一兵卒と案件1
白金色の真っ直ぐな髪に、澄んだ水面のような涼やかな薄青色の瞳。
柔らかそうな薔薇色のほっぺに、ぷるりと瑞々しい唇。
侍女のお仕着せを身にまといつつも、それは世を忍ぶ仮の姿――と自身の変装を完璧と思い込んでいるこの少女の名前はアミーリア。
その正体は何を隠そう、隣国の王の末子、アミーリア王女殿下である。
留学という名目でこの国にやってきたアミーリアは、お目付役の侍従の管理のもと、真面目に勉学に取り組んでいる。
そんな彼女は、午後のお茶の時間にはドレスを侍女のお仕着せに着替え、大門へと遊びにくるようになっていた。
見習い兵士となったばかりのロビーは、その大門の門番を務めている。
年が近いせいかアミーリアは彼に懐き、ロビーの方も恐れ多いとは思いつつも、このとびきり可愛らしいお姫様を妹のように大切に感じていた。
この日も、アミーリアはいつもの時間に現れた。
ちょうど休憩中だったロビーは、彼女を笑顔で迎える。
ところが、うららかな午後の日差しにのほほんとしていた大門は、突如騒然となった。
その原因は、アミーリアの愛らしい唇から飛び出した言葉だった。
「……わたし、帰りたい……」
けぶるような睫毛の下で、大きな瞳に涙をいっぱいにためて、アミーリアは小さな声でそう言った。
そして、嗚咽を飲み込むように唇を噛み締め、ぽろぽろと涙を零し始めた。
そんな彼女を目の当たりにして、平常心でいられる者などいようはずもない。
ロビーはもとより、近くで煙管をふかしていた門番長以下、年嵩の兵士達も大慌て。
だっと駆け寄ってきた彼らは、揃いも揃って眉を八の字にして、しくしくと泣くアミーリアを必死で宥めようとする。
みんな、この小さなお姫様が大切なのだ。
身分をひけらかすこともなく、無邪気で素直で世間知らずで、そしてちょっとだけ我が侭なアミーリアは、大門のアイドルだった。
ロビーは門番長に勧められ、アミーリアを大門の脇の詰め所に連れていった。
当番の門番二人だけを残し、門番長や他の先輩兵士達もその後に続く。
さらには、近くで作業をしていた兵士やらもアミーリアを心配して、ぞろぞろと詰め所に入ってきた。
おかげで、詰め所の中は厳つい兵士達でいっぱいだ。
ロビーはひとまずアミーリアを椅子に座らせ、母親仕込みのお茶を差し出す。
アミーリアはくすんと鼻を鳴らしてから、それを一口飲んだ。
「アミーリア様がお国に帰ってしまわれると、ジーニャリア殿下がお嘆きになるのではないですか?」
ホームシックにかかったアミーリアを宥めたくて、ロビーはそう言葉をかけた。
ジーニャリアというのは、この国の第二王子のことである。
ロビーをはじめ、城に仕える兵士のトップに立つ、軍の総司令官だ。
燃えるような赤毛と猛禽類のような金色の鋭い瞳の、鬼神のごとく雄々しく猛々しい軍人王子は現在二十歳。
そんな彼も時々、アミーリアを迎えにこの大門へとやってくる。
姫の前ではその凛々しい顔を綻ばせ、赤子の頃から彼を知っている門番長が目を丸くするほど豹変する。
ジーニャリアはとにかく、アミーリアを溺愛しているのだ。
彼女の父である隣国王に、もう何度も婚約の打診をしているというのも有名な話。
アミーリアの方もジーニャリアをとても慕っていて、ロビーにもよく嬉しそうに彼の話を聞かせてくれる。
ところが、その名を出したとたん、姫の瞳からはさらに涙が溢れ出した。
「ジーヤは、きっと悲しんだりしないわ。それどころか、せいせいしたと笑うかもしれない……」
「そんなっ……そんなわけないですよっ……!!」
アミーリアの言葉に、ロビーは思わず叫んでいた。
ジーニャリアがどれだけアミーリアを大切に思っているのか、彼は知っているのだ。
ロビーは恐れ多くも、総司令官閣下直々に特別任務を与えられていた。
多忙なジーニャリアのために、普段のアミーリアの様子を観察して報告書にまとめるという、少しばかり後ろめたくなる密命を。
アミーリアが元気に過ごしたとの報告には眦を優しく緩め、会えなくて寂しそうだったと書いた日には申し訳なさそうに眉を下げ、彼女を想ってせつないため息をつくジーニャリアを、ロビーはいつも見てきたのだ。
一体何が、アミーリアにジーニャリアの想いを疑わせてしまったのだろう。
そんなロビーの疑問に、涙をぽろぽろ零しながら、アミーリアが答えた。
「もう十日、ジーヤには会っていないの。お茶の時間にも来なかったし、食事も一緒にとれなかった……」
「それは……閣下はお忙しい方ですから……」
「知ってるわ。でも、十日前は一緒にお茶をする約束をしていたの。でも、急に無理だって伝令が来て……そのあとは、手紙を書いても返事もくれないし……」
「そ、そんな……」
ロビーは信じられない思いだった。
確かに、ジーニャリアはこの十日間も相変わらず忙しく、ロビーが報告書を提出に行った時も書類の山に埋もれていた。
それでも、アミーリアの様子を記した報告書に目を通し、「会いたいな」と独り言までこぼしていたというのに。
そんなジーニャリアが、愛しいアミーリアからの手紙を無視するなんてありえない、とロビーは思った。
しかし、アミーリアはさらに衝撃的なことを告げた。
「忙しいから仕方がないって、ずっと我慢してたの。でも……でも、昨日……」
「昨日、何があったんですか?」
「昨日……この大門からの帰り、テラスでジーヤを見かけたの」
「テ、テラスで?」
「お茶を、飲んでいたわ……補佐官の方と一緒に」
「え……」
ジーニャリアの補佐官――クラリスは、公爵家出身の才女。
報告書を持って執務室を訪れるロビーを、いつも優しい笑顔で迎えてくれる彼女は、男社会の軍部を実力で伸し上がったとは思えないほどたおやかな女性だ。
ジーニャリアとクラリスは、年齢的にも身分的にも釣り合うため、婚約するのではないかと噂された時期もあった。
しかし、当のジーニャリアは隣国の末姫を迎えたとたんメロメロになり、クラリスとはただの上司と部下の関係だったのか、と周囲は頷いたのだ。
「クラリス様はとても綺麗で賢くて、ジーヤの力になれる方だわ。 子供で……ジーヤの執務室に近づくこともできない私より、ずっと……」
「アミーリア様……」
軍の最高機密をも扱うジーニャリアの執務室に、他国の王族である自分が立ち入るわけにはいかない、とアミーリアは思っていた。
だからこそ余計に、ジーニャリアの近くにいられる補佐官クラリスのことが羨ましかった。
それは、嫉妬というほど激しい思いではなかったが、アミーリアの心に小さな棘となってずっと突き刺さっていたのだ。
そんな羨ましい立場にある女性と、ジーニャリアはお茶を楽しんでいた。
アミーリアの想い込めた手紙を無視し、会いにどころか連絡も寄越さなくなった彼は、美しい妙齢の女性と二人っきり。
その光景は、思春期に差しかかったばかりの幼気な少女の心をひどく傷付けた。
「ジーヤは、もう私のことなんて忘れてしまったのよ!」
「そんなっ……そんなことっ……」
話しているうちにたまらなくなったらしいアミーリアは、ついには両手で顔を覆って泣き出してしまった。
ロビーはそんな彼女におろおろしつつも、心の中で「そんなはずはない」と繰り返す。
きっと、アミーリアは何か誤解しているのだ。
けれど、まだ恋愛をしたことのないロビーには、すれ違った恋人達の仲を取り持つ方法など分かるわけもない。
そうこうしているうちに、門番の詰め所にも異様な雰囲気が漂い始めた。
「なんと酷なことをなさるのだ、閣下は!」
「こんな愛らしい姫様を泣かせるなんて、男の風上にもおけんなっ!」
「心変わりにしたにしろ、けじめをつけるべきだろう!」
アミーリアの話を聞いた兵士達は憤慨した。
彼らは口々に、総司令官閣下を糾弾する。
この国の軍の士気が、大門付近限定で一気に崩壊した。
ロビーは「待って下さい、きっと何か理由があるんです!」と叫びたかった。
しかし、雄々しい先輩連中の怒りの雄叫びに怯え、反論する勇気が出なかった。
その時、一際大きい声が彼らを一喝した。
「黙らんか、お前達!」
それは、ここに集まった兵士の中では一番年嵩の、門番長の声だった。
その重く厳しい声に、詰め所はしんと静まり返る。
ロビーはひとまずほっとした。
門番長はそんな彼に向き直ると、口を開いた。
「ロビーよ。お前さんの家は、確か近くで商いをしていたな?」
「あ……はっ、はい。母が下宿屋を、その隣で叔父夫婦が食堂をやっております」
「そうか。じゃあ、お前さんは姫様を町に案内して、今夜は家に泊めてさしあげろ」
「――は……?」
ロビーは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
門番長の言葉を頭の中で繰り返す。
そして、それを理解したとたん、ロビーはぎょっとして飛び上がった。
――隣国から預かった大切なお姫様を、しがない見習い兵士が連れ歩き、しかも庶民の質素なベッドに寝かせろだなんて……!
「むっ、むむむむ、無理ですっ! アミーリア様に何かあったら、どうするんですかっ!」
「こんな平和な我が国で、何かもくそもあるもんか」
門番長の無骨な手が、涙に濡れたアミーリアの頬を優しく拭う。
悲鳴を上げるロビーを見据え、彼は続けた。
「そもそも、わしはずっと思っておったんじゃ。せっかく留学して来なさった姫様に、町の賑わいも感じさせてやらねぇで城に閉じ込めて……なんて、窮屈でお可哀想な思いをさせてしまっているんだってな」
「で、でも……」
「閣下とのことは、わしには分からねえ。だが、せっかく我が国にいらした姫様を、泣かせたまま国に帰していいもんか。年頃の娘らしく、町で羽根を伸ばさせてやりてぇじゃねえか。この国で笑顔になってもらいてぇじゃねえか!」
「そ、それは……」
門番長はアミーリアの頭をよしよしと撫でながら、目頭を熱くしてロビーに語った。
彼の周りを囲む他の兵士達も、涙ぐみつつうんうんと頷く。
ロビーだって、一緒になって頷きたいのは山々だ。しかし、そうはいかないのだ。
「ぼ、僕には荷が重過ぎますっ! 万が一の時、僕では対処しきれませんっ!」
おそらく今、一番冷静なことを言っているのはロビーだろう。
勝手にアミーリアを城の外へと連れ出して、彼女の身に何かあったらどうするのだ。
この国と隣国との間で長年続いてきた友好関係に、ヒビが入ってしまうに違いない。
何より、ロビーはアミーリアを少しの危険にもさらしたくなかった。
「それに、我々の一存では、決められないでしょう? せめて、アミーリア様の爺やさんや、世話係の侍女頭に相談しないと……」
ロビーは続けて正論をぶっ放す。
しかし、そんな彼の背後から、突然新たな声が上がった。
「私が許そう。ぜひとも、アミーリアを町に案内してやりなさい」
「へ……?」
とんでもない言葉に、ロビーは慌てて後ろを振り返る。
いつの間にか彼の背後に立っていたのは、誰かを彷彿とさせる赤毛の美丈夫だった。
シンプルなシャツとズボン姿であるが、腰には立派な剣を下げている。
大門の付近に配属されている兵士ではない。
しかし、どこかで見たことがあるような気がする、とロビーは記憶の糸を手繰ろうとする。
そんな彼の隣に立った赤毛の男を見て、門番長が声を上ずらせて叫んだ。
「へ、陛下っ!? 国王陛下――!!」
この国の国王陛下は、第二王子に地位を譲るまで総司令官を務めていた軍人王だった。
門番長の叫びを聞いた兵士達は、びしりと背筋を伸ばして緊張に顔を強張らせる。
もちろんロビーも、思わぬ来訪者におののき、ただただ黙って先輩兵士達に倣った。
一方アミーリアは、近寄ってきた国王を涙に濡れた瞳で見上げた。
「国王様……」
「ああ、アミーリア……可哀想に。こんなに泣いて……」
国王はいつの間にか詰め所に入り、兵士達に混じって話を聞いていたらしい。
「ジーニャリアが、すまないことをしたようだな……。だがどうか、この国や私たちのことまで嫌わないでおくれ」
「そんな……っ、アミーリアは、国王様のことが大好きです! 王妃様も、王太子様もマーシーも、門番の皆さんだって、大好きですっ!」
アミーリアは泣きながら、両手を広げた国王の胸に飛び込んだ。
「嬉しいね、姫。私たちもそなたをとても愛しく思っているよ」
アミーリアを軽々と受け止めた国王の顔は、その重厚な声に反しデレデレだった。
王子しかもうけなかった国王夫妻は、アミーリアを実の娘のように可愛がっているのだ。
国王の肩口に顔を埋めたアミーリアが、「ジーヤのことも、好きなのに……」と震える声で呟いた。
それを聞き逃さなかった国王は、彼女を抱き竦めて言った。
「ジーニャリアのことは、忘れなさい。そなたは若いのだから、もっとたくさんの経験をしないといけない。我が国の町を一日、のびのびと楽しみなさい」
「はい……」
さて、そこで困ったのがロビーである。
アミーリアを町に連れ出すなんて、やはり彼一人では不可能だ。
幸い、国王は門番長や他の兵士達よりは冷静だった。
泣きそうな顔をするロビーに向かい、彼は精悍な顔に笑みを浮かべて頷いた。
「安心したまえ。ちゃんともう一人、護衛を付けよう」
国王はアミーリアを抱き上げたままそう言うと、顔だけ後ろを振り返って声をかける。
「モーリス」
その名前を聞いたとたん、ロビーは盛大に顔を引きつらせた。
「はいはいはい、ご指名ですかぁ? 陛下」
「“はい”は一回でよい。お前が適任であろう、モーリス。ロビー少年とともに、アミーリアを町に案内いたせ」
「はいはいはい、仰せのままに~」
国王陛下直々に指名を受けたというのに、モーリスと呼ばれた男の態度には緊張感の欠片もない。
ロビーは頭を抱えたい気分になった。
「……父さん」
アミーリアの護衛を命じられた男、モーリス。
彼は、今朝も一緒に登城して門で別れた、ロビーの父親であった。