第1話
昔から、何をやっても兄の方が上だった。水泳も、ピアノも、勉強も、多分、それ以外のことも。
よく頑張ったねと言われるたびに、僕はそれが褒め言葉だとわかっていても、どこか釈然としなかった。
そんな僕、岩本七海だが、放課後の教室で、6人とだらだらしていた。
「凛玖、それ絶対ウソだろ」と蔵人が笑う。
一之瀬蔵人は幼馴染で、小さい頃からずっと一緒にいる。気の置けない人物だ。
笑われている葛西凛玖は、学年1位で勉強もできて、配信もバンドも恋愛リアリティ番組もやっている。兄に唯一勝てる人間が、こういう人間であることを、僕はどう思っているのかよくわからない。
机の端では砂原彰人が内藤優の背中を叩いていて、優は「痛い」と言いつつ笑っている。うるさいのに、あの2人を見ていると何となく落ち着く。
少し奥でゲームをしているのが上村杏慈と十王伊吹だ。「その動き、論理的におかしい」と杏慈が言ったが、伊吹はそれに答えなかった。
そんな6人のことを眺めていると、スマホが振動した。画面を見ると、幼馴染の石川希からだった。
『ねえ、今どこにいる?ちょっといい?』
一瞬、息が止まった。止まった理由を、僕はすぐに自分に説明できなかった。
僕は『今クラスにいるけど、凛玖たちがいるから場所変えたい』と返信してスマホの画面を閉じた。
「ごめん。ちょっと希に呼ばれたから行くわ」
僕がそう6人に告げると、真っ先に凛玖と彰人が食いついてきた。
「おいおい、まじか!」
「これって…もしかしてもしかしてー?!」
2人が超興奮気味に詰め寄ってくる。
「絶対そんなのじゃないから。あんま期待しない方がいいよ」
そう凛玖と彰人に言い残して、僕は教室を出た。2人にはあんなに冷めた反応をしていたが、実のところ僕も内心気が気でなかった。
何を言われるのか、何の要件なのか、全く見当がつかなかった。考えながら歩いていると、前から呼び出した相手が歩いてきた。
希は近くの空き教室に僕を連れ込んだ。
「何の用?」
僕は聞きたくてたまらずに、思わず口を開いてしまった。
「えっと……あのさ、七海…」
希は顔を徐々に赤くさせて、語尾を小さくさせながら話す。正直スパッと言って欲しい部分はある。
「……六月のさ…部活の予定………教えて欲しいな…」
これを聞いて、今まで募らせていた疑念が解消された。
僕は内心で小さく笑った。期待していた自分が、少し馬鹿みたいだった。
「……え、ああ…確か、今度の土曜日に練習試合があるって言ってた」
僕のその言葉を聞いた途端に、希は顔を明るくさせてこう続けた。
「ほんと!?じゃあさ、六月に試合行っていいか聞いてくれない?」
「まあ…いいけど。……あのさ希、何で兄さんに直接聞かないの?」
「何でって、恥ずかしいじゃん。……気になる人に直接聞くの、緊張するよ」
気になる人、と言う言い方をしたのはおそらく希なりの気遣いだと思う。
「……そう、なんだ。じゃあ僕はこれで…」
僕は希に背を向け歩こうとする。何だか足元が頼りない。気になる人、という言葉の中身を、僕はとっくに知っていた。
兄さんは、本当に何もかもを持っていく。
「待って七海!」
この場を立ち去ろうとしたところに、希が呼び止める。
「ありがとね、いつも私の言うこと聞いてくれて」
僕は振り返りもせず再び足を進めた。
このまま6人のところに戻ろうとするが、どうも足が進まない。みんなに合わせる顔がないんだ。
でも戻るしかない。このまま帰るつもりがなかったから、カバンも何も持ち合わせていなかった。
重い足を進めて何とか教室に戻ってきた。僕が帰ってきたのを確認して、彰人と凛玖、そして優も僕の方へ詰めかけてきた。
「七海、どうだったんだよ!」
「希ちゃんになんて言われたんだ?!」
「告白された?」
3人の顔を見て、僕は少し笑った。
「違う違う。六月の部活の予定聞かれただけ」
一瞬、3人の顔から表情が抜けた。ゲームをしていた杏慈も伊吹も、そして蔵人も驚いたようにこちらを見てくる。
「……え、それだけ?」
「うん、それだけだよ」
「いや、流石に冗談だよな?」
「むしろ冗談じゃないとおかしいだろ」
優も杏慈も伊吹もみんな冗談だと言ってくる。冗談だと思いたいのは僕も一緒だ。
「まあ残念なことに、これが冗談じゃないんだな」
自嘲を含んだ笑いでみんなに言ってみせる。しばらくの間、誰も何も言わなかった。
「まあ…七海、今度ファミレス奢るわ」
そう言って、可哀想な人を見る目で蔵人が僕の肩に手を置いてくる。実際に可哀想な人なのだが。
「気持ちはありがたいよ蔵人…」
それからしばらくして、僕は1人で帰ることにした。いつもは7人で学校の最寄り駅の押上駅まで歩いているのだが、流石に今日はもう、誰かと一緒にいる気力がなかった。
蔵人も気を遣って「一緒に帰ろう」と言ってきたが、それを受け入れることが今の僕にはできなかった。
昇降口で靴を履き替えながら、ため息をついた。
僕は校門をくぐって駅の方に向かおうとすると、そこに見覚えのある人影があった。
「……あれ、七海?奇遇だね、こんなところでどうしたの?」
そこに立っていたのは僕の幼馴染で、希の姉である石川燕だった。彼女は去年…というより今年の3月まで黒髪ロングの清楚系といった感じの人だったが、4月になってからいきなり髪を染め始め、性格も今までよりもっと明るくなって、典型的な大学デビューを果たしていた。
そんなデビューした後の彼女の姿を初めて見た時は、腰を抜かしそうになるくらいに驚いた。
「……え、燕?何してるも何も、ここ僕の学校だし。下校してるんだよ」
「そうなんだ。いやぁ、こんなところでまさか会うとは思わなかったよ」
「いや、絶対出待ちかなんかしてたでしょ。こんな駅からちょっと離れた何もないところで、一体何の用事があるっていうの?」
「まあまあ、七海くん。細かいことは気にしなくていいんだよ」
「くん付けやめて」
「えー、でも七海くんは七海くんでしょ」
「でもじゃなくて」
そんなくだらない小競り合いをしているうちに、嫌なことを考える余裕がなくなっていた。
「まあ、こんなところで喋らないでさ、早く行こうよ。私、行きたいところがあるんだよね。七海もついてきてよ、暇でしょ?」
「決めつけやめてくれない?……まあ暇なんだけど」
「じゃあ決まりね。私についてきて」
そう言って燕は先をずんずん進んでいく。僕はその後を辿っていく。
断る理由を探したが、いくら探しても見つからなかった。いや、正確には、見つけたくなかったのかもしれない。
10分くらい歩いて僕らは言わずと知れた東京の観光名所、東京スカイツリーの麓にある東京ソラマチに来た。
そしてソラマチの中に入ってやってきたのは、地下駐車場だった。
「燕って、何でこんないい車乗ってんの?」
燕が乗っている車はRX-7という車で、その流れるようなボディラインと、どこか挑戦的なライトの造形には目を奪われる。
スカイツリーという最新の電波塔の真下、コンクリートに囲まれた無機質な地下駐車場で、その鮮やかな車体は異質な存在感を放っていた。
「いい車でしょ? 私の相棒なんだ」
燕は自慢げに鍵を指先で回しながら、運転席のドアを開ける。
さっきまで、僕の心は泥みたいに重く沈んでいたはずだった。それなのに、燕の強引なペースと、このガソリンの匂いが混じった地下の空気感のせいで、嫌な思考が強制的に上書きされていく。
「何でってそういうことじゃないわ。どうやってゲットしたっていうことだよ」
「そういうことね。これは…なんかお父さんが乗ってたやつを無理やり私のにした」
「相棒っていう割には、おじさんがかわいそうだな…」
「これが『寝取り』ってやつだよ」
「言い方」
自分でもびっくりするくらい、すんなりツッコミが出た。
「細かいことは気にしない、ってさっき言ったでしょ? ほら、助手席空いてるよ」
僕は促されるまま、低い車体に身体を沈めた。
バケットシートが僕の細い身体を包み込む。教室の椅子とは比べものにならないホールド感。隣では燕が慣れた手つきでエンジンをかけた。
低い、重低音の咆哮が地下駐車場に響き渡る。心臓の鼓動とエンジンの振動が重なって、耳の奥が熱くなった。
「そういえば、行きたいところがあるって、どこ行きたいの?」
車を走らせているうちに僕は行き先が気になり出して、思わず聞いてしまった。
「カフェ。この前インスタで見てさ、行ってみたいなって思って」
「そのカフェはどこにあるの?」
「錦糸町だから、そんなに遠くないよ」
そう言って燕は車をさらに加速させ、四つ目通りを法定速度ギリギリで爆走して、錦糸町にあるカフェに向かって車を走らせた。
窓の外を夕方の街が流れていく。燕はずっとハンドルを叩きながら鼻歌を歌ったり、僕に話しかけてきていたが、突然錦糸町駅のあたりで、燕がふと黙った。
信号待ちの間、燕が真顔になった。そして何かを言いかけてやめた。
「……どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
エンジンが再び唸る。その「なんでもない」が、どうも引っかかった。
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