春 4月13日 夕2
夕焼け迫る空は赤と青のグラデーション。帰路につく白樺台の学生の姿はまばらになり、代わりにわずかな大人と老人の影が街を埋め始める。
慣れた街角を曲がると、クリーム色の一戸建てが目の前に見える。窓ガラスが夕焼けの名残りを暖かく反射している。玄関ドアを開け、璃茉の靴を揃える。
「ただいま」が少し物寂しい玄関に響く。リビングからふわっとした返事が聞こえた。
「おかえりー」
カバンを部屋に放り投げ、部屋着に着替える。リビングに入ると、ソファにだらりと寝そべる璃茉が見えた。
「ただいま。何か食べたいものある?」
「うーん、コロッケ」
「面倒だなあ…まあ、いいか」
これから話すことの前払いだと思えば安いものだ。
コロッケは時折自分用に作っているので、冷蔵庫にも材料は十分にある。機械的な作業時間を思考に充てるのは僕の習慣で、この長ったらしい準備時間も有効活用させてもらおう。
ただ「会話」という名の行為を演じ、ただ他人の話題に合わせ、誰の顔色を窺い、誰の機嫌を取り、繋がりを保つ。
たとえ自分を欺いても、それを相互理解とは呼べない。
人間の記憶は曖昧だ。騙すつもりはなくとも、「今」の心情に従って、静かに脳内の過去を書き換えていく。僕と信子のあの関係を、もし僕が定義するなら、それはきっと相互理解だっただろう。
しかしそれは誤りだ。単なる僕の思い込みに過ぎない。あの関係は人生で交差した時間の積み重ね、ただそれだけの極めて単純なものだった。
相手の好き嫌い、相手の癖、相手がこういう場面で口にする言葉 —— そんなものは目で確認すればすぐ分かる。眼前で確かに起こり、確かに記憶され、当然のように了解される「理解」である。
「理解されている」という幻想は、なんて未熟な悦びだろう。僕はずっと分かっていた、これが単なる嘘だということを。この傷は、あの「相互理解」の幻覚から醒めた、容赦ない破滅の跡なのだ。
しかしあの視線の交錯、言葉を介さずに完結する対話は、かつて親密だった僕らの間でさえ成し得なかったものだ。変わったのは僕ではない。
僕らの間の関係そのものだ。たとえ砕け、時に貫かれても、今やこの関係は何ものかに歪められ、相互理解という形を取っている。
その何ものかこそ、僕が求めていた変化なのかもしれない。
答えは見出せぬまま、時はゆるやかに流れていく。
ジュワッという音が僕を現実に呼び戻した。油に浸かった最後のコロッケが焦げ目の境界線にいた。急いで掬い上げ、吸油紙を敷いた皿に並べる。
空気に触れ、徐々に冷めていくコロッケは、やはり少し焦げていた。これは自分用にしよう。
「「いただきます」」
食卓を囲む私と璃茉が手を合わせる。テーブルの上にはそれぞれ3つずつのコロッケ。あっ。
「璃茉、部活には入ってる?」
「んー?ううん…」
口の中のものをきちんと飲み込んでから話すのが我が家の流儀だ。
「ない。ていうかあんまり興味なくて。超面倒くさそう」
「そう。コロッケばかり食べないで、ご飯と野菜もちゃんと食べて」
「はーい」
次のコロッケに箸を伸ばす璃茉を見て、彼女の本への興味が揚げ物より遥かに低いことを悟る。ならば元々部活に興味のない彼女が入部に同意するわけがない。
これは困った。
「どうしたの?悩み顔してる」
「うん…実は先輩に二人部員を勧誘するって約束しちゃって」
「そう。頑張ってー」
「でも僕が入部するのはもう決まったから、これからはもっと遅くなるかも」
「えー、ひどいよ」
頬を膨らませたご飯を飲み込み、璃茉が不満げな視線をこっちに向ける。
「兄がいなかったら、私お腹空いて死んじゃう」
「自分で料理も覚えてみたら?」
「いやー、兄の料理毎日食べたいから絶対覚えないもん」
恥知らずな食いしん坊宣言だ。
「仕方ないな。で、部活には今何人いるの?」
「僕を入れて二人」
「うん…私には非常に都合がいいね。で、その先輩ってどんな人?」
「それは、入学式に出てない君には分からんだろう。まあ一言で言うなら、綺麗な人だ」
「外見じゃなくて人柄ね。って、女性だったの?」
「ああ。藍咲汐霞って名前で、読書の趣味が似てる。それと…」
今日の先輩との会話を回想しながら、言葉を紡ぐ。
「真面目な人…かな。少なくとも悪い人じゃないとは断言できる」
「真面目な人…藍咲汐霞…」
響きの良い名前を噛みしめるように、璃茉は沈黙した。
「じゃあ、入部するってことでいい?」
「うん」
「承知した。先輩に伝えておく。明日の昼休み、図書室で入部届を書こう」
「はーい」
短く返事した璃茉は再々うつむき、残った料理を口に詰め込んだ。
食後、湯が沸くまでの時間、僕らはリビングでそれぞれの時間を過ごしている。本の内容は、答えを求める焦燥感を越えて僕の心に入ってこない。
一人掛けソファの斜め左、あのソファに璃茉が寝転がり、退屈そうにスマホをいじっている。どんなに憂いとは無縁に見える彼女も、きっと様々な細やかな悩みを抱えているのだろう。
部屋着のパンツは長いとは言えず、膝より上の太ももがちらりと見える。上半身のTシャツの裾は捲れ上がり、締まったお腹を露わにしている。
無防備な姿勢 —— 他の人には決して見せない姿だろう。会話時の距離感も、並んで歩く時の肩の触れ合いも、わがままな姿も。
これも関係性の形態がもたらしたものだとしたら、やはり雲をつかむような話だ。そもそも僕と璃茉は血の繋がりがあるわけではなく、家族内の他者の婚姻が僕らを結びつけたに過ぎない。
ただ「従兄妹」と呼ばれるだけで、僕らは見知らぬ他人の領域を越えることができた。
「じろじろ見すぎでしょ、スケベ」
長いこと視線を向け続けたせいか、璃茉もついに黙っていられなくなった。
「ついに私に手を出す気?さすが男の心には狼が住んでるんだね」
「兄?」
沈黙したまま、ただ璃茉の瞳を見つめる。僕は彼女の考えをまだ知らない。
もしかすると彼女も悩み、憂いているのかもしれない。もし僕と信子の関係が本当の終わりを迎えたら、板挟みになった彼女はどうすればいいのか。しかしそれは私が知り得ることではない。
所詮僕らは、単に距離が近い他人に過ぎないのだ。
俯せた瞼は近づく璃茉に気づかず、背後に回り込んだ彼女の腕が僕の首に絡みつく。彼女の温もりが包み込む。
「ごめんね。二人のこと、何も助けてあげられなくて」
璃茉が耳元で囁く、吐息が頬を撫でる。
「二人の間に何があったかは分からない。でも信子姉さんが苦しむのを見るのも、兄が悩むのを見るのも、同じくらい悲しいよ。あの三人で過ごした時間は、あの三人で過ごした時間は、もう終わりのか。と思うって」
近くて遠い他人だと?愚かな考えだ。これがしっかりとした相互理解というものだろう、璃茉との間には。人見知りで、甘えん坊で、想像以上に繊細で鋭い —— それが僕の見た璃茉だ。
では、今の彼女の目に映る僕はどうなのだろう?これが僕の盲点だった —— 他者から見た自分。
「璃茉。僕、前と比べて変わったところある?」
「札幌に来たばかりの頃、実はすごく不安だった。周りの全てが変わった気がして、環境も人も。だから兄がまだ悩んでるのを見て、安心したんだ。兄は私の知ってる兄のままだから」
僕の髪を撫でながら、璃茉の声はゆっくりだ。表情を見なくても、彼女が笑っているのが分かる。その口調には寂しさと懐かしさが込められていた。
「でもそれは私にとっての話。気づかないうちに、兄もきっと成長したんだよ。前より笑わなくなって、落ち着いて、いつも表情が読めないくらいに」
璃茉にとって、僕がいつ見知らぬ他人から「兄」へ変わったのか。きっと彼女が僕の存在を受け入れた瞬間からだろう。その過程はとっくに細やかな会話となり、些細な日常に溶け込んでいる。
そしてこの過程で、僕と璃茉は互いへの認識を更新し合い、相手の目に映る自己像を再構築してきた。
何が僕と信子の関係の形を変えたのか —— この傷だ。
偽りの「相互理解」で紡がれた泡のように儚い信頼。その中で感じていた幸福が砕けるほどに、僕の苦痛は深まった。
この傷口から生まれたもの —— それが今、璃茉の目に映る僕であり、先輩の目に映る僕であり、信子の目に映る僕なのだ。すなわち、僕という自我である。
「ありがとう、璃茉」
「うん。どういたしまして」
首に絡んだ腕が、さらに強く締めつける。
他者の影響力はこれまで、僕のなかで暗黙のうちに軽視され、あるいは恐れられてきた。あの痛みが骨身に染みていたからだ。
だが人間は簡単には変わらない。喜び、苦しみ、悲しみ、切なさ、甘美 —— それらを全て飲み込んで初めて、人は成長できる。
「璃茉、手伝ってくれるか」
「なに」
「信子と連絡取り合ってるだろ。頼む、金曜の放課後、『彼女が教える』あの場所で待っててって伝えて」
「バレてたか…わかった。頑張れ」




