり俺を捨てたからだろうが」
男が恨めしげに見つめてくる。
「何だよそれ……俺はそんなことしてない」
捨てられたのはこっちだろう?
「覚えてないのか? 薄情だな……俺がもう終わりにしようって云ったら『判った。じゃあな』ってあっさり切りやがった癖に」
「――」
酔いが一気に醒めていく。
「おい、どうした……?」
顔色が変わったことに気づいたのだろう。男が心配そうに声を掛けてくるが、それに反応する余裕は無い。だって。
「俺は、お前に『もう終わりにしよう』って云われてからの記憶がない。気がついたら携帯を握りしめて座り込んでいた……」
「え……?」
「大学に進学して、環境が一変して。辛いことも哀しいこともたくさんあるのに、でもお前は傍に居なくて。寂しくてどうしようもなかったときにお前から電話が掛かってきて。やっと声が聞けたと思ったら――頭の中が真っ白になった」
今でも、思い出すと切なくなる。普段なら我慢出来るのに、どういう訳だか次から次へと涙が零れ落ちた。
「お、おい……?」
珍しく狼狽えた男の声がする。でも言葉が、暴走した感情が自分の中からどんどん溢れて止まらない。
「必死で忘れようとした。遊びで付き合ったり、本気で相手を探そうとしたり――でも駄目だった。だからお前ごと、誰かを想う気持ちを殺して生きてきたのに、どうしてお前はまた俺の前に現れたんだよ……ッ!」
メールくらいなら、まだなんとかなった。文字媒体なら「友人の振り」も辛うじてこなせた。
それなのに、男は再び自分の前に現れた。職場が同じだったのは偶然かも知れないが、それならただの同僚として放って置いてくれればいいのに、何かにつけて嫉妬めいた行動に出る。
――そう、実は今日が初めてではない。同僚と親しくしていると、必ずといっていい程この男はそうと気取られない態度で間に入ってきた。
その声に、表情に。巧妙に隠された嫉妬心を感じる度、自分がどれだけ心乱されてきたか。
「頼むからもう放っといてくれ……!」
「――嫌だね」
低い呟き。叫んで小さく縮こまった躰を、何かあたたかなものが包んだ。
懐かしい匂いに、それが男の腕だと気づく。抱き寄せられているのだと。
「俺はこの為に帰ってきたんだ、こっちに。お前の傍に居るために」
「……」
耳から入ってくる言葉が到底現実とは思えず、頭が働かない。
「もしお前に新しい相手が居るようだったら諦めようと思ってたさ。まあ隙あらば奪ってやる気満々だったけど」
こっち向け、と顎に手が掛かる。目ェ開けてちゃんと俺を見ろ、と触れてくる指に促され、ぎゅっと閉じていた瞼を開くと、いつか見たのと同じ笑顔が、其処にあった。
「でも4月にお前見て直ぐ判ったよ。――お前、まだ俺のこと好きだろう?」
「……好きじゃない」
心とは裏腹な言葉が口をついて出る。そうか、と笑って、男は。
「でも俺は、お前のことが好きだよ。あの頃より、もっと、ずっと」
泣かせてごめん、と目許に触れた唇に、涙腺は再び決壊した。
「両親が死んで暫く、抜け殻みたいになってた。仕事はするけど、誰も彼もが透明な膜一枚隔てたところにあるような」
耳だけでなく、触れ合っている裸の胸から直接響いてくる声に、そっと目を閉じる。
「何にもなくなっちまったと思ったとき、気がついたんだ。たったひとつだけ、心ん中に残っているものがあるって」
お前だよ、と優しく囁いて。
「なんでお前が俺の傍に居ないんだろうって思った。お前が居たら、何にも云わずにただ寄り添っていてくれんのにって」
うん、と小さく頷くと、大きな掌が髪を撫でた。
「思い知ったよ。疾うの昔に手放したつもりでいたのに、結局忘れることなんて出来なかったんだって。それからはもう、こっちに戻る為の準備と勉強の日々さ」
3年掛かっちまったけどな、と苦笑して。
「他には何も要らないとは云わないけど、世界にたったひとつだけ、絶対に譲れないものはお前だよ」
もう絶対に手放してなんかやらないからな、という囁きに、望むところだと口づけで返した。
――だって、自分は。この男さえ傍に居てくれるのなら、他には何も要らないんだから。
4話構成にしようかな、と頭の端をちらりと掠めるものもあったが、長さのバランスは気にしないことにした。最後が蛇足かな……
此処までお付き合いいただき有難うございました。