春 4月14日 昼間
いつものようにチャイムが鳴り、午前の授業の終わりを告げた。
「はい。ではここまで」
英語の教師がそう言って教室を出ていく。僕もそろそろ図書室へ約束を果たしに向かわなければ。これからあの二人に伝えることを思うと、少し胃が痛む。
「あの、八鳥くん」
渡辺さんが僕を呼び止めた。昼食を共にできないことは、彼女の手にした弁当がすでに物語っている。おそらく約束の件だろう。
「今日の放課後、森下くんのこと…」
「大丈夫。まだ覚えてる」
「うん、よかった。あ、まず連絡先交換しましょう。ライム使ってのか?」
「承知」
先輩と連絡を取るため、そして今後必要になるかもしれないので、とりあえず登録しておいた。
「これで大丈夫」
「ええ。では失礼」
「渡辺さん」
「…?どうした?」
「茂真は、君に嫌われたくないって。そう言ってた」
「……」
予想外の名前に、渡辺さんはぽかんと立ち尽くす。そして、少女らしい笑顔を見せた。
「ありがとう、八鳥くん」
手を振る渡辺さんに応え、教室の後ろドアから出る。通りすがりの信子の傍らで、誰が発したか分からない呟きがかすかに聞こえた。
「プレイボーイ」
だからこれは相談事。
ライムで先輩と璃茉に、途中であることを伝える。校舎から図書室まで数分の道のりだ。
カウンターの図書委員に会釈し、図書室内での飲食禁止を理由に弁当を預ける。そしてあの日の人目につかない一角へ直行する。
待っていたのは、窓枠に寄りかかり、静かに佇む藍咲先輩だった。
真昼の陽光が薄いレースのカーテンを透し、風もなく静かに差し込んでいる。先輩が読んでいるのは、この前借りたあのライトノベル『可愛い後輩くんは私だけがいじめられる~先輩として後輩に負けるわけにはいかない!』だ。
せめてこの絵のような光景からだけは、そんなタイトルを排除してほしかった。
「あ、八鳥くん。来たんだ」
「こんにちは。先輩」
僕の姿に気づき、微笑みながら挨拶をくれる先輩は、文庫本に桜模様のしおりを挟んで閉じた。
「お待たせしてすみません」
「ふふ、気にしないで。もう一人はあなたの従妹さんでしたね?」
「はい。きっと今来ているはずです」
噂をすれば影と言うか。背後から足音が聞こえ、振り返ると、璃茉が半分身を隠しながらこっちを伺っていた。
僕を見つけると、素早く傍に歩み寄り、半分ほど私の背後に身を隠した。
「あ、わ、わたしは風見璃茉です。よろしくお願いします、先輩」
「藍咲汐霞です。こちらこそ、よろしく」
自己紹介を交わした後も、璃茉は僕の袖を握ったままで、視線は定まらない。先輩は可愛らしい小動物を見るような表情で、興味深そうにこちらを見ている。
「風見さん、どんな本が好き?」
「え、あ…ライトノベル」
「偶然だね、私も最近ライトノベル読んでるんだ。どんなのが好き?」
「恋、恋愛と…異世界」
「王道だね。私も恋愛ものは好きだよ」
これでは会話どころか、昼食もままならない。仕方ない。
「先輩、場所を変えましょう。ついでに二人に伝えたいことあります」
「ええ、行こう」
「う、うん…」
先輩を先頭に、僕と璃茉がそれぞれ異なる距離を保ちながら続く、三人組は図書室を出た。
同じ特別棟の同フロア、移動はわずか2分ほど。先輩は文芸部の表札前で足を止め、部室のドアを開けた。
「二人は先に座って弁当食べてて。お茶入れてくるから」
「承知いたしました」
「…はい」
テーブル上の弁当箱は開けっぱなしなのに、中の料理には誰も手をつけていない。人が作業しているときに一人で食べるのは、やはり気が引けるのだ。璃茉もそうだろう。
僕の前ではそんな遠慮はしないのに。
「お待たせ」
「ありがとう」
「…ありがとう」
「ふふ…」
何を面白がっているのか、先輩は軽く笑った。お茶はまだ熱く、テーブルには三つ目の見知らぬ弁当がある。おそらく先輩が事前にここに置いておいたものだろう。
「いただきます」
先輩に合わせて、僕らも同じように手を合わせた。
「「いただきます」」
無言の空間に茶の香りが漂い、食事の音は小さい。璃茉は黙って料理を食べ続け、食べ物でいっぱいの口が頬を膨らませている。
緊張しているのに食欲は衰えないんだな。
「八鳥くんたちの弁当、手作り?」
「はい。今日は珍しく早起きしたので」
「すごいね。私の料理の腕前はそこまでじゃないから、母に作ってもらってる」
「そうなんですか。でも先輩って何でもできそうなイメージがあります」
「お茶とコーヒーを淹れるくらいで、大したことないよ」
「お茶には詳しくないですが、先輩はコーヒーも淹れるんですか。ドリップみたいな?」
「そうだよ」
「へえー」
僕はコーヒーマシンしか使えないから、ドリップにはちょっと興味ある。
会話の途中で、突然傍から箸が現れ、弁当箱の中のから揚げを挟み取った。
「……」
「…食べたいなら黙って取るなよ」
傍を見ると、犯人は無言でから揚げを咀嚼している。仕方なくため息をつき、ティッシュで璃茉の口元のカスを拭った。
「ふふっ…可愛い妹がいて羨ましいな。そういえばお二人名字が違うね、従兄妹なの?」
「はい。璃茉は家族の事情で僕の従妹になりました」
「でしょ。可愛い妹がいて自慢だね」
「それって君が言う台詞?昨日ソファで寝る羽目になったのは君のせいよ」
「別にいいじゃん。それより兄、こっそり布団の匂い嗅いだりしないでね」
そう言って璃茉はわざとらしく身をすくめ、僕から少し距離を取った。
「昨日は舐めるように私の全身を見てたくせに、今朝はミルクって嘘ついてこんな苦いもの飲ませた。変態の証拠は揃ってるよ、へんたに」
「へんたに…昨日のはともかく、コーヒー牛乳の定義は広いんだ。コーヒーをナメるな」
「これは誤解ですらなく、単なる絵空事だ。否定する必要性すら存在しない」
「えそごっ…何言ってるの」
「……」
「どうかしましたか、先輩」
僕らのやり取りを見ていた先輩は、なぜか笑顔を保ったまま沈黙していた。
「何でもない。ただ、仲がいいんだなって」
「先輩の見ての通り、私たちは世界一仲の良い従兄妹です」
「否定しません」
「ふふ……普通なら全力で否定する場面なのに、変わった兄妹ね」
何度もうなずく璃茉を見て、先輩は思わず笑みを零した。
先輩は僕ととりとめのない話題で話しながら、璃茉に様々なことを尋ね、それぞれの弁当箱は空になった。
「先輩と璃茉に伝えないといけないことがあります…今日の放課後、部活にあまり長くいられないんです。すみません」
「うん。わかったよ、早めに帰っていいから」
「え?聞いてないよそんなの」
理解を示す先輩に対し、璃茉の不満げな視線が僕を刺す。そうなれば彼女は先輩と二人きりにならなければならない。
でも先輩は優しい人から大丈夫だろう。たぶん。
「この件はずっと前に決まってたから、言い忘れてた。とにかくそういうわけで、今夜の食事は抜きで」
「うー…………」
「んーー風見さんも直接帰っていいよ」
もしかすると一人になることに抵抗があると見たのか、先輩が逃げ道を用意した。困りながらも、不满そうに、璃茉は悩んでいた。
「…いいの。今日の活動は参加する。それに…」
覚悟を決めたのか、璃茉はうつむきながら口を開いた。
「本の話も…してみたい」
「そう。それは嬉しい、私も風見さんとたくさん話したいんだ」
先輩の笑顔に、璃茉の頬が赤く染まった。
「へーー八鳥くんがそんなことに興味あるなんてね」
「プレイボーイ」
「人数足りないから呼ばれただけです」
なんで君までそんな呼び方するんだ。
「あ、そろそろ時間だ。今日はここまでにしよう、じゃあね八鳥くん。放課後ね、風見さん」
「はい」
「また明日、先輩」
向かい合って過ごした時間は約35分、その間璃茉はほとんど先輩と目を合わせることがなかった。彼女はもともと人見知りだが、ここまでではないはずだ。
まあ、でも僕だって璃茉と信子以外の人と目を合わせるのは得意じゃないけど。
藍咲先輩以外の他人に対して、璃茉は恥ずかしさや緊張よりも、むしろ淡白な態度を見せていた。
藍咲先輩は容姿端麗で、性格も非常に気さくだ。緊張するのも無理はない。この人には冷淡にはなれない。
もしかするとこれが藍咲という名の魔力なのかもしれない —— 咲き誇る愛の力。




