第二十四話 あれは「教育」だったそうです
夕方、わたくしは手帳を一冊持って、客間へ参りました。
一冊目です。表紙に何も書いていない、分厚いものです。
「夫人。お尋ねの件で、ご覧いただきたいものがございます」
わたくしは、それを卓に置きました。
「三年間、わたくしがつけていた覚え書きです。今日お発ちになる前に、ひと目だけ」
夫人は、手を伸ばして開かれました。
三頁目に、その名前があります。
――マルタ。手先が細かい。ただし高い場所が苦手。梯子を使う仕事は回さない。
夫人の指が、止まりました。
その頁には、他にも並んでおります。
――ペーター。朝が弱い。八時からの持ち場に入れると調子がよい。叱ると三日引きずるので、注意は短く。 ――ヨーゼフ。字が読めない。書付の指示は出さず、口で伝える。本人は隠しているので、人前で紙を渡さない。 ――アンナ。上の子が病がち。月の頭に二日、休みを入れる。理由は訊かない。
夫人は、めくられました。
四十一人分あります。三年かけて書いたものです。
めくる音だけが、しばらく続きました。
そして、十頁ほど進んだところで、夫人が顔を上げられました。
わたくしは、そのお顔を見て、少し息が止まりました。
感心しておられるのでも、驚いておられるのでもなかったからです。
困惑しておられました。
「……アデラインさん」
「はい」
「こんなもの」
夫人は、手帳を卓に置かれました。
「誰も、頼んでおりませんでしょう」
部屋が、静かになりました。
「頼まれてはおりません」
「そうでしょう。……でしたら、それはあなたが勝手になさったことですわ」
夫人は、背筋を伸ばされました。
声に、力が戻っておりました。
「勝手になさったことを、誰も見ていなかったと怒るのは、筋が違うのではございませんこと?」
わたくしは、卓の上の手帳を見ておりました。
「夫人」
「ええ」
「では、この覚え書きがなければ、あの家はどうなっておりましたか」
「……」
「現に、なっております」
夫人は、口を閉じられました。
そして、しばらくしてから、こう仰いました。
「……わたくしも、苦労しましたのよ」
来た、と思いました。
「わたくしがこの家に嫁いできたのは、十九のときです。先代の奥様は、それは厳しい方でしたわ。朝から晩まで小言を言われて、客の前で恥をかかされて、実家に帰りたいと泣いた晩もございます」
夫人は、膝の上で手を組まれました。
「けれど、耐えました。耐えて、やり方を覚えて、この家の女主人になりましたの」
「はい」
「あれは、教育ですわ」
夫人は、はっきりと仰いました。
「誰もが通る道です。あなただけが特別だと思うのは、およしなさい」
*
わたくしは、そのとき、自分でも意外なほど静かな気持ちでおりました。
怒鳴りたくなるかと思っておりました。そうはなりませんでした。
ただ、ひとつ分かったことがあります。
この方は、悪意でわたくしを扱っていたのではないのです。
十九で嫁いで、五年か十年か、同じことをされて、耐えて、そして「これは教育だ」と自分に言い聞かせたのでしょう。そう言い聞かせなければ、あの五年か十年が、ただの理不尽になってしまいますから。
そして、自分がされたことを、そのまま次の娘に渡されました。
渡すことで、ご自分の過去が正しかったことになるからです。
これは、連鎖です。
夫人の代で始まったものではありません。先代の奥様も、たぶん同じことをされて、同じことを言われたのでしょう。
「夫人」
「なんですの」
「お話は、よく分かりました」
「では」
「では、その道は、わたくしで終わりにいたします」
夫人が、こちらを見られました。
「……なんですって」
「わたくしは、誰にも同じことをいたしません。通す道にも、しません」
わたくしは、卓の手帳を取って、胸のところで抱えました。
「そして、夫人」
「……」
「リリア様には、同じことをなさらないでください」
夫人の肩が、動きました。
「あの方は今、二十七本の鍵を預かっておられます。どれがどの扉のものかを、誰も教えておりません。文書庫の錠を噛ませたそうですが、それはあの方の不注意ではありません。教えられていないだけです」
「……なぜ、それを」
「王都から人が来れば、話は流れてまいります」
わたくしは、扉のほうへ歩きました。
「あの方は、笑うことしか教わっておりません。わたくしが帳簿しか教わらなかったのと、同じです」
「アデラインさん」
「はい」
「……あなた、あの娘を庇いますの」
「庇ってはおりません」
わたくしは振り返りました。
「わたくしは、あの方に笑いかけられたことも、助けられたこともございません。あの夜会で、あの方が『おかわいそうです』と仰ったおかげで、わたくしは百人の前で憐れまれる女になりました。あれは今も、腹が立っております」
「では、なぜ」
「あの方が潰れても、わたくしの三年は返ってこないからです」
*
翌朝、夫人は六時の便で発たれました。
わたくしは玄関まで見送りに出ました。出る義理はありませんでしたが、四か月前、誰も見送りに来なかった朝のことを思い出しましたので、出ました。
夫人は馬車に乗る前に、一度だけ振り返られました。
「アデラインさん」
「はい」
「ひとつだけ、申し上げておきますわ」
夫人は、扇を開かれませんでした。
「ユリウスは、三年間、あなたのことを一度も名前で呼びませんでしたの」
朝の風が、冷たうございました。
「あの子はいつも『彼女』と申しました。『彼女に言っておいてくれ』『彼女がやるだろう』と。……わたくしも、そうでした」
夫人は、そこで少し、目を伏せられました。
「昨日、数えたと申しましたでしょう。三十一人」
「はい」
「あれを数えているあいだ、わたくし、ずっと気持ちが悪かったのですわ。何か、喉に引っかかっているような」
「……」
「今朝、分かりました」
夫人は、馬車に足をかけられました。
「あの家では、誰もあなたを呼ばなかった。呼ばないものは、そこにいないのと同じですわね」
扉が閉まりました。
馬車は、六時ちょうどに出ました。
*
見送って、城へ戻る途中、ハンナが隣に並びました。
「奥様」
「はい」
「あの方は、謝られましたか」
「二度、頭を下げられました」
「……許されますか」
わたくしは、少し考えました。
「許すも許さないも、わたくしには関係のないことです」
「と、申しますと」
「あの方が謝られたのは、あの方の問題です。わたくしがそれをどう扱うかは、わたくしの問題です。……混ぜると、ややこしくなります」
ハンナは、少し笑いました。
「相変わらず、帳面のようなお考えでございますね」
「褒め言葉として受け取ります」
*
その十二日後でした。
二台目の馬車が、峠を越えてまいりました。




