春 4月13日 昼間
午前の授業が終わり、ノートを鞄に仕舞う。購買のパンルーレットが待っている。本校の購買のおばちゃんの趣味で、パンの種類は日替わり制。だから私はこれをパンルーレットと呼んでいる。
毎日の昼食がくじ引きになるのも、僕の宝物のひとつだ。今日はどんな味かな。教室から食堂へ向かう人混みが過ぎるのを待ちながら、そう期待する。
「ねえわたちゃん、一緒に食べない?」
「あ、ごめん、先約があるんだ。今度ね」
「へえ~なになに?まさか彼氏?」
「そうじゃないの…もう、渚ちゃんからかわないでよ」
教室の真ん中から、女子たちの談笑が聞こえてくる。今日も平穏だった。そろそろ時間だな。
「八鳥くん」
予想外の人物が声をかけてきた。
「一緒に昼飯、食べない?」
茂真たち三人組が教室を出た後、渡辺さんがこっちに歩いてきて、僕を誘った。
渡辺さんと僕は親しいわけじゃないが、一年の時の行事以来、会話する程度の付き合いはある。とはいえ、それが昼食に誘う理由にはなるまい。
わざわざ茂真がいなくなるのを待った理由は、想像に難くないが。
「喜んで。ただ食堂に寄らせてくれませんか」
「あ、それなら…よかったら、どうぞ」
そう言って渡辺さんは後ろに隠していた手を差し出した。もう一つの弁当だ。
「これはご丁寧に。では遠慮なく頂戴いたします」
「ええ、どうぞごゆっくり」
弁当に感謝しつつ、半歩後ろを渡辺さんについて中庭へ向かう廊下を歩く。
中庭で比較的人目につかない一角を見つけ、渡辺さんとベンチに並んで座った。
「「いただきます」」
半人分の距離を置いて、僕たちは手を合わせると、それぞれの弁当を味わい始めた。僕の方は定番のウインナー焼き、だし巻き卵、から揚げなどが入っており、普通に美味しい。
「味の方はどうかな?」
「申し分ないです」
「そう、ありがとう、それは光栄ね」
「渡辺さんはよく手作り弁当を作るんですか、なかなかの腕前ですね」
「ええ、母から多くを勉強した」
こういう会話も本題前の儀式的なものだな。金色の陽光が真昼の中庭に降り注ぎ、校舎の影の前でゆらゆらと揺れている。僕らの間には少し離れた生徒たちの談笑、箸と弁当箱が触れ合う音だけが響く。
渡辺さんは今、言葉を紡ごうとしているのだろう。もちろん食事中の少女に失礼な視線を向けるわけにはいかない。
甘じょっぱいだし巻き卵を味わっていると、横からの視線を感じた。
「…?どうかしましたか、渡辺さん」
「いえ…普段他の友達と昼食をとる時は何か話しているので、つい」
「なるほど」
「八鳥くんはその…気分悪くないですか?突然こんな風にお呼び立てして」
「全く。お弁当を頂いた時点で渡辺さんは僕の目には菩薩様です」
「ハハハ…」
「おおげさだよ」渡辺さんは口元を手で覆って軽く笑い、肩の力を少し抜いた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
食事を終え、僕らは手を合わせた。渡辺さんは小さく深呼吸し、いよいよ本題に入るようだ。
「八鳥くん、実はお願いがあってお呼びしたんだ」
「喜んでお手伝いいたします」
「厚かましいお願いけど…え?」
彼女は呆気にとられたようにこっちを見る。
「まだ何をお願いするか言ってませんよね?」
「そうですけど」
「じゃあなぜ…?うっ、くふっ」
正直なところ内容はほぼ察しがついている。茂真のことだろう。頬を朱に染めた渡辺さんは少しうつむいた。
「明日の合コンで、森下くんのことを少し見ていてほしいん」
「承知した」
「委員長としての義務から…あっえ?」
渡辺さんはあっさり承諾した僕に面食らい、ぼんやりと見つめている。
「…八鳥くん、理由を聞かないの?」
「美味しいお弁当をご馳走になったお返しです。理由については、渡辺さんから言いづらいことであれば聞かなくても結構です」
分かっていることと、人に探ることは別だ。これは渡辺さんと茂真の間の感情であり、二人だけの関係だ。直接助けを求められない限り、あまり干渉しないのが僕の原則である。
「そうか…ありがとう、八鳥くん」
「どういたしまして。恩返しは大切ですから」
「ふふっ、そうね」
そう言って渡辺さんはうつむき、自分の足元を見つめた。思わず零れた笑みの弧。少女が此処にいない少年に向ける想い —— いつか記憶のどこかで見た光景だ。
思わず遠くを見やり、視界の彼方には特別棟へ続く廊下。信子がいつしか静かに立っていた。
視線が合い、その整った、少し鋭い瞳が目に飛び込んできた。
彼女は視線をそらさない。真昼の陽射しの中、僕と彼女はそれぞれの影に立ち、見つめ合っていた。
『プレイボーイ』
『これ相談』
『そう』
言葉を介さず、対話が成立している。これはかつての僕と信子の関係では成し得なかった、何らかの変化の結果なのだ。
これは疑いようもなく、僕が求めていた変化だ。
「八鳥くん?」
「あ、はい」
「明見さんですか?お知り合いなんですね」
「ええ、まあそんなところです」
「ふーん…」
渡辺さんの声が懐かしい静寂を押しのける。いつの間にか信子は立ち去り、渡辺さんは僕の生返事を少し気にしながらも、それ以上は尋ねなかった。
「そういえば八鳥くん、なんでずっと敬語?」
「癖みたいなものです。何か?」
「いえ、なんだか距離を感じちゃって。友達同士なら堅苦しくなくてもいいよ。もっと気楽に話してくれて構わないから」
「ん…そっか」
友達だと思われてたんだ、ちょっと感動、涙よ止まれ。
「じゃあ、よろしく」
「うん、よろしく」
渡辺さんの笑顔に陽光が降り注ぐ。久しぶりに人と共に過ごした昼食は、想像以上に楽しかった。




