一兵卒と諸々
ロビーはこの春、十五歳の誕生日を迎えた。
この国では、その年になると軍に志願することができる。
ロビーの父親は腕の立つ剣士で、平民の出ながら中佐の位に就いていた。
その父親に仕込まれた剣の腕でなんとか試験を突破して、ロビーは晴れて軍への入隊を許された。
とは言っても、兵士としては下っ端も下っ端。まだ見習いの身分である。
ロビーがまず配属されたのは王城の大門。彼は門番として勤務することになったのだ。
もちろん、ここでもロビーは一番下っ端。
元来の引っ込み思案な性格も手伝って、最初のうちは毎日緊張でがちがちだった。
そもそも、そんな気弱な彼を心配した父親により、半ば無理矢理軍に入れられたようなものなのだ。
ロビーは、本当は絵描きになりたかった。
祖父が画家だった影響で、彼は絵を描くことが好きだったのだ。
門番の仕事は、城に出入りする人や物の検閲である。
とはいえ、入城を拒否しなければならないような、不届き者がやってくることはまあない。
現在この国は平和で、政治的にも安定しているのだ。
国王は王妃を大切にしており、他国で耳にするような後宮問題など、愛憎渦巻く話もない。
国王夫妻は三人の王子をもうけており、一の王子はすでに王太子として議会にも国民にも支持されている。
下の二人の王子も、父王と兄王太子を敬愛し、彼らをしっかりと支えている。
さらに、この国は辺境にまで遠く名を轟かせる大国であるが、ここ数十年、国内外ともに大きな争いもない。
同じく大国である隣国とも長く友好的な関係にあり、両国の王族間の親交も深い。
現に今、隣国の王女が一人、留学のためにこちらの城に滞在しているほどだ。
城で働く者達の間では、その隣国からのお客様の話題で持ち切りだった。
ただし、ロビーのような末端たる見習い兵にとって、王女殿下など雲の上のお方。
お目にかかる機会も滅多にないだろう、と思っていた。
ところが――
「ねえ、ロビー。聞いているの?」
「……はい、もちろんです」
ロビーの傍らで、城下の町並みを見下ろしているのは、ふんわりとした砂糖菓子のような存在だ。
大門のすぐ脇の大きな岩の上につま先立ちして、城壁から顔をのぞかせている。
白金色の髪はまっすぐに長く、天から降り注ぐ光のように神々しい。
長い睫毛に縁取られた瞳は、吸い込まれそうに透明な水面の色。
円やかなほっぺは薔薇色で、可憐な花びらのような唇が紡ぐのは、小鳥のさえずりのように甘い声。
小さな身体を包むのは、濃紺のワンピースと白いエプロンという、王城の侍女のお仕着せである。
しかしその人物を見て、侍女だと判断する者はまずいないだろう。
あまりにも幼く、童顔と言って誤摩化すには無理があり過ぎるのだ。
王城で仕事に就けるのは十五歳から。
侍女ももちろん例外ではないし、そもそも見習い侍女と正規の侍女とではワンピースの色が異なる。
見習いに支給されるのは薄水色のワンピースで、一年勤めてやっと、正式な侍女として濃紺色を身にまとえるのだ。
それは、見習い兵士であるロビーにも同じことがいえる。
彼も門番の仕事を一年間しっかり務め上げれば、十六歳を迎える頃には正規の兵士として扱われることになる。
ただ今、午後のお茶の時間。
人々の出入りが一段落して、昼間では一番大門が静かになる時間帯だ。
ここ数日、この時間になると、埃っぽい大門には不釣り合いな人物が現れる。
本人は、侍女に扮してお忍びでやってきているつもりだ。
しかし、門番の長である厳つい顔の老兵士も、ロビーよりも五つ六つ年上の先輩兵士達も、その正体に気付いていないはずがない。
もちろんロビーだって、その人物が本来なら拝顔することも叶わないような存在であると、分かっていた。
「あの……姫さ」
「ロビー」
「あ、いや……アミー様。もうそろそろ、戻られた方が……」
「いやよ」
姫様と言いかけ、ロビーが慌てて訂正した、アミーことアミーリア。
彼女こそ、隣国から預かっている大切なお客様。
一年間の予定でこの国に留学してきた、十三歳になったばかりの隣国の王女殿下だ。
隣国もまた安定した治世のもと、国王夫妻は王太子となった第一王子を筆頭に、三人の王子と三人の王女をもうけていた。
かの国王一家の仲睦まじさは他国にまで漏れ聞こえるほどで、こと年の離れた末の王女に対しては、父王はもちろん、兄姉殿下の溺愛たるや凄まじいと聞く。
そのため、王妃が彼女を留学させようと言い出した時には、王宮内は大荒れだったらしい。
王妃は、周囲が末姫をあまりに甘やかすので、彼女が我がままに育つことを心配したのだ。
兄王子や姉王女は大反対したが、王妃に頭が上がらない国王の決断で、アミーリアはこの国へとやってきた。
アミーリアを初めて見た時、ロビーは妖精や天使というものが実在するなら、きっとこういう姿をしているに違いないと思った。
こんなに可憐な女の子を、彼はそれまで見たことがなかったのだ。
ロビーは、一度でいいからアミーリアをモデルに絵を描いてみたい、と大それた望みを抱いていた。
口に出して言う勇気はないが、心の中で思うだけなら自由だ。
そんな麗しき王女殿下は今、つんと唇を尖らせている。
ロビーは参ったな、と苦笑した。
「侍女の皆さんが、心配なさっているのではないですか?」
「大丈夫よ。ちょっとお散歩してきますって、ちゃんと言ってきたもの」
アミーリアは母王妃が心配するような我がままには育ってはない。ロビーはそう感じていた。
教師の言葉に素直に耳を傾け、勉学にも真面目に取り組んでいると聞く。
食事の好き嫌いもしないし、周囲に対して無理を言うこともないので、侍女達にもたいへん人気がある。
ただ幼さ故に、時々突拍子もないおてんばな行動に出て、大人達を慌てさせることはある。
しかし、彼女の無邪気な姿に、眉を顰める者などこの城にはいない。
お忍び用にサイズの小さい侍女服を用意してやったのは、普段は厳しいと有名な侍女頭であろう。
兵士達は、小さな侍女の正体に気付かない振りをしつつ、彼女に危険が及ばないかと注意を怠らない。
皆がアミーリアを愛し、彼女が健やかに過ごすことを望んでいる。
そんな彼女は、いつもお忍びのつもりで大門までやってきて、小一時間程城壁の向こうの町並みを眺めるのだ。
そして、年の近い見習い兵士に愚痴を垂れるのが日課となっていた。
「それより、聞いてちょうだい。ロビー」
「は、はい……また、何かありましたか?」
「ジーヤってば、いちいちうるさいの!」
「はあ……爺や様ですか……」
アミーリアの愚痴の対象は、大体はジーヤに始まりジーヤに終わる。
ロビーは、彼女が唯一隣国から連れてきた人物を思い浮かべた。
爺やと呼ばれる老紳士は、アミーリアの侍従である。
王家の宝珠とも言える末の王女様を心配するあまり、彼がいろいろと口煩くなってしまうのも致し方ない。
しかし、それがアミーリアには時々窮屈でならないらしい。
「ジーヤったら、マーシーとお茶するだけで、怒るの」
マーシーとは、現在十七歳になるこの国の第三王子マーシュリア。
金髪碧眼の見目麗しい、絵に描いたような王子様である。
彼は、将来アミーリアとの婚姻もあり得ると噂される人物で、姫の方も随分と懐いている様子。
素晴らしくお似合いの二人だと思うが、爺や殿は反対なのだろうか、とロビーは首を傾げた。
「それに、せっかく国王様がお膝に乗せてくださったのに、ジーヤがいけないと言うのよ」
普段は凛々しい国王も、この愛らしい少女の前では頬を緩めっ放し。
気品溢れる王妃も、彼女を着せ替え人形にして、毎日とても楽しく過ごしているらしい。
三人の子供が全員男子だったので、国王夫妻はアミーリアを実の娘のように可愛がっているのだ。
しかし、親しき仲にも礼儀あり、という。
他国の国王との気安過ぎる触れ合いを、爺や殿は黙って見過ごせなかったのかもしれない。
「昨日は、厩舎に子馬を見に行っただけなのに、怒ったわ」
このことに関しては、ロビーも爺や殿が怒るのも無理はない、とすぐさま思った。
アミーリアは昨日、厩舎で馬糞に躓いて転び、膝小僧を盛大に擦りむいたのだ。
掃除を怠っていた厩舎係は、アミーリアが必死に庇ったおかげで厳重注意と三月の減俸で済んだものの、危うく職も命も失うところだった。
アミーリアの膝に巻かれた包帯を見た時、ロビーもひどく心が痛んだ。
だから、彼女を心配するあまり、口煩くなってしまう侍従の気持ちもよく分かった。
「爺や様は、アミー様のためを思って……」
「ロビーは、いつもジーヤの味方ばっかり!」
「え? えっと……そんなことは……」
「じゃあ、私の気持ちを分かってくれる? ジーヤってば、怒りん坊だと思うでしょ!?」
「あっ、そ、そうですね……」
唇を尖らせて睨んでくる少女に、ロビーはぽりぽりと頭を掻きながら苦笑する。
アミーリアは愚痴をこぼしつつも、本当は侍従が口煩いのは自分を思ってのことだと理解しているのだ。
そのため、彼の意見に逆らったり、無碍にすることができない。
それでも、どうしてもたまってしまう若さ故の鬱憤を、年の近いロビーに聞いてもらいたいらしい。
ロビーもそれを分かっているので、大人しく聞き役に徹している。
彼も最初は、身分の違い過ぎる少女の相手に戸惑うばかりだった。
しかし、いつしか彼は、アミーリアが自分に懐いてくれるのが嬉しくなっていた。
そして恐れ多くも、彼女を可愛い妹のように思い始めていた。
「ロビーのおうちは、遠いの?」
「あ、いえ、ここから見えますよ。ほらあの、緑の屋根の家です。赤と橙色の屋根に挟まれた」
「大きいお家ね。あの辺りで、一番背が高い」
「母が下宿屋をしているんです。城の兵士も何人か住んでいますよ。隣の赤い屋根は、叔父夫婦がやっている食堂で……」
アミーリアはいつも、町のことをいろいろと聞きたがった。
ロビーはせがまれるままに質問に答える。
そんな二人の姿を、他の門番達が温かく見守るのがいつもの光景。
しかし、今日は全てがいつもと同じようにはいかなかった。
「――!」
突然、門番達が顔面に緊張を浮かべ、びしりと背筋を正した。
そのことに、アミーリアと並んで城壁から顔を出していたロビーは気が付かなかった。
「私……お料理屋さんって、行ったことないの。お買い物も、したことがない」
「アミー様……」
「行ってみたいなぁ……」
「………」
それは、年頃の少女の本音に違いない。
けれどアミーリアは、いつもそれ以上は口を噤む。
本当は、町に連れて行ってとロビーにねだりたいのに、絶対にそうしない。
自分の立場と、一兵士にとってその言葉に逆らうのも従うのも難しいことが、ちゃんと分かっているのだ。
ロビーも、出来ることならアミーリアを城下に案内してやりたいと思う。
異国人である彼女に、祖国の素晴らしさをもっと知ってもらいたい。
活気溢れる町の様子を肌で感じさせてやりたいし、素朴だけれど優しい味わいの叔父の料理だって食べさせてやりたい。
けれど、万が一何か危険なことが起こった時、アミーリアを守りきれる自信がない自分に、その資格があるとは思えないのだ。
だからいつも、この話題になると二人の会話は弾まなくなる。
ロビーは、今日もまた己の不甲斐なさを思い知らされた気分で、一つため息を吐いた。
背後から声が掛かったのは、そんな時だった。
「いい子にしていれば、そのうち連れていってやると言ったはずだぞ」
突然そう響いたのは、低く重厚な男の声。
同時に、背筋に氷を押し当てられたかのような感覚に陥り、ロビーはわけも分からぬまま硬直した。
彼の背後に、振り向くことさえままならなくさせる誰かが立ったのだ。
「ジーヤ!」
そんなロビーの様子に気づかぬまま、アミーリアが白金色の髪をふわりと宙に舞わせて振り返った。
ロビーも、なんとか首だけ動かす。
そして、背後の人物を視界に捉えたとたん、彼の全身は今度こそ凍り付いた。
“ジーヤ”は爺やであり、アミーリアの侍従。
ロビーはずっとそう思っていたし、他の可能性など考えてもいなかった。
それなのに今、彼の背後に立った人物の姿は、ロマンスグレーの老紳士とはほど遠い。
「ジ、ジーニャリア殿下……」
燃えるように赤い毛は雄々しく、切れ長の瞳は鋭く琥珀色。
この美丈夫こそ、全ての兵士にとっての憧れと畏怖の対象である、軍の総司令官。
剣だこのある大きな掌をアミーリアに差し出したのは、この国の第二王子ジーニャリアであった。
「せっかく、ティータイムに合わせて仕事を切り上げたというのに、俺を無視して姿を眩ませるとは困ったお姫様だな」
「だって! ジーヤは、いつもお説教ばっかりだものっ!」
ジーニャリアの手を拒み、アミーリアがロビーの背中に隠れる。
成長期まっただ中の少年よりも、ずっと高い位置にある金色の瞳が、すっと剣呑に細められた。
「あれもだめ、これもだめって、ジーヤはだめばっかり!」
「それは、お前が危なっかし過ぎるからだろうが。馬糞に躓いて盛大に転んだのは、誰だった?」
「……馬小屋のことは、不注意だったって反省しているけど、後は何にも危ないことなんてなかった」
がちがちに硬直して、もはやただの衝立てに成り下がったロビー少年。
盾にもならない彼を挟んで、凛々しい軍人王子と妖精のような王女が言い争う。
「マーシーは、珍しい焼き菓子を持ってきてくれたのよ。一緒にお茶をして、なにがいけなかったの?」
「マーシュリアの腹黒さをお前は知らないだろう。あいつの笑顔ほど、胡散臭いものはない」
「国王様は、お父様よりがっしりとしていて素敵だもの。遊んでいただけて、嬉しかったのに……」
「助平親父の膝に乗せられて、喜ぶやつがあるか」
「生まれたての子馬なんて、見たことなかったの。とっても可愛かったわ」
「母馬は気が立っている。軽く蹴られただけで、お前の骨などひとたまりもないぞ」
二人の言い合いは続く。
アミーリアが、やれどこそこの次期公爵からのプレゼントを黙って突き返したと抗議すれば、下心が見え見えな贈り物に惑わされるな、とジーニャリアが叱りつける。
乗馬に誘ってくれた侯爵家の嫡子を、何故突然僻地に出張にやったのかとアミーリアが問えば、ジーニャリアは賓客をエスコートするに見合う乗馬の腕があるのかどうか試してやったのだ、と答えた。
どう聞いても、痴話げんか。
向かい合う二人は見目麗しく、得意の絵に描いて残したい、と平常時のロビーなら思うところだ。
だがしかし、今は間に挟まれて身動き一つ取れない。
ロビーは視線で、側に控えている先輩兵士達に助けを求めた。
しかし、王族同士の痴話喧嘩に割り込める猛者はおらず、ただ哀れみと同情の交じった視線だけが返ってきた。
結局は、焦れたジーニャリアが、アミーリアを強引に抱き上げて連れ去った。
その背中を見送ったロビーは、自分が如何に愚鈍な人間だったのかを思い知った。
彼がいつもアミーリアに愚痴を聞かされながら、勝手に同情したり同調したりしていた相手――アミーリアが“ジーヤ”と呼んでいたのは、隣国より彼女に付き従ってやってきた老紳士ではなかったのだ。
その正体は、二十歳になるこの国の第二王子。鬼神の如く強く猛々しい軍人の中の軍人だ。
“ジーヤ”との呼び名は、ジーニャリアという名前からアミーリアが付けた、この世でただ一人彼女だけが口にするのを許された、特別な渾名だった。
アミーリアと将来婚約するのでは、と最初噂されたのは第三王子だったが、実は第二王子の方が彼女に惚れ込んでしまっていたのだ。
その溺愛っぷりは周囲の者が驚くほどで、ジーニャリアはすでに隣国の国王に対して、アミーリアとの婚約を打診しているらしい。
残念ながら、彼女の兄や姉達が「まだ嫁にやるには早過ぎる」と猛反対しており、色よい返事は貰えていない。
アミーリアの方はというと、恋だの愛だのを理解するにはまだ少し年齢が足りないようだ。
しかし、彼女にとっても、“ジーヤ”は特別な存在に違いなかった。
それからも、アミーリアはたびたび侍女のお仕着せをまとってロビーのもとにやって来た。
そして相変わらず、ジーヤことジーニャリアの愚痴を零す。
それが一段落した頃に、本人がやってきて彼女を連れ去る、というパターンが定着してしまった。
その度に、ロビーは謂れのない剣呑な視線に晒され、震え上がる。
しかし、人間というのは慣れる生き物である。
気弱な見習い兵士、ロビー。
一年が経って見習い期間が終わる頃には、彼は何事にも動じない肝の据わった男へと成長している……かもしれない。