3章 鳥瞰
‘パンがなくなりませんように。’
恵みたる神への日々の祈り。
ぬめりこむように、空を飛ぶイリヤの背中で銀毛に埋もれる。風の音は遠い。ふしぎと巨獣人は翼の空気を切る音がしないのだ。下界は靄のなかイから朝陽のキラキラとした網に掬い上げられ、そこだけ金細工のように際立っている。
ゆうべ夜を明かした洞窟は彼方、靄の上に白く連なる山並みのどこかの麓の辺りだろう。リンドゥが行き倒れていた原野からは、山らしきものは360度見当たらなかった。どのように救出されたのか。巨獣人は元来が寡黙でイリヤもそのようだったから、リンドゥから尋ねない限り知ることはできない。おそらくは原野から洞窟まで今のようにイリヤがリンドゥを背中に乗せ運んだのだろう。だが今のリンドゥにはそういったことより、心を奪われたいことが眼前に広がり始めていて。
「ブルー・スカイ…。」
きらきらと朝陽が活きづいて、折り畳まれていた空の明色を徐々に伸ばし始める。風景に沁込んでゆく、絵の具の輝き。
「おゝ、我がエストニアの大地よ。」
思わず、祈りを捧げる。神々への祈り。それは、紛れもなく人間の祈りだ。
俯瞰すれば…、美しさに震える。
彼方までずっとトウヒやモミの森が広がる。溌剌とした森の女神マイリーキーの滋養が美しい樹冠を育み、巨樹の隙間には稚樹たちの光への憧れが伸び上がっている。マイリーキーの夫タピオは武骨だけれど心優しく働き者の森の神だ。針葉樹林だけでなく、カエデやシラカバなど広葉樹林の天然更新も彼ら夫婦の神業だ。彼らの娘トゥーリッキは動物たちを司る活発な女神で、息子ニューリッキは敏捷な狩猟の神、姉弟して種の多様性に絶えず気を配っている。
切り開かれた牧草地では、巨人カレヴァン・ポイカの大鎌がびゅんびゅんと呻りを上げ収穫をしたことだろう。今は静かに冬の色に埋もれている。やがて大いなる穀倉地帯の上空だ。瞼を閉じれば、黄金色の豊かなうねりが夏の風景画を織りつづく。大麦、小麦、ライ麦。農作物の神ペッコは今頃じっくり麦芽酒の醸造樽を聴診しているに違いない。収穫の神ペッレルヴァはエストニアの人々が伝統として行う食前の祈り‘パンがなくなりませんように’を穏やかな日焼け顔で聞いているだろう。
光り輝く、あれは…内海だ。イワシやニシンなど、魚好きなエストニアの人々の食卓にはここで水揚げされた魚が上がる。豪胆なアハティは深海の神で、漁猟の守護を司っている。妻のヴェッラモは海と嵐の女神で、美しい七色の髪を靡かせ船人たちを魅了する。
「お優しい~♪、森の女神様マイリーキさま~♪。」
囁くようにくちづさむ。神を大らかに讃える歌。子どもの頃に人間である祖父に教わった。森に住む祖父はこの歌がお気に入りだった。
エストニアの神々は自然神である。八百万の神‥人々の生活の其処彼処に神々の息吹。家にも、庭にも、井戸にも、サウナにも、各々息衝く神がいて人々は恙無く過ごせるようにと祈りを捧げる。風/雨/嵐/雷、時に脅威となる自然には、空にも海にも陸にも大いなる神々が居て、人智を超える力を説明してくれる。脅威ではなく驚異である場合にも。夏の星空に煌く天の川、北の夜空に躍動するオーロラ、それを仰視する人々に神話という浪漫が語りかけてくれる。神話はエストニアの人々にとり、科学であり技術であり、知恵であり知識であり、浪漫であり‥日々の暮らしなのだ。それ故、素朴な‘歌’として日常くちずさまれるのだ。
「間もなく、王宮ですよ。父上も母上も心配されておいでです。」
そう言うと、イリヤは身が細切れしそうな烈しい雷雲の只中に頭から突っ込んだ。上昇気流に乗る。イリヤにしても、こんな物騒でまどろっこしいルートは御免こうむりたいのだが、リンドゥの衰弱した身体の状態を考慮すればいつもの異時空のトンネルは使えなかった。ぐるり180度頚を回転させ、背中に乗せている虚弱でおてんばなお姫さまの様子を確かめる。銀毛に包まれ屈託なく眠っているリンドゥ。あどけなさは星屑の光だけほしがる純真さだ。
子どもの頃、リンドゥが樅の木のてっぺんで金色の羽を広げたまま眠りこけていたことがある。たまたま通りかかったイリヤがそっと抱き下ろし、あとでリンドゥに訳を尋ねると、星の光を集めていたの、と言う。それなら小さな発光体の星屑を採ってきてプレゼントしようとイリヤが言うと、星屑を仲間から離すのは可哀想だから光だけでいいと。第一、瞳の中には星屑は入らないと。
イリヤは考える。エストニアのどの妖精に訊いたって、星の光を瞳の中に集めるなんてことは言わない。お得意の魔法をぷいぷい使って、星の光を‘キラメキの籠’に採集するだろう。リンドゥにその力がないわけでも使い方がわからないわけでもない。たまたま強く発現した人間の形質。ゆえに、そんな時リンドゥの心は人間の少女なのである。ファンタジアに属する者たちにとって魔法は利用可能なテクノロジーだ。手順や用法や決まり事が面倒なだけで。だが、人間にとって魔法は‘夢みるオルゴール’だ。蓋を開けたときだけファンタジアという夢が微笑み、その中に咲く美しい音色の花。潤やかな感性というネジを巻かなければ見ることも聴くことも感じ取ることはできない。リンドゥは樅の木のてっぺんで‘夢みるオルゴール’の蓋を開けその美しい音色に身を預けていたのだろう。
「リンドゥ‥」
王女さまの妖精は、夢の中で愛しい婚約者に再会したのだろうか。薔薇いろの微笑みが漏れる。
雷雲のなかを急上昇するイリヤ。頚を半回転させ、ぐいと顔を進行方向に向き直す。ここを抜ければ…。