第二十六話 三年分の記録を、全部読みました
卓の上に、帳簿を開きました。
ユリウス様が指しておられた頁です。二年前の九月、支払いの一覧でした。
「この符号ですか」
「ああ。丸の中に点があるものと、点がないものがある。……三か月考えたが、分からなかった」
「点があるほうは、待っていただける相手です」
ユリウス様が、顔を上げられました。
「待つ?」
「支払いを、です。十日を過ぎても、事情を書いた手紙を先に出せば、文句の出ない相手に点をつけております。点のないほうは、一日遅れただけで翌月の値が上がります」
「……それは、どこで決まっている」
「決まっておりません」
わたくしは、頁をめくりました。
「相手によります。ミュラー商会は三十年の付き合いですので待ちます。麻の商会は先代が代わったばかりで、こちらの顔を知りませんので待ちません。……商会の格ではなく、人です」
ユリウス様は、しばらく紙を見ておられました。
「では、この数字は」
「前年の同じ月です」
「なぜ書いてある」
「増えた減ったが分からないと、値上げに気づけませんので」
そのあとも、いくつか尋ねられました。
印のつけ方、綴じの分け方、余白に書いた小さな字の意味。ユリウス様は、ひとつずつ紙に書き取っておられました。
この方は、頭の悪い方ではございません。
三年間、一度も帳簿を開かれませんでしたが、開けば分かるのです。二刻ほどで、支払いの頁は読めるようになられました。
それは、たしかにそうなのです。
「……分かった」
ユリウス様は、ペンを置かれました。
「符号の一覧を、作ってくれないか」
わたくしは、顔を上げました。
「一覧、でございますか」
「ああ。今のように、全部の符号の意味を書いた紙があればいい。それを見ながらなら、私にも読める。……三日あれば書けるだろう」
「書けます」
「では」
「書けますが、三月で使えなくなります」
ユリウス様が、止まりました。
「点のつく相手は、毎年変わります。番頭が代われば変わります。先方の身内に不幸があれば変わります。わたくしは三年、その都度つけ替えておりました」
「……それは」
「一覧を作っても、つけ替える人間がいなければ、翌年には嘘の紙になります」
ユリウス様は、書き取った紙を見ておられました。
「では、どうすればいい」
「執事を雇うことです」
わたくしは、はっきりと申し上げました。
「三年前、グレアム様がお辞めになったとき、後任を入れるべきでした。入れなかったので、わたくしが代行しました。……今からでも入れられます。その方に、三月かけて引き継がせればよろしいのです」
「引き継ぐといっても、君がいなければ」
「わたくしでなくとも、できます」
部屋が、静かになりました。
「……できないだろう」
ユリウス様は、低い声で仰いました。
「三か月、探した。人は入れた。二人だ。二人とも、一月で辞めた」
「なぜです」
「分からないと言っていた。……前任者の記録が何も残っていない、と」
わたくしは、卓の上の帳簿を見ておりました。
そのとおりです。
わたくしが残さなかったからです。引き継ぎ書は、書きませんでした。
「ユリウス様」
「なんだ」
「それは、わたくしの落ち度でもございます」
ユリウス様が、顔を上げられました。
「三年分の記録を、わたくしは全部、自分の手帳に書いておりました。家の帳簿には数字だけを残して、誰が待てて誰が待てないか、どの使用人が何を苦手としているかは、わたくしの私物のほうに書きました」
「……なぜ、そんなことを」
わたくしは、少し黙りました。
この質問に、正直に答えるつもりはございませんでした。
ですが、この方は三か月、毎晩あの帳簿を開いておられます。それに対して嘘を並べるのは、こちらの筋が悪いように思いました。
「わたくししか分からないようにしておけば、追い出されないと思ったからです」
ユリウス様が、目を見開かれました。
「……追い出される?」
「はい」
「君を、誰が」
「あの家の、皆様です」
わたくしは、卓の上で手を組みました。
「わたくしは、あの家に入って三月で、自分が歓迎されていないことを理解いたしました。夫人はわたくしを『話が合わない』と仰った。使用人はわたくしを怖がりました。……ユリウス様は、わたくしとひと月、口をきかれない時期がありました」
「……そんなことが」
「二年目の春です。二十七日でございました」
数えておりました。数えずにいられませんでした。
「ですから、必要な人間になろうとしました。わたくししかできない仕事を増やせば、追い出されないと思ったのです。三年かけて、増やしました」
わたくしは、帳簿を閉じました。
「その結果が、今のあの家です。……半分は、わたくしのせいでございます」
ユリウス様は、何も仰いませんでした。
それから、こう仰いました。
「……だったら、なおさらだ」
「と、申しますと」
「君が戻れば、全部解決する」
わたくしは、その言葉を聞いて、少しのあいだ動きませんでした。
今、わたくしは三年間の自分の罪を申し上げたつもりでおりました。
この方はそれを聞いて、「戻れば解決する」と仰いました。
「ユリウス様」
「ああ」
「解決するのは、どなたの問題でしょうか」
「……何を言っている」
「わたくしが戻れば、あの家は回ります。それは確かです。ですが、わたくしが三年かけて作ってしまった仕組みは、そのまま残ります。四年目も五年目も、わたくしがいないと回らない家のままです」
「……」
「わたくしが四十になって、倒れたらどうなりますか」
ユリウス様は、答えられませんでした。
*
そのあと、茶が二度替わりました。
話が途切れたところで、ユリウス様がぽつりと仰いました。
「リリアのことだが」
わたくしは、茶碗を置きました。
「あれは、もう、屋敷にいない」
「……お帰りになったのですか」
「いや、いる。いるが、部屋から出てこない」
ユリウス様は、額を押さえられました。
「使用人の間で、あの子のせいだという話になっている。あの子が鍵を預かって錠を壊した、あの子が朝食の時刻を毎日変える、と。……根も葉もない話ではないから、止められなかった」
「ユリウス様は、何と仰いましたか」
「……私も、少し当たった」
わたくしは、茶碗の中を見ておりました。
「一度だけだ。朝食が三度に分かれて出てきた日に、なぜこんなことになるのかと言った。あの子は泣いて、それきりだ」
この方は、誰も守らないのです。
悪意ではありません。悪意なら、まだ分かりやすうございます。
ただ、目の前で困っている人間を見ても、その人が何に困っているのかを調べようとなさらない。困っている、という事実だけを見て、苛立たれる。
三年前、わたくしがそうでした。
今は、リリア様です。
「ユリウス様」
「なんだ」
「あの方は、笑うことしか教わっておりません」
「……は?」
「男爵家の三女です。お家は裕福ではございません。笑っていればかわいがってもらえると教わって、十年それでやってこられた方です」
「……それが、何だ」
「鍵の開け方を、どなたも教えていらっしゃらない」
ユリウス様は、分からないという顔をしておられました。
本当に、分かっておられないのです。
*
その夜、玄関の間を出るとき、ユリウス様が後ろから仰いました。
「アデライン」
「はい」
「明日、もう一度、時間をくれないか」
「明後日の便で、お発ちになるのでしょう」
「一日、延ばす」
わたくしは、振り返りました。
「延ばして、何をなさいますか」
「……考える」
ユリウス様は、そう仰いました。
「三か月、帳簿を読んだ。読んで、分からなくて、ここまで来た。……君の話を聞いて、まだ分からないことが増えた」
「はい」
「だから、一日、考える」
わたくしは、少しだけ、意外に思いました。
この方が「考える」と仰ったのを、三年と四か月で、初めて聞きました。




