クロスロード
「柳沢ーちょっと部長んとこ付き合え」
「あ、はい」
3月も終わりのこと。
年度末までもう少しでじわじわと焦りだしている課内。
みんなだんだんと残業が増えていた。例に漏れず、俺も。
体調だけは崩さないようにしないと。この時期、めっぽう免疫力が落ちているから。
25にもなるとガタがくるよな~なんて同期の奴らと話していたばかりだった。
定時近くなって課長に呼ばれ、立ち上がりながらやりかけの書類をパパッと揃えて机の端に置く。
そのときにはすでに課長は入り口のところで俺を待っていて、少し慌てた。
でも何だろ、わざわざ連れ立って部長のところに出向くなんて。
こんな風に残業はしても、今期うちの課の業績は落ち着いてる。むしろ微妙にではあるが伸びてもいるくらいだ。だから部長に怒鳴られるなんてことはない……と思うんだけど。
「柳沢は海外とか行ったことあるのか?」
エレベーターに乗って俺が18階のボタンを押したところで課長が突然そんなことを言った。
「は、はぁ……。ハワイに、一度だけ」
「ハワイか。良かったか?」
「……ええ、まぁ」
良かったかと訊かれるとつらい。
何せ俺はハワイ滞在の3日間、例の如くめぐに振り回されていたんだから。
高校時代家族で行ったハワイ旅行は3泊5日。
初日から女性陣は買い物、男性陣は(と言っても俺の父さん、めぐんちのおじさん、俺の3人だけなんだけどさ)町中を散策していた。そしたら別行動を取り始めてたった2時間で姉貴から命令。
「めぐちゃんはぐれちゃったからあんた捜しに行って来い!」
それで俺は初めて来たハワイを片言の英語と供に駆けずり回った。
めぐは店頭で見た大きな犬を追いかけて店から結構離れた公園にいた。
翌日も繰り出したビーチで迷子になっためぐ。俺は捜索していたってわけだ。
結局大して遊ぶことも出来ず気付いたら成田。帰りの飛行機の中では機内食を取ることもなく爆睡した。飛行機の中なら迷子になる心配はないからだ。
でも、課長……?何でそんなこと突然訊いてくるんだ?
*
「失礼致します」
課長の後に部長室に入ると、そこには佐野さんがいて驚いた。
ああそうか、この前帰って来てたもんな。これで正式に帰国かぁ。
俺は佐野さんに会釈する。佐野さんも返してくれた。
「柳沢くんはそこに座ってくれ」
「はい」
うわー緊張する……。
向かいに部長と佐野さん、隣に課長。何なんだこのメンツは。
「柳沢くん」
「はい」
「NYに転勤だ。頼むよ」
……はい?
え、ちょっと待ってくれ。
にゅーよーく……ってアメリカの?ニューヨーク?!
ええっ?!
「柳沢くん?」
「あ、は、はいっ」
「どうした?驚いたか?」
「は、はい、少し……」
「まぁでもこれは柳沢にとってもいい機会ですから。ありがたい話だよな?」
「え?ええ……」
課長と部長と佐野さんがにこやかに俺を見つめていた。
え、って言うかそれってもう決まりなのか?
断るとか……いや、断らないにしても何て言うか『猶予』みたいなもんはないのか?
*
眠れなかった。
次の朝、俺はもやもやとした頭を首の上に乗せたままぬくい布団からやっとのことで抜け出した。
うちの朝はしっかりご飯に味噌汁、それと何か一品。作るのは俺。
別に嫌がりはしない。今どき男だってそれくらい出来なきゃ生きていけないもんな。
母さんもフルタイムで仕事してるから俺と1日交替で朝食を作っている。
え?姉貴?
あーダメダメ。あの人多分目玉焼きもロクに作れないと思うよ。って言うか台所に立ったところなんて見たことないし。
「おはよーん♪」
朝飯を作り終えたところで、ほらな、女王様気取りで登場だ。
「おはよ。何飲む?」
「んー、ホットミルク」
「了解」
牛乳をレンジでチンして姉貴に差し出す。
すると姉貴はダイニングテーブルに両手で頬杖をついてこっちをじーっと見ている。
「何だよ」
「やー、気の利く弟だと思って♪」
「はぁ?」
「だってさ、朝からご飯作ってくれて、ミルクもあっためてくれる弟なんて普通いないでしょ~?」
「いらないんなら作んないけど」
「わぁ、いります、いります」
姉貴はマグカップを俺からひったくるように奪って口をつけた。
おいおい、その格好も毎朝言ってるようだけど何とかしろ。
よれよれのパジャマにぼさぼさの頭。今どきアリか?!というくらいにでかいレンズの眼鏡。
これが出かけるときにはああなるんだから女って恐ろしい。
俺は溜め息をついて席についた。
「なぁに?朝から溜め息なんてついちゃって。親父くさいなぁ」
うるさいよ。っつーかあんたのことだよ。
俺はその言葉を無視して炊飯器からご飯をよそる。
「あ!もしかしてもしかするとめぐちゃんのこと思い悩んでるな?」
「……は?」
にこにこにこ。
顔中気持ち悪いくらい笑っている。
「照れるな照れるな。お姉様に任せなさいって」
「何をだよ」
「まーったしらばっくれちゃってこの~。金曜はめぐちゃんの誕生日だもんねー」
……それか。
俺は目の前の人のにやけた顔に構うことなく箸を持つ。
味噌汁をすする。あー美味い。自分で言うのも何だけど。
「あのネコ?あれじゃダメね。もっと可愛いのにしなきゃ」
「ぶっ……」
「あーもー汚いなぁ。ちょっと台布巾取ってきてよ」
「あっ姉貴っ、な、な、……」
「お姉さまの目は節穴じゃなくてよ?」
オーホホホ、と高笑いする姉貴。慌てる俺。
だって、あれは押入れの奥の奥の奥に隠しといたはずなのに。
ニヤリ。姉貴の笑みに本気で鳥肌が立った。
「25にもなってぬいぐるみなんか選んじゃダメよ。しかもあのネコ、キャラクターものじゃないの」
「う、うるさいなっ。あいつが欲しいって言ってるんだよっ」
「ここはそうね……そうそう、リングなんか贈っちゃえば?」
「聞いてねぇ……って、はぁっ?!」
「『めぐ、愛してるぜ』とかなんとか誕生日に愛を告げるってのはどう?うーわー、と・り・は・だっ♪」
「ななな何言ってんだよバカっ」
「『めぐ、好きだ。結婚してくれ』『えっ?私でいいの?』『ああ、もう君しか見えない』きゃー♪言ってみそ言ってみそ」
「止めろってばっ」
「動揺しなーい。あんたみたいにいつまで経ってもはっきり出来ないやつはね、こういうイベントものに便乗するのよ。それしかない!」
「べ、別に俺はめぐのことなんてっ」
「はぁ?今さらそれかいな。いい加減認めろ。つーかいっそのことプロポーズでもしてしまえ!」
「もう黙れっ」
「はぁ、何でこんなヘタレに育っちゃったのかなぁ……。まあいいや、それは置いておくとして、とにかくプレゼント贈るつもりなら聞いてみなよ、めぐちゃんに。ああ見えて25なんだからアクセサリーの1つや2つ欲しいと思うよ?」
「あーもーうるせーっ」
ねこまんまにしてがーっとかっ込む。
ニヤニヤしたままの姉貴にこれ以上からかわれるのが嫌で、30秒で朝飯を終了した。
「同伴出勤いってらっしゃーい♪」
「そんなんじゃねーっつの!」
*
足蹴にしたは良いものの、実は困っているのだった。
過去数年間、俺がめぐにあげたものはイルカのぬいぐるみ、クマのぬいぐるみ、うさぎのぬいぐるみ、そして今年はネコのぬいぐるみ。
ぬいぐるみばっか。
いや、めぐは本当にぬいぐるみが好きで、昔っからあいつの部屋はまるでぬいぐるみ屋敷かと思うくらいにぬいぐるみだらけだった。
だから毎年すごい喜んで、まぁいいかと思ってたんだけど。
でもホント、今年25なんだよな。25の男が25の女にぬいぐるみの誕生日プレゼントって……ありえるか?
いや、ありえない。ありえないよなぁ……。
ふとさっきの姉貴の言葉が蘇る。
『プロポーズでもしてしまえ!』
あああ、いかんいかん。出来るわきゃない。
大体プロポーズったって……その……なぁ?
俺とめぐが結婚?
それってどうなんだ……?不安しか胸をよぎらないんだけど……。
「おはよ、将ちゃん☆」
「うわっ」
「何?どうしたの?」
「な、何でもない何でもない」
いきなり出てくるなっ!!
驚くだろ。
めぐに気持ちを告げること。
それに比べたら、たとえば空を飛ぶほうがずっと簡単なんじゃないかって思えてくる。
それくらいこの『幼馴染』って距離は近くて遠い。
せめてもうちょっとこいつが気持ちを汲み取るとか察するとか言うことが出来る人間だったなら。
みんなにからかわれるくらいだ、きっと俺の気持ちはバレバレなんだろう。
はぁ……それでいいのか柳沢将太25歳。
その日はやっぱり何かあまり仕事に身が入らなかった。
課長は意味ありげにことあるごとに俺を見てくるし。
そりゃあうちの課から海外組が出れば課長としても鼻が高いということは分かる。
でもなぁ。俺、いろいろいろいろやり残し過ぎで何かこのままじゃダメなような気がする。
だけどどこからどうやって手をつけたらいいんだろうか。さっぱり分からない。
そして、年度末業務が詰まっていくにつれどんどんもやもやが溜まっていった。
こんなんでいいのか、俺?!
*
そして迎えた金曜日。
結局指輪だのなんてものは買ったりせず、今も押入れにはキャラクターもののネコが眠ったままだ。
その日も同じように残業。
何だかやたらに疲れて、どこへ寄ることもなく真っ直ぐに帰った。
めぐは同僚の先生たちに企画してもらった誕生日会があるのだと数日前から言っていたから、もう今日は会うこともないだろう。
プレゼントはいざとなったらいつでも渡せるしな、大したもんでもないしな。
「あ、将ちゃん」
「あれ、めぐ」
家に帰ってみればみんなどっか出かけてていなかった。
ま、そんな日もある。夕飯をチンして1人で食った。
片付けも終わりやっとくつろげるとこたつに入ってテレビを見ていたその時。
突然めぐが頬を真っ赤に染めて居間に現れた。
俺はその慌てように思わず持っていた時期も終わりかけのみかんをぽろりと落とす。
赤いダッフルコートに所々白いものが付いていて、この部屋のあったかさにそれがじわじわと水滴に変わっていった。
「将ちゃんが困ってるって、聞いて」
荒れる息を呑み込みながら話すめぐ。
「お前パーティーは?」
「抜けてきたよっ。だって、将ちゃんひとりぼっちで淋しいって友紀ちゃんが。それでね、私が行ったら助かるよって電話で言ってて、」
姉貴のやつ電話までかけたのかよ……。
溜め息を1つつくと、俺はこたつの中からめぐを見上げる。
走ってきたんだろう、前髪が捲れ上がっていた。
ふいにめぐが開け放った障子から風が吹き込んでくる。
「さむ……。なぁ、そこ閉めて」
「あ、ごめん」
「コート脱いで、そこ座れば。お茶でも持ってきてやるから」
「うん」
言われるままにそうするめぐ。
こういうところが単純なんだよな。俺が困ってるって聞いて慌てて来たはずなのに、もう忘れて今は横にコートを置いてこたつに入っているなんて。
思わず笑いそうになった。
俺、何やってんだろ。何もやもやしてたんだろ。
そうだよな、めぐと俺だもんなぁ。
姉貴が企んでたみたいなドラマみたいに劇的なことなんてあるわけない。
なぁめぐ、たとえば俺が遠くに行くって言ったら、お前どうする―――?
言葉にならない思いは吐く息に消えた。
*
「はいよ」
「わ!何?プレゼントだ!……わーい、ありがと将ちゃん!可愛い。ほら、可愛いでしょ?」
袋から出したのはやっぱりネコのぬいぐるみ。
それと顔を並べるようにして俺に見せるもんだから、俺は両方の頭に手を伸ばしてぐりぐりと押した。
「ちょっと止めてよぅ!」
「お前たち似てる」
「えっ?そうかな……似てるってよ、ネコちゃん」
ぬいぐるみに向かって話し掛けるめぐ。
それがあまりにめぐらしくて噴き出す。
「何?何で笑うの?」
素でそんなことを訊いてくるこいつ。
俺が困っていると聞いて駆けつけてくるこいつ。
来たのはいいがすっかり何の用件で来たのかもう忘れているこいつ。
どこまでも石原恵。そしていつも、いつでも俺の幼馴染だった。
「何でもない」
「うー、何よぅ。教えてよー」
「ケーキ食うか?お前の誕生日だからって母さんが作ったのがあるけど」
「うんうん、食べるー!何ケーキ?」
「苺ショート」
「やったー!」
やっぱり言わない。言えない。
これでいい。
俺たちはきっと、こうだからいいんだ。
何となくそう思った。
明日の朝、課長に言おう。もう決めた。
目の前で嬉しそうにケーキを頬張る幼馴染を見ながらしみじみと思っていた。