春 4月13日 夕1
信子との関係について、思考が形を結びつつある。あの出来事は、不快だった。だがそれは重要ではない。大切なのは、僕の遺憾、僕の後悔なのだ。
しかし、タイミングを逃した僕らに、果たしてこの関係を修復できるのだろうか。自分を騙したところで、どちらも納得することはない。思考が凝固する。こんな時は本を読むのだ。探しに行こう、僕の宝物を。
「じゃ、くらげ、またな」
別れを告げる茂真に頷いて応え、バっグを提げて裏口に向かった。
白樺台図書室へ、さあ行こう。本は本当に素晴らしい。本は心を潤す。
図書室の入口脇で当番の図書委員に会釈し、まっすぐあの五つの書架へ向かう。道順は既に書籍分類で頭に入っている。後は甕の中の鼬を捕まえるようなものだ。
哲学コーナー、昨日の先輩にまた出会った。奇遇だな、そう思って『朝焼け』に手を伸ばす。
だが先輩は一足早く書架からそれを抜き取る。奇遇だな。
仕方ない、先を越されたなら遅かった己を呪おう。古典文学へ向かう。
なぜかまた先輩に先を越される。奇遇だ。
随筆コーナーへ、奇遇。
ライトノベルコーナーへ、今回は無事入手。
現代文学コーナーへ、これ以上いじわるな偶然はごめんだ。
これはいったいどんなエピックな偶然だ?先輩はもしかして怪盗党ではなく、不二子党なのか?
ここまで来ると逆に、先輩が取ったライトノベルのタイトルが気になってきた。結局手に入ったのはこの不思議な妹系読み物だけだ。てか先輩五冊も抱えて歩きにくくないのか。
そう思ってふと見ると、確かにご苦労そうな本の山を抱えた先輩がふらついている。いや、これは「少し」の域じゃない。先輩がバランスを崩した。
反射的に先輩へ駆け寄る。
「!」
衝撃とともに聞こえそうで聞こえない驚きの声。思ったより弱い力だ。普段から鍛えておいて良かったと感謝しつつ、後ろに倒れかかる先輩の肩を両手で支えた。
「大丈夫ですか?捻挫とかしてませんか?」
「あ…ええ、大丈夫です」
息を整えつつある先輩に問いかけながら、足首や手首など挫けやすい部位を素早く視認する。腕にかかっていた力が抜けていく。
「ありがとう…助かりました」
荒い息を鎮め、額の冷や汗を拭いながら、先輩はしゃがみ込んだ姿勢からゆっくりと立ち上がる。
「承知いたしました。お怪我がなく何よりです」
先輩もともと白い頬がさらに驚きで青ざめ、立ち上がった彼女は軽く会釈した。
「本当に感謝します。あなたがいなかったら、けがどころじゃ済みませんでした」
「お安いご用です。では失礼します、先輩」
片手を挙げて先輩に会釈し、『実妹生活』を拾いながら散乱した本を見やる。その中に一冊、『可愛い後輩くんは私だけがいじめられる~先輩として後輩に負けるわけにはいかない!』が混じっている。なぜかタイトルに悪寒が走った。
図書室に来た目的は達成された――あるいは破壊された。胸が痛い。先輩に怪我もなかった以上、留まる理由はどこにもない。鞄を手に取り、これより去らんとす。
家はいい。家は心を潤す。
「待って」
空いた手首に柔らかな感触が伝わる。少し冷たい体温が布越しに滲んでくる。
「名前を教えてくれませんか」
「…八鳥。八鳥 海月です」
一瞬、これはもしかしなくて詐欺かと恐れたが、ここまで読書の趣味が合う人間がそんなことをするはずがない。だが「美しいものには毒がある」という諺もある。思わず冷や汗がにじんだ。
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
「では八鳥くん、本題に入りましょうか」
僕の手首を離した先輩は、表情を引き締めた。
「命の恩へのお礼に、何か一つ望みを言ってください。私のできる範囲で叶えます」
「では、先輩が卒業するまで、暇な時に話し相手になってください」
「…え?即答?」
定番の「何でも?」と言いたいところだが、正直なところこの機会に交流相手を増やしたい。相手は三年生の先輩、人生経験も多少は自分より豊富だろう。学びの対象としない手はない。
「別の願いに変えることを考えませんか?」
「先輩は僕の話し相手になることをお嫌ですか?」
「いえ、喜んで。でもそれだけではお礼として足りない。他に考えてみてくれませんか」
「うーん…では、それらの本を読み終えた後、僕に回していただけませんか。あのライトノベル以外は、全て私が借りる予定だった本です」
「……」
先輩はなぜか呆然としている。一体どうしたというのだろう。
「…貸出被りの本が4冊…いや、それはさておき」
「えへん」と咳払いした先輩は、なぜか少し厳しげな表情に変えた。
「…八鳥くん、あなた健全な高校生ですね?」
「どういう質問ですか。その通りですが」
「好きなのは女の子?」
「性指向をお聞きなら、はい」
「こちらの質問は少し恥ずかしいのですが、八鳥くんの目には、私は不細工には映らないでしょうか?」
「無論、先輩はとても綺麗だと思います」
「それなのになぜ……ああ、うん。分かった」
ひどい人だ。僕の心の拠り所を容赦なく奪い、それでナンパ男扱いとは。美しい人にはやはり悪いところが隠されているものか。
今度はなぜか少し悲しげな表情を浮かべ、どうやら先輩はどこかで変な誤解をしたらしい。聞くのも面倒だからこのままでいい。
「はあ…では先輩、僕の話を聞いてください。そして評価か助言を、あるいは単なる感想でも何でも結構です」
「それでもまだお礼としては足りないわ…分かった、この話題はひとまず保留にしましょう。図書室で長話するのも何ですし、場所を移しませんか?」
こくりと肯く。
「承知いたしました」
カウンターでの貸出手続きを終え、一足先に図書室の入口で藍咲先輩の到着を待つ。先輩はどうやら鞄を持っていないらしく、苦しそうに本の山を抱えている。
「お持ちしましょうか」そう言って一番上の3冊を受け取る。
「ありがとう」小声で礼を言う先輩が微笑む。美しい人の笑顔はいいな、善人モチベーティブ。
言葉少なに廊下を進み、先輩の教室へ向かう。グラウンドからは運動部の掛け声が窓から聞こえ、夕風にはもう春の温もりが宿っている。
先輩の容姿ゆえか、二年生が三年の廊下に現れたことゆえか、行き交う生徒の視線がひとり残らずこちらへ向けられる。誰彼かまわずの挨拶に、先輩はひとつひとつ微笑みで応えていく。
「あ、そういえば先輩の名前をまだ伺っていませんでした」
「え?とっくに知ってるものだと思ってた」
「先輩って有名なんですか」
「有名ってほどじゃないけど、まあ目立つ方かな」
あの一瞬で笑顔に埋もれ、少し居心地悪そうだった表情は、おそらく「目立つ」ことが容姿だけを指すわけではなかったのだろう。先輩が僕に向き直る。
「藍咲 汐霞。よろしくお願いします」
「こちらこそ、藍咲先輩」
最も直観的な感想は、美しい名前だ、本人によく似合っている。いや待て、この名前に覚えがある。
「先輩は、あの入学式でスピーチをした三年生ですか」
「ええ、私だよ。覚えてた?」
「あ…その時藍咲 汐霞という名前に、ただ綺麗な名前だなと思っただけです。それと学年一位が凄いと」
その後すっかり忘れていたわけだが。「そうか」とだけ返し、再び前方を見つめる先輩の口元に、なぜかほのかな微笑みが浮かんでいる。覚えられていないことが、そんなに嬉しいことなのか。
「着きました。では八鳥くん、少々お待ちを」
三年B組の教室の前で、本を先輩に渡し、待つように合図されて先輩は教室の中へ。自分の席に向かう先輩の支度中、少し本を読もう。後ろの壁にもたれかかり、『実妹生活』を開く。
この本は、主人公が幼い頃に両親の離婚で妹と別れ、別々に子育てをしてきた両親が二人の高校進学を機に復縁。再会時には他人同然だった二人が、隔たりを埋めながら少しずつ無邪気な兄妹関係を取り戻していく物語らしい。
穏やかなテンポで、心理描写に重きを置いた文体。少しずつ発展する人物関係。なかなかの良書だ。
良い本を引けたことを喜び、序章を読み終える頃には藍咲先輩も整理を終えて出てきた。
「お待たせ。八鳥くん、何を読んでるの?さっき借りた本?」
「はい。ライトノベルです。先輩もご興味が?」
「ええ、何を借りようか迷う時は読むね」
「そうですか。先輩には好きなジャンルとかあるんですか」
「私は基本的には何でも、でもあえて言うなら哲学と心理学かな。最近は文学も少し。八鳥くんは?」
「先輩と同じく雑食派です。特にこれといった好みはなくて」
「素敵な偶然ね」
「あ」軽く笑った先輩は何かを思い出したように、ぽつりと立ち止まる。
「部活のことを忘れてた」
「先輩、部活に入ってるんですか」
「ええ…文芸部の部長です。ただ、いろいろあって今は私一人だけなんです」
先輩は苦笑いし、少し記憶の彼方へ目を泳がせる。文芸部か…一年の時に入部を考えたことがあって、その時最初に候補に上がったのが文芸部だった。だがなぜか茂真に「あそこは地獄だぞ」と警告され、当時は不可解に思ったものだ。
「部員が先輩一人だけになった理由を聞いてもいいですか」
「それがね、簡単に言うと新入部の男子たちが真面目に活動せず、注意した他の部員と喧嘩になって」
ため息をつき、先輩は少し諦め顔で続けた。
「旧部員がその雰囲気に耐えきれず退部して、私と顧問の先生で部活動停滞について話し合った結果、今の形になったんです」
「真面目に活動」の背後にある行動を省略したとしても、今、目の前の先輩を見ていると、部室内の修羅場は容易に想像がつく。
「藍咲先輩、確か部員が三人未満だと廃部になるんですよね」
「その通り。でも忘れないで、私は優等生よ。この程度の特権はあるの」
もし先輩に部活動があるなら、交流の時間を見つけるのは難しくなるだろう。残念だが、現実が許さないなら諦めるしかない。
「でも元々は本の話ができる人がいればと思って入部したので。今は八鳥くんがいるから、部活がなくても別に」
おそらく僕の落胆を見て取ったのだろう、先輩は笑いながらそう付け加えた。
とは言うものの、先輩の笑顔には名残惜しさがにじんでいる。おそらく部内に大切な先輩や人がいたのだろう、廃部には未練がある。一人で活動を続けているのが何よりの証拠だ。
「それなら、提案があります」
「提案?」
「僕の話を聞いてもらうお礼に、文芸部に入部します。三人目については、場合によっては見つけられるかもしれません」
先輩の懸念を拭うべく、僕はすぐに言葉を継いだ:
「これで僕らが交流できる場所も確保できます、一石二鳥です」
「……なるほど。分かったわ、ありがとう、八鳥くん」
受け入れた先輩は少し嬉しそうに微笑んだ。窓から差し込む夕焼けの光が、その笑顔の温もりごと伝わってくる。
通知音が響く。
『いつ戻る?お腹空いた』
あっ、家の璃茉をすっかり忘れてた。携帯の画面は16:37を示している。
『ごめん、いろいろあって。すぐ戻る』
「先輩、すみません、今日はここまでにします。明日の昼休みに部室へ行ってもいいですか?」
「私こそ遅くまでごめんなさい。大丈夫よ、それではまた明日」
「承知しました。では明日、先輩」
「明日ね」
軽く手を振る先輩と別れ、階段の角を曲がる時、ふと見れば、静かに微笑む先輩がまだこちらを見つめていた。




