春 4月14日 朝
空はまだ暗いというのに、意識はすっかり澄み切っている。やはり普段より早く目が覚めたようだ。少し痛む背中と肩を感じながら、ソファから起き上がる。
起きたからには、朝食の支度を始めよう。この時間なら二人分のお弁当も作れる。そう考えて洗面所へ向かう。
お気に入りのエプロンをかけ、想像以上に晴れやかな気分だ。その通りだ、長く悩んでいた問題に突破口が見えたのだ。誰だってこの高揚を抑えきれない。
この二日間の同居で、璃茉の食の好みはほぼ把握した。いつもと変わりなく、揚げ物と甘いもの。甘めの味付けの卵焼き、から揚げ、そして昨日の残りのジャガイモを刻んで添える。
時計を見ると、普段の起床時間までまだ間がある。璃茉の起きる時間は僕より少し遅い。
部屋着が取りに戻れないなら、何をしようか。鈴さんが誕生日にコーヒーマシンをくれたんだ。面倒でコーヒー豆ごと放置していたが、せっかくだから使ってみるか。
鈴さんに教わった手順を思い出しながら同じように操作すると、インスタントとは違う香りがコーヒーマシンの働きに合わせて漂い始めた。
この香りは価格差の賜物だ。
言うまでもないことだが、インスタントコーヒーより数段優れた味わいだ。おそらく高級なコーヒー豆なのだろう。
酸味と苦味が僕の好みに合った比率で舌の上に広がる。この品質なら、ラテにすれば璃茉の好みに合うかもしれない。
「おはー」
あくびをしながら、璃茉が声をかけてくる。
「おお、いい匂い。それ何?コーヒー?」
「おはよう。ああ、コーヒーマシン使ってみたんだ。お前も飲むか?」
「うーん、苦いの苦手」
「適量の牛乳を入れればいい。コーヒー牛乳って牛乳もあるぞ」
「マジで?じゃあ私も飲む」
「承知。まず顔洗って来い」
「はーい」
挽いた豆を押し固めてマシンにセットし、カップを受口の下に置く。そのまま部屋に戻り制服に着替える。
リビングに戻り、エスプレッソに牛乳を注ぐ。出来上がりと同時に、璃茉も身支度を終えて現れた。
「いい香り…」
ふーふーとコーヒー牛乳を冷ましながら、きっと味を楽しみにしているのだろう。
「いただきます…うっ」
そう言って璃茉がカップのコーヒー牛乳を一口すすると、舌を出して少し怨めしげな視線を僕に向けた。
「口に合わないか?」
「苦い、これが牛棉なわけない」
「コーヒー牛乳だ」
「可愛い妹に毒を飲ませるなんて、やっぱりベッド取られたから怒ってるの?」
「……砂糖を入れてみな、もっと美味しくなる」
半信半疑で璃茉はコーヒー牛乳に角砂糖を3個入れる。一口。4個目を追加。少しとろけたような満足顔を見せる。
「美味しい」
「…気に入ったなら何より」
朝食を終え、二人で登校の道を歩く。路傍の四月初めの桜は、花期を目前に控えている。枝先の蕾は、壮大な上演前の静寂だ。
もうすぐ、往年この木の下で人々が足を止めて眺めた光景が再現される。その後の長くて七日間、繁花と寂寥の両方を、ここで目撃するのだ。
たった一週間で、人間よりはるかに長命な木にさえ劇的な変化をもたらす。一年の五十二週間は、ひとりの人間をどれほど変えうるのか。
今の僕がその答えだ。僕にとって、向上したコミュニケーション能力、他者への期待、憧れ、必要 —— すべてが変わった。
璃茉にとっては「成熟した」兄。信子にとっては傷つけた「過去の遊び友達」。結局のところ、変化の本質は関係性の変容なのだ。
関係の変化は心地よくも、痛くも、未練も、不安ももたらす。これは僕が過去一年間、触れることのなかったものだ。
信子と対話せず、彼女の瞳に映る自分を再認識しなければ、僕の求める変化は起こらない。
ん…?そういえばなぜ金曜に約束したんだろう、あっ。
「璃茉。謝らなきゃいけないことがある」
「んー?」
突然の話題に疑問を抱き、傍らの璃茉がちらりと僕を見る。本当にごめん、今日合コンがあること完全に忘れてた。
「とにかく昼休みになればわかるから、恨まないでくれ」
「はあ…」
璃茉は相変わらず狐に包まれた様子だが、特に気に留める様子もない。
靴箱でいつも通り別れ、普段より少し早い登校時間で周りの生徒もまばらだ。階段を上り、慣れ親しんだ教室の前で、中の雰囲気がいつもと違うことに気づく。
「おはよう」
「あ、おーっす。くらげ」
「……」
なぜか茂真の返事のトーンが硬く、他の二人はまだ登校していない。わずかな話し声だけが残る教室で、渡辺さんは茂真の斜め右後方を背にする形で座っている。
いつも通りの光景だ。だがなぜか茂真はたびたびその背中を盗み見ている。どういう状況。
「何かあったのか」
「いや…そっの…くらげ、この件内緒にしてもらえる?」
「無論だ」
「それじゃ…」
どうやら言いづらいようだが、茂真は悩みを共有することを選んだ。少し近づき、渡辺さんを見つめながら小声で話し始める。
「実さ、この前の合コン、やるって言ったら葵が怒ってさ。俺も意味わかんねーから喧嘩になっちゃって」
「そっち側ってそんな仲良かったんだ」
「子供の頃の知り合いってだけだよ、ずっと同校だから姉貴風吹かしてて。まあいいや、実は昨日彼女が俺を探してきて、マジで合コン行くの?って」
「……」
幼なじみか…なぜかデジャブ。
「『お前に関係あるのか』って言ったら、アイツ…泣きやがって」
「なるほど。で、君はどう思ってるんだ?渡辺さんの涙に対して」
「どうって…困ったなって感じだろ」
「困っただけじゃ、ここまで悩まないぞ」
「そうか…」
人間の自己認識は時に曖昧で、時に明確だ。しかし他者の感情もまた、自らの感情によって乱され、かき消されてしまう。
特定の誰かへの想いというのは、他者に看破されると照れくさくなり、腹立たしくなる。たとえ自分でその感情の正体に気づいていたとしても、本心を曝け出すことを恐れる。人を傷つける怖さ、自分が傷つく怖さから、胸の内に閉じ込めてしまう。
「じゃあ聞き方を変える。君、渡辺さんのこと嫌いか?」
「嫌い…ってわけじゃない、かも」
「じゃあ渡辺さんに嫌われたいか?」
「……」
「それで十分だ。彼女に嫌われたくないって気持ちだけでね」
ただ嫌われたくないという一心が、人を関係の変化に向かって動かすには十分なのだ。
「まあ君も困るだろうからな、今さら合コンキャンセルするの。手伝ってやるよ」
「マジで!?どうやって?」
「それは君次第だ。とにかくその時になればな」
「あ、うん。わかった」
茂真を助けられるのは、この想いを伝えることだけだ。そしてこの関係の可能性をこの目で確かめることだけなのだ。
HRが近づく。ふと見れば、渡辺さんの横顔、そして茂真を見つめるその瞳が視界に入った。




