泣き虫カラス
気付かないうちにいつの間にか春は来ていた。
学生時代なんて卒業してしまえばすぐに遠くなるもので、出勤するときにちらほら見かけた袴姿の女の子たちに「ああ、そう言えばそういう時期か」と思うくらい。
俺にとっては3月は年度末の繁忙期だ。感傷に浸る時間が欲しいくらいに。
でもめぐは違った。
それはあいつの職業が保育士ということもあるんだろうけど、あいつにとっての3月は『別れの季節』以外の何者でもない。
そして笑い上戸なくせに泣き上戸でもあるめぐにとって、3月は涙の季節なのだ。
*
3月24日午後9時30分。
家に帰るとぐったりで、すぐ風呂に入って寝よう。
そう思っていたのに。
「しょーちゃぁん……」
泣きが入ると舌っ足らずになるめぐ。
今更何でうちにいるんだ、なんてことは考えない。
どうせ母さんや姉貴に引っ張り込まれたかなんかだろうし。
リビングに入ってかばんを置くと、俺はめぐの方に向いて「ただいま」と言った。
どうやらうちには今、うちの家族が誰もいないらしい。
それもどうかと思うが。
溜め息を1つ。
ソファにうずくまっていためぐを見る。
零れ落ちそうな両目をうるうるさせて俺を見上げてきたから、俺は飼い主にかまってほしい犬に見つめられたときのそれのように、しぶしぶめぐに近寄った。
溜め息をもう1つ。
俺が隣に座ると、でっかいタオルを再び顔に押し付けてソファの上に縮こまった。
「何だ、どうした?」
左腕を広げてめぐの頭を抱え込むと、俺は出来る限り穏やかに訊いた。
「うっ……んー……、っく」
どうやら話せるような状態じゃないらしい。
とりあえず泣かせてやって、話せるようになったら聞いてやろう。
そう思って、しばらく俺はさらさらの頭をぽんぽんと軽く撫でてやった。
テレビの音だけがざわめいている。
俺はもう一度尋ねた。
「どうした?」
胸元に小さな息の音。
めぐが息を吸い込んだ。
「あのね、今日ね、卒園式だったの」
「……あ、そうか」
そんな時期か。
相変わらず柔らかい髪を撫でながら俺は思った。
「けーすけくんはね、桃組さんのときから見てきたし、まみちゃんもあきちゃんものぶくんもすごいいい子だったのー……」
「うん」
「それでね、今日終わった後にね、ちさとちゃんが『めぐみ先生ありがとうございました』ってこれくれたの」
右手にぎゅっと握られていたそれは、紙粘土で出来たチューリップ(らしきもの)。
「私嬉しくてね、でも悲しくて泣いて、それで今もね、みんなもう小学校に行っちゃうんだなって思ったらまた悲しくなってきたんだよぉ……」
「ふぅん」
「いつかみんな私のこと忘れちゃうかなぁ……」
「そんなことないだろ」
「そうかな……」
「だって俺結構憶えてるけど、若菜先生のこと」
「わかなせんせい」
途端に嬉しそうな顔をするめぐ。
俺たちの幼稚園の担任だった小泉若菜という人は、長いことめぐの憧れの対象だった人だ。
いつも優しくて、よく笑ってた。
「だからめぐのことだって、そのちさともけーすけもまみもあきものぶとやらも忘れないだろ」
「うんっ」
今泣いたカラスがもう笑った。
そんな言葉を思い出すほどころころと表情の変わるめぐ。
一生懸命俺に卒園生のことを話そうとしている。
何だか可笑しくなった。
興奮して上気している肉まんみたいなほっぺたに手を伸ばす。
無意識に指先でそっと輪郭をなぞっていた。
ゆっくりと近付いてゆく。
「ただいまー。めぐちゃん?帰ったよーん」
能天気な姉貴の声が俺を我に返らせる。
俺は焦って、慌ててソファから飛び降りた。
……やべ、俺今何しようとしてた?
きょとんとした顔で俺を見上げるめぐ。
俺は台所に逃げ込んで、気付かれないように用もないのに冷蔵庫を開けて中を物色した。
あれ、めぐちゃん泣いてたの?今日のこと思い出してたら泣けちゃって。
そんな会話が背中に聞こえた。
「あれ、将太帰ってたの?ご飯だったら出てるわよ?」
「え?あ、や、えっと、ビールでも……」
「あ、今それ買ってきたとこ。って言うかあんた着替えくらいすれば?スーツでご飯食べる気?」
「え?あ、ああ……」
まだ鼓動が早い気がする。
勘の鋭い姉貴にどうかバレませんように。
早く着替えてきなさいよという後ろ姿に心からそう祈った。