15日 雨に濡れて透けるもの
この後雨が降るかもしれないから、面倒を避けるため、先輩は部活を早めに切り上げた。ますます陰鬱になる空の下、三人は並んで帰路についた。
「初めて藍咲先輩の近くで見たら、心臓がバクバクしちゃった」
「同感、あの人って絵に描いたみたいに綺麗だよね。初めて会った時、汗で部室が水浸しになりそうだった」
「さっぽろ内海の誕生だね」
脇を歩く二人が会話を交わしている。普段からライムで連絡を取り合っていたせいか、言葉の端々に思っていたほどの距離感は感じられなかった。
「璃茉のクラスは何やるの?白樺祭」
「うーん…まだ決まってないみたい。男子がメイド喫茶やりたいって騒いでるけど、女子側が反対してて。信子姉さんは?」
「ベタなだね、うちのクラスもまだ話し合い中」
「実行委員って大変だね」
彼女たちの口から初めて思い出した、今日のSHRで来週は学校の白樺祭が開催されると言われていたこと、その後すぐに試験が控えていることを。
嫌いとは言えないけれど、好きでもない。白樺祭には一年生の時、クラスの手伝い程度に参加しただけだ。
そういえば、実行委員が誰か気に留めていなかった。自分とは関係ないとしか思ってなくて、その時になって考えよう。
不思議なことに、三人の中では最も「陽キャ」寄りのはずなのに、僕が一番口数が少ない。こんな風に信子と璃茉が会話を交わし、僕が一歩後ろで静かに歩く、そんな構図が故郷での日々を形作っていた。
「あっ、先輩が今日の昼に言ってた。これからの部活は白樺祭の準備をするっと、兄に伝えといてって」
「そういえばそうだね、僕も部活に入ってたんだ」
「文芸部はどんな展示をする予定なの?」
「まだ決まってないみたい。だってある人は遅刻したり休んだりするから、話し合いもできないんだよね」
「心からお詫び申し上げます」
「その心でお菓子で償ってよね。この心はもうボロボロだよ」
「承知いたしました」
「あ、二人で同居してるんだってね」
こうして見ると、僕はほとんどまともに部活に参加しておらず、先輩が普段璃茉と何を話しているのかさえ知らない。
裁判は終わり、有罪の僕はカロリー制限の刑に処せられた。信子は話を受け継ぎ、璃茉との同居生活について語り始めた。
これがどこか昔の情景に似ているかどうか、僕は自分に問わないようにした。これでいい、そう自分に言い聞かせた。
楽しめばいい、喜びを感じればいい、その前に、かけがえのない日常だ。
空いていた右手の平に、少し冷たくて柔らかな感触が広がった。
璃茉がいつしか隣を歩いていて、彼女はこっちを見ず、ただ右手をそっと握り締めていた。
そっと握り返す。白くて細く、きれいな指。少し力を入れれば折れてしまいそうだ。そんな彼女が、消えてしまうのは僕だと思っている。
安心感、ちゃんと伝わっただろうか。それは分からないまま、おしゃべり声を伴って分岐点まで歩いた。
「じゃあ、私はこの方向」
「うん、またね」
「また明日」
別れの時、曇り空から雨粒が落ちてきた。僕と璃茉にとって家までの距離は全力疾走で駆け抜けられるから、気にしなくていい。
でも信子はその場に立ちすくみ、カバンから傘を出すことも、足を早めることもなかった。
「どうしたの?」
「傘、持ってないんだけど、近くにコンビニある?」
「ないな、ここから歩いたら十中八九風邪引く。家までの距離?」
「…十中八九風邪を引く距離」
「じゃあ、僕の家に来て」
「えっ、あっ」
右手の感触を確かめながら、カバンを左肩にかけ直し、信子の手を掴んだ。雨粒がコンクリートを打つ音が強まりを帯びて、足を踏み出した。
「走れ」
三人の足音が雨に濡れた地面を打ち、静かな通りに乱反射して響いた。記憶の中にも似たような経験があった、同じく三人で、出歩いていて土砂降りに遭ったこと。
結果として家に着いた時は全身泥だらけで、僕はさんざん叱られた。
悪いのは僕じゃない、コンクリートの舗装がない田舎が悪いんだ。
雨が顔や体に打ちつけ、靴下は跳ね上がった水たまりで濡れ、息が荒くなる前に家の前の軒下にたどり着いた。
繋いでいた手が自然に離れた。もうちょっと「あ、その、手が…」っていう王道展開を試してみようかとも思ったけど、これは僕らにとってあまりにも日常的すぎた。
大丈夫、まだ秘策が残っている。
「兄?」
鍵を出さずにドアの前で立ち止まる僕を、璃茉は不思議そうに見つめた。それを無視して、僕は家のドアを指さし、振り返って信子を見た。
「ここ」
そして静寂が訪れた。
「うわ…びしょ濡れだ、明日が週末でよかった…」
「この雨の勢いだと、しばらくは家に帰れなさそうだね」
「うん、とりあえず中に入って体を温めよう。ほら早くドア開けてよ、失敗ジョーク職人」
「はい」
万物が生まれ変わる季節に、最初の雨を迎えた午後、一つの心がそっと砕けた。
春とはいえ、雨による気温の急低下は侮れず、まして全身びしょ濡れの今はなおさらだ。
「お風呂は廊下の突き当たり右側。まだお湯は沸いてないから、とりあえず乾いた服に着替えて」
「わかった。璃茉も一緒に?」
「…着替え持ってくるね、信子姉さん先でいいよ」
「うん」
璃茉の後について階段を上がると、なぜか彼女は自分の部屋の前でうつむき、考え込むように立っていた。
早く着替えないと風邪引くよと声をかけようとした瞬間、彼女のほうから先に口を開いた。
「水滴に光る髪、透けそうな下着、肌に密着した服が描くボディライン」
は?これって考えるほどのことなのか。
「そんな信子姉さんを見て、兄は気になる?つい目が奪われちゃう?」
「しない」
「……」
からかってるのか?まずそう思ったが、璃茉がこっちを見る表情にはそんな意図はなかった。
特徴的な悪戯っぽい笑みはなく、ただ探るような眼差しだけがある。
「あえて言うなら、じろじろ見るのは避けるかな。自分が見られるのも嫌だから」
「そっか…」
「まずは着替えよう。信子も待ってるし、風邪引かないように」
「うん」
この答えが彼女を満足させていないのは分かっていたが、今はそれどころではなかった。体を拭き、部屋着に着替えた。
お風呂がいつ空くかわからないので、リビングに向かって待つことにした。
他の人はどうかわからないが、少なくとも僕にとって、友達の体の成長を過度に気にしたことは一度もない。彼女たちが異性だから、というのも違う気がする。
たとえ性別が逆だったとしても、気にしないだろう。これはたぶん性格のせいだ。
どっちが普通なのか、僕にもよくわからない。残念ながら、璃茉が気にしていることには役に立てそうにない。
考えていると、誰かが入ってくる音がしたので振り向いた。なぜかそこにいたのは下着姿の璃茉だった。
「ただいま……なんで服着てないの」
「私の服、信子姉さんにはサイズが合わないみたいで。お兄ちゃんのを借りるかも」
「それは君が服を着ない理由にならないだろう」
「成長期だから」
「竹の子かよ、とにかく早く服を着て。風邪引くぞ」
「はーい」
「璃…璃茉」
半裸の女生徒が一人増えた。この状況で二人の成長に感心したり顔を赤らめたりするよりも、むしろ風邪を引かないか心配だ。
「まず服を着てから外に出なよ…あっ」
「……」
僕がいることに気づいた信子は、顔を赤らめて璃茉を引っ張って行った。
少なくとも今のところ風邪の心配はない。バカは風邪を引かないからだ。
信子が僕のTシャツに着替え、三人でリビングに集まった。さっきの騒動で少し気まずい空気が漂っていた。僕としては、むしろ呆れ半分の気分だったけど。
「コーヒー飲む人ー?」
「はーい」
「お願い」
「好みは?」
「ミルクと砂糖」
「ブラックでいいよ」
「じゃあ少々待ってて」
なんだか、お母さんが子供たちに料理の好みを聞いているみたいで、いやだ~若くして二人の子供の母親になっちゃった。お父さんはどこ、親権転移プリーズ。
お湯が沸くのを待つこの時間、言葉もなく、誰もスマホを取り出すこともなく、それぞれ手に本を抱えていた。
シングルソファーは占拠され、僕は璃茉と一緒に大きいソファーに座った。リビングにはしばらく、ページをめくる音とコーヒーを啜る音だけが響いていた。
記憶の中に璃茉の隣に座っていた思い出はほとんどなく、むしろ僕は人に寄り添って座ることはあまりない。隣から伝わってくる体温が少し新鮮で、どんな原理かわからないが、かすかではあるが、彼女の体の香りが徐々に広がり始めていた。
三度目に伸ばされてきた足をどかすと、不満そうな璃茉はついに僕の膝の上に寝そべった。
軽くため息をつき、思わず「これでいいでしょ」という表情の彼女の髪に手を伸ばした。指先が柔らかな髪をすり抜け、残った感触は少し湿っていた。
「まだ濡れてるじゃん、ドライヤー使わなかったの?」
「別にいいじゃん、もうすぐお風呂入るし」
「乾かさないと風邪引くよ。それに、こんなに適当にしてるのに髪質いいね」
「ふふん」
「褒めてるんじゃないよ。はあ…」
信子を見ると、きっと髪を乾かすのを拒んだからこうなったんだろう、と彼女は苦笑いを浮かべていた。仕方ない、タオルを取りに行こう。
「ちゃんと座って」
「えー、めんどくさい」
「動くのは君じゃないんだろ」
「…仲いいね」
「シスコンな兄がいるの、困っちゃうよね」
ツッコミに疲れて、加減しながら璃茉の髪を拭いた。綺麗な黒髪をかき上げると、少し赤みがかった耳の先が目についた。
彼女の視線を追うと、信子は普段眉を隠している前髪を耳にかけ、普段は眼鏡の奥に隠れていた目は笑みに鋭さはなかった。口元にはまだ微笑みが残っていて、今の雰囲気に安心しているのだろう。
目を引く容姿は元から悪くないし、ちゃんと着飾ればきっと人気者になるだろう。でもあの地味な外見は本人の選択だから、僕は何も言わない。
では、璃茉のその視線は、いったい何を秘めているのだろう。僕にわかるのは、この視線が相手に気づいてほしいものではないということだけだ。
片手を璃茉の目の前に置き、眉の下を覆った。
「直球すぎるよ」
「…っ!」
意識が突然引き戻され、璃茉はこっちを向いた。少し複雑な表情で、私がどこまで知っているのかを尋ねるようだった。
ちょうどその時、お風呂のお湯が沸いたことを知らせる電子音が鳴り響いた。
「お風呂のお湯沸いた。二人先に入っていい」
「あ、じゃあ遠慮なく。璃茉も一緒に入ろう」
「えっ、私…私あとで入る」
「海月くんもこの後入るんでしょ?一人ずつじゃ時間かかりすぎるから。風邪引いちゃうよ?」
「……」
璃茉は困ったように僕を見た。僕を見ても仕方ないだろう。わかったよ。
「そういえば僕たちも久しぶりに一緒に入ろうか。僕と璃茉で、信子は一人で先に入ればいいよ」
「…えっ、あ、うん、わかった」
僕の衝撃的な発言に戸惑いはあったが、信子は少なくとも璃茉に言いにくい事情があることを察してくれた、たぶん。そう願いたい。
リビングを出ていく信子は、最後まで僕らを観察する視線をそらすことができなかった。さようなら、無邪気な幼なじみに向けられた純真なまなざしよ。
僕を見ずに、璃茉が口を開いた。
「…全部、知ってるの?」
「僕は何も知らない」
「……」
「本当だよ。今はただ少しの推測があるだけ」
「うん…じゃあ、知りたい?」
「君が話したい?」
「……」
「じゃあ、話したいと思う時まで待つよ」
「うん」
成長した、久しぶりに見る幼なじみの体、美人の先輩に見せる未熟な反応。
他人が必死に隠そうとしているものを勝手に探ることは、僕にとって自己嫌悪を引き起こす行為だ。だが、どれほど嫌でも、日常のふれあいの中で、彼女の秘密のほんの一端を知ってしまった。
たとえ相手が僕にとって「親戚」という関係で、いとこと呼び合っていようとも、この一線を引くことは、僕と璃茉の間にどうしても必要なことだ。
なぜなら、それを越えてしまえば相手を傷つけ、この関係を変えざるを得なくなるからだ。これは互いに安心感を得ているこの関係では、許されないことなのだ。
だから、これでいい。
長らく更新ができず、申し訳ございません。不眠症との殴り合いに、どうにか勝ちました。




