円環の静寂〜子の国の王と、宰相の片思い〜
長編で異世界転移×人外を書こうかなぁと思っている中、キャラの生い立ちや周りの国を考えていたときに思いつきました。本編はまだ文章にはできていません。
氷の張った湖底にいるかのような静寂。
その部屋に響くのは、紙を削るペンの音だけだった。
――子の国の王、春。
情報を司る子の国は、常に書類の山に追われている。
栗色の柔らかな髪の毛に隠された大きな瞳は、ひたすら書類へと向かっていた。
その静寂を断ち切るように、重厚な黒檀の扉が、低い呻きを上げて開いた。
「失礼いたします」
抑えられた、けれど芯の通った声と共に、銀の茶器を載せたワゴンを押して一人の女性が現れる。
彼女の名は、氷雨
凍てつく雨の名を冠する、この国の宰相である。
彼女が踏み出すたび、執務室の冷気は一層その密度を増していくようだった。
「氷雨か。ちょうど一息つこうと思っていた」
春は髪をかきあげて、氷雨に視線を移す。
「お茶を淹れますね、本日は虎の国の茶葉を用意しております」
氷雨の頭の上の耳が少しピクっと動き、静かにお茶を淹れ始める。春は書類が置いてある机から離れ、綺麗な花の模様が入ったテーブルクロスが引いてあるローテーブルに移動しようとしていた。
氷雨は背を向けてお茶と茶菓子をお盆に用意しようとしていると、春がすぐ後ろまで来ていた。
「このお茶、凄く良い香りだね」
背後に落ちた主の影に、氷雨の背筋がわずかに強張る。彼が発する春のような体温と、虎の国の茶葉が放つ鋭い香りが混ざり合い、彼女の理性を静かにかき乱した
人間と違い、頭の上に耳がついているため、氷雨より10cmほど身長が高い春が後ろで話すと自然と息が耳にあたる。
氷雨は表情を変えずに「そうですね」と呟くように返事するも、鉄の仮面のような無表情とは裏腹に、その耳は主の吐息を拾って小刻みに震え、隠しようのない恋情を尻尾の先まで伝播させていた。
春はお茶の香りを堪能すると、氷雨の腰に下げられた革のポシェットから飛び出ている手紙に手を伸ばす。
氷雨は春との距離の近さに胸が高鳴るも、気づかれないようにお茶を淡々と準備していた。
「俺宛?」
耳元で囁くような柔らかな声。
氷雨は、自分の心臓の音が彼に聞こえてしまわないか、それだけが怖かった。
「はい、虎の国の宰相からでございます。」
この1分程度の時間がやけに長く感じたが、春は手紙を抜き取るとソファに重く腰掛けた。
春は手紙に視線を落とした瞬間、春の瞳から温度が消えた。
睫毛の影が頬に落ち、そこには人間界の「ハル」ではない、50年の時を子の国に捧げた王の冷徹な知性が宿っている。
氷雨は春の表情を確認し、お茶とお茶菓子をテーブルに並べていく。
春は自分に用意されたお茶を見てに氷雨に「氷雨、自分の用意しな」と声をかけ、またすぐに手紙へと視線を移す。
氷雨は「……はい」と小さく応え、彼の許しを得てその傍らに腰を下ろす。
「……虎の王、また亡くなったんだな」
春がこの世界に来てから、約50年という年月が経とうとしていた。その中で、虎の王が入れ替わるのは何度目だろうか。
「…虎の国は王が定着しませんね。」
氷雨の言葉には、情報のプロとしての冷ややかさと、隣国の混迷を憂う微かな情が混ざっていた。
「この前の王、結糸は人間界ではわずか7歳だったからね。俺が何かサポートできれば良かったけど。」
「それは虎の国の宰相の力不足であると私は思います、王が気にすることではありません」
今まで淡々と言葉を発していた氷雨だが、虎の国の宰相に対しては、自分も同じ立場だからか、少し厳しい言葉をかけた。
「結糸が来て、こっちの世界では2年だけど、人間界では2、3ヶ月だからね。身体も心も追いついていなかったんだろうね。」
静かな執務室に、虎の国の茶葉の香りと、それとは正反対の重苦しい「死」の気配が満ちていく。
「虎の国は王が定着しないせいか、聞くたびに情勢が悪化している。民の不安が爆発しなければ良いけど……」
春は、手紙の縁をなぞる。
自分の国(子)を安定させるために費やした50年。対して、常に血の匂いと動乱が絶えない虎の国。
春は自分がこの世界に来てからのことを思い出していた。人間界では人の視線が怖くて、人間不信になっていた。しかし今は氷雨を始め、多くの人に支えられ、国のために奮闘する毎日だ。
人間界で15歳だった自分でもいきなり王になれ、と言われ戸惑わないほうが難しかった。7歳には想像も絶する負担だっただろう。
「私は結糸殿とお会いしたときは、少なくとも王と楽しそうに話されていた姿を知っています。悪いことをばかりではなかったはずです。」
氷雨の気遣いに春は少し微笑んだ。
「氷雨は本当に優しいね」
「私は事実を言ったまでです。」
氷雨はまた耳をピクピクさせて、静かにお茶を飲む。
春は、手紙の最後の一枚をめくった。そこには、結糸亡き後、新たに「寅の理」を継いだ者の名が記されている。
『新王:寅の理を継ぎし者。名、○○○○。性別、女。年齢、十八』
「18……。俺がここに来た時よりは年上か。」
春の指先が、その少女の名をそっと撫でる。
虎の国は元々武闘派であり、宰相含め宮殿内も屈強な男性が多いイメージだ。そんな血気盛んな虎たちの檻の中に、放り込まれたばかりの18歳の少女。
「情報のプロでも、これ以上の詳細はまだ掴めていないということだね、氷雨」
「はい。昨日即位したばかりということもありますが、虎の国は現在、外部からの接触を極限まで断っています。この手紙のみ、各国へ届けられたものだと思われます」
「次の虎の国の王は女性らしい、僕が知る限りは初だね。」
春は手紙の余白に視線を落とし、自身の掌を見つめた。あの頃より、掌は少しばかり大きくなったきがした。
(この世界に降り立ってから、50年の月日が流れた。
この世界の理従えば、人間界での時間はわずか5年。
14歳でアイドルデビューして、人を信じれなくなったあの日から、自分は何か変われているんだろうか。)
「18………俺はもう、20か………」
彼が知る「5年」は、スポットライトの裏で人間不信に陥り、世界に絶望した記憶で止まっている。だが、手紙の中の少女は、つい昨日まで「現代」の空気を吸っていたのだ。
春は、自分に用意された温かい茶を一口啜った。虎の国の茶葉が放つ力強い香りが、鼻腔を抜ける。
「氷雨」
「はい、王よ」
氷雨が真っ直ぐと春を見つめる。
「彼女は……この○○○○という虎の王は、今頃、泣いていると思うか? それとも、あまりの理不尽さに立ち尽くしているかな」
氷雨は、主の瞳の奥に宿る、どこか傷ついたような瞳を見つめ、静かに答えた。
「……どうでしょう。王が来られたときは、涙目でしたね。案外すんなり、運命を受け入れてるかもしれません」
春は意外そうに目を丸くし、それから今日一番の、年相応な笑みを浮かべた。
「はは……。そうだった。彼女は俺より強い人かもしれない、俺なんかよりもずっと王に向いているかも。」
氷雨は何か声をかけようとしたが、上手く言葉が出てこなく、その場で春と一緒にお茶を飲むことしかできなかった。
暫く穏やかな時間が流れたあと、春は業務に戻るため立ち上がった。
「氷雨はまだゆっくりしてなよ」
「私も業務がありますので、これにて失礼します。」
「そうか」
春の自然は既に書類に向けられていた。氷雨の耳が少し垂れていることには気付いていないだろう。
氷雨はなるべく音を立てないように食器を片付け、ワゴンを押す。扉の前で一礼をして、黒壇の扉を押した。扉からは低い音が鳴り響いたが、春が顔を上げることはなかった。
氷雨は扉を閉めると下を向いて一息ついた。春が使用していたカップの中に、自分の情けない顔が映っていた。
「……我が王よ」
氷雨は春の心の傷の原因は知らされていないが、ふとしたときの哀しげな瞳の奥を見るたびに、何かできないかと考えていた。
だが春が氷雨を頼ることはない。春はいつも自分自身を「弱い」と言う。人間界から逃げてきたのだと。
しかし、氷雨から見た春は、子の国の王として立派に務めている姿だ。弱い姿など見たことがない、少しくらい見せてほしいと願うほどだ。
春が王として子の国に来てから、宰相はずっと氷雨であった。氷雨は、春の民や使用人を思いやる心、仕事に熱心な姿、時折見せる寂しそうな表情、全てに惹かれていた。しかし、春と氷雨が、王と宰相という主従関係以上になることはない。
虎の国の新王、18歳の少女はもしかしたら春の寂しさを埋めれるのだろうか。
「……私は、あなたの弱さごと、この命を捧げているというのに」
氷雨は、自分の胸元に手を当てた。
主従という名の鎖。それが、彼女を彼の隣に留まらせる唯一の絆であり、同時に、彼に抱きしめられることを許さない冷たい鉄格子でもある。
彼が新王を助けるというのなら、氷雨は完璧にその道を整えるだろう。
それが、春の心を少しでも癒やすのなら。
氷雨は顔を上げ、ワゴンを押しながら、いつもの「氷の宰相」の顔で歩き出した。
耳と尻尾は力なく伏せられていた。
本編は虎の国の新王が主人公です。なるべく早く文章にしたいなぁと思いつつ、まだ纏められていません、、、。




