彼女との夜 2
家に戻ったのは19時を過ぎていた。その後、里奈さんと連絡先を交換した。会話できる相手が増えるのは僕にとっても良いことだ。
そして合コンは意味不明なゲームの後、門限などの理由で解散した。途中から茂真の様子に注意を払っていなかったので、明日確認することにした。
ただ別れ際に見た彼の表情からすると、渡辺さんの心配していたことは起こらないだろう。
「ただいま」と言ってドアを押し開ける。予想通り、リビングから璃茉の返事が聞こえた。だらりとソファに横たわり、僕が部屋に入ってもだらしない格好を改める様子はない。
ちらりと僕を見ただけで、注意は手元のライトノベルに戻った。
「楽しかった?」
「まあまあだな。意外な収穫があった」
「へー —— 意外な収穫」
もともと興味なさげに聞いていたが、僕の言葉に璃茉は体を起こしてこっちを見た。
「なになに?気になる女の子ができたの?」
「いや」
「ん!?まさか男の子」
「何言ってるんだ…ただ面白い女の子がいたってだけだ」
「異性への面白いはだいたい恋心の前兆だよ、兄。小説にはそう書いてある」
「科学的根拠ゼロだな」
なぜか恋愛の話になると急に生き生きするのは、女の子の天性なのだろうか。
「まあいいや、とにかく聞きたいことがある」
「なに?」
「今週友達ができたって言ってたろ、その子の名前は?」
「ん?合コンだけじゃ足りなくて妹の友達にも手を出す気?この最低男」
「ただ名前を聞いてるだけだ…苗字だけでも教えてくれ」
「…里奈」
「……」
「どうかした?」
「別に。風呂入ってくる」
「ういー」
璃茉は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は問わなかった。そして僕は再び認識した —— 学生の世界は狭いと。
風呂から出ると、リビングの明かりはすでに消えていた。璃茉はもう自分の部屋に戻ったのだろう。階段を上り、二階の自分の部屋のドアの隙間からなぜか光が漏れている。
隣の部屋には人の気配がない。今度は「ノックしろって言っただろ」すら省略して、主のいない部屋に現れるとは。
軽くため息をついてドアを押すと、案の定璃茉が僕のベッドにうつ伏せになっていた。物音に彼女が振り返った。
「おかえり」
「…僕の部屋で何してる」
「借りた本全部読み終わったから、次借りにきた」
「そういうのはちゃんと言えよ。勝手に入るな」
「そう言う我が兄、心の中ではベッドに女の子が寝転がってることでドキドキしている」
「全然」
「またまた~、私さっきお風呂入ったばかりでいい匂いだよ?仕方ない、シスコンな兄にご褒美やるよ」
ふんふんと笑いながら璃茉が首を振り、しょうがないなというふりをして、僕のベッドでごろごろ転がり始めた。手に持っているのは、あの『実妹生活』だ。
勝手に部屋に入り、勝手にカバンを漁る。彼女には少しお仕置きが必要だな
「バレたなら仕方ないな。なら君もわかってるだろ、シスコンの部屋に入ってベッドに転がるってどんな意味か」
「ん?なにをすっ…兄?」
僕は黙って璃茉に近づく。もちろん本当に飛びかかるわけにもいかないから、ただベッドの縁に寄りかかり、彼女の顔の上に身をかがめるだけだ。
彼女が文庫本を持っている手首を掴み、もう一方の手で肩を押さえ、璃茉を自分の方へ引き寄せた。
一瞬、彼女の体が微かに震えるのが伝わり、吐息が顔の間で絡み合う。僕は奇妙な社交ダンスの変形のような姿勢で、極近距離から璃茉を見つめた。
掴まれた右手の文庫本が落ち、音は柔らかいマットレスに吸い込まれた。
額がほとんど触れ合うほど近く、瞳に映る彼女の表情はいつもと変わらず、無機質な整った顔立ちからは感情が伝わってこない。
そうだろう、胸が高鳴るような感覚は、僕たちの間の距離感からは生まれないのだ。
離した左手を彼女の髪に伸ばし、手のひらに伝わる感触は柔らかく滑らかだ。犬や猫を撫でる時に似た満足感を味わいながら、僕は璃茉から距離を取った。
「次から勝手に部屋入るなよ。物も漁るな」
「…はい」
「で、今回は何か読みたい本あるか?」
「……」
背を向けて本をカバンに仕舞い、背後から少しためらいがちな声が聞こえた。璃茉は僕の質問を沈黙で返した。
振り返ると、ベッドに正座する彼女の右手が頭の上にあり、相変わらず何もないような表情をしていた。
「どうした、痛かったか?」
僕はしっかり力加減をしていたし、わざと髪を乱したりもしなかった。次の日に面倒になるからね。とはいえ、璃茉も女性だ。男であれ女であれ、体格差は怖いものだ。
「ううん…痛くない。あとやっぱり恋愛もののがいい。今度はラブコメみたいなの読みたい」
「承知」
答えを受け取り、私は本棚に向かい、適当なライトノベルを探しつつ、何気なく璃茉に質問を投げかけた。
「今日の部活は何した?」
「うーん、先輩が今の時期はできることないって言うから、ただお喋りと読書してた」
「そうか。で、何話してた?僕のこと聞かれたんだろ」
「先輩が兄の言動は高校生らしくないって、合コン参加は意外だって。そんで昔の兄はどんな感じだったか聞いてきた」
「ただ友達が人数合わせで呼んだだけだ。で、君は何て答えた?」
「ふふん、知りたい?」
「…マジで何話したんだ」
本棚から恋愛もののライトノベルを3冊引き抜く。舞台はそれぞれ異なるが、うち2冊はラブコメだ。それを璃茉に手渡した。
「ありがと。昔はもっと笑ってたって言っただけ。それ以外はプライバシーだから言わなかった。先輩が自分で聞くって」
「君もプライバシーって概念知ってたのか。で、他に何話した?」
「その後、先輩が私のこと可愛いって褒めてくれて、兄がこんな妹いて羨ましいって」
「…作り話?」
「本当だよ。だから某は幸せの真ん中にいながら気づかないんだよね」
「やれやれ」そう言って璃茉は額に手を当て、首を振った。
「藍咲先輩みたいに優しい人に羨ましがられて、私みたいに可愛い妹がいて、世界一幸せな人間だよ。罪人だね」
「はあ…優しいか、先輩は。まああの人に対して別の評価を下せる人間はいないだろ」
「もちろん。先輩がもっと甘えていいって言ってくれたし、羨ましがってな」
璃茉は胸を張り、得意げな表情を浮かべる。そういえば合コンの時も、里奈さんが先輩をかなり高く評価していたな。
人間に対しては印象通りの期待を抱いてはならない。「完璧」を体現できるのは神だけだ。これは僕の人生で幾度となく証明されてきたことだ。
話題が途切れ、静かになった璃茉が窓の外を見つめる。呟きが無意識のうちに耳に入ってきた。
「でもダメだ…優しい人ほど頼っちゃいけないんだ」
無機質な表情に脆さが添わり、細長い瞳には彼女なりの距離感があった。
「利用するのはダメだ…」
璃茉はその外見に反する少女だ。感情は豊かで、物事に対する鋭い観察眼は、長く彼女と過ごしてきた僕ですら常に認識を更新させられる。
動物に例えるなら、それは兎だろう。
何人たりとも、いつその絶対的な領域に入ることができるかは、彼女だけが決められることなのだ。
今のところ、藍咲汐霞という存在について、僕と璃茉が知り得ているのは、僕らの前に見せる姿だけだ。他者を前にした先輩の姿は、未知のものだ。
もしこれが彼女に可能性をもたらし、僕にも可能性をもたらすなら、そうしよう。
「明日からちゃんと部活参加するから、二人の世界壊してごめんね」
「そりゃそうだ…あ、明日兄って信子姉さんとケリつけるんじゃなかったっけ」
「ああ、そうだな。でもちゃんとやるから心配すんな」
「うん、わかった」
許されざる立ち入り、得られた相互の距離。




