中編
嫌がってなんて、いなかった。
一度触れ合ってしまったら、男から離れられなくなりそうな自分が怖かっただけで。
人の気持ちを見抜くのが得意な男は、そういえばたった一度しか自分の心を読んではくれなかった。
――お前、俺に惚れてるだろ。
なら両想いだな、とからりと笑う男を前に、あのときはただ絶句したけれど。
数年振りに、男の存在を傍近くに感じる日々。ただ以前と違うのは、常に傍らにある訳ではないこと。その分、気配を探る癖がついてしまった。
言葉を交わすことすらない日もあるが、縁の切れた自分たちにはそれも似合いだろう。
ただの同僚、それだけだ。
――そう思っているのは自分だけだったと、思いがけなく知ったけれど。
17時。終業時刻だ。
「よし、行くか」
「はい」
先輩に促され、席を立つ。机上整理はもう済んでいた。
「お先に失礼します」と周囲に声を投げつつ職員室を出ようとしたとき。
「――どこ行くんすか?」
明るく響くが、付き合いの長い身としては不機嫌だと判る声で、男が先輩を呼び止めた。
「ん? ああ、ひとつ大きな行事も終わったし、ふたりで飲みに行こうかって話になってな。なんならお前も来るか? 考えたらあんまゆっくり話したことなかっただろ」
(え……)
不機嫌さに全く気づきもしない様子で先輩が誘う。
「いいんスか? じゃあお言葉に甘えて……」
男は手早く机上を片付けると、先輩と並んでさっさと職員室を出て行った。
「何してんだ、置いてくぞ?」
「え? ああ、今行く」
更衣室のドアに手を掛けた男に急かされる。なんでお前が仕切ってんだよと思いながら、手にしていた上着を羽織った。
大いに盛り上がるふたりと、それを眺める自分。
本来なら、自分が先輩と憂さ晴らしをしていた筈なのに。これではストレス解消どころか、溜まる一方だ。
2時間後。
見事に出来上がった先輩が二次会に行きたがるのをどうにか宥めてタクシーに押し込み、愛妻と愛娘の待つ家へと送り届けて。
去っていくタクシーを見送ってひとつ溜息をついたとき、横から聞こえた欠伸に、自分がひとりではないことを思い出した。アルコールは少なからず判断力を奪っていたようだ。
「じ、じゃあ俺たちも帰るか。また来週な」
明後日の方向を向いたまま早口で別れを告げ歩き始めると、
「ちょっと待てって。どうせ同じ方面に帰るんだから一緒で良いだろ」
男に腕を掴まれ引き留められた。
振り返った自分の顔を見て、男は一瞬表情を変えたけれど、それを苦笑に隠して「行くぞ」と腕を引いた。
タクシーの運転手に男が告げた住所は、自分の家から少し離れた男の家のもの。
「まだ実家に居んだろ? ならもう少し付き合えよ」
「でも親御さんに迷惑だろ、こんな時間じゃ……」
「ああ……知らなかったのか。一昨年どっちも逝っちまったよ」
「え……」
一昨年。仕事で色々あって右往左往してばかりだったから、殆ど記憶がない。そういえば両親が近所の葬儀に出たような、くらいのものだ。
「ごめん、気がつかなくて。大変だっただろうに……」
「ん? ああ、気にするな。親父は突然だったけど、お袋については覚悟の上だったし」
云われて思い出す。豪快なオヤジさんと、繊細という言葉が服を着て歩いているようなお袋さん。こいつは一体どっちに似たのかなんて、云わなくても判るような親子だった。
会話が途切れる。うっかり断ることも出来ないまま、タクシーは深夜の住宅街を走り抜け、自分たちを目的地に運んだ。