オアシス
田牧の子を流産し、身も心もボロボロの宏美は自分を追い詰めるように毎日を過ごしていた。そんな中、田牧の異動が発表される。
5.
ベッドに横たわった宏美はぼんやりと白い天井を見上げていた。腕には点滴のチューブが繋がっている。頭の中は真っ白で何も考えられなかった。
先程病室を訪れた若い男の医者が言った言葉が頭をぐるぐると回っている。
「残念ですが、流産です」
マスクで覆われた口元がもごもごと動くのを見ながら宏美の思考はそこで停止した。
あの時の交わりで妊娠したのだ。その後、生理がこなかったが元々不順だったところに、年度末の忙しさで気がつかなかった。気分がすぐれないのも、ストレスだと信じきっていた……。
命とはもっと清らかで純粋な交わりの中で授かり、温かい感情と愛情に包まれて育まれていくものではないのか? 私と田牧のような、こんな爛れた関係でも命を生み出してしまうなんて、思いもよらなかった。
もし、この命が流れ出ていかなかったら、蜃気楼の中の楽園は私の前に現実の物として現れただろうか。この小さな命が楽園へのパスポートになっただろうか。
いや、仮にこのまま妊娠が成立したとして、私はこの命を産み落とそうと思っただろうか。田牧との間の子供だ。歓迎される存在ではない。田牧が認知する? ありえない。きっといずれは闇へと葬られる運命の子だったのだ。だからこそ、この子は自ら私の中から出て行ったのだ……。
天井を見つめる宏美の目から涙が流れて落ちる。私は一体何をやってるのだろう……。莫迦だ。
退院してすぐに宏美は会社に復帰することにした。復帰する前の日の晩に樹里に電話をかけ、礼を言った。樹里には結局何から何まで世話になったのだ。入院の手続きや用意、退院の手伝いまで親身になって手伝ってくれた。診断名についても知っているが、それについてなんの詮索もしなかった。
「会社には風邪をこじらせたって言ってありますから」
「ありがとう。本当に迷惑かけちゃって……」
宏美が礼を言うと樹里はくどくどと説教を始めた。
「まだ出社したらダメですよ。主任、無理しすぎです。もうしばらく休んだらどうですか。お医者さんだって二週間は安静にって言ってたじゃないですか。診断書出して、しばらく休むべきですよ!」
「診断書は……出さない。有給がいっぱいあるから、有給で処理するわ」
診断書を出せば流産という事がばれてしまう。妊娠して、流産したという事実を、田牧には知られたくなかった。
「それに、この年度末にそんな悠長な事」
「何を莫迦な事言ってるんですか! いくら年度末が忙しいからって、身体壊しちゃ元も子もないでしょ! 確かに主任が不在だと大変ですけど、その辺は部下を信じてくださいよ。大丈夫です、なんとかしますから。たまには人に任せることもしなくちゃダメなんですよ」
樹里は自分よりも年下だが、まるで母親のようだ。宏美は苦笑いした。実家の親にもまだ報告していない。恐らく一生言わないだろう。
「それに……部長に言わなくていいんですか?」
「……」
樹里の言葉に宏美は黙り込んだ。
「相手は部長なんでしょう? このまま黙って終わらせていいんですか?」
樹里の声が真剣に怒っているのが手に取るようにわかる。
「……知ってたの?」
「わかりますよ、お二人見てたら。部長が誰かと不倫してるんじゃないかって話は前から噂になってたし……。何年同じ課で仕事してると思ってるんです?」
「田牧さんに言ったの?」
「まさか。言うならご自分で言ってください。そりゃ、頼まれれば言いますけど、ついでに蹴りもいれますよ」
樹里の不機嫌な声に宏美は思わず小さく笑った。
「私が蹴りいれるならともかく、あなたが田牧さんに蹴りいれてどうするのよ」
「だって腹立つじゃないですか。このまま涼しい顔で、一人で本社に帰るんですよ? いいんですか?」
宏美は溜息をついた。
「大人だから……お互い。わかってて付き合ってたんだから……」
そう。最初からわかってたことだ。大人だから……。ただの火遊び。何も生まない関係。田牧はこのまま本社に帰る。何も無かったことにして。そう、全て私の望んだまま。それでいい……。
「本当にそんな事、思ってるんですか?」
受話器の向こうの樹理の声が怒りで震えている。
「主任一人が貧乏くじ引いて、それで本当にいいんですか? 何、大人の女ぶってるんですか。……こんな事言っちゃなんですけど、ものわかりいい女なんて……そんなの、ただの都合のいい女ですよ」
樹里の厳しい言葉が宏美の心に突き刺さる。同じ言葉を田牧の口から聞いた事があった。「大人の女はものわかりが良くて……」。そう、自分は都合のいい女に過ぎないのかと、その時思ったのだ。胸が苦しくなり、うずくまる自分の姿がプレイバックする。
「樹里ちゃん、もう止めて」
宏美は思わず叫んだ。
「そんな事、言われなくても自分が一番わかってる。樹里ちゃんにまで言われたら、私……」
情けないと思いながら涙が込み上げてくるのを止められなかった。
「すみません、言いすぎました……」
樹里が電話口の向こうで慌てているのがわかる。
「でも、主任、誤解しないで下さい。主任が傷ついているのを観て見ぬふりは出来ないと思って……。主任にはさんざんお世話になってますし、私にとってはお姉さんみたいな存在だし……。お節介だとはわかってるんですけど。とにかく、お願いですから、無理しないで下さい。何でも手伝いますから」
樹里が必死になって言葉をつないでくれる。宏美は受話器を握り締めながら、頷いた。
復帰してから宏美はいつもと同じペースで仕事をこなしていた。時々樹里がこっそりと体調をうかがってくるが、無理やり笑顔を作って空元気を装った。
時々崩れ落ちそうになるような倦怠感や目眩もするが、そんな事はどうでも良かった。倒れるなら倒れればいい。このまま自分が壊れてしまえばいい。こんな愚かな自分なんぞ、このまま疲弊して磨耗して、粉々になって消えてしまえばいい。そんな投げやりな感情が宏美のアクセルを踏み続けていた。
おかしなもので、空元気でも虚勢でもその気になればとりあえず人は生きていけるらしい。家に帰るなりトイレに駆け込んで、胃がひっくりかえるほど吐いたとしても、朝の電車の中で貧血を起こして、途中下車した駅のホームのベンチでうずくまっていても、宏美の身体は毎日の生活を送ろうとあがくのだ。
自分の身体が自分の物でないような、心がどこか離れたところで自分を眺めているような、そんな乖離した感覚が苦痛を和らげている。空っぽになった宏美を何かが操っている、そんな気がした。
どうにかこうにか年度末の修羅場を乗り切り、新しい年度が巡ってきた。人事異動の辞令が正式に発布され、樹里から聞いた通り、田牧の異動が発表された。
宏美はぼんやりと掲示板に張り出された辞令を眺めた。周りの雑談も、人の足音も耳に入らない。全てがぼやけて現実味を失っていた。時間の流れさえも止まってしまったような気がした。
これで全てが終わるのだ。田牧は自分の前からいなくなる。望んでいた通りに田牧から解放される。ようやく麻薬から逃れることが出来る。なのに何故少しも嬉しくないのだろう。なんの安堵感も、開放感もない。心の底にぽっかりと空虚な穴が開いたような気がする。そこからは寒々しい風が隙間風のように吹き込んでくる。そしてその隙間風は宏美の心の輪郭をさらさらと風化させ、その存在を消してしまいそうだった。
残された時間は長くはない。もう一週間もすれば田牧は本社に帰る。麻痺した頭に囁きが聞こえる。このままでいいのか。本当にこのままでいいのか? 宏美の心の穴から何かがざわざわと蠢めきながら這い出ようとしていた。
田牧は自分のデスクを片付けるため、オフィスに残っていた。明日の朝には荷物を社内便で送ってもらう。明日の自分の仕事は各部署へのあいさつ回りだけだ。三年足らずの間だったが、結構色々と物が増えている。こまごました物を詰め込んだダンボール箱が三つ、四つと増えていき、デスクの上には乗り切らない。
ふうっと大きな息を着くと壁にかかった時計を見た。もう八時近い。
「そろそろ帰るか……」
オフィスには既に人気はなく、広々としたフロアーで灯りが着いているのは田牧のデスク周辺だけだった。
明日の段取りをアレコレ考えながら、ハンガーにかけてある上着を羽織った時、背後で人の気配を感じてぎくっとした。振り向くとパーテーションの陰からゆらりと人が出てきた。
「宏美……。おどろかすなよ」
思わず声を上げる。白い、小さな顔はここしばらくの間で随分と痩せたように見える。
「いよいよ明日で終わりね。ご栄転おめでとうございます」
冷ややかな表情を浮かべた宏美はわざとらしく頭を下げた。
「なんだよ、急に」
田牧は開き直ったように宏美に向き直ると僅かに口元をゆがめた。
「ずっとシカトしてたのに、今頃どうしたの? 寂しくなった?」
皮肉っぽい口調に、宏美は後ろのデスクにもたれると頸をかしげた。
「寂しい……そうね。ずっと寂しかったのかも」
視線を足元に投げかけ、伏せた睫毛が小さく震えて見えた。田牧はゆっくりと宏美に歩み寄る。不意に手を伸ばし、宏美の顎に手をかけると自分の方へと向けた。宏美は抵抗することなく顔を上げ、田牧を上目遣いで見つめた。視線が絡み合う。
「随分長い事ヘソ曲げてたよな。仲直り、したいって?」
田牧は宏美の身体を抱きしめた。オフィスには誰もいない。そして明日で自分はここから去る。そんなずるい計算が、田牧の欲望を刺激する。
宏美の背中にまわした手をゆっくりと下へと下ろしていく。
「こないだは悪かったよ」
そんな事を言いながら、田牧の口調にはどこにも悪びれた感はない。それどころか、遠慮も戸惑いもなく、宏美の身体をゆっくりと粘っこく愛撫し始める。
宏美は人形のように田牧の腕の中に抱かれたままだ。
田牧は宏美の無反応を無抵抗と取ったらしい。両手で宏美の肩を掴むと、そのままデスクの上に押し倒そうとする。宏美は両の肘をデスクにおいてなんとか上半身を支えた。
「月に一度は会議でこっちに来る。会おうと思えば、いつでも会える、だろ?」
田牧は宏美の首筋に顔を埋め、更に体重をかける。膝を使って宏美の両脚を割った。なんだかんだ言っても、コイツは自分から離れる事はない。その証拠にこうやって身体を開こうとしている。単身赴任最後の情事として、このまま、この場で、この女を味わうのも悪くない。そんな残酷な欲望が田牧の中に渦巻いているのが伝わってくる。
「……赤ちゃんが出来たの」
突然宏美が無機質な声で呟いた。
田牧の動きが止まる。赤ちゃん?
「この前よ。身に覚えがないなんて言わないよね?」
田牧は思わず身体を引こうとしたが、一瞬早く、宏美が田牧の背中を両手で抱きしめた。支えを失った宏美の上半身はそのままデスクの上に仰向けに倒れ、田牧が押し倒したような形になった。宏美の腕が田牧の背中に絡みつく。
「ヤりたいからヤッただけ。なのに子供って出来るのね。そんな事、考えたことなかったんじゃない?」
感情の消え失せた、冷え切った声が耳元で響き、田牧は背筋が寒くなった。
「……離せ」
宏美の身体から手を離し、なんとか身体を起こそうとするが宏美の身体は石のように重く、細い腕が触手のように田牧を絡め取る。
「なんで? このまま、ここでやりたいんでしょ? どうぞ。この間みたいに、やってよ。こういうの、好きなんでしょ。」
台詞とは不釣合いなぐらいに低い、凍りつくような声。田牧は宏美を引き離そうともがいたが、不自然な姿勢のままもがいているだけで宏美の呪縛から逃れられない。
「ちょっと、待て、とにかく離せ!」
「今まで通りだって言ったわよね。別れないって、あの時言ったわよね?」
唄うように呟きながら絡みついてくる女が得体の知れない妖怪に思える。田牧は必死で宏美の身体から逃れ、勢い余って床の上に転げ落ちた。
宏美はゆっくりと身体を起こすと上から田牧を見下ろす。
「なんで逃げるの」
じわじわと身をかがめ、田牧の上に覆いかぶさる。宏美の髪が田牧の顔に触れた。手を伸ばし、田牧のネクタイを緩めるとシュルシュルと抜いていく。
「どう? これで縛ってみる? ……ずっと縛り付けていてもいいのよ? そうしたかったんでしょ?」
「宏美、お前、どうかしてるぞ……」
田牧は震える声を振り絞った。薄暗いオフィスの中で、異様な光を宿した瞳に田牧は戦慄した。完全に正気を失っているとしか思えない。
「赤ちゃんの事、どうする? 奥さん、今まで通り知らん振りしてくれるかしら? ねえ、どう思う?」
「……産むなんて言うんじゃないだろう? 宏美、悪い冗談は止めろよ」
田牧は無理に笑いながらそう振り絞るように言った。宏美は小首をかしげる。
「なんで? 冗談なんかじゃないわよ。産んじゃだめなの? 本気よ、私」
「莫迦な事、言うなよ! ありえないだろ、そんな事!」
田牧は思わず怒鳴る。宏美は顔をじわりと田牧に近付けた。唇が触れそうな距離。抜いたネクタイをゆっくりと田牧の頸に巻きつける。このまま絞められるのではないかという恐怖に、田牧の身体は小刻みに震え、冷たい汗が背筋を流れていく。
「なんで? 子供がいればなによりも強い鎖になって、私を縛り付けてくれるわよ? 別れないって言ってくれたわよね」
白い細い指がゆっくりとネクタイに結び目を作っていく。
「こんなもので縛らなくても、私、あなたから離れられなくなる……」
宏美の指がネクタイの端を握り締めるのが見えた。じわじわとネクタイの輪が狭まってくるような気がした。
「いい加減にしろ!」
田牧は悲鳴にも似た声を上げると、宏美の手を握り、ネクタイを奪い取った。頸からそれを外し床に投げ捨てると、そのまま宏美の細い頸に手をかける。
「やめろやめろやめろ!」
無我夢中で喚き続ける。無意識のうちに思い切り宏美の喉を締め上げていた。ぐうっと言う唸り声ではっと我に返り、慌てて宏美の喉を解放する。
宏美はその場に倒れこみ、激しく咳き込んだ。
「宏美!」
慌てて宏美の顔を覗き込む。顔を紅潮させ、髪を乱して咳き込んでいる宏美の背中をうろたえながらさする。
しばらくして宏美は顔を上げ、田牧を見た。宏美の目からは涙が流れていた。
「嘘、よ……。赤ちゃん……、流れ……ちゃった。お腹は……空っぽ」
喘ぎながら呟く。田牧は石になったように動きを止めた。何を言っているのか理解できない。そんなマヌケな顔で、だらしなく口を半開きにしてまじまじと宏美を見ている。
長い沈黙が続いた。ふいに宏美が嗤いだした。何がおかしいのか自分でも判らなかったが、狂ったように宏美は嗤い続ける。嗤っているのに、なぜか涙も出てくるのだ。嗤いも涙も止められなかった。涙で流れてしまったマスカラを指で拭い取り、田牧のワイシャツの胸になすりつける。白いシャツについた黒い筋がまた滑稽に見えて、宏美はまた嗤う。
息も絶え絶えになりながら嗤い続けていたが、やがて宏美はよろろよろと立ち上がった。田牧のデスクの上に置いてあった段ボールを思い切り払い落す。茫然としている田牧がぶざまにうろたえながら落ちてくる段ボールから逃げた。宏美は嗤いながらデスクの上の段ボールを全て薙ぎ払い、何も無くなったデスクに両手をついて肩で息をしながら、ようやく嗤うのをやめた。そしておもむろに、冷ややかな瞳で田牧を見下ろした。慇懃無礼に頭を下げた。
「さようなら、お世話になりました。田牧部長」
そしてまた壊れたように嗤いながら、ふらふらと歩き出す。時々パーテーションにぶつかりながら、宏美の姿はオフィスの闇の中に消えていった。
散らばった段ボールの間で置き去りにされた田牧の耳にはいつまでも宏美の哄笑が響いていた。
*
梅雨が明ける頃、宏美は久しぶりにシャンティに現れた。週末の、少し早いランチタイム。店の中の客の姿はまばらだったが、相変わらず食欲をそそるいい香りと、厨房からの異国語が微かに漂っている。
「久しぶりですね、中川さん」
オーナーである原田はいつもの人懐こい笑顔で宏美を迎え入れた。
「おや、久しくお見かけしないと思ったら、随分とイメチェンですね」
宏美は照れ笑いしながら短く切った髪を一つまみ引っ張った。
「ちょっと短くしすぎちゃって、中学生みたいになっちゃったかも」
「そんな事ないですよ。ますます若くて可愛らしい。お似合いです」
宏美はいつものカウンター席についた。
「女性が髪を切るのは失恋した時だって言いますけど?」
原田は髭面に悪戯っ子のような笑みを浮かべながらお冷の入ったグラスを宏美の前に置いた。宏美はそれには答えず、苦笑いを浮かべた。
「刺激物食べるの久しぶりなんですよ。ちょっと胃を悪くしちゃて」
宏美がメニューを開きながら言うと原田はうーん……と唸ってメニューを指差した。
「じゃあ、この辺はいかがですか。野菜ベースで、辛さはお子様仕様にしましょうか?」
冗談とも本気とも取れるような原田の言葉に宏美は思わず笑い出した。
「じゃ、かぼちゃとチキン。お子様仕様でお願いします」
「はい。かしこまりました」
原田が髭面に人懐っこい笑顔を浮かべながら厨房に入っていく。宏美はその姿を見送りながら、久しぶりの空気をゆっくりと吸い込んだ。相変わらず刺激的な香辛料の匂い。ここしばらくは身体が香辛料を受け付けつけず、香辛料は避けてきた。最近になってようやく普通に食べられるようになったのだ。そうなったら急にシャンティの空気が懐かしくなった。
宏美はおしぼりで手を拭きながら、ぼんやりと思いをめぐらせた。
あの時何故あんな醜態をさらしたのか、自分でもわからない。田牧に復讐したかったのか。自分の想いをぶつけたかっただけのか。恨み言をいいたかったのか。あの場で抱かれたかっただけなのか。どれもそうだとも言えるし、どれも違うような気がする。ただ言えるのは、確かにあの時の自分は壊れていた。制御不能になった自分の感情に翻弄されるがまま、身体が動いた。
あの後、どうやって家にたどり着いたのか覚えていない。とにかく二日間寝込んでしまった。何をする気にもなれず、ベッドの上でさなぎのように丸まってひたすらぼんやりと過ごした。蝶になり損ねて、さなぎのまま、干からびて死んでしまうかもしれない。それも悪くない。どうせ私は蝶にはなれないのだから……。そんな事をぼんやりと思っていた。
それが二日目の昼過ぎ、お腹が鳴った。マヌケな音で、キュルキュルと。その音と、空腹感が妙に可笑しくて宏美は一人でくすくすと笑い出した。
こんなに落ち込んで、死にたいくらい惨めなのに、なんでお腹が減るのか。あの人無しでは生きていけないと思いつめているのに、なんでお腹が鳴るのか。なんと現実とはロマンを解さないことか。
そう思うと急に自分の悩みが莫迦莫迦しく思えてきた。そして自分の身体に愛おしさが湧いてきたのだ。宏美は笑いながら、いや泣きながら、這うようにベッドを抜け冷蔵庫の前に立っていた。
結果的にはこれで良かったのだと思う。田牧は恐れをなしたのか、あれっきりパッタリ音沙汰無しだ。月に一度は会議で出張してくると言っていたはずだが、会議にはテレビ電話での参加が続いているそうだ。なんでも経費削減のためと田牧自身が提案したらしい。
田牧の事を思い出さないと言えば嘘になる。ふいに田牧の声やぬくもりがフラッシュのように脳裏をよぎり、息苦しいような想いが甦りそうになることもある。しかし以前のような鋭い苦痛と言うよりは次第に鈍いぼやけた痛みへと薄らいできているのも確かだった。時間薬と言うやつだろうか。体調も少しずつ回復してきているようで、通勤途中で倒れたり、激しく嘔吐することも減ってきた。体重も少しずつではあるが、戻ってきているようだ。
しばらくしてから髪を切った。伸ばしていた髪は田牧の記憶を溜め込んでいるような気がした。田牧が触れた部分の全てをすっぱりと自分の身体から消し去りたかった。そうすれば、これから伸びてくる髪は新しい記憶だけを蓄積していく。
「お久しぶりです」
ふいに声をかけられ、我に返る。目の前に、サラダボールを手にした慎の姿があった。サラダを宏美の前に置くと照れくさそうに、
「髪、似合ってますよ」
と、言った。宏美が微笑みを返すと、頬に微かな照れ笑いを浮かべ厨房へと戻っていく。
穏やかな気分だった。宏美にとってここはまさしくシャンティそのものだ。ゆっくりと流れる時間の中で、心がほどけていくのを感じながら宏美は目を閉じた。
異国を感じさせる香りと空気。でもここに流れている空気は幻のものではなく、確かにそこに自分が存在しているという質量を感じる。それは空気に満ちている香りに、そこはかとない深みを感じるからだろうか。そう、幻には深みも、質量もない。
出てきたカレーを口に運んでいると原田が声をかけてくる。
「どうですか? 本当にお子様仕様だけど」
「大丈夫。辛くないけど、美味しい」
宏美が答えると原田は満足そうに頷いた。
「辛さがない分、旨味が引き立つでしょ?」
「辛いだけじゃ旨くない、旨味と深みがあるから旨いんだって。色んな味が馴染んでこそ旨いんだって、慎さんが言ってたっけ」
そう、いつだったか、慎がそう言った。確かに辛いけど、辛いだけじゃ旨くない。辛い中に色んな味が入って、色んな食材が入って、それが時間をかけてこなれて、馴染んで、それでようやく旨くなる。
「そう、その通り。まあ、なんですな、人生と同じですよ。酸いも甘いもかみ分けて、色んな経験をして、人としての深みが出る。カレーは人生だ! おお、いいキャッチフレーズが出来た」
原田は豪快に笑い出した。宏美は思わずむせかけて、慌てて水を飲む。
原田は笑いながら宏美のコップに水を注ぎ足す。宏美は涙目になりながら原田を軽く睨んだ。
「もう、笑わさないでくださいよ」
「失礼失礼。お詫びにチャイ、サービスしますよ」
原田は笑いながら奥へと引っ込んでいく。
「人生と同じ……か」
宏美はひとりごちた。
そう、かもしれない。今までの時間はこれからの私への材料の一つ……。そう自然に思えたら、少しは気楽に生きていけるだろうか。私のような気弱な旅人でも、砂漠の幻に惑わされず、一歩一歩砂を踏みしめて前へ歩いていけるだろうか。
宏美はカウンターの中の原田と慎をぼんやりと眺めた。あの二人もまた、自分とは全く違った、でもそれぞれ迷い漂いながら道を歩き続けてきた旅人なのだろう。
違う国から流れてきた人間が旅の途中のオアシスで、つかの間の休息を取っている。人の営みを感じさせる空気の中で、語らい、杯を酌み交わす。互いの旅の労苦をねぎらい、疲れを癒し合い、また明日から歩き始めるための活力を与え合う。明日からまた一人で続ける旅が始まる。蜃気楼に惑わされ、迷わされる事もあるかもしれない。でも今は人の温もりを感じたい。穏やかな質量のある平和を味わいたい……。
宏美は食べ終わった皿を引き上げる慎を見上げた。まともに目が合い、慎が照れくさそうな微笑を頬に浮かべる。
「チャイ、お持ちします」
「ありがとう」
宏美の頬にも柔らかな微笑が浮かんだ。
穏やかな時間がゆったりと流れていく……。
了




