春 4月13日 朝
視界の果てには教室がある。
教室に座っているのは三人。
いない誰かを責めている二人、
その誰かとは僕だ。
三人目は沈黙し、
二人は部屋の中の象となった。
落下感が夢を突き破り、目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝光が瞳孔を刺した。夢と現実の境界線が焦点を結び、深呼吸を試みると、肺がかすかな痛みを伴っていた。
枕元には小さな冷たい湿り気があり、それが汗なのか、夢の中で零れた涙なのかは分からなかった。
広がる快晴な空が窓の向こうでどこまでも広がってた。さっとアラームを解除し、うつろげに制服に袖を通した。
隣の璃茉の部屋からは起床の気配がなく、思わずに洗面所へ向かう足音を軽くしていた。鏡に映った生気のない顔は、まるで過去の自分そのものだ。冷たい水も不快感を洗い流せず、ため息が零れた。
パン焼き器がのんびりとブンブンと音を立て、二枚の食パンが飲み込まれた。内部の変化は見えず、ただ待つしかない。
やかんの底からは低く、次第に強まる鳴が聞こえる。遠くで響く細やかな雷鳴のようだ。
ステンレスボウルの縁はひんやりと冷たい。卵三つを碗の縁にコンコンと当てれば、殻がぱっくりと二つに割れ、黄身と白身がすっと滑り落ちる。塩ひとつまみを散らし、箸でかき混ぜる。箸先が碗の底にカタカタと響く。黄身と白身が完全に混ざり合い、均一な流動的な琥珀色へと変わるまで。
思考がフライパンの中のバターとともに溶け、記憶を箸でそっとかき回し、巻き上げていく。あるのは色と音と匂いと温度だけ。手は動き、目は見ているが、脳は空っぽだ。
璃茉の姿がゆっくりと視界に入ってくる。まだ眠気の残る彼女に声をかける。
「おはよう」
「おはょー」
「まず顔洗ってきな。朝ごはんもうすぐできるから」
「うんー」
あくびをしながら返事をした彼女は、すぐには背を向けず、台所に立つ僕をじっと見つめていた。
「どうした?」
「うん…エプロン姿の兄って、なんか新鮮。ってか料理できるんだ」
「制服汚したくないからさ。一人暮らししたら自活するしかないだろ」
「そういう堅実な男ってポイント高いよ。自慢してもいいだよ兄」
からかうように笑う璃茉はくるりと背を向け、洗面所へ歩き出した。一晩を共に過ごしたことで、長い別れによる隔たりはすでに消え、僕と彼女の本来の距離感へと戻っていた。
身支度が終わった璃茉がセーラー服姿でリビングに戻り、食卓に着いた。お気に入りのエプロンを外し、トーストとオムレツの皿を運ぶ。湯も沸いた。
「コーヒー、飲む?」
「いいえ、牛乳で、温めて」
「はい喜んで」
セーラーカラーの下で黄緑色のリボンが、璃茉のジャムを塗る動作に合わせてひらりと揺れ、左胸の校章が室外の光を反射している。
因みに二年生のリボンは赤黄色で、男子側は校章入りの三色ボタンに替わる。僕の視線に気づいたのか、なぜか璃茉は胸を張った。
「ついに貧乳の魅力に気づいたの?遠慮せず存分に見てよ」
「そういや、いつ転校してきたんだ」
「手続きは先週の金曜だけど、授業開始は今週の月曜から」
ツッコむのも面倒だから、気になることを聞こう。
「そうか。友達は…ああいいや、答えなくても。部活は入りたいの?」
「可愛い従妹をナメないでよ、私は初日で友達できたんだから」
「ふん」と笑いながら、璃茉はかじったトーストを手に、得意げにアピールしてきた。
「名前がすごく可愛い子なんだ」
一人だけか、友達は。だが友達は量より質だ。ここは普通に璃茉のために喜んでやろう。交流困難とまではいかなくとも、彼女はそもそも陽キャってわけじゃない。新しい環境に心許せる相手ができたのは喜ぶべきことだ。
とりとめのない学校の些事を共有しながら、ゆっくりと朝食の時間を過ごしていく。平淡な喜び —— これは長い間、璃茉以外の相手に対しては生まれ得なかった感情だ。他者を必要とする気持ちが少しずつ削られていった。その理由を深く考えたことはなかったが、今ならわかる。
どうやら僕は、信子との決裂以外の第二の選択肢、そしてその道筋をかすかに掴みかけたような気がする。リビングの時計を見上げ、登校の時間が来たことを知る。
鞄を持つて、「いってきます」とドアを開けた。
路肩の雪はとっくに消え、湿った土が顔を出し、植物の芽吹きと土の甘ったるい匂いが混ざり合った、春特有の香りを放っている。僕と彼女の関係は、あの中学三年の秋でぷつりと途切れ、その後成長することも、腐ることもなく、ただ極めて不自然な、砕けた姿勢のまま、時間によって標本にされてしまったのだ。
相手も同じだろう。いったん僕たちの間で誰かが口を開けば、あのことから目を背けることはできなくなる。そしてこの会話は、そもそも砕け散った関係に最終的な決着をつけることになる。だからためらい、足探りをする。未熟さゆえに、処理することを選ばなかったのだ。
しかし傷口の疼きを恐れて癒やそうとせず、人に見せなければ、何一つ変えることはできない。
なすべきことは、すでに澄んだ鏡のように明らかだ。
「兄?」
長い沈黙が璃茉の注意を引き、彼女は少し近づき、心配そうな顔をこっちに向けてきた。
「体調悪いの?」
「いや、大丈夫。むしろ今は気分がいい」
正月に新しいパンツを穿いた時のような清々しさだ。
「そう、ならいい」
「ああ、今日の放課後図書室に行くから、待たずに先に帰っていいよ」
「はーい」
僕の顔色が言う通りだと分かると、璃茉は興味なさそうに返事をした。小さい頃から本が好きじゃなかったな、この子は。
今日は図書室に行くし、明日は合コンがある。信子さんの件は金曜日までお預けだな。
まあ、重要なことを先延ばしにするのは僕のスタイルじゃない。けど今はまだ、頭の中で解決の目処が立っただけで、明確な方法があるわけじゃない。海月だからな。
短い会話と考え事を交わすうちに、白樺台の門が視界の彼方に見えてきた。靴箱で別れ、階段を上る。
教室に足を踏み入れた瞬間、席の近くの三人組の視線が一斉にこっちを刺した。なぜかろくに口もきいたことのない連中まで加わっている。疑問に思いつつも、席に向かってカバンを置く。
背後から複数の人間の気配が迫る。振り返れば茂真を含む数人に囲まれていた。なんだこの状況。
「くらげ、情報によると昨日から今朝にかけて可愛い一年生と一緒にいたらしいな」
茂真が隣の席に座り、司令ポーズをとって僕を睨む。
「八鳥!聖戦目前というのに、なぜ果実を盗む!」
「見ろ、佐藤はあれだけ楽しみにしていたのに、聞いた後はすっかり絶望しているぞ!」
田中の指さす方を見ると、佐藤は両手で目を覆い、何か呟いている。
「お前の胸は痛まないのか!?」
「よくも一人、事情で欠席する勇士を傷つけるな!お前は人間か!?」
「…裏山?いゃ石狩湾…」
これが絶望ってやつか、むしろ怒りが漲ってるだろ、だから君ら誰。
「待て諸君、くらげがまだ口を開いてもいないのに罪を決めるのは我々の原則に反する」
茂真は両腕を広げて一同を制し、僕に近づいた。
「で、催眠アプリはどこだ?」
そして仏のような笑みを浮かべて、存在しないものを要求する。
「あるわけないだろ…あれは従妹で、一緒に登下校して何がおかしい」
「そういうことらしい、諸君の意見は?」
「『有罪』」
なんでだよ。
「そこの男子たち、HR始まるからさっさと席に着きなよ。森下くんも、煽るのやめてってば」
委員長の元気な声が割って入り、僕に向けられた殺気をかき消す。
「「はいー」」
連中は散り散りに。特指された茂真は返事もせず、ただ顔を掻きながらしょんぼりと席に戻った。なぜか彼の少し俯き加減の横顔に、見慣れない表情が浮かんでいた。
首を振りながら「まったく」と呟く委員長も席に着いたが、彼女の視線だけが茂真の上に不自然に長く留まっていた。
「…渡辺さんと何かあったのか」
普段ならこんなこと聞かないだろう。どうでもいいことだし。でも、人と深く関わることで自分の考えを確かめてみようと決めた。最も身近な同性から始めるのが順当だろう。
「ずっとお前のこと見てたぞ、彼女」
「し、知らねーよ」
茂真らしくない返事だ。この不自然さは矛先というより、どこか青臭い酸味が混じっている。まあ、あまり深入りしても仕方ない、ここまでにしておこう。
「そうか」
渡辺さんはもう視線をそらしたが、あの瞳に潜んでいた微妙な不満は、おそらく男子たちの行動に対するものだけではなかった。




