TOKYO NIGHT
『将太 、頼む。来てくれ』
携帯のメール着信のバイブが作動している。
内容を見てまたかよ、と思いつつ時計を見ると10時半。
フロアの皆は先に上がってしまっていて、自分の机の周りだけがうっすら明るい。ふいに伸びをすると背中がボキ、と鳴った。いてててて。
そろそろ上がるか。これ以上やっても効率悪いしな。
誰もいない会社で、1人呟いた。
外に出ると途端にもわっとした嫌な空気。
こりゃビールが美味いわけだよな。
じわりと額に浮かんだ汗を拭った。
*
「おー将太、こっちこっち」
俺は手を上げて声に答えた。8人くらいの見慣れた顔ぶれ。俺はすぐさまその中で1番酔い潰れた人間を見つける。
近寄ると、そいつの背中を隣の子がさすっていた。
「またこんなに飲んで」
仲間たちが空けてくれたスペースに座ってそう呟くと、その子が申し訳なさそうに口を開いた。
「将太くんごめんねぇ。あたしたちもこんなに飲ませるつもりなかったんだけどさ、何かめぐ職場でやなことあったみたいでぐびぐびいっちゃったんだよね」
ははは。周りの連中も同調して笑った。俺はそいつをちらりと見やるとはぁ、とため息をついた。
「ま、お前もせっかく来たんだし飲め飲め」
勧められるままにビールに口をつけた。
―――お前仕事忙しーの?
―――ん、まぁな
―――つーか聞いたけど25にして係長だって?すげーよな
―――別にそんなことないけど
―――やっぱ世の中って不思議だよなぁ……
「え?」
何か妙にヘンに納得されている。
「や、なんつーか。お前ってエリートなんだよなー、こう見えて」
「何だよ、それ」
「だってさ、俺たちにとってはお前っていつでもめぐのお守をしてる姿しか想像できないんだよな」
「……ハハハ」
それって全然嬉しくない。
「まぁお前とめぐが付き合ってるってだけでちょっと世の中不思議だけど」
「ぶっ……」
大丈夫か、とおしぼりを渡される。俺は思わず吹き出してしまったビールの泡をそれで拭った。
「ま、まだ付き合ってなんかないって」
「はぁ?そうなん?」
「そうだよ!」
そこにいる一同がぽかんとした顔をして俺を見ている。それまで引っ込んでいた汗がじわっと汗が浮き出てきて気持ちが悪い。
「じゃあ何で来たんだよ」
「だってお前らが呼ぶから……!」
そう答えた瞬間、俺を見てお互いの顔を見合わせたそいつらが同じように大声を上げて笑った。
何だよ、来ちゃいけないんだったら呼ぶなよな。お前らだろーが、めぐがべろんべろんだから迎えに来いってメールよこしたのは。
俺はムッとした。
「や、将太サイコー。さすがめぐの幼馴染のことだけはある!」
涙を流し、手を叩いての大笑い。俺はますます不機嫌になった。
何が最高で何がさすがなんだっつーの!
*
「じゃ、よろしくな将太」
「ああ」
11時半。金曜の夜の無礼講。
俺は店の外に出ると、まだ飲みに行くというやつらと別れた。酔い過ぎてうつらうつらして足元がおぼつかないめぐを連れて帰るために。
「2人が付き合い始めたらまた飲もーぜ!」
「お、お前らっ!」
「照れるな照れるな。ゆっくり聞いちゃるから」
「照れてねーよ!」
「だってお前たちは『まだ』付き合ってないんだろ?」
やつらは揃いも揃ってくくく、といやらしい笑いを浮かべていた。はっと気付いたときにはもう後の祭り。
しばらくあいつらには会いたくねぇ。
「おら、めぐ、タクシー乗るぞ」
「んー、次何飲むー?」
「もう飲まねぇよ」
「えー?何でー?私飲みたーい」
ほとんどなくなりかけていた目が少しだけ開く。主張を全く聞き入れず俺はめぐをタクシーに押し込んだ。
「しょー……ちゃーん」
「あぁ、ここにいるよ」
タクシーに乗ってしばらくすると、眠気が最高潮に来ているのかめぐは俺の腕に擦り寄ってくる。うわ、酒くせぇこいつ!ちらっと見ると、頭を俺の肩に預けて本格的に寝そうになっていた。覗き込むととろんとしたまぶたが今にもくっつきそうだ。
俺は思い出していた。いつだってそうだったってことを。
めぐは隣の家の子供で、生まれたときから知っている。俺たちが同い年だったこともあって親同士も仲が良く、昔から一緒に遊んでいた。
めぐってやつは本当に鈍くさくて、運動オンチ。
何か物事が上手くいかなくて泣いたあいつを何度慰めたことか。
考えてることもよく分かんねぇし、とにかく、20過ぎて何年か経っても未だに子供みたいなやつ。
俺はそんなめぐのお守ばかりさせられていたから、自分で言うのも何だけど小学生のときから思考が年寄りじみていた。
良く言えば堅実とでも言うのだろうか。大学卒業して入社した会社では一応期待されているらしい。
もちろん大学は2人別々のところに行った。俺は理系の四大、めぐは短大。
もういい加減面倒見なくても大丈夫だろうとホッとしていた矢先、20を過ぎたあたりから、今度は新しいことで俺はめぐの迷惑を被ることになる。
それが……酒だ。
酔いやすいくせに飲むのが大好きなめぐ。誘われれば絶対に断らない。
別にそれは問題ないが、めぐという女の酔い方は半端じゃない。
誰かが連れて帰らないと家には辿り着けないだろう。
たまたま家が隣だから連れて帰ると言ってから5年、俺はめぐの付き添いになってしまったというわけだ。
俺が参加していれば話も分かるが、最近は俺は仕事が忙しくあまり参加できないにも関わらず今日みたいに「お迎えコール」が届いてしまうんだ。
そんなわけで俺はすっかりめぐのお迎えマンに成り下がってしまったのである。
俺は今にも眠りそうな、いつまでも子供のめぐの顔をもう1度見た。
迷惑ばかりかけるめぐ。あまり飲むなと言ってもすぐ忘れるめぐ。
それでも呼ばれればこうして迎えに来てしまう俺。……どっちもどっちか。
アホらしいな、とふと頬が緩んだ。その瞬間。
「ねぇ将ちゃん、私のことスキ?」
ばちっと目が開いたと思ったら、突然目の前のめぐがそうのたまった。
はっ?!俺は驚いて仰け反る。
「ねぇ、ねぇねぇねぇどうなの?」
「や、えっと、だから……って何言ってんだよお前っ」
「んー?」
ち、近寄り過ぎだってば!身を乗り出して俺に問い詰めるめぐ。
どうしちゃったんだよー!
俺は下がれるところまで下がって、顔を背けた。
「私のこと、嫌い……?」
急に眉毛をハの字に下げた子犬みたいな顔して弱々しい声で言うもんだから、俺は咄嗟に「嫌いじゃない、けど……」と言ってしまった。
「じゃあスキ?」
途端に元気になるめぐ。
おいおいおい。いい加減にしてくれよ。
運転手がミラー越しに含み笑いをしていた。
「……」
言うか。言ってしまうのか、俺。
沈黙する。
うわ、でも言えないよこんな状況でっ!一応考えてたんだよ、これでも。
そろそろお嫁にでも行かせないと行けなくなっちゃうわ、と娘の心配をする隣のおばさんの言葉に思うところも多々あるんだ。
で、でも。
「……す、好きだよ……っ」
わああ、言っちまった……。初めてだ。こいつの前でこんな風に……。
恐る恐る目の前のめぐを見やる。どんな顔してるんだろうか。
コテ。
……コテ?
お前……お前なぁ。寝るなーっ!!!
俺が決死の思いで告げたその言葉を聞くことなく、こいつは俺の膝の上に崩れ落ちた。
思わず握り締めた拳。情けなくて情けなくて。
ハッと前を見ると、またしても運転手に目で笑われる。『お気の毒に』そう視線が言っていた。
俺はかぁっと胸の奥から込み上げる羞恥心に耐えながら、めぐを元の体勢に戻した。
そんな俺の気も知らないで、子どもみたいにすやすやと眠るめぐ。
はぁ、とついた溜め息が東京の夜に消えていった。