↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/25

第二十四話 あれは「教育」だったそうです

夕方、わたくしは手帳を一冊持って、客間へ参りました。


 一冊目です。表紙に何も書いていない、分厚いものです。


「夫人。お尋ねの件で、ご覧いただきたいものがございます」


 わたくしは、それを卓に置きました。


「三年間、わたくしがつけていた覚え書きです。今日お発ちになる前に、ひと目だけ」


 夫人は、手を伸ばして開かれました。


 三頁目に、その名前があります。


 ――マルタ。手先が細かい。ただし高い場所が苦手。梯子を使う仕事は回さない。


 夫人の指が、止まりました。


 その頁には、他にも並んでおります。


 ――ペーター。朝が弱い。八時からの持ち場に入れると調子がよい。叱ると三日引きずるので、注意は短く。  ――ヨーゼフ。字が読めない。書付の指示は出さず、口で伝える。本人は隠しているので、人前で紙を渡さない。  ――アンナ。上の子が病がち。月の頭に二日、休みを入れる。理由は訊かない。


 夫人は、めくられました。


 四十一人分あります。三年かけて書いたものです。


 めくる音だけが、しばらく続きました。


 そして、十頁ほど進んだところで、夫人が顔を上げられました。


 わたくしは、そのお顔を見て、少し息が止まりました。


 感心しておられるのでも、驚いておられるのでもなかったからです。


 困惑しておられました。


「……アデラインさん」


「はい」


「こんなもの」


 夫人は、手帳を卓に置かれました。


「誰も、頼んでおりませんでしょう」


 部屋が、静かになりました。


「頼まれてはおりません」


「そうでしょう。……でしたら、それはあなたが勝手になさったことですわ」


 夫人は、背筋を伸ばされました。


 声に、力が戻っておりました。


「勝手になさったことを、誰も見ていなかったと怒るのは、筋が違うのではございませんこと?」


 わたくしは、卓の上の手帳を見ておりました。


「夫人」


「ええ」


「では、この覚え書きがなければ、あの家はどうなっておりましたか」


「……」


「現に、なっております」


 夫人は、口を閉じられました。


 そして、しばらくしてから、こう仰いました。


「……わたくしも、苦労しましたのよ」


 来た、と思いました。


「わたくしがこの家に嫁いできたのは、十九のときです。先代の奥様は、それは厳しい方でしたわ。朝から晩まで小言を言われて、客の前で恥をかかされて、実家に帰りたいと泣いた晩もございます」


 夫人は、膝の上で手を組まれました。


「けれど、耐えました。耐えて、やり方を覚えて、この家の女主人になりましたの」


「はい」


「あれは、教育ですわ」


 夫人は、はっきりと仰いました。


「誰もが通る道です。あなただけが特別だと思うのは、およしなさい」


     *


 わたくしは、そのとき、自分でも意外なほど静かな気持ちでおりました。


 怒鳴りたくなるかと思っておりました。そうはなりませんでした。


 ただ、ひとつ分かったことがあります。


 この方は、悪意でわたくしを扱っていたのではないのです。


 十九で嫁いで、五年か十年か、同じことをされて、耐えて、そして「これは教育だ」と自分に言い聞かせたのでしょう。そう言い聞かせなければ、あの五年か十年が、ただの理不尽になってしまいますから。


 そして、自分がされたことを、そのまま次の娘に渡されました。


 渡すことで、ご自分の過去が正しかったことになるからです。


 これは、連鎖です。


 夫人の代で始まったものではありません。先代の奥様も、たぶん同じことをされて、同じことを言われたのでしょう。


「夫人」


「なんですの」


「お話は、よく分かりました」


「では」


「では、その道は、わたくしで終わりにいたします」


 夫人が、こちらを見られました。


「……なんですって」


「わたくしは、誰にも同じことをいたしません。通す道にも、しません」


 わたくしは、卓の手帳を取って、胸のところで抱えました。


「そして、夫人」


「……」


「リリア様には、同じことをなさらないでください」


 夫人の肩が、動きました。


「あの方は今、二十七本の鍵を預かっておられます。どれがどの扉のものかを、誰も教えておりません。文書庫の錠を噛ませたそうですが、それはあの方の不注意ではありません。教えられていないだけです」


「……なぜ、それを」


「王都から人が来れば、話は流れてまいります」


 わたくしは、扉のほうへ歩きました。


「あの方は、笑うことしか教わっておりません。わたくしが帳簿しか教わらなかったのと、同じです」


「アデラインさん」


「はい」


「……あなた、あの娘を庇いますの」


「庇ってはおりません」


 わたくしは振り返りました。


「わたくしは、あの方に笑いかけられたことも、助けられたこともございません。あの夜会で、あの方が『おかわいそうです』と仰ったおかげで、わたくしは百人の前で憐れまれる女になりました。あれは今も、腹が立っております」


「では、なぜ」


「あの方が潰れても、わたくしの三年は返ってこないからです」


     *


 翌朝、夫人は六時の便で発たれました。


 わたくしは玄関まで見送りに出ました。出る義理はありませんでしたが、四か月前、誰も見送りに来なかった朝のことを思い出しましたので、出ました。


 夫人は馬車に乗る前に、一度だけ振り返られました。


「アデラインさん」


「はい」


「ひとつだけ、申し上げておきますわ」


 夫人は、扇を開かれませんでした。


「ユリウスは、三年間、あなたのことを一度も名前で呼びませんでしたの」


 朝の風が、冷たうございました。


「あの子はいつも『彼女』と申しました。『彼女に言っておいてくれ』『彼女がやるだろう』と。……わたくしも、そうでした」


 夫人は、そこで少し、目を伏せられました。


「昨日、数えたと申しましたでしょう。三十一人」


「はい」


「あれを数えているあいだ、わたくし、ずっと気持ちが悪かったのですわ。何か、喉に引っかかっているような」


「……」


「今朝、分かりました」


 夫人は、馬車に足をかけられました。


「あの家では、誰もあなたを呼ばなかった。呼ばないものは、そこにいないのと同じですわね」


 扉が閉まりました。


 馬車は、六時ちょうどに出ました。


     *


 見送って、城へ戻る途中、ハンナが隣に並びました。


「奥様」


「はい」


「あの方は、謝られましたか」


「二度、頭を下げられました」


「……許されますか」


 わたくしは、少し考えました。


「許すも許さないも、わたくしには関係のないことです」


「と、申しますと」


「あの方が謝られたのは、あの方の問題です。わたくしがそれをどう扱うかは、わたくしの問題です。……混ぜると、ややこしくなります」


 ハンナは、少し笑いました。


「相変わらず、帳面のようなお考えでございますね」


「褒め言葉として受け取ります」


     *


 その十二日後でした。


 二台目の馬車が、峠を越えてまいりました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。