からかい甲斐のある男
「じゃあね、将ちゃん!」
「もう分かったから、前向け前!またこの間みたいに転ぶぞ」
「転ばないよぅ!」
ほれほれ、と手を振って行かせる。
隣に住んでいる幼馴染。石原恵。
何の因果かいい大人になった今でもこうして毎朝地下鉄の駅で彼女を見送っている。
まぁ俺からしてみれば「あのめぐがよく就職できたよな~」という感じ。
小さい頃からいつだって、あいつが転ばないように後ろから見ていた気がする。
はぁ、と息をついて反対方面の入り口に入ってゆく。
幼稚園の先生になったという彼女は、家から地下鉄で3駅のところにある幼稚園に勤めている。俺は反対に15駅の場所にある商社勤めだ。
それでも彼女は何やら準備があるらしく、毎日ここまでは一緒。と言うか一緒に来られない日の彼女は遅刻なんだけれども。
子守的感覚が8割を占める彼女との関係。我ながらよくやるよ、と思う。
「柳沢くん」
ふいに掛けられた声に覚醒する。
隣を見ると、2つ上の会社の先輩がいた。
「あ、坂本さん。おはようございます」
「おはよう」
「あれ、坂本さんってこの線でしたっけ?」
「あー、昨日は彼の家に行ったから……そのまま、ね」
分かるでしょ、と目配せされて思わず赤面する。
そうだった、何でも来年には結婚するという同期入社の彼がいるんだったっけ。
でも、彼は確か……?
「日本に帰ってきたんですか?」
「ええ、一昨日。でもまだ一時帰国なんだけどね」
「そうですか」
坂本さんの彼―――佐野さんが噂になるのは、ただ人気の高い坂本さんをゲットしたからというだけではなく、彼がものすごく出来る人だということもある。
27にしてNY勤務を手に入れて旅立ってしまったらしい。
もうそのときは坂本さんと付き合っていたらしいから、すごい遠距離恋愛だ。よく踏み切れたよなぁと思う。
まぁ昇進は誰しも夢見るし、その気持ちは俺でも良く分かるけれど。
隣の坂本さんを見る。肩のところでふわりと巻いた柔らかそうな髪が電車に合わせて揺れている。
彼女は本社でも1、2を争う可愛い系美人で有名だ。
もし佐野さんがいなければ、恐らくは社中の男共が躍起になって彼女を落としにかかるだろう。
現に佐野さんがいる今でさえ遠距離恋愛にかこつけて彼女のいる総務部に足を運ぶ人たちが絶えないと聞いた。俺と同期の板倉も通っていたような気がする。
彼女はよく笑う。そういうところが「可愛い」と言われる所以なんだろう。
それに少しドジだ。営業1課の俺と坂本さんがお互いを知っているのも、元はと言えば坂本さんが広報課にかけたつもりだった1本の電話が始まりだった。
内線番号も全然似ていないし、何を勘違いしたのかは分からないけれど、彼女は思いっきり広報課の直江課長だと思って俺に話し掛けてきたんだ。
最初は何を言ってるのかさっぱり分からなかったけれど、それが間違いだと分かったときには大笑いしてしまった。
そういうちょっと「抜けている」人と付き合うのは大得意だ。それ以来彼女とは社内で会うと挨拶をし合うようになった。
「ねぇ柳沢くん」
彼女を見ると、彼女もこっちを見て笑っている。
「何ですか?」
「ううん、」
「……何ですか?」
俺は訝しげに彼女を見た。
「さっきの子、柳沢くんの彼女?」
「えっ?」
「お、図星?」
「え、や、あいつはただの幼馴染ですっ」
「ふぅん?」
「さ、坂本さん!」
「だぁって面白いんだもん。若手のホープの柳沢くんがこんなにうろたえるなんて」
「面白がらないでくださいよっ」
「でも会社ではそんなところ全然見せないし、いいと思うな。彼女可愛かったし」
「いや、だからあいつは彼女でも何でも……っ」
「まぁまぁ。誰にも言わないから安心して」
だから!
思いっきり隣を睨んだけれど、彼女はそんなこと歯牙にもかけなかった。
俺はぐったりしてしまう。
何かこうしてめいっぱい違うんだって叫ぶのも何だか虚しい気がするし。
少なくとも、俺は、あいつのことを。
あぁあ、ダメだダメだ。そんなこと考えてる場合じゃない。
今日は大事な商談があるんだから。
「やー、よく似てるのよねぇ……」
「だ、誰にですか」
必死に冷静さを取り戻そうとする俺。
坂本さんはのんびりと続ける。
「佐野くんと柳沢くん」
「え?」
彼女はふふ、と笑った。
「仕事はとってもよく出来るのに、何だか憎めないって言うか。可愛いって感じかな」
嬉しくない……。
と言うかあのエリート佐野さんを可愛いと言わしめる坂本さんって実はすごい大物……?
「だからつい応援したくなっちゃうの。彼女可愛いし」
「いやだからあいつは本当にそう言うんじゃなくてっ、」
「頑張れ、柳沢くん♪」
ぽんぽんと肩を叩かれてげっそり。
「はぁ、頑張ります……」
だいぶ混雑してきた車内で坂本さんに気付かれないようにそっと溜め息をつく。
何だか今日の商談の雲行きも怪しくなっていきそうな予感。